地下室に降りていく

いつもお伝えしているように、マインドには隠された部分、潜伏している部分があるのですが、それは思いのほか大きいのです。

全体の9割以上かもしれませんし、特徴はそのすべてが無意識状態、つまり自覚がまったくないということです。

なぜマインドにはそういった言わば広い地下室みたいな光が当たらない闇の部分があるのでしょうか?

それは本人が自覚したくないと思う自分、なかったことにしたい感情や記憶、そういったものを隠すために必要に迫られてこしらえた地下室みたいなものなのです。

その上の1階では理性的な自分がわずかばかりの自覚を持って暮らしているのですが、実は地下室に隠したものがあらゆる形で毎日の生活に影響を及ぼしているのです。

臭いものに蓋をしたいのは人情ですが、隠されたものはいつかは表舞台に出てきて本人を翻弄させることになります。絶対に逃げおおせません。

隠したい一心で目を背けていると、地下室のものに乗っ取られることはあっても、決して見守ることはできません。

勇気をもって地下室に降りて行き、どんな自分でも見てあげること。それができたときには、マインドはシンプルになって風通しがよくなるはずです。

そうなれば、人生そのものがシンプルなものへと変化してしまうでしょうね。

自由を享受するために生まれてきた

私たちが受けてきた教育の根っこにあるものは、この社会の仕組みの中で立派な社会人となって、そこで活躍できるような人物になるというもの。

どうやら社会の一員として恥ずかしくない人間にならなければいけないということを教え込まれるわけです。

ところが社会というのはそこに暮らす平均的なマインドの持ち主にとっては、順応できる場所なのかもしれませんが、そうではない人も大勢いるのです。

その筆頭に挙げられるのが、超敏感体質の人たちですね。私も含めて彼らにとって、社会生活はそうではない人には分かってもらえない苦しみがあるのです。

言ってみれば、程度の差はあるものの社会不適合なのです。社会が悪いのではないのですが、かと言って彼らが悪いわけでもありません。

けれども社会不適合は当然のことながら社会からははみ出してしまいます。私自身もそうした経験をしました。

20年以上会社員として働いていましたが、不適合を隠すことができずに病気になって脱落したのです。

この仕事を始めたばかりのころに、あるクライアントさんから「負け犬」と評されたこともありましたね。

あのころは会社を辞めて個人で仕事をしていることが嬉しくて、何と言われようと全く腹も立ちませんでした。

もしもあなたの中に、社会に適合しづらいという自覚があるなら、一旦社会の端っこで生きてもいいのだということを、自分に教えてみることです。

最低限の社会のルールは守るものの、社会の常識とか立派な社会人といったイメージから離れることです。

その上で、もう一度自分にできそうなことを見つける時間を与えてあげることですね。なんだっていいんです。あなたは本来自由を享受するために生まれてきたのですから。

信頼を見出す

自我は信じたり信じなかったりすることばかりで、信頼することができないのです。だから信じるものは救われるというのは、大きな間違いですね。

自我が救われることはないからです。自我が見えなくなっている時、そこには必ず救いがあります。その成分は信頼でできています。

きっと誰でも経験があると思うのですが、理由はないのだけれどなんだかきっと大丈夫だと感じるときがあるものです。

それは信頼が来ているのです。元々信頼にはどんな理由もありません。信じたり信じなかったりするのは思考ですが、信頼は無思考です。

思考のないところには理由もありません。信頼があると、深刻さは消えてしまいます。その二つは共存できないのですね。

信頼は防衛を小さくしてくれるし、その結果緊張も少なくなってリラックスがやってきてくれるのです。

だったら誰だって信頼が欲しいと願うかもしれませんが、信頼は欲望がない瞬間にしかやってきてはくれないのです。

実はあなたという実存は信頼そのものなのですが、自我とその思考に巻き込まれてそれが分からなくなっているだけなのです。

あなたの内奥のどこかに信頼があることを、少しの時間を使って見つける練習をしてみることです。それは必ずありますので。

本当に知るとは…

外側からやってきた情報をただ取り込んでしまうと、それは知識となるのですが、それは自分はそれを本当には知らないということを意味しています。

知識というのは知らないことをただ信じてしまったことを指すのです。ところがそのことに気づくことができなくなってしまうのです。

たとえばこの宇宙は無限に広いと言われて、それを知らないままに信じてしまうと、永遠にそれを知ることはできなくなってしまいます。

地球は丸いということを教えられて、そのままに信じてしまうと知識は増えるけれど、本当はそんなことを知らないということを忘れてしまうのです。

誰かに言われたことを信じてしまい、それをそのまま自分の中に入れ込んでしまうと、それを知らないまま生きることになるのです。

だからもしも本当に知りたいことであるなら、やってきた情報を決して自分の中に入れ込まずにおくことを覚える必要があります。

入れずに自分の周りに置いておくのです。そしてそれが自分にとってどうなのかを検証するのです。

その体験の結果のみを自分の中に入れることでそれを知るという状態になるのです。知ったことは知識ではなく、知恵となるのですね。

あなたが一番知っていると信じて疑わないことは、あなたの本当の姿です。あなたが知っていると信じているあなたとは、ただの知識に過ぎません。

あなたが本当は何者なのか、興味があるなら自分についてのあらゆる信じ込みを捨てて、それを検証するしかありません。

その結果あなたが何を知ることになったとしても、真実を知ることよりも大切なことはないと思いますね。

見守るか乗っ取られるか

クライアントさんとのセッションの時に、多くの人が陥っている間違いに気づくことがあります。

それは、自分の中の否定的な部分を肯定的なものへと変えればいいのだという勘違いです。

たとえば、すぐに自分のことを責めてしまうので、なにがあろうとも責めずにいられるようになりたい。

人を敵のように見てしまうので、それをやめて対立をなくしていきたい。人を見下すクセを直して、対等な関係性を築けるようになりたい。

嫉妬深い自分や人を罰する自分がいるので、寛容な自分になりたい等々。挙げ出したらきりがありません。

これらは全て間違いです。間違いというよりも、その願いは分かってあげられられるのですが、それではうまくいかないのです。

どうすればいいかというと、そういった否定的な自分のことを何とかしようとするのではなく、ただ観る訓練をするのです。

そんな自分が嫌なんだという代わりに、そんなマインドの部分があるということを冷静に認識することです。

そしてその部分に乗っ取られずにいられるようにすればいいのです。そのためには常にその部分を観続けること。

見守るか乗っ取られるか、2つに1つだということを忘れないことですね。見守ることこそが、唯一そこから脱出する方法なのです。

内側にある物語を観る

これから書くことは、あまりうまく説明ができない気がしているのですが、敢えて書いてみようと思います。

これはクライアントさんあるあるの話しなのですが、映画やテレビドラマやそれこそアニメなどでも良いのですが、そういったものを観ていて癒しが起こるということ。

ご本人としては、その物語のある部分が気になって、そのシーンばかりを何度も繰り返し観たりするのです。

そのくせそこがどう気に入ったのかが定かではなかったり、観た後に急に清々しい気持ちになったりするのです。

それはマインドが癒されたということなのだろうと思うのです。傷ついて闇に隠されていたものが、類似した他人の物語を観るうちに気づくということです。

自分自身の闇を直接見ることができないので、抵抗のない他人の物語を通して無意識のうちに闇に光が当たるということかなと。

そういうことは当然クライアントさんに限らず、一般的によくあることなのだろうと思います。

けれども、自分の闇に気づかせてくれるちょうどいい物語を運良く見つけられたとしても、次にまたすぐにそんな経験がやってきてくれる保証はありません。

当然効率が悪いのです。だからこそ癒しの作業が必要なのです。運を天に任す必要がなくなるからです。

具体的には、マインドの仕組みや働きを深く理解し、現在の自分のマインドを特徴づけた過去の環境(家庭環境や親子関係)という物語を観ること。

それによって、外側にある物語に気づかせてもらえるチャンスを待つことなく、癒しを進めていけるということですね。

中道は難しい

私はいつも中道の生き方をお勧めしています。ちょうど真ん中の生き方、どちらかに偏らないバランスの取れた生き方、仏陀がそれを中道と呼んだのです。

中道の特徴は、「イイカゲン」なのではなく、ちょうど良い加減なのです。「テキトウ」なのではなく、適当(適切)な具合なのです。

上記のように本来は素晴らしい意味の言葉なのに、それを揶揄して否定するような意味合いで使われるようになったのは、偶然ではありません。

中道から遠ざかった生き方をしている人にとっては、中道を生きている人に嫉妬して怒りさえ感じてしまうからなのです。

中道は「ワガママ」なのではなく、我がままであるということです。単に本来の自分らしく生きているということ。

それに対して極端な生き方は幼いし、防衛の要素が満載なのです。たとえば日本人は根が真面目なので、何であれ努力するのです。

筋トレにしても、やれるだけの練習量をこなすあまりに、オーバーワークになってしまい、結果として思ったような成果がかえってでなかったりするのです。

筋肉は筋トレによって破壊され、それが修復されるときに増大するのですが、それには48〜72時間かかると言われています。

それなのにせっせと毎日同じメニューで筋肉を追い込んでしまえば、せっかくの修復のときにさらに破壊が起きて、結果として筋肉の増大を妨害してしまうのです。

私が若い頃には、練習中に水分を摂取することを禁止されていました。今では絶対にそんな指導をするコーチはいませんが。

極端は自我が自己陶酔することができる反面、中道は自我が使われないという特徴があるので、誰もが中道を生きるのは難しいと感じるのですね。

自分の本質に気づくには

目標を持って人生を生きるようにと教えられて育った気がしています。ところが今自分の中ではっきりしているのは、人生には目標などないということ。

百歩譲って何らかの目標があるとするなら、人生を生きているつもりになっている自分の本質に気づくこと。

これは正確には人生での目標ではないですね。なぜならそれに気づいた瞬間、人生は消えてしまうからです。

そのような目標とは言えないような目標を実現するためには、とにかく自分を見つめることしかありません。

私たちは放って置けば、すぐに自分から遠くにある外側にばかり気を取られてしまうからです。

自分に気づくためには、できるだけ自分からの距離ゼロのところを見る(意識を向ける)必要がありますが、自分の肉体であっても近いだけで距離ゼロではありません。

物理的にどれほど自分に近づいたところで、残念ながら距離ゼロには到達しないのです。

自分の骨よりも、自分の内臓よりも、もっと自分に近いところがあります。そこにできるだけ継続的に意識を向けていること。

そんなことをしていると、ごく自然と瞑想状態に入ることができるようです。そしておまけとして、とても静かな境地もついてきてお得です。

物語は魅力的

歴史上の偉人たちの人生だったり、今生きている人であっても他人の人生というのは、一つの物語として見ることができるととても魅力的に映ります。

特に波乱万丈な人生は、浮き沈みが激しかったりしてとても面白い小説を読むような感じにさえなります。

オリンピックなどの競技を観戦していて、どの選手を応援したくなるかといえば、これまでどんな人生を送ってきたかを知っている選手を応援したくなるものですね。

それは私たちがとにかく物語を好むからなのです。映画やテレビドラマが大好きなのも全く同じ理由です。

自分自身の人生も同じようにして、一つの物語として見ることができれば、その主人公としての自分を応援したくなるかもしれません。

けれどもそれがそう簡単なことではないようです。なぜなら、物語として楽しむためには、その物語を傍観できる立場にある必要があるからです。

自分自身が人生の主人公である限り、傍観することなどとてもできません。仮にそれができるとしたら、それは万事うまく進んでいる都合の良いときだけ。

人生はそれほど都合のいいことばかりが起きるわけではないので、残念ながら傍観者にはなれないのです。

ただ一つだけ方法があって、それは自分を観照する訓練をすることです。覚醒した意識として自分を観ることができるなら、自分の人生も一つの物語として見えるようになるでしょうね。

そうなったらこれ以上楽しい見ものはないはずです。本当のリラックス、本当の気楽さは観照からくるのだと思います。

人生の主役の座から降りる

朝の目覚めはいつも不意にやってきます。少しずつジワジワと覚醒していくのではなく、ある瞬間に唐突に目が覚めるのです。

そして自分は目覚めたということを自覚するのです。この自覚するということこそが意識の覚醒です。

人間以外の動物にはこれがありません。どんな動物も自覚することができないのは、彼らの意識が眠った状態であり続けているからです。

それは私たちが睡眠状態でみる夢の状態と同じようなもの。夢の中の自分は決して自覚することがありません。

ただただ展開していくストーリーの中で生きているのです。残念なことに、私たちは朝目が覚めてその日の活動が始まっても、そのほとんどが無意識の状態なのです。

言ってみれば夢の延長上で暮らしているようなものです。そのことに少しも気づくことなく、毎日を暮らしてしまっているのです。

私たちが今回の人生でやれることの最も美しいこととは、意識を目覚めた状態にしておくことです。

そのとき初めて、自分という存在の本質に気づくことになるのです。それは人間として生きている人生の内容とは、何の関係もありません。

そしてあなたのマインドの無意識部分が全て消えてしまえば、もう二度と夢を見ることがなくなるはずです。

それと同時に、無意識を存続の要にしていた自我も息絶えてしまうことになるのです。それでも外側から見たら、昨日までと同じように人生は続くのです。

ただし人生の主役の座からは完全に降りた状態でということですね。