気楽に生きる

このブログでは、何度も繰り返し自我というのは実在しないということをお伝えしています。

個人としての「私」という自覚、それは自我(思考)からやってくるのですが、それは疑いようもなく実在しているように感じるのです。

けれども、歴史上の覚醒した人のすべてが口を揃えて言っていることは、私はいないということです。

私自身も、たった数時間の間だけでしたが、私がいない体験をしました。それをどう言葉で表現すれば伝わるのか…。

その体験はともかくとして、私がいないということはどんな感じなのか全くわからないという人に、一番手っ取り早く分かってもらう方法があります。

それは、子供の頃に何かに夢中になっていた時のことを思い出せばいいのです。その瞬間、自分のことをすっかり忘れていたはずなのです。

あれこそが、自我が一時的と言えども落ちている状態なのです。ごく普通の体験でしかありません。誰でも知っているはずです。

そしてもう一つ、こちらはちょっと分かりづらいかもしれませんが、その私がいない状態に意識を向けていることも可能なのです。

それこそが思考は停止していて意識だけが目覚めている状態。この体験は、個人としての私がいないということに気づいている状態ですね。

とにかく個人という存在は妄想でしかないのです。だから本当は何があっても大丈夫。傷つく自分などいないのですから。気楽に生きることにしませんか?

誰もあなたを救えない

セラピストはあなたを救うことはできません。セラピストどころか、世界中の誰であろうとも、あなたを救うことなどできないのです。

唯一あなたを救えるのは、あなた自身なのです。あなただけが、あなたのこんがらがった人生から、あなたを救い出すことが可能なのです。

このことをできるだけ深く理解することです。これを真に理解することができたなら、依存や執着はなくなってしまうでしょう。

多くの人は、誰かに自分を救ってもらえるという期待を持っているのです。救ってくれそうな人を探しては、しがみつくのです。一人がダメでも次の人は何とかしてくれると期待するのですが、勿論その人もダメなのです。

不可能なことに期待し続ける人生ほど馬鹿げたものはありません。残念ですが、きっぱり諦めることです。

あなたは本来孤独なのです。誰もあなたと全く同じものを見ることはできないし、同じものを聞くことも、感じることもできません。

せいぜい類推して、受け止めることができる程度なのです。だからあなたは天涯孤独であることを認めることです。

その孤独の中にいてそれから逃げずにいられるなら、孤独の向こう側にはそれが幻想だったという境地が待っています。

孤独とは、分離という幻想がでっち上げた実在しないものだからです。全体性には単独しかないのですから。

愛の人とはどんな人物?

お笑い芸人のキングコングというグループがあるのをご存知でしょうか?その片割れの方の西野亮廣という人に、今注目しています。

何となく面白そうな活動をしている人物だなというぐらいは知っていたのですが、少し詳しく知れば知るほど面白い。

クラウドファンディングで集めた額が日本一だったり、こちらも日本一なのですが、今現在3万人を超えるオンラインサロンのオーナーをやっていたり。

単なる絵本作家ではなく、絵本の映画化をしたり、美術館を建てる計画を進行中だったり。

ちょうど今、絵本の個展をエッフェル塔で開催している真っ最中だったりと、活躍の様子が半端ないのですね。

典型的なショートスリーパーであり、最も特徴的なのがお金を貯めることに興味がなく、結果として人のために多忙を極める毎日を送っているのです。

彼の周りにたくさんの人が集まるだけじゃなくて、彼をある種崇拝しているかのような活動が多く見受けられるのです。

それを宗教みたいだと悪口を言う人も多いようですが、私は個人的には宗教であってもいいと思うのです。

その宗教が、人はこうあるべきといった正しさとか、倫理や道徳を説くものでなければいいのです。

好き嫌いは別として、彼は稀代の人たらしであり、愛の人のように見受けられますね。

普遍的な自我の作戦

自我は自分が確かに存在するということを証明するために、あることをずっとやり続けてきたのです。

それは、ただ起きていることに対して、それを体験と表現したのです。それも自分の体験ということにしたわけです。

思考の根っこに、自分がいるということを前提とさせたのです。たとえば、歩くという現象が起きているときに、歩いている「自分がいる」とするのです。

「歩く」という現象と「自分がいる」ということは、本来全く無関係なのですが、その二つをあたかもそれが真実であるかのように繋げたわけです。

食べるという現象が起きているとき、私が食べていると言い直し、その裏には食べている「私がいる」と思考をすり替えるのです。

このようにすり替えて思考することによって、それがそのまま記憶の中へとしまいこまれていくのです。

そうすると、過去の出来事の中に常に自分が存在しているかのような錯覚が生まれて、そうやって私という自我の存在が絶対的なものに思えるのです。

これを言語的にやってのけたのが英語です。日本語では食べている私がいるとはわざわざ表現しませんが、英語ではそれをやっているのですから。

I am eating を頭から訳すと、I am =私が在る(いる)、としたあとで eating = 食べている、と言うのですから潔いと思いませんか?

Be動詞は、存在するということを意味するのですから、英語の方が自我が浮き彫りになっているということですね。

それに比べて、日本語の方が自分の存在に対してやや控えめな表現をしているということですが、いずれにしても普遍的な自我の作戦がそこにはあるのです。

他人事のように見る

私たちは、自分という存在はこの人生を生きる主人公だと思っているのです。勿論当たり前のことなのですが、こうした見方によって自分は特別な存在となるのです。

もしも自分のことをまるで人ごとのように見ることができたなら、自我がせっせと営んできた防衛が小さくなってしまうはずです。

10代中頃で覚醒してしまったラマナ・マハルシは、覚醒する前の自分について問われたときに、アイツはもう死んだよ!と答えたのです。

彼はとても正直に、そして端的に表現したのです。自我として生きていた10代の自分はもういない、彼は消えてしまったのです。

その言葉には、かつての自分を他人のように見ている視点があることに気づかされます。

無防備な人というのは、どこか自分を他人事のように見ているのが分かりますね。つまり人生の当事者ではないと分かっているのです。

だから自分のことを言うときに、殊更謙遜したり控えめに言ったりしないので、嫌悪されてしまうこともあるかもしれません。

他人のことをAさん、Bさんと呼ぶように、自分のこともCさんと呼ぶことができたら、自分を特別扱いせずに済むのかもしれませんね。

私は自分の世界でだけですが、自分のことを「このマインドは…」のように言うことがあります。所詮はマインドだと言う意味を込めて。

希望と防衛を捨てる?

あなたも私も誰もがみな、個人としてまとまりのある一人として生き続けています。その仕組みを知りたいとは思いませんか?

もう察しがつくと思いますが、それをやっているのが自我なのですね。自我が作られたことで、人まとまりの自分でいられるのです。

では自我はどのようにして自分をまとめあげ続けているのか?それには、二つの要素があると思っています。

一つは希望です。過去や現在がどんなであろうと、未来や未来の自分への期待がある限り、ひとまとまりの自分として進んでいこうとできるのです。

だから自我にとっては、希望を持ち続けることは死活問題なのです。だからこの社会では、明るい未来への希望を持つことは良いことだとされているのです。

明確な希望を持っている人の方が、積極的でポジティブで明るい人として映るのですが、その奥には明確な理由があったのです。

そしてもう一つ、自我がまとまっているために用いている要素は、防衛なのです。防衛することはバラバラではできません。

あなたが敵国と戦おうとすれば、そばにいる日本人と団結することになるのと同じです。戦えばまとまるのです。

結論を言うと、苦悩を作り出している自我から解放されたいと思うのなら、希望と防衛から離れることです。どちらも捨てがたいことこの上ないですがね。

刹那的に生きる

自分の中にある「深い安堵」の感覚は一体どこからくるのだろうか?と思って色々探してみたのですが、分かったのです。

それは、人生はいつか終わりが来るし、そのときには一切合切がすべて消えて無に帰するということだったのです。

どれほどの恥をかいたところで、どれほどの罪深いことを起こしてしまったとしても、すべては消えていくのです。

誰かがとんでもなく素晴らしい何かを達成したとしても、それに比べて自分はどんな成果もあげられずにいたとしても、全く対等に消えていくのです。

人生を通して達成されるものなんて何もないのです。誰であれ人生を通して何かを得たとしても、それも消滅してしまえば同じなのです。

何も残らないということを深く理解するなら、過去と未来を気にするマインドの部分が小さくなるのを感じることができます。

刹那的に生きることは善とされない世の中かもしれませんが、私はこっそりその生き方が気に入っているのです。みなさんはどうですか?

執着は手放せない

執着を取る直接的ないい方法というのはありません。執着を手放しましょう、という最もらしい教えがあったとしたら、それは偽物です。

執着を手放すことはできません。しがみついているのに、手放すつもりなどあるはずもないのですから。

手放そうとして手放せるのでしたら、それは元々執着ではなかったということです。だから執着をなんとかしようと思わないことです。

ではどうしたらいいのか?繰り返しになりますが、直接的な方法というのはないのですから、どうか諦めてください。

まずは完全に諦めること。自分の努力や信念によって、執着を手放すことはできないという深い理解が必要なのです。

その上で唯一できることは、執着している自分を常に見つめてあげること。どんな判断もなしに、受け止め続けること。

ありきたりな言葉を使うなら、執着を許すということ。それと戦わないようにするのです。

そうすることでいつかは、しがみついているものの正体を見抜く時がくるのです。自分にとってそれがガラクタだと分かるとき、執着は自然と消えていくのです。

永遠に知り得ない神秘

私たちは、何であれ物事を理解し納得することができれば安心するのです。未知が既知になって、征服した感もくるからかもしれません。

分からないままでいるのは逆に不安だし、それを嫌う傾向にもあるのです。だから分からないものを攻撃したくもなるのでしょう。

理解するというとき、それは一般的には思考によって理解するということを意味するのです。だから、理解したいという欲求は思考からくるとも言えるのです。

この理解に対して、私がよく言う「深い理解」というのは思考によるものではありません。だからそれは納得するようなものでもないのです。

深い理解とは気づくこと。思考による理解をどれほどフル回転させて最大級まで持っていったとしても、真理に到達することはできないのです。

真理とは、永遠に知り得ない神秘だからです。それは理解の側からすると非常に理不尽なものであり、その神秘は認めたくないものかもしれません。

けれども、それだけが実在するものだということを深い理解によって知ることにもなるのです。皮肉なものですね。

科学者は探究の果てに、この宇宙の神秘を解明する日がやってくると信じているかもしれませんが、深い理解によってそれは不可能だと分かるのです。

「これ」は解明すべき難問ではなく、驚嘆して楽しむ神秘だということですね。

ヤマアラシのジレンマ

自我というのは他者との関係性の中にのみ存在できるもの。現実に相手が近くにいなくても、思考によって関係性を作り出すこともできるのです。

だからこそ自我は、たとえ独りでいたとしてもすぐに消えたりはしないのです。ではなぜ自我は、それほどまでに他者との関係性を必要とするのか?

それは自我の生い立ちを見てみればすぐに理解できることなのです。自我が作られていく過程においては、他者の存在がどうしても必要なのです。

というよりも、周囲にどんな人がいたかということによって自我が生み出されるのですから、言ってみれば自我は他者の存在の証なのです。

そうやって生まれた自我なので、他者との関係性があるときにだけ活躍することになるわけですが、その反面人と一緒にいると疲弊するという自我があるのも確かなこと。

そのような自我は、独りでいると寂しいので誰かとの関係性を作りたいと願うのですが、いざ一緒にいると気疲れして疲弊してしまい、結果として独りの空間に逃げ帰るのです。

こうした状態をヤマアラシのジレンマと呼びます。ヤマアラシというのは、あの身体中トゲトゲのある動物ですね。

寂しいから他のヤマアラシとくっついていたいのですが、いざくっついてしまうとあのトゲが互いに痛くて離れたくなるという、ジレンマがあるということです。

我々人間の場合に起きるこうしたジレンマは、自我による過度の自己防衛が原因なのです。その防衛が過度になってしまった原因を探って、それを小さくしていくのが癒しということですね。