永遠に知り得ない神秘

私たちは、何であれ物事を理解し納得することができれば安心するのです。未知が既知になって、征服した感もくるからかもしれません。

分からないままでいるのは逆に不安だし、それを嫌う傾向にもあるのです。だから分からないものを攻撃したくもなるのでしょう。

理解するというとき、それは一般的には思考によって理解するということを意味するのです。だから、理解したいという欲求は思考からくるとも言えるのです。

この理解に対して、私がよく言う「深い理解」というのは思考によるものではありません。だからそれは納得するようなものでもないのです。

深い理解とは気づくこと。思考による理解をどれほどフル回転させて最大級まで持っていったとしても、真理に到達することはできないのです。

真理とは、永遠に知り得ない神秘だからです。それは理解の側からすると非常に理不尽なものであり、その神秘は認めたくないものかもしれません。

けれども、それだけが実在するものだということを深い理解によって知ることにもなるのです。皮肉なものですね。

科学者は探究の果てに、この宇宙の神秘を解明する日がやってくると信じているかもしれませんが、深い理解によってそれは不可能だと分かるのです。

「これ」は解明すべき難問ではなく、驚嘆して楽しむ神秘だということですね。