我々の本質は思考ではない

思考というのは、来たり出て行ったりするものです。いつそれがやってきて、またいつ出ていくのかはコントロールできるものではないのです。

思考を遮断しようと頑張っても、やってくるときにはどうしてもやってきてしまうのです。

その証拠に瞑想によって、思考を追い出そうとしても、そうそううまくはいかないという経験を誰もが持っているのですから。

一方で、私たちは自分のことを思考だとは思っていないはずですね。だって、やって来たり出て行ったりするものによって自分ができているなど、有り得ないと思うからです。

自分という存在はずーっと継続して在るものだと感じているからです。けれども、普段の生活の中で、これが自分だと信じている自分というのは自我であって、それは思考の産物なのです。

じゃあ常に継続的に存在する自己とは一体何なのでしょうか?それは思考の出入りとは無関係にただ在るなにかなのです。

それを意識と呼んでもいいし、無と呼んでも全体性と呼んでも構いません。コレという明確な表現ができないものです。

思考のような曖昧な風来坊のようなものは単なる雲であって、私たちの実在というのは荒唐無稽な青空のようなものだと理解することですね。