お金を浪費する本当の理由

お金の浪費家というのは、意外に多くいらっしゃるものですね。ご本人は自分がなぜそうするのか、本当の理由には気づいていないことがほとんどだと思います。

お金を浪費してしまう心の根底には、お金に対する怒りがあるのです。お金がいらないと思っているとか、お金を必要としていないということではありません。

お金を憎んでいるのです。その理由は様々かもしれませんが、幼いころのいろいろないきさつがあるにせよ、お金に対する復讐をし続けていると思って間違いありません。

それは例えば、生計を立てるために働いている父親が、忙してくなかなか自分の方を見てくれないとか、仕事(お金を稼ぐための)で遠くへ出張したり単身赴任などで、会うことができなかったりした場合です。

だれも何も教えなくても、父親はお金のために自分をないがしろにしていると子供は感じてしまうのです。本当は、お金なんかよりも、そばにいて温かいぬくもりをもらいたいのです。

家族みんながいつも仲良く一家団欒、楽しく過ごせれば一番いいのにお金のためにみんながあくせくして、大変そうなことを嫌っているのです。

お金なんかのために、という気持ちが強くなると、お金(お札)を心の中で破ってどぶへ捨ててやる!ということになり、それは物理的には浪費という形となって現れるのです。

場合によっては、お金に対する怒りだけでなく、お金のために自分をないがしろにした父親に対する復讐心も作られることがあります。その場合には、お金を浪費した結果、父親にお金をねだる生活が続くこともあり得ます。

金銭的に困った人生を親に見せつけることで、本人の中にいる幼い子供は仕返しをしているつもりになっているのです。本人には自覚がないだけに、なかなか解決のめどは立ちません。

何か自分は大人げない行動をしてしまうなと感じたなら、それは間違いなくインナーチャイルドに乗っ取られているからです。そのことに気づいて、そこに目を向けてあげない限り、状況は変わりません。

もしも、自分ひとりでは難しいと感じるなら、セラピストの力を借りることを一度考えてもいいかもしれませんね。

疑いの心を挟まずに祈る

今から13年ほど前のことですが、会社を辞めて、心の癒しについて深くのめり込んでいったころのことです。やれ、催眠療法だとか、ヒーリングだとか、うまくできるようになるのかどうかとか、未熟なことを考えていたころです。

同じクラスの仲間の一人と親しくなったのですが、その人が身体の病気のことでかなり苦しんでいたのです。なんとか良くなって欲しいという気持ちをいつも感じていたのです。

ある晩のこと、床について寝る直前に、「私利私欲はまったくないので、その病気についてどうしたら一番いいのか、どうか教えて欲しい」と見えない何物かに祈ったことがあったのです。

無我夢中で祈ったのかもしれません。そうしたら、自分としては幻聴かもしれないと思うのですが、ものすごい早口で、「離婚が済んでからね」という言葉がはっきり聞こえたのです。

勿論、一体何のことを意味しているのかさっぱり分からなかったのですが、そのことを本人に伝えてみたところ、離婚しようと思っているということを初めて聞かされたのです。

今思うと、その言葉どおりに、友人はその後離婚したのですが、それから少しずつ病気は快復に向かっていきました。数年後に再会したときには、驚くほど病気がよくなっていました。

私の祈りは、別に何の役にも立ってはいないのですが、熱心に祈ることで私みたいな何の特別な能力も持っていないものでも、そうした情報をもらうことができるということですね。

その後、何度かは誰かのために祈ったことがあったのですが、あの早口の声が聞こえたことは一度もありませんし、自分でも分かるのですがあの時ほどの無心にはなっていなかったと思うのです。

「この人生、祈ったところでどうもならないよ」という疑念のようなものが少しでも心にやってくると、その祈りは中途半端なものになってしまうのかもしれません。

どんな疑いの心も挟むことなく、ただただ祈ることができたなら、それは真理がやってくる場所を提供したことになるのだろうと思うのです。

その時こそは、真理の特性である絶対的な善が姿を現してくれるのだろうと思うのです。みなさんは、どう思われますか?純粋な祈りとは、神のことだと思うのです。

自分のペースがつかめてきた

わけあって、スポーツクラブに通うのを数年の間中断していたのですが、今年の2月からまた新たに再開したのですが、不思議なことに年齢は増しているのに以前よりも楽に泳げるようになったのです。

実は5月くらいまでは、いくら泳いでも何だか苦しい状態が続いていて、もう以前のようにはスイスイ泳ぐことができなくなってしまったのではないかと、人知れず悲しくなっていたのです。

人間、年齢にはかなわないのかなと。ところが、その後急にどういうわけか苦しさがなくなって、気持ちよく泳げるようになったのです。それだけではありません。

中断する前の自分よりも、より楽に泳げるようにさえなったのですから自分でも驚きです。年齢を重ねてくると、数年の年齢差というのは意外に大きいものです。

身体のあちこちが、自分のイメージ通りではなくなってきているので、水泳もそういうことで体力の劣化とともに泳ぐのが大変になったのだとばかり思っていたのです。

けれども、理由は分かりませんが、とにかく泳ぎが楽になってしまいました。そして、さらにごく最近ではわざとゆっくりと泳いでいるのに、身体が沈むこともなくまったく疲れないという状態にまでなりました。

こうなると、1000m どころか、歩くのと同じ感じでいくらでも泳げるような気さえしてきます。自分自身の体力に見合った泳ぎのペースというものをつかむことができたのではないかと思うのです。

周りで泳いでいる人たちのペースにも影響されずに泳ぐことができるようになったことも手伝っているかもしれません。ペースというのは、人それぞれ違うものですね。

それは、水泳に限らず食べる速度、歩く速度、仕事を処理する速度、あらゆることに言えます。子供のころは、親に言われたペースでやらなければと、無理に急がされたりすることもあるでしょう。

でも、自分のペースを知り、それをなるべく守るということに意識を向けて見ることはとても大切なことなのですね。毎日の生活の自分のリズムが整ってきます。

みなさんは、ご自身のペースを大切にしていますか?誰かに合わせたり、人の期待に応えようと頑張ったりしていませんか?大切なあなたのペースを守ってあげて下さいね。

赤ちゃんのままでは気づけない

いつもセッションでお話ししていることですが、人間の赤ちゃんはほかの動物と同じように、自我(という思考)がない状態で産まれてきます。

人間以外のどの動物も、自我が育たないままにその一生を終えるのですが、どういうわけか人間だけが2~3歳ころまでには、自我が芽生えてくるのです。

自我というのは、ひとりでに出来上がるものではなく、周りにいる大人たちから何度も何度も教えてもらううちに、気が付いたときには自分がここにいるという自覚ができるのです。

だからこそ、赤ちゃんのうちに山に捨てられて、偶然にオオカミに育てられた子は、人間の大人からの教えを受けないために、自我は育ちません。

幸か不幸かわかりませんが、とにかく人間だけが幼いうちに自我が発生し、それが原因となって様々な苦しみの中に放り込まれることになるのです。

そして、本人も自我も成長して大人になったあかつきには、いつか本質の自己に気づくときがやってきます。それがいつになるのかは、誰も知りませんが…。

そのときに、自分という自覚、つまり自我とは、単なる思考であって本当は人物としての自分などいないのだと気づくことになるのです。つまり、自我のなかった赤ちゃんのころに戻るのです。

だったら、なぜ赤ちゃんのままでずっといられなかったのか、赤ちゃんのまま自我が現れなければ、他の動物のように一生無邪気でいられたはずなのに、と思いませんか?

けれども、一度自我が生まれて、それからそれは本物ではないと気づくことがどうしても必要なのです。私たちは赤ちゃんのままでは気づくことができないのです。

赤ちゃんは確かに無防備ですが、本質の自己への気づきがありません。それはあまりにも曖昧な意識であり、他の動物や植物などと同じように、そのままでは気づけないのです。

自我を経由してはじめて、私たちは自分の本質への目覚めを経験することができるのです。自我が発生したことによる苦痛の代償はあまりにも大きいですが、代わりに気づきという目的を果たすことができるということですね。

恐怖より悦びの方が勝る

若いころ、といっても結婚もして小さな子供もいたと思うのですが、パラグライダーというのをやりに遠く長野県の菅平高原まで行ったりしていたことがあります。

パラグライダーというのは、みなさんもよくご存じのパラシュートを開いた状態にして、山の急斜面から飛び降りて、そのまましばらくの間、空中遊泳して楽しむ遊びです。

その頃は、日本ではまだ始まったばかりだったせいか、やれる場所も限られていて、東京からわざわざ菅平まで行かなければなりませんでした。

人に教えられるような人もほとんどいなかったので、いい加減な講師が適当に教えて、いきなり一人で飛び立つという感じでした。今ではちょっと考えられませんが…。

そのせいもあって、私は着地するときに大腿骨を骨折したやつを目の前で目撃しましたし、強風にあおられて両肩を一瞬で脱臼した若い女の子も見ました。

私自身も、いい風がやってくるのを待てなくて、適当にジャンプしたときにちょうど追い風にあおられて斜面を転がってしまい、死ぬかと思ったこともありました。

そういう意味ではかなり無謀というか、勇気のいるスポーツでしたが、好奇心が恐怖に勝つというのか、ジャンプしてグワ~ンと風に持ち上げられるあの感覚をまた経験したくて、やりにいってしまうのです。

恐怖というのは、打ち勝とうとしてもなかなか勝てるものではありませんが、好奇心というか単純にやってみたいという無邪気な心があれば、乗り越えられるものなのですね。

もっと正確にいうと、乗り越えているわけでもなく、ただその瞬間恐怖以外の何かに包まれてしまうという感じかもしれません。

カートを少しやっていたこともあるのですが、時速100kmくらいでコーナーを回るとき、あの小さなボディの中にいるのもしんどいくらい遠心力で身体が持っていかれるのですが、その瞬間も恐怖はどこかへ消えてしまうのです。

友達がそのコーナーを高速で走り抜けるのをまじかで見ていると、とてもじゃないけど怖くて目を背けたくなるのですが、自分が走っているときには何だかまったく違う感覚になれるのです。

恐怖を乗り越える必要はありません。恐怖と悦びでは、間違いなく悦びのほうが勝るのですから、悦びに意識が向いていればそれだけでいいということですね。

自分の本質への信頼

精神的に揺さぶられるようなことが起きると、すぐに本質の自己のことを忘れてしまうということを昨日書きました。忘れないにしても、すごく薄れていく感じがします。

私の場合には、身体の不調にとても鋭敏に反応するようで、外側で起こっている事態にはそれほど影響されないかもしれません。勿論、もっと大きな何かがやってくれば別でしょうけれど…。

身体が不調だったり、苦しかったりすると、本質は見ているのだけれどお前は大して役に立たないなといって、本質を軽蔑したりもするのです。

だって、自分の本質があらゆることの源泉であるなら、こんないやな身体の状態を速やかに変えてくれてもいいだろうと思うからです。

けれども、何度かは追い詰められた状態において、本質の自己を信頼して委ねるような気持ちになったことがありました。偶然かもしれませんが、それからほどなくして身体の苦しみは緩和されたのです。

私たちは苦しんでいるときには、一分一秒でも待てないという切羽詰まった状態になります。だから、すぐに結果が出なければ信頼することをやめてしまうのです。

それが、エゴの特性でもありますね。それでも、かなりきわどく追い詰められると自分の中で何かが発動して、信頼が戻ってくるということが起きるのです。

きっと戦いをやめて、観念した状態になったときなのでしょうね。戦わなくなると、文字通り敵がいなくなる状態、つまり無敵の状態になれるのです。

それは無防備な心になることであって、その時ばかりは過去で充満していた心も一瞬のうちに現在へと蘇ってくれるのです。そこに真実が近づいてきてくれるのです。

真実には、人を癒す力が備わっているようで、希望を叶えてくれるというよりはごく自然に物事の歪みを正してくれるのだろうと感じます。

そこまで追い詰められずとも、自分の本質に信頼をおけるようになれるといいですね。

それは誰かをいつも問うこと

私たちは、日ごろ気づかぬうちに自分という人物そのものになりきってしまっています。何の疑いもなく、自分が生まれて生きて、人生を進めていると感じるわけです。

言ってみれば、人生の主役を過去ずっと続けてきたし、これから先もそれが変わることはないと信じ切っています。それに異論を唱える人はいないはずです。

けれども、自分の本質に気づくと、そのことが単なる思考の中でのことだったと分かるようになるのです。それは、人物としての自分がなくなるということではなくて、それと同時に気づいている状態でいることができるのです。

それに気づいたとしても、毎日の生活が激変してしまうということでもないのです。人によっては、そのように見える場合もあるかもしれませんが、通常は何の違いもありません。

つまり、気づきの前と後ろでは人としての自分に変化はありません。さらに、一度気づいたからといって、自分の本質を忘れないということでもありません。

何か精神的に揺さぶられるようなことが起きれば、たちまちのうちに本質のことはどこかへすっ飛んでいってしまいます。ただし、冷静になれたときにはまた「ああ、そうだった」という場所に戻ってくることができます。

かつて、その気づきをなるべく忘れないようにするために、心の中でいくつかのことをやっていたことがあるのですが、その一つに、「それを○○しているのは誰か?」という質問をするのです。

つまり、自分が腹を立てているときなら、腹を立てているのは誰か?と自分に問うのです。嬉しいことがあったり、感動しているときなら、そういう気持ちになっているのは誰か?と問い合わせるのです。

そうすることで、なにものでもない本質としての自己の意識に戻ることができるのです。それは、観照する視点に戻るということでもあります。それが、「観る」ということです。

客観視することではなくて、内側から完全に密着している人物としての自分を観るということです。個人としての自分のことを常に距離ゼロの位置から抱きしめている状態になるのです。

そのとき、人としての自分の心の中に理由のない、奥深い安心感を見つけることができるはずです。そうやって、何の努力もいらずに癒しが起こるのです。

真の「お・も・て・な・し」ができる日本人でありたい

今日、家内がハワイに旅行に行くということで、成田までのリムジンバスの乗り場までお送りさせていただきました。勿論、仕事の合間を縫ってですから、どれほどすばらしい夫なのかと感心します。

とはいうものの、単に仕事が趣味だということと、仕事に使っている事務所から、徒歩3分のところからリムジンが出発するので、特別な労力はかけてはおりません。

ちょうど、午後6時発のバスを少し前にいって待っていたのですが、リムジンはきちんと10分くらい前になったら到着してくれました。何ともまあ時間に正確なバスです。

飛行機のフライトの時間が気になるところですし、道路の交通事情などもからんで、鉄道よりも不確定な要素があるはずなのに、本当に時間に正確なので驚いてしまいます。

これも、今はやりの日本の文化独特の「お・も・て・な・し」なのかもしれませんね。日本人は世界の平均値と比べたら、ダントツで人の気持ちを思いやることができる人種なのでしょう。

それは本当にすばらしいことです。けれども、それは他人からの評価をすごく気にしすぎるということと表裏一体なのではないかと思うのです。

「お・も・て・な・し」の心が「愛」からやってくるのであればいいのですが、どう思われるのかを不安に思う「恐れ」からの言動であれば、問題が起きてきます。

後者の場合であれば、必ず精神的な自己犠牲が発生してしまうからです。それは、決して長続きさせることができません。いつか、息切れしてしまうのがおちです。

真の「お・も・て・な・し」のできる、素敵な日本人でありたいものですね。

行動に移る前にまず感情をしっかり見ること

あなたが誰かに失礼なことを言われたり、理不尽なことをされたり、とにかくその人に対して腹立たしいと感じているときに、その人に何かを依頼されたとしたら、あなたならどうしますか?

選択肢は大きく二つありますね。断るか、応じるかです。けれども、心の在りようまで考慮すると、もっといろいろあるかもしれません。断りたいのはやまやまだけれど、それじゃあ大人げないので応じるとか。

反対に、応じたいのだけれど、気持ちが治まらずに顔面がひきつってしまうので断るしかないとか。それ以外にも自分でもどうしたらいいのかわからない微妙な状態になるかもしれません。

しかし、こういう時にこそいつもこのブログでお伝えしていることをやるのです。つまり、その腹立たしさを一人でできるだけ正直に味わってみるということです。それは、もう選択ではなくマストにしてしまってください。

それが仮にうまくいかなかったとしても、あなたは何も損をするようなことにはなりません。そしてもしもうまくその怒りを見て味わうことができたら、冷静な選択をすることができるはずです。

依頼されてすぐに返事をする必要がないのであれば、必ずそうすることです。実際にどうするか答えるときまでには、冷静さの邪魔をする感情のパワーを消化してしまうわけです。

その結果、必ず後で後悔するような答え方をせずに済むはずです。このやり方は、多くの場合にとても有用ですので是非試してみてください。

そして、その方法に慣れてきて、自分のものとして本当に役立つということを実感できたなら、もうそれをあなたは忘れることはなくなるはずです。

さらに言えば、相手と話している最中に、感情をリアルタイムで見て感じることができるようになったなら、これはもう鬼に金棒状態といえるでしょうね。

練習あるのみですが、私自身にとってもリアルタイムでやるのは、なかなか難しいようです。

たくさんのみにくいアヒルの子

セッションに来られるクライアントさんには、それこそ様々な方達がいらっしゃいます。ごく一般的な方もいれば、芸能界で活躍されている方や、実業家として成功されている方、あるいはニートや引きこもりの若者など。

けれども、彼らに共通する特徴が一つだけあるとしたら、それは「敏感体質」ということです。過敏というか、神経があまりにも繊細過ぎるといった表現もできるかもしれません。

そのような敏感体質で生まれたならば、確実に平均的な幼児に比べて心が傷ついてしまうのは当然のことですね。感じなくてもいいような周りの人の気持ちも、ドシッと感じて苦しくなってしまうのですから。

まだ自分という自覚が曖昧な幼いうちに、家族のネガティブなエネルギーを感じてしまうと、それを自分のせいにしてしまうのです。いやな感覚を自己否定感へと直結してしまうのです。

どれほど家族が愛に満ちていたとしても、そうしたことは起きてしまいます。幼いころの独りよがりというのは、半端ではないからです。

そうして、いつしかそんなダメな自分を心の奥深くに葬ろうとして、激しい自己防衛が開始されてしまうのです。嫌われて見捨てられないようにと、考え付く限りの自己防衛の手段を実行する毎日になります。

その成果は、見捨てられないことで一瞬の安心を得るというだけで、その裏ではひどい自己犠牲を毎日知らず知らずのうちに蓄積していってしますのです。

そうやって作り出した自己防衛の作戦が、実は大人になっても本人をしっかりと牛耳っているからこそ、人生が苦しくなったり生きづらいという感覚になったりするのです。

そして、頑張りすぎることでやる気がなくなったり、身体がだるくて動けないといった鬱的症状がたまにやってきたりするようにもなります。

子供のころに作りこんだ自己防衛をいつまでも引きづることがないようにするためには、それを続けていることに本人が気づかなければなりません。

それと同時に、子供のころの自分がなぜ自己防衛せざるをえなくなったかを、現在の自分がしっかりと顧みてあげることがどうしても必要となります。

それが、癒しです。癒しはとてもシンプルなのです。過去から逃げるのをやめて、ただ過去の自分と一緒にそのときの気持ちを見てあげることです。

癒しがある程度進んでくると、それまでの敏感体質で生まれてきたことを恨む気持ちに変化が出てくるはずです。なぜなら、その敏感さこそがあなたの人生での大切な宝物であったことに気づくようになるからです。

あなたがその敏感さを自分のためではなくて、誰かのために使うようになれたとき、人生には一つの無駄もなかったのだと理解することになるはずです。

誰の人生も捨てたものじゃないということです。たくさんの「みにくいアヒルの子」を見てきた実感です。