ハートの囁きを聴く

人間には、誰もが知っているようにマインドとハートという、二つの全く異なる機能が備わっています。

残念ながら日本語ではどちらも「心」という便利な言葉があるため、両者を混同してしまうことが多いかもしれません。

マインドは日本語では「頭」と訳した方がより分かりやすいかもしれないですね。なぜならマインドは考える機能だし、ハートは感じる部分だからです。

ざっくり言えば、ハートは生まれ持ったものであり、マインドは生後作られていくものですね。

大人になるにつれて、社会の一員として立派に生きていくためには、大なり小なりマインドは必須アイテムなのです。

マインドとハートのバランスがいい人は、人生もバランスの取れたものになるように思います。

けれども、安心させてもらえないような環境で育った場合、人は強く自己防衛をするようになるため、マインドが優位になってしまいます。

そうなると、物事を判断するときに、◯◯は正しいが、◯◯は間違っているという見方をするようになってしまうのです。

あの人はいい人だが、あの人は悪い人だとか、◯◯は善いことだが、◯◯は悪いことだというような判断が中心になるのです。

逆にバランスの取れた人、あるいはハートが優位で生きている人は、快不快、好き嫌い、好ましい好ましくないのようなことで物事を見るのです。

あなたのハートとマインドは、どんなバランスで活動しているでしょうか?もしもマインド優位だとしたら、是非ハートの声を聞く練習をすることです。

ハートはいつもあなたにメッセージを送っているはずです。ただし、マインドの大声で消されてしまうくらいの囁き声なので、聞きづらいかもしれません。

その時には、マインドの大声を静かにさせることが必要です。そのためには、少しずつ瞑想を取り入れた毎日にして行けたらいいと思います。

不思議と繰り返し観てしまう

とある新着の映画をネットで観たのですが、まあまあだなって思ったくらいで、それほど強いインパクトを感じたわけではなかったのです。

それなのに、観終わった直後にもう一度観てみようと思い立って、時間もあったので続けて観てしまったのです。

それから数日経って、自分でも変だなと感じつつ、もう一度同じ映画を観たのです。こんなこと滅多にないことなので、自分は何を気に入ったのかなとしばし考えてみました。

そこで見えてきた答えは、ごちゃごちゃしていない、悪く言えばあまりにも閑散とした空間があるのです。

それと圧倒的な静寂感。物語としては大変なことが起きているのですが、なぜかバックに常に感じる無音感。

さらには初めの初めから死がちらついている。こうしたことを総合的にみてみると、きっと瞑想の時に感じるものと似ているのかなと。

そうだ、孤独もずっしりと入っているのですが、それでもなぜかその孤独があまり気にならずにいられるのです。

大ヒットするような映画ではないのかもしれませんが、私は好きですね。ちなみに、主役&監督はジョージ・クルーニーです。

こっそりともう一回観ちゃおうかな…

マインドはトンデモ屋

私の知る限り、マインドのことを深く理解すればするほど、人生は生きやすくなるはずです。

なぜなら、私たちの誰もがマインド(自我)を自分自身だと思い込んでしまっているからです。

だからマインドを知ることは、「私」を知ることだし、自分以外の誰かのことを知ることになるのです。

分からずにいることでストレスになっていたことも、知ってしまうと何だそんな事だったのかと気持ちが軽くなるのです。

特にマインドの特性として、次のようなことはしっかり押さえておいた方がいいでしょうね。

マインドは満ち足りると存在できない。そのくせ、満ち足りたいと常に願っているという矛盾の中にあるのです。

あるいは、癒されたいと願っていながらも、癒されてしまうとこれまでの自分が消滅してしまうと思うので、癒しを妨害しようとするのです。

ユートピアを求めているのに、その一方で闘い続けているのです。マインドがいかにトンデモ屋だと分かれば、そこにエネルギーを注がなくなるはずですね。

人生の闘いは愚かしい

神のことを創造主などと呼ぶことがありますね。それは、神がこの世界、この宇宙を創造した張本人であるという考え方があるからです。

神が創りたもうた世界で、私たちは生かされているという発想は何となく分かりやすい感じがします。

けれども、私たち一人ひとりの人生を創り出しているのは、他でもない私たち自身であるという感覚もあるのです。

どちらが好みかはその人によるでしょうけれど、私は個人的には後者の方が癒しという観点においては有利なのではないかと感じています。

というのも、自分が創り出していると感じることで、自分以外の誰かのせいにすることができなくなっていくからです。

何か困った時に、なんであれそれを他人のせいにしてしまう人がいますが、それは単に依存が強いだけで、なんの解決もそこにはありません。

実際、人生という物語を裏側でこっそりコントロールしているのは、本人の思い込みなのです。もちろん、何から何まで100%と断定する必要はありません。

ただ、思考は現実を作るという感覚は誰もが何となく持っているものだと思うのです。私自身、何度もそれを痛感させられたことがあります。

だとすると、人生と闘っているということは、どれほど愚かしいことか容易に理解できますね。

初めに自己否定があり、それを払拭しようとして理想の自分を設定し、そこに向けて頑張り、達成できずに自己否定に戻り、そこからまた闘いを始めるという無限ループです。

ちょうど、犬が自分の尻尾を追ってクルクル回り続けている姿と酷似しているように感じます。

あなたがあなたであることを認めることができれば、自ずと人生の闘いは影を潜めてしまうことになるでしょうね。 

比較するのは愚かしい

昨日のブログでは、「マインドはみんな同じ」ように出来ているというお話しをしました。

マインドの中に詰まっている様々な仕組みや機能の、どれを重点的に使って生きているかが、人によって違うだけなのですね。

セッションの中で、クライアントさんの言葉に対して、ああそれ私も同じものを持っています、というとあまり信用してもらえない場合があるのです。

クライアントさんからみると、セラピストは心のことを色々詳しく知っているし、私生活も自分とはかけ離れているに違いないと思ってしまうのです。

クライアントさんには、私自身の私生活を見せることが基本的にはないので、それも仕方のないことかもしれません。

けれども、本当は誰もが同じように生きて、同じように悩んで、同じように苦しかったりするのです。

SNSのように自分のいいところばかりを見せると、他人はそれに騙されてしまうことが多いのですが、そんな化けの皮はすぐに剥げるのです。

だからいつも忘れずにいることです。誰かを羨ましいと感じたら、あの人は満たされているに違いないと思ったら、「マインドはみんな同じ」を思い出すことです。

そうすると、比較してしまうマインドの馬鹿馬鹿しさ、愚かしさに気づいて笑い出してしまうでしょうね。

マインドはみんな同じ

あなたが今生きている人生の主役であるあなたは、あなたが思うほど特別ではありません。なぜなら今のあなたはマインドのことを自分自身だと思い込んでいるからです。

そのマインドというのは、誰のマインドでもそれが生まれる仕組みや働くメカニズムにはそれほど大きな違いはないのです。

だからマインドのことを知り尽くしているセラピストというのは、どんなクライアントさんがセッションにいらしても大抵は困らないのです。

根本はみんな同じで、誰も特別なマインドで生きてるわけではないのです。そのことを残念に思うかもしれないし、良かったと思うかもしれませんね。

だからもしあなたが、不安感に苛まれているとしても、それをことさら悪いことだと決めつけないことです。不安感は誰のマインドにもあるものだからです。

あなたが誰かに嫉妬するとしても、それを殊更悪いことだと決めつけないこと。誰のマインドにも嫉妬を起こすシステムが備わっているからです。

あなたが誰かを憎むとしても、それも悪いことだと決めつけないこと。環境さえ整えば誰のマインドも憎む機能が備わっているからです。

あなたが怠けるとしても、人を裏切るとしても、人を騙したとしても、嘘をついたとしても、それも悪いことだと決めないこと。

あなたが罪悪感に苦しんでいようと、惨めだと思っていたとしても、劣等感の塊だと感じたとしても、それでもそれを悪いことだと決めないこと。

ぜ〜んぶマインドの働きとして元々備わっているものだからです。マインドにいいも悪いもないということを忘れないことですね。

所有の不可能性に気づく

私たち人間には、所有欲というものがあります。手に入れたいという欲求だけでなく、それを自分の物にしたいという欲望ですね。

どんな欲望でもそうなのですが、それがあまりに強過ぎるとそれを満たすことに人生を浪費することになってしまいます。

所有欲が強いと、たくさんのものを所有することになって、今度はそれを失いたくないという不安も大きくなるのです。

ところでよくよく見つめてみるとわかるのですが、所有するということは実在ではないということ。それは本質的には不可能なことなのです。

それはある種の契約でしかないのです。ある人がこれが私のマイホームですと言っても、誰もそれを認めてくれなければそれまでです。

あなたが着ている服は私のものだと言うときに、他の人がそれを認めてくれるからこそ、所有していることになるのです。

つまり所有とは互いに認め合うことによってのみ成立する決め事でしかないのです。たとえば、戦争の一つに領土争いというのがあります。

これは俺たちが所有する土地だと主張したところで、敵がやってきてそれを奪い取ってしまったら、そんな主張は無意味になってしまうのです。

そしてあの土地は、俺たちの先祖が所有していた土地だと言って奪い返しに行くことで、さらなる争いが継続するわけです。

所有するという幻想に心を奪われてしまうと、人生をおおらかな気持ちで楽しむことが難しくなってしまうのです。

そもそも所有欲は、自分は足りないという欠乏感を埋め合わせしようとして起こる欲望なのでしょうね。

だから欠乏感をしっかり見張っていれば、それに乗っ取られずにいられたら、所有欲も減少してしまうはずなのです。

欠乏感も所有と同じように事実ではなく、自我が持っている幻想に過ぎません。それをじっくり見つめてみることが大切ですね。

お払い箱にしよう

私たちは幼い頃に作られた自己イメージによって、人生が決められてしまうと言っても言い過ぎではないのです。そのくらい、自己イメージは強力なのです。

自己イメージが作られる過程をよくよく観察すれば、それがどれほど馬鹿げたものなのか分かるはずです。

それは、あなたの周囲にどんな人たちがいて、どのようにあなたを扱ったのかによって出来上がるからです。

したがって、素晴らしい自己イメージができたとしても、あるいはひどい自己イメージができたとしても、どちらもただのイメージに過ぎません。

主には家族という環境をそのまま写し込んだ自己イメージを、後生大事にしながら人生を進めていくのです。

ここでよく理解すべきことは、否定的な自己イメージであればあるほど、それを何とかして払拭しようとする為に、理想とする自分像が作られるのです。

言葉を変えれば、自分への期待が高くなるということです。自分に対して高い期待をかけるというと、何やらポジティブな感じがするかもしれません。

けれども、それはそのままの自分では到底ダメだということを意味するだけなのです。そして、そんな理想的な自分には決してなれません。

だからそんな人の人生は本当に悲惨なことになってしまいます。高い期待を設定して、そこに到達できない自分を責めて、そこから更にまた頑張ろうとする。

こんなことの繰り返しで人生が浪費されていくわけです。一度立ち止まって、自分の自己イメージをできる限り書き出してみることです。

さらには、期待している自分像についてもより明確に書き出すのです。その両方を高い精度で視覚化してみるのです。

どれほど不可能で、どれほど馬鹿馬鹿しくて、どれほど愚かしいことかを腹の底から味わうことができれば、そんな自己イメージも理想像も一緒にお払い箱になるはずです。

自らの防衛に気づく

私は時々思うのですが、今の自分はオリジナルの自分、あるがままの自分からどのくらい隔たってしまっているのかなと。

どんな人であれ、社会という人との関わりの中で生きていくことになるので、必要最低限度のルールを身につけることになるのです。

生まれたままの完全に無防備な状態では、野生児のようなものなのでそのままでは社会生活は送れないのです。

たとえば、つぶらな瞳のとても幼い子供は、無邪気に人の顔をじ〜っと見つめることがありますね。

学生の頃、バスの前の席に座っていた幼い子が急に後ろを向いて、至近距離から私の顔をじっと見つめてきたことがありました。

少しして、その子の隣にいたお母さんがそのことに気づいて、あんまり見たらお兄さんが恥ずかしいって…、と言ってたしなめてくれたことがありましたね。

私たちは成長するにつれて、ある一定時間以上見ず知らずの他人を見続けてはいけないことを知るのです。

こうした日常的な当たり前のルールはさておき、それ以上のルールを自分に強いてしまうと、それは防衛の類になってしまうのです。

つまり、あるがままの自分からの隔たりというのは、防衛の種類やその大きさによるということです。

一般常識として、思ってはいても言葉に出してはいけないと感じる言葉は飲み込みますが、それが防衛のレベルになってしまうと、自己表現ができない人になってしまいます。

そうやって一つひとつ自分の言動を見ることで、あるがままのレベルか、社会常識のレベルか、あるいは防衛になってしまっているのかをチェックするのです。

そうすると、これまで気づかずにやってきてしまった沢山の防衛に自覚を持つことができるようになるはずです。ぜひ試してみてください。

受容性がカギ

私たちの心の奥底に隠されている暗澹とした部分がある理由は、人生が病気や老いや死へと真っしぐらに進みつつあることを避けられないからなのです。

このどれか、あるいは三つの組み合わせ技は、絶対なのです。それが心を不安にさせ、気持ちを重くさせるのです。

若いうちは、目の前のことに夢中だし、死ぬのはいつも自分以外の誰かなので、こうしたことを忘れていられるのです。

けれども、いつかはそれらがやって来ることは確実だからこそ、人は奥深いところで憂鬱な重りのような感覚を持っているのです。

じゃあ一体どうしたらいいのでしょうか?やれることはたった一つしかありません。それは、自分の受容性を最大限使えるようにすることです。

年老いていくことをすごく気にする人とそうでない人の違いは、老いることへの受容性の違いなのです。

病気や死についても全く同じことが言えますね。救われる唯一のカギは受容性にあるということです。

受容性を開花させる方法の一つは、自分の自我がいかに受容性に乏しいのか、そのあるがままの姿を見続けるのです。

物事を受容できないばっかりに、どれだけ自分の自我が苦しむことになったのか、その様をよ〜く見ていてあげるのです。

その哀れな姿、受容できない愚かしい姿を繰り返し見ることで、きっと自然とあなたの受容性は本来の質を取り戻すことになると思います。