時空を越えた何か

私たちの本当の姿というのは、当然のこととして分かっているという知識からあまりにも離れすぎてしまって、すぐには認めることも理解することも不可能に感じてしまうのです。

なぜなら、私たちは何から何まで当たり前のこととして信じてしまっているからです。自分を一人の人間として、個人として、人物としてみていることから離れることができないのです。

それほど、思考によって固く信じてしまったことは、おいそれとリセットすることは難しいことなのですね、残念なことに…。

けれども、それは突然何の前触れも無くやってくるかもしれません。今まであれほど頑なに信じていたことが、どういうわけかあっけなく覆ってしまう瞬間があるのです。

なぜそういうことが起こるのかはわかりませんが、でもきっと一人ひとりの身の上にいつかやってくるのでしょう。

そのときに、気づきに対して戦おうとする思考、気づきを亡き者にしようとする強い抵抗が心の中にあることも事実です。

それをそっとそのままにしつつ、気づきだけに注意を向け続けることができるなら、何も難しいことではなく、ただ単にあ~そうだったのかと分かるのです。

そしてそれは、決して言葉で説明できる何かではありません。その気づきを言葉で表現すれば、「ずっと以前から知っていたよ」というものです。

何も特別なことではなくて、ただそれを受容するかどうかの違いに過ぎないのです。本当の自分は、思考ではなくて純粋な意識だったという、ただそれだけのこと。

思考には、時間も空間も必要なのですが、意識に必要なものは何もありません。だからこそ、私たちの本質は時空を越えていて思考では捉えることのできない何かなのです。

物語を語り続けるのをやめる

私がセラピストという仕事を通して観てきたたくさんの物語の主題の多くは、たいていが以下のようなものに集約されるのです。

それは、

-私は理不尽な目に遭って来た

-私は自分を受け止めてはもらえなかった

-私はひどい被害者にさせられてしまった

-私はいなくてもいい存在に違いない

-上記のようなことを払拭するために、私は頑張らなければならない

このような物語を、あなたは自分自身に対してずっと語り続けてきたという自覚はあるでしょうか?だって、本当なのだから仕方が無いという声が聞こえてきそうです。

けれども、事実というものはそうではなくて、あなたの思考が作り出した物語であるということに気づくことができるでしょうか?

事実はただ起きているのです。あなたが勝手にそれを思考を用いて物語に仕立て上げて、自分に語り続けているだけなのです。

もうそろそろ、あなたの物語を語り続けることから一歩退いてみるつもりにはならないでしょうか?物語を語り続けることから開放されたら、そこには清々しい今があるだけです。

それを体験してみたいとは思いませんか?答えがイエスなら、それをいつやればいいのか?

「今でしょ!」

距離があり、ものの大きさは変わらない、近づくと大きく見えるだけという三つのうそ

肉体を持って、個人として生きていると思い込んでる私たちにとって、自分のいる場所はその時々において決まっており、その外側にこの世界が広がっていると思っています。

肉体というある空間を占有している自分が、外側に広がる空間の中を移動しながら生活していると考えているのです。

したがって、目に見える外側の風景には、距離という概念が生じてきてしまい、自分の位置から遠いものや近いものがあるというように知覚するのです。

けれども、目覚めた意識に注意を向けると、自分には大きさというものがないということに気づいてしまいます。そして、大きさがないということは、全体性とも言えます。

全体であるものは、移動することは不可能であり、それは距離というものは意味をなさないということに繋がっていくのです。

自分の周りに広がっていると感じているこの空間は、思考によるものであって、本当は自己との間の距離というものはないのです。

それは、たとえて言えばスクリーン上に映し出された映像が、どれほど広大な景色であったとしても、スクリーンとの距離はゼロだということと同じなのです。

この3次元の宇宙空間とは、無限に大きな3次元のスクリーン上に映し出された映像のようなものだということです。

そしてその無限大のスクリーンこそが、私たちの本質の姿なのですね。思考によるこれまでのあらゆる概念がひっくり返ってしまいますが、そのことを自分自身で検証することが唯一の自己探求なのです。

サンタナはかっこよかった!!

高校生のころ、ものすごくロックにはまり込んだ時期があったのですが、そのときに大好きだったサンタナというバンドがありました。

そのバンドは、ギタリストのカルロス・サンタナの名前をそのままバンド名にするほど、彼の色彩が強い魅力的なものでした。

彼は、カーリーヘアのような特徴的なモジャモジャ頭をして、魅惑的で悩ましい演奏をするのでした。それは、ちょうど性的欲求の強い高校男子を刺激したのでしょう。

彼らのジャンルはラテンロックと言われたこともあって、ギターのセクシュアルな音色とラテンの激しいリズムが融合したすばらしいものでした。

ところがある時、突然サンタナはそれまでの音楽性を封印してしまったのです。ある有名なミュージシャンに帰依したようになってしまい、頭も丸めてしまったのです。

敬虔な信者のようになった彼を見て、なんだか切なくなったのを今でも覚えています。彼がそのとき一体どんな心の状態だったのかは分かりませんが、その後しばらくはサンタナのことは忘れていました。

けれども、どれだけの時間の後かは覚えていませんが、彼はまた復活してくれたのです。モジャモジャ頭に戻ることはありませんでしたが、あの悩ましくもエキサイティングな音楽が戻ってきたのです。

彼のこの一連の変化について、今私は勝手にイメージしていることがあります。それは、こんなようなことです。

彼は若い頃から元々真理を追究していたのでしょう。そして、彼にとってグル(師)と思える存在に出会い、それまでのすべての自分を捨てたのでしょう。

そして最終的に、自分らしさを捨てる必要などなかったのだという真理に出会ったのだと思うのです。だからこそ、以前の彼が作り上げた妖艶な演奏がまた復活したのです。

癒しも全く同じです。はじめは、より良い自分を目指して、より真理に近づこうとして、これだという「道」を見出したと思うのです。

その「道」を真剣に歩むことによって、さまざまな気づきがやってきてくれますが、そのうちに、「道」などなかったと気づくことになるのです。

それはすばらしい開放的な気分にしてくれるかもしれません。到達地点などなく、いつもこの瞬間がすべてだと気づくのですから。

目覚めた意識でいる その3

目覚めた意識から人物としての自分を見ると、それがただの記憶の集まりであることが明白になってしまいます。

私たちは、これまで生きてきた体験を通して、その一つひとつをまるで張りぼてに糊のついた薄紙を張っていくようにして、自己像を作り上げてきたのです。

本当に中身といえるものは、何もありません。なにせ、記憶の塊でしかないのですから。それはすべて過去であり、未来と同じように実体のないものです。

あるとき、瞑想していてそのことに気づいたとき、でっち上げられた自分像が本当に張りぼてのようにあっという間に崩れていって消えてしまったイメージを見ました。

それはとても清々しい光景でした。いい面も悪い面もすべてが虚像でしかなかったと気づくことほど、助けられることはありません。

自分を何とかして、もっと理想に近づけなければとか、駄目な部分を少しでも改善してもっと人格を磨いていかねばという、重たい想いが消えてしまうのですから。

消えるというか、もっと正確に言えば、そういう想いがあったとしてもそれすらOKだということに気づくということです。

肉体がある間は、人物としての人生を生きていくように思えることが続いていくことでしょうね。けれども、それを限りなく深い慈しみの目で見る目覚めた意識が在るのです。

だから、私たちは過去や現在がどれほど惨めで苦しいものであろうとも、本質的には大丈夫なんです。完全に救われているのです。

目覚めた意識への信頼が深くなればなるほど、たとえようのない完璧な平安さこそが、私たち自身だと気づくのですから。

目覚めた意識でいる その2

目覚めた意識でいると、いつも感じているこの自分という意識には、大きさも形も位置という概念もなにもないということに気づきます。

この純粋な意識が、広大な空間のどこかの領域を占めているということは決してないとただ分かるのです。

それはつまり、思考で捉えることも、知覚(五感)で感知することも絶対にできないということを意味していますね。

純粋な意識である気づきが、なぜそうしたものなのかという理由を説明することはできません。思考の限界を越えているからです。

だから疑問や腑に落ちない感じなどに目を向けてしまうと、途端に目覚めた意識から遠のいてしまうかもしれません。

思考で説明できることは唯一つ、それを説明することは不可能だということです。潔くそのことを認めて、ただ在るだけのそれに意識を向ければいいのです。

目覚めた意識でいるということには、何も特別なことはありません。ごく普通の生活の一瞬一瞬ごとに、それと共に在ればいいのですから。

逆に、それから目を逸らすために、私たちはどれだけのエネルギーを使っていることか。だから人々は疲れているのです。

今日も、疲れを癒すためにも、目覚めた意識の中で憩うことができるといいですね。呼吸するよりも自然なことなのです。することではなく、気づけばいいだけですから。

目覚めた意識でいる

とにかく目覚めていることです。それは、単に目が覚めた状態という意味では勿論ありません。起きているということではないのです。

目覚めているとは、この瞬間の自己に注意を向けているということです。そこには、毎度おなじみの思考は入ってくることができません。

思考は活動していてもいいのですが、それも含めてただ在る自己に意識を向けていることです。自我がなくなる必要もありません。

自我が消えうせてしまって、完全に覚醒した状態が継続するということもあるのかもしれませんが、それは必要なことではないのです。

その瞬間、自我が怒りを抱えていてもいいし、悲しみの中でうつむいていてもかまいません。その自我を丸ごと抱きしめている目覚めた意識があればいいのです。

思考と思考の間の深淵と言うこともできますが、何も思考がなくならなくてもいいのです。その思考すら受容する目覚めた意識でいることです。

目覚めているとは、自己の本質に意識が向いているということです。それは、注意していることを忘れなければ、いついかなるときでもやってきます。

目覚めているということを、時間の中で体験しているように感じたとしても、それは思考による解釈に過ぎません。

だから、昨日のそれと今この瞬間のそれは、一つものなのです。そしてすべての人々のその目覚めた意識も、唯一無二のものなのです。

内側にある沢山の自分

by osho

人は、内側にたくさんの自己を持っている。
グルジェフはよく、あなた方のことを、
誰が主人かを知っている者がいない家だ、と言った。
たくさんの人間がいる。
誰もが客だ。

しかし、誰がその家の主人なのか誰も知らないものだから、
みんなが自分を主人だと思っている。
だから、その瞬間その瞬間、力を得た者が、誰でも主人の役を演ずる。
怒りが力を得れば、怒りが主人になる。
愛が力を得れば、愛が主人になる。
嫉妬が力を得た時には、嫉妬が主人になる。
これは絶えざる戦闘だ。
何しろ客はたくさんいて、そのみんなが主人に、
家の持ち主になりたいと思っているのだから。
そして 誰一人、誰が持ち主なのかを知らない。
持ち主が長い旅に出てしまって、帰って来ないか、
あるいは持ち主がぐっすり眠りこけているかのどちらかだ。
あなた方の自己はぐっすり眠りこけている。

その故にこそ「目覚めよ」と言う、
あらゆるイエス達、クリシュナ達、仏陀達の強調があるのだ。

イエスはこの「目覚めよ」と言う言葉を何度も何度も使い続ける。
「目覚めよ。見よ。油断なく覚めてあれ」と。
仏陀は「もっと意識しなさい」と言い続けた。
意味はひとつだ。
もしその人が意識するようになったら、主人が現われる、と。

そして主人が現われた瞬間……これが素晴らしいところだが……客たちは消える。
主人が存在するようになった瞬間、
召し使い達はただ一列に並び、召し使いになる。
自分が主人だなどとは主張しない。
だから本当の問題は、怒りや、嫉妬や、憎しみと闘うことではない。
本当の問題はその主人の中に入ること、その主人に気づかせることだ。
ひとたび、その主人が気づけばすべてがおさまる。
だがこの気づくと言うことは、自分が源にまで降りないかぎり、可能ではない。

体験したがっている本当の自己

数日前の朝のこと、いつものようにクルマで事務所に向かっているときに、何となく現実が頼りなく感じるような気がしたのです。

そして、駐車場にクルマを停めて歩き出した瞬間に、自分の中にこの現実を体験したがっているものを感じたのです。

いつものような現実感が薄れていたからかもしれませんが、ただ体験していること自体をそのまま悦んでいる自分を感じました。

でもその自分とは、今事務所までの道を歩いているいつもの人物としての自分ではありません。その奥に普段は隠されている何かなのです。

それは個人としての自分が都合のいい体験をしたがっているというのとは、まったく異なるものであって、体験の内容を楽しみたいのではないのです。

体験それ自体をそのまま楽しんでいるという感覚でした。この感覚は、以前にもたまにやってくることがありましたが、今回のものは長く続きました。

日ごろから感じている、ただ在るというあの自己の広がった感覚とは若干違うもので、敢えて言えば個人の自分と広がった意識との中間にあるようなものです。

いずれにしても、そうした感覚というのはいわれのない感謝の感覚を伴うため、とても爽快な気分になれるものです。

じゃあ、生きている間にもう少し体験させてあげようか、という気持ちにもなるというものです。

不安を安心に変えようとすることをやめる その2

私たちが頑張る理由は、大きく分けて二つしかありません。一つは、自分が本当にやりたいことを追求していくためであり、もう一つは安心を得るためなのです。

この両者は、たいてい外側から見ているだけでは、見分けがつかないことが多いのです。例えば、お金持ちになりたいという願望があったとします。

お金を手に入れて、自分のやりたいことを実現するという点だけをとらえれば、確かに前者の場合に相当するように思えます。

けれども、その背後にはもしかしたらやりたいことを実現することで、自分の価値を見出して心の奥に巣食っている不安を安心に変えようとする意図があるかもしれません。

このように、表面的にこうなりたい、こうしたい、という願望があったとしても、隠れたところに安心したいが潜んでいるということがあるのです。

ただ純粋に、興味のあることを進めていきたいという想いは、無防備の範疇なのですが、その結果として安心したいという気持ちがあるとすれば、それは自己防衛なのです。

つまり、私たちが頑張るとき、無防備さがそこにある場合と、自己防衛のためである場合があることに気づく必要があるのです。

前者は、愛であるなら後者は間違いなく恐怖が原動力となっているのです。あなたが頑張っているとき、一体どちらに分類されるのか見つめてみることです。

もしも、安心を勝ち取りたいとして頑張っているのであれば、その頑張りを一度脇へ置いて、その元になっている不安や恐れを逃げずに見つめることです。

無防備に見つめることができたなら、その分だけ不安や恐れは小さくなっていくはずです。その結果、ただそうしたいという純粋な願いだけが残るのです。