不安を安心に変えようとすることをやめる

もしも今、あなたの人生が満たされたものではないと感じるとしたら、どうやったら満ち足りた人生になると思うでしょうか?

それは勿論、不満であることをリストアップして、それらがすべて実現したとしたら、間違いなく満たされるはずだと思っているのです。

確かにそのとおりなのですが、でもその満足感はいつまでも続くという保証はどこにもないのです。そうなってみないことには、分からないことですね。

実際、あらゆる希望が実現して、満たされた気持ちになれたとしても、それはそう長くは続かないものだということもどこかで分かっているのです。

なぜなら、そんなような経験を人は誰でもしているからです。何かが満たされたとしても、私たちは次なる不満をどこからか見つけ出してしまうのです。

そういう満足→不満→満足→不満のループは果てしなく続いていくということを、私たちは本当は知っていますね。

私たちが心から求めているものは、永続的な満足感です。けれども、それは実はこれから先の未来に得られるものではないのです。

今この瞬間にも、満ち足りた状態になることは可能です。それは、未来に何かを追い求めることをできるだけ止めてしまうことです。

求めることをやめ、不安を安心に変えようとすることをやめて、真実の自己に気づくことができたなら、理由のない永遠の平安が待っています。

それは私たちを丸ごと受け止めてくれるだけではなくて、それ自体が私たちの本質そのものだったと気づくことになるのです。

癒しは向こうからやってくる

セラピストという仕事柄、本当に沢山の方々の人生に触れさせていただくことができることは、何と貴重な体験なんだろうと思うのです。

深くお伺いすればするほど、一つとして同じ人生など当然のことながらないことが分かります。一つひとつの人生はすべて、特別なものですね。

クライアントさんの人生をつぶさに見せていただいているときに、こんな理不尽なこと、これほどの酷いことをどう考えたって一生許せるもんじゃない!と思うことも時々あります。

クライアントさんに同情しているというよりも、自分だったらと感じてしまうために、いたたたまれない気持ちになってしまうということです。

一方で、クライアントさんはそんな拭いきれない惨めな体験をしてきたにもかかわらず、相手を許さなければならないと思っていることも多いのです。

どんなことを経験したとしても、どんなに傷つけられても、相手を許したい、許すべきという想いがあるのも事実です。

その一方で、やっぱり許せるものかという想い、そして決して許したくないという強い怒りを持っていることも事実です。

どの想いも大切な本音なのです。互いに矛盾するすべての本音に対して、あるがままを平等に受け入れてあげることがとても大切なのです。

どの本音についても、それを無理に捻じ曲げたり、隠したりすることなく、自分の大切な感情がそこにあるということに気づいて、やさしく抱きしめてあげればいいのです。

そうすれば、癒しは自然と向こうからやってくるはずです。

最初に信じた嘘を暴く

世の中には自分と他人しかいません。そして、他人とは、自分ではない人のことであることから、自分という想いがなければ他人という存在もないことになります。

したがって、ここに自分がいるというのが真実でなければ、他人がいるということも真実ではないということになります。

そして、このブログで何度もお伝えしているとおり、自分がここにいるというのは単なる想い、つまり思考であるので、他人がいるというのも思考に過ぎないのです。

自分がここにいる、あるいは他人がそこにいる、そのどちらも同じように事実ではありません。これこそがまぎれもない真実です。

私たちの存在自体が思考の中でのお話しなので、こうした思考と事実の違いについて、どうしても受け入れることができないと感じる方が多いのも頷けます。

けれども、是非原点に立ち戻って、つまり今まで長い間かけて培ってきてしまった自分の常識を脇に置いてみることをお勧めします。

なぜなら、そうしてみたところで何も支障はありませんし、何かを失うこともありません。逆に視点を変えることができるかもしれないのです。

私たちは事実を知っているのではなく、思考の内容を信じているに過ぎません。私たちは事実をそのままに知るということができないのです。

だからこそ、信じることしか本当はできないでいるのです。一つの嘘を信じてしまい、それを二度と疑わなくなると、それに連鎖した嘘を次々と重ねてそのすべてを信じなければならなくなってしまうのです。

その結果、実は私たち人類だけが特殊な苦悩を持つことになったのです。ほかの動物にはない苦しみとは、個人として生きる根源的な苦悩です。

そこから開放されるには、一番最初に信じた嘘を凝視してみることです。そして、その嘘を暴くことができたなら、それまでの苦しみはただの小さな痛みへと変換されるでしょうね。

個別性と全体性

自分は身体の中にいて、そこから外の世界を見ているという感覚があります。その一方で、自分がすべてであり、あらゆるところに遍在しているという感覚もあります。

前者が個別性であり、後者が全体性と表現することもできます。さまざまなクライアントさんとお話ししていると、こうした感覚についていろいろな自覚をお持ちになっていることに気づかされます。

個別性ばかりが際立っていて、個人としての自分以外はあり得ないという心の状態もあるでしょう。また、個別性でいるときがほとんどだけれど、ごくたまに全体性がやってくるという人もいらっしゃるようです。

それを自身でコントロールできないので、全体性への信頼性がまだそれほど高まっていない状態ともいえます。

あるいはまた、ごくまれに全体性を感じているときには、個別性が薄れてしまうという状態になれる人もいるようです。

そうした場合でも、当然のことながら必ず個別性に戻されてしまうのですが。また、瞑想や大好きな踊りなどに没頭していれば、全体性がやってくるということもあるでしょう。

私が思うに、個別性が消える必要は特にはないのです。なぜなら、それが消滅したとしてもいずれはまた戻ってきてしまうのですから。

大切なことは、個別性があろうとなかろうと、できるだけ長い間全体性を感じ続けることができればいいのです。

そのためには、いついかなるときにもあの「ただ在る」という全体性への注意を向け続けることです。そこには、1ミリの興奮もありません。

個別性と全体性が同時にあるとき、個別性における自己防衛の力がごく自然に緩んでくるのです。それが真の癒しなのですね。

生きて死ぬ、ただそれだけ

思考は物事をとかく難しく考えるのです。なぜなら、考えること自体が思考であるからですね。あまりに簡単だと、考えることができなくなってしまうのです。

だからこそ、どんなことでも思考は難しいように捉えようとします。本当は、簡単でシンプルであるはずなのにもかかわらず。

私たちは、生きて死ぬ、ただそれだけです。それだけなのに、そこに尾びれや背びれなどを沢山作って飾り立てるために、物事が複雑に見えてくるのです。

とにかく生まれたら、生きて死ぬ、ただこれだけです。ここには、思考の入り込む余地はほとんどありません。

前にも書きましたが、思考は違いを見つけ、そこに価値、意味、目的などの要素を付け加えていくことで、思考そのものが必要なのだと証明しようとするのです。

だからこそ、私たちは自分や物事の価値をいつも考え、自分の人生の意味を考え、人生の目的とは何かを探そうとするのです。

けれども、こうしたことはすべてが思考を使ってもらうための思考自体が作り出す罠のようなものだと思えばいいのです。

自分の人生に何が起きようが、生きて死ぬ、ただそれだけです。こんなことはいやだ~と叫んでも、ただそれだけなのです。いいも悪いもない、ただそれだけです。

自分は不幸だ~!も、ただそれだけです。勿論、自分は幸せだ~!も全く同様にただそれだけなのです。生きて死ぬ、それだけです。

気づくために必要なものなどない

この世界では、何かに熟達するためにはそれなりの訓練、鍛錬が必要であると誰もが考えています。スポーツにしても、楽器の演奏にしても何でもです。

人格を磨いて行くことにしても、数多くの経験を経て、それなりの努力を重ねた結果として得られるものだと思われていますね。当然だと思います。

その流れからしたら、厳しい修行を耐え抜いた数少ない賢者だけが覚醒することができると考えたとしても不思議なことではありません。

そういった前提知識があるからなのか、誰もが簡単に自分の本質に気づくことができるなどとは思っても見ないのです。

だからこそ、セッションの中でより具体的に私たちの本当の姿についてお話しをしても、私にはまだそういうことは無理だと言われるクライアントさんがとても多いのです。

自分の今の精神レベルでは、そんなことは程遠いと固く思い込んでいるのが手に取るようにわかるのです。そうではないという私の言葉は、もう届きません。

それが本当に残念なことですね。実は、そうした思い込みこそが、真実への気づきを妨害しているのだということがわからないのですから。

本質への気づきは、いつでも最も身近なところにそのままの姿で私たちを待っていてくれています。なぜなら、私たち自身がその気づきそのものなのですから。

努力も修行も何も必要ではありません。私たちの本質がそれ自体に気づくのに、ほかに必要となるものなどあるはずはないのですから。

悔い改める?

私たちの文化の中には、何か間違ったことをしてしまったり、人に迷惑をかけてしまうようなことをしたときには、そのことを悔い改めなさいという教えがあります。

この「悔い改める」という言葉の中には、大きく二つの要素が含まれていると考えられます。その一つは、「悔いる」つまり、後悔するということです。

否定的な響きを感じる言葉にすれば、「悔やむ」ということでもあるのです。そしてそれは、罪悪感を妥当な分だけ持ち続けるということでもあるのです。

そしてもう一つは、「改める」つまり反省して言動を修正するようにするということです。このように、まったく異なる二つの要素をごちゃ混ぜにしてしまっていることが多いのです。

自分の間違いに気づいて、それを正面からしっかり見据えたうえで、つまり充分な反省をした先に、言動を修正していくということが理想的なのです。

そして、本当はそれ以上のことを誰も求めるものではありません。けれども、私たちは自己防衛の一つの要素として罪悪感を利用してしまうのです。

後悔とは、罪悪感や自己否定感によって自分を責めることを意味しますね。自分の罪に対して、自ら罰を与えることで最終的には自分を守ろうとする心のメカニズムなのです。

いかなる場合であろうとも、後悔や罪悪感は必要ではありません。でももしも、いつまでも罪悪感に苛まれるようなら、それを思い切り感じきってしまえばいいのです。

無防備に罪悪感の中へ入っていくことができれば、必ずそれは消滅へと進んでいきます。あとは、ただただ反省すればいいのです。

思考に頼らない意識への準備

私たちの思考は、物事の違いを見つけて、殊更そのことに大きな意味を持たせたがる傾向を持っているのです。

なぜなら思考の根源は、個別性にあるからです。だから、思考には全体性を真に理解することはできないのです。

個別性というのは何かを比較すること、違いを見出すことによって保たれています。つまり、分離という個別性の結果である思考が、さらに個別性を強化し続けているのです。

思考でとらえるこの世界は、個別性が支配しているかのように思えます。けれども、この世界を素粒子のレベルにまで追っていけば、この個別性が崩れていきます。

素粒子の一つひとつは個別のものというように思考はとらえますが、そうではありません。根源的な素粒子どうしを比較することなど不可能だからです。

まったく同じ素粒子を比較などできません。思考でとらえようとしなければ、素粒子は最終的な姿としては無となり、それはまさに全体性となるのです。

ただし、思考であっても少し工夫することで、物事の見方を変えることもできます。それは、違いに着目する代わりに、同じことに目を向けるようにするのです。

赤と青は同じ「色」であり、喜びと悲しみは同じ感情であり、絶望と希望はどちらも望みについての想いです。同じということに意識をいつも向けることです。

幸福という想いも、不幸という想いもどちらも人生の体験として同じだということです。同じということに目を向けていると、どんなことでも「ただそれだけ」だと分かるのです。

それは、思考に頼らない全体性へと意識が目覚める準備をすることになるのではないかと思うのです。

本当のことを言う その2

by Gangaji

状況は変化する、という法則は明らかに、地球を支配する基本原理です。あらゆるものは変化を免れません。

物体、思考、感情、気持ち、健康、そして政局 ― つまり、あらゆる状況は変化するのです。変化はまた宇宙の五大要素の原理でもあります。

天候、季節、時間も変化の法則に従っています。もしもこうした変化を続ける状況に抵抗せず、それを受け入れるならば、不幸せという感情は不幸せという感情、ただそれだけのことです。

不幸せという感情である、それ以上の意味はありません。このことに気づけば、あなたはそれを、太陽や雨を感じるのと同じように経験することができます。

太陽はいつも照っている必要はありません。実際、太陽はいつも照ってはいません。そこに何があっても、それが現実なのです。

自分を肉体のみと同一視したり、一過性の状態や状況と同一視したりすることが、あなたのすべての苦しみの根本原因です。

と同時にどんな苦しみの体験にも、そのすぐ後ろにはあなたの真実の姿が隠され、あなたがそれに気づくのを待っているのです。

あなたとは、眩いばかりの自由な意識です。この輝く自由な意識が、自分を単なる肉体、思考、感情、あるいは状況と同一視することで曇らされるとき、あなたは嘘の人生を生きています。

そして嘘のあるところにはいつも苦しみがあるのです。私たちの多くは人生を非常に表面的に生きています。そしてその表面的な生き方のために苦しみます。

なぜなら、私たち一人ひとりの内側にあるより深い存在が、私たちがその存在を知り、感じ、表現し、対峙することを望んでいるからです。

表面的な真実に満足している限り、悲しいことに、私たちにはより深い真実の発見はできません。私たちは地球上で、巨大な集団としての苦しみを味わっています。

けれども私たちにはいつでも立ち止まって真実を語る力があります。そこにあるのは何でしょうか?悲しみがあるでしょう。怒りもあるでしょう。でも、ほかには?

悲しみや怒りよりも深いものは何でしょうか?私たちはいつでも、私たちの意識を、未来や過去ではなく今この瞬間に向けることができます。

そうすることで、最終的な真実、いつでもそこに存在するものの中へと、本当の自己探求を行なえるのです。

本当のことを言う

by Gangaji

自己探求のしかたの一つは、「本当のことを言う」ということです。人は普段よく、相対的な真実は口にします。

たとえば、「私は腹が立っている」とか「あなたは私を傷つけた」というように。そしてそれで全部だと思うのです。

目の前にある、相対的な真実はたしかに、あなたは腹が立っているのであったり傷ついているのであったりするかもしれません。

けれどもそれは真実の全貌ではありません。それはあなたが感じていることです。今この瞬間あなたが感じていることは相対的には真実かもしれませんが、それは最も深いところにある真実とは違います。

私たちは普通、感情、経験を真実のすべてだと解釈し、その解釈が終わりのない苦しみの連鎖を生みます。

私たちは自分の気持ち、思考、感情、状況によって自分の物語を作り出します。そして物語を真実だと信じます。

感情の物語が苦しみに充ちたものであれ、幸福なものであれ、それは最終的な真実ではありません。

物語と、真実を区別できるのは、識別力の一面ですが、それは自己探求から自然に生まれる副産物でもあります。

肉体、感情、あるいは知性と自分を同一視する、という誤った認識から、大きな混乱が生じます。肉体が痛みを感じると私たちは、「痛い。困った」と言います。

これが普通の言葉使いです。「身体が痛い。私の肉体は痛みを感じている」と言うと、その意味は大きく違ってきます。

感情的に混乱していると私たちは「私は不機嫌だ、私はとても悲しい、私は腹が立っている」と言い、「私の感情は混乱している、怒りがある、深い悲しみがある。」とは言いません。

嬉しいときも、悲しいときも、それはあなたがそうした感情よりもっと深いところに何があるのか、本当のことを認めることのできる機会です。

つづく