飼い主とペット

今日はややシンプルに…

子供をまるでペットのように育てようとする親がいます

それも二種類の飼い主のタイプがいるのです

一つ目は、いわゆるコントローラーであり

厳しい躾が得意です

そしてもう一つは、手厚くケアする飼い主であり

大抵は過保護過干渉が得意です

どちらのタイプであれ、はっきりしているのは

決して気持ちを受け止めてはもらえないということ

結果として、子供は深く傷つくことになるし

決して自分の存在価値に気づくことはできないのです

以上

罪悪感ほど不要なものはない

今日もシンプルに…

罪悪感ほど自己中心的なものはない

あなたは自分に都合のいい罪悪感だけを感じ

都合の悪い罪悪感を野放しにする

だから

罪悪感ほどいらないものはない

以上

なりふり構わずは素晴らしい!

セッションのときに、私はセラピストとしてクライアントさんのお話しを聴くのですが、極力いわゆる「愚痴」を聞くということはしません。

愚痴を聞いてしまうと、クライアントさんはそのことで一時気持ちが楽になって、表面的に満足してしまうからです。表面的な満足は、かえって本当の癒しを妨害することになるのです。

愚痴を聞いてしまうと、聞いてもらった人の内面にはどんな変化も起きなくなってしまうのです。だからセッションに限らず、愚痴を聞くことはお勧めできません。

その一方で、セッションのときに、クライアントさんがこれまで溜め込んできた本音が感情とともにほとばしり出るということもあります。その場合は、愚痴とは根本的に異なることを知って欲しいと思います。

愚痴を言うのは、強い自己防衛がその背後にあるのですが、本音が感情と共に吐き出されるときというのは、そんなずるい自己防衛の要素はありません。

自分をよく見せようとか、分かってもらって安心しようという気持ちも少ないはずだからです。相手にどう思われるかという防衛をしていては、本音と感情は抑圧されてしまうものです。

言ってみれば、なりふり構わずという面がそこにはあるということです。自分に正直に向き合うことができると、このなりふり構わずがいずれは顔を表すことになるはずです。

それは本当に素晴らしい瞬間になるはずです。あなたにもきっといつか…。

思い切りぶつかっていける幸せ

日本人であれば、誰でも一度は相撲部屋の稽古を見たことがあるはずですね。まだ若い力士が、大関や横綱といった力士に思い切りぶつかっていくあの姿を。

彼らは何の躊躇も遠慮もすることなく、全力で強い先輩の力士の胸を借りて稽古に励むことができるので、少しずつ強健な力士へと育っていくわけです。

実は子供の場合にも同じようなことが言えるのです。何の心配も遠慮もする必要なく、ドーンと親の胸にぶつかっていくことができれば、無邪気さが抑圧されることなく、すくすくと成長していけるのです。

けれども、子供の側に親に対する何等かの心配や不信などの気持ちがあったなら、たちまちのうちに子供はみずから無邪気さを抑え込むようになっていくのです。

それはたとえば、親が大変そうだとか、忙しくて心の余裕がないとか、親の心がまだ未熟で脆かったりすれば、子供は甘えるどころかその反対にケアをしようとするのです。

思い切りぶつかって甘えることができなければ、子供は大切な無邪気さを充分に使うことができなくなるのは当然のことですね。

そうなると、子供は自分のことよりも相手(親)のことを気にするようになって、知らぬ間に自己犠牲を繰り返すことになるのです。それは当然、怒りの蓄積へと続いていくことになります。

もしもあなたが、幼い頃に存分に親に甘えて、彼らの胸に思い切りぶつかっていった感覚が乏しいという自覚があるなら、必ず何らかのわだかまりが残っていて、怒りや不安がたまっていると思って間違いありません。

その場合には、理にかなったセラピーを受けることをお勧めします。

退屈の中に入ってみる

今日もシンプルに…

自分自身に問うてください

何もしないでいられるか?

退屈なままでいられるか?

もしもそれが無理だというなら

なにかから逃亡中だと

気づくことです

以上