自宅筋トレ中に不思議発見

自粛要請のせいでもうかれこれ2ヶ月くらいスポーツクラブに行けなくて、その代わりに自宅でちょっとした筋トレをしています。

ある技を習得したくて毎日練習しているのですが、自分のフォームを客観的に見たくてスマホで動画撮影したりしてたのです。

つい最近のことですが、その中のある動画を見ている時にふと何か変なものが映っていることに気づきました。

初めはホコリが舞っているのかなくらいに思っていたのですが、拡大してスローで見たりしているうちに、得体の知れないものだと理解しました。

ほんの数秒の間にいくつもの白いものがあちらこちら縦横無尽に飛び回っているように見えるのです。

すごく小さいものから、細長いもの、形が変わるもの、少し大きめのモヤのようなものもあって、その動きがまるで UFO のようなのです。

何年か前にも夜空の中に UFO を見たことがあったのですが、あれはただ肉眼で見ただけで動画撮影はしていなかったので、今回初めて客観的に残るものができました。

アメリカの国防省も UFO との遭遇記録を一般公開し始めたように、何かこれまで未知のものだったものが少しずつ公の場に出てくる時代になるのかもしれませんね。

私としては興味津々なのですが、どんな不思議なことが起きても、真実を知ることよりも興奮することはありませんね。

あなたの世界と仮面はセット

私たちはどうやったら自分が幸せになれるだろうかというテーマを持って日々生きていると言うことができます。

自分が幸せになるかどうかなんて、全く興味がないという人がいたらその人はきっと覚醒してしまっているに違いありません。

そんな人はこのブログを読む筈もないと思っているので敢えて書きますが、私たちが苦悩するのは私たち故にそうなるのだということです。

つまり苦しみの元凶はあなただということ。非常に認めにくいし残念極まりないのですが、あなたという自我がいる限りは苦しみはついて回るということ。

これを信じる必要はないし、逆に信じてはいけないのですが、その代わり是非とも興味を持って自ら探求して真偽のほどを解明して欲しいのです。

私たちは自分に起きる出来事や境遇によって、その結果としてあらゆる苦しみがやってくるのだと思い込んでいますが、それは間違いです。

自我というのはあなたが知らず知らずのうちに着けてしまった仮面のようなものです。それがあまりにも巧妙に出来ているために、その仮面を自分自身だと思い込んでしまったのです。

その仮面を通して見る世界が、あなたが生きていると信じている世界なのです。あなたの世界はあなたの仮面とセットなのです。

もしも仮面を外すことができたなら、突如としてそれまでの人生が消えてしまうでしょう。

私の仮面は常にどこかで戦争が起きている世界を作り出し、時々は未曾有の災害を発生させています。貧富の差も相変わらず酷いものです。

それでも仮面を外した時に見えるものが、私を完全に救ってくれるということを知っています。それこそが真の救いですね。

マインドの内部分裂を眺める

私たちのマインドというのは、いつもこのブログで述べている通り、大量の思考群によって出来ているのです。

そのせいでマインドそのものが激しく内部分裂している状態なのです。いつも瞬間瞬間の一番声の大きかった部分がマインドを扇動するのです。

甘いものを食べたいという部分が一番大きなエネルギーを持っているなら、いくらそれ以外の部分が我慢しようと思っても負けてしまいます。

ダイエットが成功裡に終わるには、ダイエットを成功させたい部分がその他の部分を制圧している必要があるということです。

このマインドの単純なメカニズムを覚えておくことですね。そうすれば、ダイエットを失敗したとしても自分を責める必要はないということに気づくはず。

沢山の部分がそれぞれの主張をし合ってマインドが成立しているわけなので、意志が強いとか弱いといった類の話しではないのです。

私自身のことですが、これ絶対続けて行こう!と決意してもすぐに3日坊主でやめてしまうことが多々あるのです。

そんな時にも自分を責めずにいられるのは、マインドの仕組みを理解しているからに他なりません。

もしも自分を責めてしまうなら、その時は自分を責める部分がその瞬間マインドの中で一番声が大きいというだけなのです。

これを理解できれば、自然とマインドから少し離れたところから内部分裂しまくっているマインドを眺めていられるようになるのです。

社会に左右されない生き方

自我そのものが元々社会的な存在なのかは定かではありませんが、少なくとも今この世界で繁栄している私たちは社会的であると言えます。

社会というのはみんなで共通の認識を共有することで成り立っています。それが一人では不可能なことを可能にするわけです。

文明の発達や科学の進歩もすべては認識の共有、約束事、申し合わせのような類があるからここまでやってこれたわけです。

一万円札を見ると、その辺に散らかっている紙っぺらとは違う印象を共有しているからこそ、紙幣経済が成り立つのです。

日本の紙幣を見たこともない国で一万円札を見せても、誰も気にも留めないで捨ててしまうかもしれません。

社会はみんなの約束事があって機能するのですが、それがいい方に使われれば発展になるし、悪い方に使われるとパンデミックが起きたりするのです。

この武漢風邪に対する恐怖症は正に後者のケースですね。みんなで恐怖を共有してしまったがために、非常に厄介な状態が引き起こされてしまいました。

社会の一員のフリをして社会の中にいながら、社会に染まらないように生きること。社会が好調な時も逆に危機の時もブレずにいられるといいなと思います。

神が創りたもうた自分を謙虚に見る

人は自分の至らないところを直して、立派な大人へと成長したいと願うものですね。それは若いうちだけでなく、大人になっても変わらないのです。

なるべくなら人に怒りをぶつけずに、冷静でいられるようになりたいとか、ウソをつかないようにしたい、誠実でありたい等々。

他人に迷惑をかけずに生きていきたい、人から後ろ指を刺されるような人にはなりたくない、こうしたことを自分に課しているのです。

けれども、たとえば誠実でありたい、誠実でなければならないと自分に負荷をかければ、それへの反発が生まれてしまうのです。

自分が期待するような人物になろうと努力すればするほど、一方ではその真逆になろうとするエネルギーが蓄積されてしまうのです。

ここを見抜くことがとても大切です。怒らないように頑張ってしまうと、怒りを溜め込んでしまうために、いずれどこかで爆発することになるのです。

◯◯のような人になりたいというすべての願望を傍に置くことです。そして今ある自分をじっくり見つめるのです。

どんな自分であれ、それが今この瞬間に宇宙から与えられた自分だと理解して、神の代わりになろうとなどしないこと。

全体性によって創られた自分を謙虚に見つめてあげることです。そうなったら、今の自分を裁くことはできなくなるはずですね。

信頼=無自我

「信じる者こそ救われる」という言葉がありますが、イメージ的には一見正しいことのように思えるかもしれません。

疑い深い人よりも、幼児のように何でも信じてしまう人のほうが純粋で、結果として愛される人だと思えるからかもしれないですね。

けれども幼児というのは何でも目の前にあるものを受け入れてしまうだけで、信じているのとは違うのです。

それが信頼というものですね。信じるあるいは信じないというのは思考の世界のことであって、信頼は無思考のときにやってくるのです。

他の言い方で表現すると、信じることは自我のものであり、信頼は無自我の時にやってくるのです。

信頼とは起きていることのすべてを受け入れるということ。それをただ見るということと同値であるということです。

だから信者になってはいけません。信者というのは盲目に信じるマインドのことであって、それは真逆のアンチと何の違いもないのです。

信頼はあなたの本質です。逆に自我は沢山のものを信じることで、つまり知識を豊富にすることで自分の価値を高めようとするのです。

一時的であれ信じることをやめてみると、自分は何も知らなかったということに気づくことができます。

そのとき、ナニモノでもないただ在る自己に気づくことになるでしょうね。それはとても清々しい体験となるはずです。

医療現場は大変

とある症状が取れなくて、近所の町医者のところに行ってきたのですが、その医院での対応が異常で面白かったです。

まずは玄関にて、自動で殺菌されたスリッパが出てくるマシンが置いてあり、どうしていいか分からずにいたら、奥から看護師さんが声をかけてくれました。

ボタンを押すだけでウイ〜ンという小さな音とともに、こ綺麗なスリッパが目の前に出てくるシステムは、生まれて初めてでちょっと感動しました。

その後受付を済まそうとすると、窓口の係の方が私から直に症状を聞き出してそれをポストイットのようなものに書いてくれるのです。

普通、問診票のようなものを渡されて、診察の前に自分で書いて提出するはずなのに、余計なものには触れないで済むシステムになっていました。

待合室には4〜5人程度のお年寄りが待っていたのですが、私だけ全く別の個室に通されてしばし待たされました。ん?若干危険物扱いされてる?

そのうち看護師さんに連れられて診察室へ。他の患者さんとは全くすれ違うこともなく、診察から薬の受け取り、そして支払いとすべてをその診察室で済ませたのには愕きました。まるで VIP 待遇のよう。

薬も二週間分を出してもらって、なるべく来ないでくれと言わんばかりの対応でしたが、こちらとしても大助かりです。

武漢風邪のせいで医療現場が大変なことになっていると聞いていたし、つまらないことで出向いて無駄に手を煩わせるのもいけないと思っていたのですが。

現場は大変な気の使いようなんだと改めて思い知ったのですが、こちらとしてはとても快適に診療を受けることができて感謝でしかありません。

生きても死んでもいない

私たちの多くが死ぬことを恐れているのは、生に執着しているからだと言えます。マインドというのは、執着しているものを奪い取られることを恐れるのです。

執着が強くなればなるほど、奪われる時の恐怖も比例して大きくなります。逆を言えば、生に執着しなくなれば死を恐れることはなくなるのです。

執着は恐れを生み出すだけではなく、あるがままを見る澄んだ目をも奪ってしまいます。そうやって闇雲に恐怖を持つことにもなるのです。

もしも全く執着なしに生を生きることができたら、やがてやってくる死のことも冷静に見ることができるはずなのです。

その時に初めて死は存在しないということに気づくのかもしれません。生への強い執着が、生き死にがあるかのように錯覚させるのです。

人間は動物であり生物であるから生きていると思い込んでいるのですが、ただ生物というジャンルの中にあるというだけです。

ウイルスは生物のジャンルには入っていませんが、その増殖する様を見ているとあたかも生きているかのように見えます。

生物であろうがそうでなかろうが、自然界においては何の違いもありません。人間が作った分類など仮想的なものだからです。

人間は生物だから生きたり死んだりするというイメージを脇に置いて、あるがままの生を見る練習をするといいかもしれませんね。

自我に少し餌を与える

武漢風邪恐怖症が蔓延してしまったおかげで、多くの人たちがこれまで通りのごく普通の毎日を送ることが難しくなってしまっています。

一日のうちの大半を仕事をすることで埋めてきた人にとって、その仕事ができない状態というのはある種の窒息状態に陥るようなモノなのです。

日々のちょっとした目標のようなものが持てなくなったり、誰かと成績を争って夢中になる時間がなくなったりで、自我は立ち向かう場所を失ってしまうのです。

そうなると、自我はその代わりになるものを探し始めます。たとえば、体調を崩してしまったり、いつもよりも多くの食事を摂るようになったり。

ここでしっかり気づいておくべきことは、自我というのはいつでも対処すべき問題、困った事態、向き合って戦う相手を必要としているということ。

武漢風邪恐怖症が蔓延したこと事態も、そうした集団レベルでの自我の渇望が招いたことと考えることもできるかもしれません。

もしも自我の飢え死にしそうな感覚を多少なりとも緩和したいなら、毎日ちょっとした目標を作って自我に与えることです。

それほど大したことではなくても構いません。毎日少しずつ計画的に部屋の掃除をするとか、断捨離をするとか何でもいいのです。

それだけで自我は安定してくるはずです。一番いいのは、瞑想の練習を少しずつやってみることかもしれません。是非試してみてくださいね。

危機には二極化が起きる

聞いた話しではあるのですが、品薄状態が続いているアルコール消毒液などが売ってると思って買おうとしたら、異常な高値が付いていてびっくりしたと。

このようにこの社会の原理として、物の価値というのは希少価値から成っていることが多々あるということが分かりますね。

ダイアモンドが道路脇にゴロゴロ転がっていたら、値打ちはなくなってしまうのと同じです。

ただしその辺の石ころとダイアモンドとでは、鉱石としての硬さが全く異なるし光の反射の美しさも違うので、価値の違いというのは残ると思います。

私が言いたいのは、機能とか美しさといったような価値はまだ分かるのですが、希少価値というのはどうなんでしょうということです。

たとえば物凄い美人の人は滅多にいないから希少価値は確かにあるのですが、とはいっても同じような人が沢山いたとしても、綺麗だなと感じるはずですよね。

つまりモノの価値を社会原理に決められてしまうのが嫌だということ。価値は自分自身の感性から決めたいという思いがあるということです。

売り切れが続出しているから客の足元を見て高く売ってやろうとするのを、社会原理という言葉で正当化したくない気がします。

危機的な状態では、人は真っ二つに分かれるのかもしれないですね。一方では上記のような強いエゴに走る人たち、もう一方では助け合いの方に向かう人たち。

この時期は、そうした二極化が起きてくるのでしょうね。目先の利益を考えるのか、全体のことを考えるのか、しっかりと自分の内側の声を聞いてあげることですね。