自然と怒りは遠のく

いつもイライラしていたり、ちょっとしたことで腹を立てたり、何だか常に怒りモードの人がいますね。

それは決して怒りっぽい性格だからではありません。そんな性格など元々ないのですから。

それは性格ではなく、ただその人が闘いの中で生活しているからに違いありません。戦闘モードにいるということです。

戦い続けるためには、必ず敵が必要になるのです。だからその人の周りにはいつも敵がいるのです。

敵が敵であるためには、本人の意向に沿わないものでなければならないため、必ず怒りが出てくるわけです。

もしも戦闘モードが少しでも緩んできたら、本人もびっくりするくらい心が穏やかな状態になるはずです。

怒りの始末に困っている人は、このことに気づけばいいのです。まずは、闘っていることにしっかりと気づくこと。

少しずつ白旗を挙げることを覚えていけば、自ずと怒りモードも沈静化していくのです。そこに努力など不要なのです。

やってくる怒りを抑えようとすることをやめて、代わりに闘いをやめていくことができれば、自然と怒りは遠のいてくれるのです。

気分の良し悪しのない本質

誰であれ気分がいい時と気分が悪い時があるものですね。その理由がはっきり分かっている場合もあるし、全くわからない時もあるものです。

月並みですが、私の場合は身体のどこかが痛かったりすると、それに連動して気分も悪くなるのです。

それに比べて、気分がいい時というのはどういうわけか、あまりこれと言った明確な理由がないことが多いように思います。

いつも不思議に思うのは、良い気分の状態があって、そこから何の前触れもなく、あっという間に気分が悪くなったりもするのです。

そしてその理由も分からない。本当に不思議なものです。ただ一つはっきりしていることがあるのです。

それは、気分がいい時よりも気分が悪いときの方が、自分の本質を見つめようとする傾向が強いようです。

きっとその気分の悪さから抜けたくて、気分などには一切関わらずにいられる本質に逃げたくなるからなのでしょうね。

そんなよこしまな考えがあるのですが、それでも気分の悪い時に、確かにその気分の悪さに全く影響せずにいる部分があることに気づくことができます。

気分というのは何か捉え所のないものですが、きっと思考からやってくるのでしょうね。だからこそ、思考のないところでは気分というものがないのです。

気分の良し悪しのない自分の本質を、もっともっと深く強く感じられるようになれたらいいですね。

自分を空っぽにする

信じるものは救われる、という言葉がありますが、果たしてそれは本当なのでしょうか?私にはとてもそうは思えません。

というのも、信じるということから連想されることは、救われたくてしがみ付くといったイメージが浮かんでくるからです。

そこには必ず依存が生まれて、その上で執着も起きてくるのです。だから私はとりあえず信じるということから離れて暮らしています。

信じることは苦労がないのです。自分自身でどんな探求もしなくてもいいし、自ら検証するということも放棄してしまうからです。

自分にとって都合のいい誰かの言葉を信じるのです。それはとても心地の良いものでしょうね。

けれども、信じることはいずれは信じないということにひっくり返る可能性をいつも秘めていることに気づかなければなりません。

信じることと信じないことは、向きが反対なだけで結局同じことなのです。信じることをやめて、自分で検証するという態度を身につけることが大切なのです。

幼い頃から培ってきたあらゆるものは、全部信じてしまった結果なのですね。信じて来たことに気づくことで、それらは一人でに落ちていくものです。

そして自分を空っぽにすることができたら、ようやくそこに真実の風が入り込んできてくれるのですね。

ゆったりと自然であれ

自分の人生を顧みて、そこに闘いの要素があるのであれば、少しずつでもそれをやめていくように気をつけることです。

闘いの人生がどれほど馬鹿げたものなのか、そこを理解することで自然とそれは少なくなっていくでしょう。

人生そのものと闘っている場合、社会と闘っている場合、人との闘い、あるいは自分自身との闘いの場合もあるでしょう。

いずれにしても、闘えば必ず敗者となってしまうことに気づくことです。闘っている人は、いつも深刻さを持ち歩いています。

そして最も大切な、「ゆったりと自然である」ことができないのです。闘っている人は、その人のマインドの中でも闘いが起きているのです。

闘って防衛しようとする部分と、闘いなどには興味がない部分とに分裂してしまっているからです。

闘いの人生が悪いと言っているのではありません。それは単に愚かなだけです。そこからは何も生まれないし、どんな気づきも起きないからです。

それでも闘いをやめられないのです。それは防衛としての働きがあるからですね。闘わず、白旗をあげて、観念するときに、ようやく「ゆったりと自然である」自分に戻れるのですね。

意識的であり続ける

もしも私たちが充分に意識的であるとするなら、その瞬間に激怒するということはできないのです。

このことは怒りという感情に特化したことではなくて、どんな感情であれ意識的でありながらその感情に丸呑みされてしまうことはないのです。

ただし意識的である時には感情を味わえないということではないのです。その反対に、意識的である方がより感情を感じられるはずなのです。

なぜなら、意識的である時には思考による偏向がなされないので、中立に感情をあるがままに感じることができるからです。

意識的である時には、次々とやってくる思考を見ていることもできるのです。だからこそ思考にはまり込んでしまうことも無くなります。

歳を重ねていくと、次第に死が身近なものとなってきますが、私が知る限り意識的な老人というのをあまり見たことがありません。

だから多くの人は死に直面した時に、きっと無意識状態になってしまうのでしょうね。これはとても残念なことです。

なぜなら死にゆくプロセスを見続けていることができないのですから。死に際して、もしも充分に意識的でいられるなら、きっと非常に興味深い体験ができるでしょうね。

もうそろそろその準備をしておくためにも、意識的であることを継続できるように練習しておく必要がありそうです。

ただ在ることを楽しむ

自我(マインド)がそのプロセスの動きを緩慢にさせていくと、いつもよりもより意識が目立ってくるのです。

普段は、意識と思考の組み合わさった状態で生活しているのですが、思考がゆっくりになると意識がクローズアップされるからですね。

その時、この世界のあらゆるものと自分の身体の間に境界がないということが明確になるのです。

身体とこの世界を分離させているのは思考だからです。意識はこの世界の全てをただ見守るのみです。

思考は物語を好むのですが、意識は今この瞬間だけを見るのです。意識は時間的な流れの中にはないからです。

だからテレビドラマや映画を観る時に、意識がメインになった状態ではそれを楽しむことが難しくなるのです。

私たちが瞬間瞬間をただ楽しむことが苦手なのは、意識よりも思考を優先して物語の中で生きているからです。

しっかりと意識的でいる習慣が身について、ただ在ることを楽しむことができるようになれるといいですね。

在り方が変わる

「独り在る」こと、つまり「独存」と「孤独」は全く違うことなのですが、自我にとってはその違いが分からないのです。

自我(個人)として生きていることは、外側の世界あるいは他人との間に超えられない溝があるということなのです。

だから、自我にとってはどれほど隠そうとしても孤独であることは必然となってしまうのです。

けれども、全体性と共にあるなら違ってくるのです。全体は文字通り全体なので、他がないということです。

だから孤独にはなりようがありません。全体性による独りというのは、一人二人と数えることのできない独りのこと。

「不二」とも言いますね。残念ながら、自我にはこの感覚はすぐには体感できないものかもしれません。

それでも、ダメもとでできる限り頻繁に、思考を緩めて、静寂の中へと入っていく練習をすることで、それはきっとやってくるはずです。

「独存」、あるいは「不二」、何と呼ぼうがいいのですが、その感覚が分かるようになれば、その人の在り方が変わってしまうでしょうね。

マインドを見つめる

このブログではいつも私たちのマインドについてお話ししています。そしてマインドのことを深く理解することだとも言っています。

このように説明されると、マインドというものが実体としてあたかも存在するかのように感じてしまうかもしれませんが、厳密には違うのです。

昨日のブログで、「マインド=欲望」のようにお伝えしましたが、もっと正確には「マインド=欲望すること」なのです。

つまりはマインドというのは欲望するプロセスのことを指すのです。だからこそ、欲望を原動力として生きている瞬間はマインドがあるように見えるのです。

一方で、欲望から遠ざかっている瞬間には、マインドは消滅してしまっているように感じるわけです。

そこそこ深い暝想状態になれば、欲望することを一旦忘れてしまうので、その瞬間はマインドが消えてしまうわけです。

何かを欲することが悪いということではなく、自己の安心安全を欲するとそれが自己防衛になってしまい、そこから自己犠牲が発生することが問題なのです。

自分のマインド(欲望するプロセス)をいつも見つめていられるようになると、自然にマインドは静かになっていくものだと思いますね。

静寂を感じる時間

あなたが自分のマインド(思考)を使えば使うほど、あなたの人生に複雑さが入り込んでくるのです。

マインドというのは欲望と翻訳してもいいくらい、欲望とマインドはセットなのです。その欲望のおかげで、あなたは未来へと誘われるのです。

そうなると、単純明快な現在がおざなりになって、あなたは未来志向になるため、あらゆることが複雑な様相を呈してくるのです。

道端で話し込んでいるおばさま達を見るにつけ、一体彼らは何を話しているのかなと不思議に感じることがあります。

30分でも1時間でも話し続けている姿を見ると、複雑さを取り込んだ人生を生きているのかもしれないと勝手に感じる時があります。

クライアントさんとの2時間のセッションが終わった時、何でこんなに時間がかかるのだろうかと不思議な気になることもあります。

真実はとてもシンプルなはずです。シンプル過ぎて、思考では捉えることができないくらいです。

かつて若い頃に哲学に興味を持ったこともありましたが、今は複雑な思考を使って言葉遊びをしているように思えて、興味を失いました。

言葉をなくし、思考を沈静化させることで、自然と真実に近づくことができるのですが、マインドがそれを邪魔するのです。

外側にも内側にも静寂を感じることができる時間を、一日に一回は作ってあげられるといいですね。

マインドを理解する

世の中には、悪気はないのにすごく毒のある言葉を吐いて、相手を傷つけてしまう人がいます。

もしもそれが親だったとしたら、その子供は随分と嫌な思いをさせられてしまうことは想像に難くありません。

正常な親の心理であれば、自分の子供には幸せになって欲しいと願っているはずなのに、ではなぜ可愛い我が子に毒づいてしまうのでしょうか?

それは親の心に棲んでいるインナーチャイルドの仕業なのです。インナーチャイルドというのは、本人の子供の頃の満たされない想いや感情の塊です。

そのインナーチャイルドは、現実の我が子に対して自分よりも少し不幸になって欲しいという本音を持っているのです。

それは親としての子供に対する愛情とは全く正反対の本音なのです。だから子供からしたら、普段は優しい母親が突然毒のある言葉を吐くので、びっくりしてしまうのです。

そして多くの場合、その親は後になって毒づいた事実を忘れてしまうのです。自分にとって都合の悪いことだし、瞬間的にインナーチャイルドに乗っ取られた状態のことなので、記憶が曖昧になりやすいのです。

マインドの仕組みや働きについて深く理解することで、こうした不可解とも取れる人の言動を理解できるようになるのです。

理由がはっきりするだけで、私たちは気持ちが楽になるはずです。皆さんも是非、マインドについての理解を深めていって欲しいと思います。