こだわりを小さくする

私たちのマインドには、自然と物事に対する理想(こだわり)のようなものがあって、あれはああなって欲しい、これはこうなって欲しいと願っています。

たとえば、目的地には30分程度で着いて欲しいと思うと、途中少し遅れ気味になるだけでちょっとイライラしたりするのです。

実際は遅れたところで、人生がとんでもないことになるなんてことは絶対にないので、放っておいてもいいはずなのです。

あるいは、食卓に出されたものをできれば綺麗に平らげたくて、お腹がいっぱいになっても残したくなくて我慢して食べてしまうのです。

本当は残しても残さなくても全くもってどちらでもいいのですが、理想に近づきたくて無理にでも食べてしまうのです。

こうしたことは日々繰り返し起きていて、どうなっても大した違いはないと分かっていながら、想定しておいたことに近づこうとしてしまうのです。

なぜこのようなことが起きるかというと、理想を追い求める自分とどうでもいいと割り切れる自分がマインドの中に共存しているのです。

そして前者のパワーが勝ることによって、上記したようなことが繰り返されるわけですね。きっと前者は過去の自分であり、後者は今の自分なのです。

癒しを進めていくことで、前者のパワーが小さくなって、物事へのこだわりが小さくなり、より生きやすくなるのでしょうね。

あなたの自我を信用しないこと

何かを成し遂げようとするなら、自分自身のことを信用できなければ成功のチャンスは減ってしまいます。

自分を信じることによって、自分に期待することで、未来に描いた夢が実現しやすくなる、ということは分かります。

この社会で戦って勝ち抜いていくためには、必要なことだと思います。自分の人生の主役である自分を信じなければ、舵が壊れた船に乗っているようなものだからです。

けれどもその一方で、自分の本質からの視線で自分という自我を見てみると、とても信頼できるような類のものではないと分かります。

自我を一時的に信用したり信用しなかったりするのはできますが、変わらずに信頼することはできません。なぜなら、自我は多くの思考の塊だからです。

たとえ強く決意したことであっても、心変わりしてしまう可能性はいつもあるし、複数の人格を持つ一貫性に欠けるのが自我だからです。

だから私という自我は基本的には信用できないというところからスタートすべきなのです。何をしでかすか、予想もつきません。

唯一できることと言えば、トラブルメーカーである自我を愛を持って見守ることです。そして同時に、あなたの本質を徹底的に信頼するのです。

個別性は見守り、全体性を信頼するということですね。

自我の夢から醒める

自我は自分の奥深いところに爆弾を抱えています。どんな爆弾かというと、それを見つけてしまったなら、もう今までの自分ではなくなってしまうのです。

自分を今まで通りにこれからもずっと存続したいので、そこは絶対に見られたくないと思って、あの手この手でその爆弾は隠されてきたのです。

そこに近づこうとすると、ものすごい恐怖が襲ってきたり、あるいは頭がボーッとして理性が働かなくなってみたりするのです。

それでもごくごく稀に、勇気を持ってそこを見にいってしまった人がいますが、彼らは全員自我が崩壊して覚醒してしまったのですね。

そこを一瞥しただけで、私たちはこれまでこれが自分だと思っていたものが間違っていたということを見抜くことになるのです。

本当のことを言えば、そこには爆弾はおろか全くもって何もない完全な「無」だけが広がっているのです。

ああ、私という個人など居なかったのだと気づいた時に、何とも同化していない真の自己が顕れるのです。

自我として生きる夢を見ていたものが、本当の自己に目覚めた瞬間ですね。昨日までの自分はもう居ないし、二度と現れることはないのです。

全ての感情はお友達

もしもやってくるどんな感情からも逃げずに、それをあるがままに感じてあげられるようになったら、癒しなど必要なくなるはずです。

マインドが病んでいくのは、都度やってくる感情から逃げてしまうからなのです。一度逃げる習慣が作られると、感情を消化せずに明日を迎えることになるのです。

そうした生き方を何年、何十年と続けていけばいつかは必ずマインドがやられてしまうのです。

過去の感情だらけになってしまったマインドのまま、人生を清々しく生きるなんてことは決してできないのです。

悲しみがやってきたら、悲しみを感じられるチャンスだと思って、思い切り悲しみの中に入って浸ることです。

怒りがやってきたら、これも絶好のチャンスだと思って、独りの空間を準備してそこで徹底的に怒りを味わうのです。

あるいは罪悪感がやってきたら、人間にだけ与えられた特権だと思って、その罪悪感を全身で感じてあげるのです。

どんな感情であれそれ自身には何の問題もありません。やってきた感情を我慢したり抑圧することが、人生を狂わせることになると知ることです。

どんな感情がやってきても、みんな大切なお友達だと思って共にいられるようにすればいいのです。

そうすればいつかは消化されて、それがあなたをとてつもなく成長させてくれることに気づくはずですね。

自我の二重の思い違い

私たちの一般常識として、何かを体験するということはそこに当事者としての体験者がいると思っているのです。

体験者がいて、そこに○○な体験があったと考えるわけです。けれども、体験というのはただそこにそれがあるだけで、体験者を必要とはしないのです。

説明が下手くそなので分かりにくいとは思うのですが、自我の一つ目の思い違いは、体験には体験者がつきものだというものです。

もしも体験者が不在であったら体験は起きないというのでしたら、osho のような覚醒して自我が消滅している場合にはどんな体験もないということになってしまいます。

そんなことはないのです。刻々とやってくる体験をずっと眺めているはずです。他人の目には体験しているosho がいるように映るのでしょうけれど。

そして自我の二つ目の思い違いとは、似たような体験を繰り返すことで、体験そのものを自分自身と同化してしまうということです。

たとえば、何度も繰り返し裏切られた体験をすると、「裏切られること=私」のような同化を作り上げてしまうのです。

そうなると、表面ではもう2度と裏切られたくないと思うのですが、裏切られることは自分の存続に繋がるために、やっぱり裏切られることになるのです。

これが人生のパターンを作り上げる結果となるのです。ここから脱出するためには、この自我の思い違いについての深い理解が必要となるのですね。

愛と執着の違いに気づく

私たちは人を好きになると、その人となるべく一緒にいたいと思うようになりますね。近くにいてその人の存在を肌で感じていたいのです。

そしてその人とコミュニケーションをとり、様々な内面的な経験や気持ちなどを共有したくなるのです。

一心同体などという言葉があるくらいですから、その人との距離をゼロにして融合してしまいたい衝動にも駆られるのです。

この好きという気持ちからやってくるあらゆる望みを純粋な愛と呼ぶのは少しはばかれる感じがします。

というのも、純粋な愛というのは無私ということ、自我としての自分が消えている状態を指すからです。

そこをしっかりわきまえるなら、日頃愛と呼んでいるものが実は自我の愛であって、それはそのまま執着となるのです。

自分のために相手に何かを望むのは、執着だということです。ああして欲しい、こうして欲しい、自分のことだけを好きでいて欲しい等々。

勘違いしないで欲しいのですが、自我の愛が悪いということではなく、それは執着と同義だということを言いたいだけなのです。

それを理解できれば、たとえ大好きな人への不満がやってきても当然だと分かるはずなのです。

防衛が強くなればなるほど、執着の要素が大きくなり、逆に防衛が小さくなるに従って純粋な愛の要素が増えていくということですね。

無→有の不思議

この世界の全ては、空(くう)からやってきて、また空へと戻っていくということを以前何度かお話ししました。

だから空というのは、空っぽという意味ではないということですね。その反対に何かで満ち満ちていると言ったほうが近いのです。

ただ現象としては何も起きないので、空というような表現をするしかないということです。

現象がなければそこには存在もないのです。それはエネルギーの非活性状態と言ってもいいのかもしれないですね。

たとえて言えば、電気のプラスとマイナスがあると、その両者をくっつけるとプラスとマイナスが互いに相殺されて、電荷がゼロになってしまいます。

それに似ていると思っています。電気的にはゼロの状態なところ(空)から、二つに分かれることでプラスとマイナスが発生するのですから。

まさに無から有が生まれるわけです。プラスとマイナスというのは、陽と陰のように表現することもできます。

このように分裂させることで二元性の世界が出来上がるのですが、二つを一つにすることで非二元の世界(これが真理、無、空)に戻るのですね。

思考で捉えると、本当に不思議な気がしてきます。

時期が来たら誰でも瞑想をする

最近何かの記事でチラ見しただけなのですが、どうやら瞑想が心臓病に良いということを医学界の一部が認めたらしいということです。

心臓病に良いというよりも、瞑想をしっかり日常的に取り入れている人は、心臓病にかかるリスクが低減するということでしょうね。

そんなことは火を見るよりも明らかです。なぜなら、瞑想をすれば副交感神経が刺激され、リラックスが深くなって血管が広がるわけです。

そうなれば、心臓への負担が少なくなることは明白だし、何よりも心配事を始終イライラしながら考えているような生活をしなくなるわけです。

心の重心が上へ上がってきているな、気持ちが上ずっているなと感じたら、すぐに瞑想をする習慣がついていれば、心の重心はまた下へ下がっていってくれるのです。

そうしたことを日頃から体得していれば、随分と生きやすくなるはずですね。自分の気持ちの変動を小さくできる自信がつくからです。

薬というのは常に副作用があるものですが、こと瞑想に関してはどんな副作用も害もありません。

だからやらない手はないのですが、でもやらない人はやらないのです。かつてはそれが不思議でした。

けれども、今はそれもわかります。やらないのではなく、やれない時期が人にはあるということを身をもって知ったからです。

やる時が来たらやる、ただそれだけを覚えておいてもらえたら良いかなと今はシンプルに思っています。

脳が意識を作るのではない

先日ネットである映画を観たのですが、主人公の女性がなんらかの理由によって脳を活性化させていくというストーリーです。

よく言われることですが、人間は自分の脳のごく一部しか使っていないということですが、その主人公は最終的には脳の100%を活性化させてしまうのです。

100%に到達する途中で、あり得ないような超能力を身につけていくのですが、最後100%になったとき、あなたは今どこにいるのかと聞かれて、あらゆる場所にいると答えるのです。

つまりは完全に全体性へと達したということなのですね。ということは、私たちが全体性へと戻る時には、脳を100%使うことができるようにならないといけないということになります。

これは私が何となく感じていたものとは違うのです。というのも、脳の働きというのは物理的なものなので、真実とは次元の違うものだろうと。

人間が潜在的に持っている能力というのは、私たちの想像を遥かに超えているのだろうとは思うのですが、全体性への目覚めはそういうこととは異質の感じがするのです。

私たちの意識というものが、脳が生み出すものという発想があることにより、この映画のようなイメージが作られてしまうのかなと感じます。

私の感覚では、意識は私たち人間とはかけ離れたところにあるのです。意識はこの現象界にはないということ。

脳は、空(意識)の世界からやってくる様々な信号をキャッチする機械のようなものではないかと感じています。

とはいうものの、こうしたことは全てイメージなので、ここで書いたことは真実とは無関係だと思っておいた方がいいですね。

個別性から全体性へ

最近ではだいぶ知れ渡った情報だと思いますが、働きアリのファミリーを観察していると、ある一定の割合で怠け者のアリがいるそうですね。

そのアリたちは、一切働くことをせず毎日ぐうたらした生活を送っているのですが、ファミリーの誰も彼らを責めることもせずに共存しているのだとか。

仮に彼らだけをファミリーから排除してしまうと、しばらくすると働きアリだったものの中から、怠け者のアリが出現するらしいのです。

そして全体としての怠け者のアリの割合が一定に保たれるようになっているということです。すごいシステムですね。

彼らの存在理由は何だろう?ということでそれを突き止めた人たちがいるのですが、彼らはリスク回避のための要員らしいのです。

何らかの理由で、働きアリたちが死んでしまったり、疲労したりしてその数が減ってしまった時に、怠け者のアリたちが突如として働きアリに変身するのだとか。

そうやってファミリー全体での不測の事態に備えているということです。私たちはどうしてもアリ一匹一匹を個別に見てしまうので、不思議な感じがするのですね。

ファミリーを一つの生命体と捉えてみるなら、働いている割合と休んでいる割合をうまくバランスしている我々の日常と同じだと考えることができます。

もう一つ興味深い生物があるのですが、それはアリの巣の中でずっと暮らしているのですが、アリにおんぶに抱っこ状態、言うなれば介護された状態で生きているのです。

アリからしてみれば、全く異なる種類の生物の世話を毎日しているのですから、こんな理不尽な話はないのですが…。

アリのファミリーが彼らよそ者を特別待遇しているにはきちんとした理由があるのです。なんだか分かりますか?

実は、食料が足りない緊急事態が訪れた時に、それまで介護してきたその生き物を食料として食べてしまうのです。

これもリスク回避のための作戦だったわけですね。介護される側の生物としても、巣の外の世界で生きて敵に襲われて命を落とす方がリスキーだという判断があるのでしょう。

こうしたカラクリも、一つの大きな生命系と考えるなら、実にうまい仕組みが出来上がっているなと思わざるを得ません。

私たちが個別性をみる習慣を脱ぎ捨てて、代わりに全体性を見るようになるなら、人類への見方も大きく変化することでしょうね。