このままではダメだという思い込み

昨日のブログで、私たちのマインドは思い込みの積み重ねによってできているというお話しをしました。

具体的な思い込みを一つひとつ挙げていってもキリがないので、代表的で多くの人のマインドがそれに侵されているものについてお伝えしますね。

それは、「このままの自分ではダメだ」という思い込みです。このまま何もせずに手をこまねているだけだと大変なことになると信じているのです。

幼い頃にマインドの中に作ってしまった親二世にけしかけられているのです。親二世は、親そっくりに作り上げたマインドの部分なのです。

親が自分を注意したり否定したり叱ったりするのを真似するのです。そうやって、親から直接傷つけられるのを防ごうとする防衛手段ですね。

それが一度マインドの中にできてしまうと、常にもっともっとできるはずだと追い詰めてくるのです。

実際の親は、期待を込めて子供に詰め寄るのですが、子供の側はそれが辛いのでそこから逃げようとするのです。

それを食い止めるのが親二世というわけです。親二世に見張っていてもらうことで、安心しようとするのです。

親二世に乗っ取られてしまうことで、このままの自分ではダメだと思い込むようになってしまうということです。

この思い込みが外れるだけで、全く違う人生の香りを味わうことができるようになるでしょうね。

癒しとは思い込みを外す作業

私たちのマインドというのは、「思い込み」を積み重ねて出来上がっていると言ってもいいのです。

一番根っこにある思い込みとは、周囲からやってくる情報をそのまま取り入れることで作る自己イメージです。

最も初期の自己イメージは、まだ自我が出来上がる前から作り出したものです。だからその思い込みは生涯色濃く本人を縛ることになるのです。

その後自我が作り出されるわけですが、これも勿論思い込みによるものです。「私」という個人がいるという途方もない思い込みです。

その後も徹底して思い込みをくる日もくる日も続けていくのです。自分の身に体験が起こると、自分がその体験をしたと思い込むのです。

つまりは、体験者としての「私」がここにいるという思い込みですね。そんなことを繰り返して、大人へと成長していくのです。

だから成長とは言うものの、今の自分というのは思い込みという張りぼてによって、できているのだと理解することです。

人によって、つまりマインドによってその思い込みの内容や量、そして質はそれこそ千差万別です。

生きる上でのルールを沢山持っている人は、さらに思い込みの量が増えてしまうはずですね。

癒しというのは、これまでこうして溜め込んできてしまった思い込みに気付いて、少しずつ外していく作業のことを言うのです。

そしてすべての思い込みから解放された時に、人はマインドなど元々なかったと気づくことになるのですね。

知らないモノへの反応に注意する

私たちのマインドというのは、内部分裂することでその均衡を保っているとも言えるのです。

たとえば、この人と結婚したいという思いがあれば、同時に結婚したくないという真逆の思いも持っているのです。

ただしそのことに気づくことができるかどうかは別の話しです。この人を好きだと思えば嫌いもついてくるのですが、気づけないことがほとんどです。

知らない事柄に触れると、それに好奇心を刺激されることもあるし、反対にそれを毛嫌いすることもあるのです。

知らないモノや人に接して好奇心や冒険心が起きるのであれば、マインドの中の防衛は小さい状態だと言えます。

一方で、知らないモノや人に触れて、それを毛嫌いするのであれば、防衛が大きい状態なのです。

食べたことがない食べ物が出された時に、興味を持って一口食べてみるのは無防備であり、得体の知れないものは食べたくないと思うなら、それは防衛です。

食わず嫌いなどと言われるのがそれですが、私は大抵食べ物に関してはそちらの部類になります。

知らないモノや人に触れてどちらの反応をするのか、よく自分のマインドを観察してみるといいと思います。自分の防衛の特色に気づくはずですね。

マインドこそ唯一不自然なもの

この世界はすべてが自然の法則で成り立っているのです。天体であろうと、生物であろうと違いはありません。

ところが、唯一不自然なものがあるとしたら、それは私たちのマインドなのです。マインドは不自然極まりないのです。

それはマインドが大変な勘違いをしているからです。ちなみに、生物全般が持っている防衛本能というのは自然の一部です。

種を保存するために機能するのですから。けれども、マインドだけが行う心理的自己防衛というのは、自然の法則から逸脱しているのです。

なぜなら自然界には存在しない個人というものを防衛しようとするからです。人類の戦争の歴史は、すべてそれが原因だと言っていいと思います。

マインドが個人というものを考えだし、それを個別に守ろうとすることで争いが起こるのです。

個々のマインドはそれぞれが別の世界を見て、その中で暮らしているのですから、それらが重なったところで軋轢が起こるのは当然のことです。

どれほどの人格者がどれほどの知恵を出し合って、人類から争いを無くそうとしたところで、本質的には難しいのではないかと感じます。

根本的には不自然なことを信じてしまったマインドから離れることでしか、人類を救う道はないのかもしれないですね。

対等な関係性は気持ちいい

私たちみんなが自我と自己同化しているのですが、その自我の存在は人との関わりの中にのみあるのです。

つまり自我は、個人としての中心に居座っていると思いがちですが、実は人との関係性、コミュニケーションによって生きているのです。

だからコミュニケーションを楽しく感じられるのか、それとも不快なもの苦手なものとして感じられるのかは重大な問題なのです。

もしも、幼い頃に怖くて喋りづらい親がそばにいたら、あるいは話が噛み合わない親がいたら、その子供はきっとコミュニケーションを嫌なものと感じるようになるはずです。

子供の頃というのは、一家団欒が好きなのです。それは家族みんなが揃って何かしら楽しくお話をし合うからです。

子供はそうしたことを繰り返すことで、コミュニケーションは楽しいものだと身体で覚えていくのです。

人との会話は楽しいものだと思って育つのと、会話は苦手で不快なものだと思って育つのとでは、全く違う人生がやってくるはずです。

大人になってもコミュニケーションが苦手だと感じるなら、それは子供の時の体験にまだ支配されているということです。

それは能力の問題ではなく、過去の体験を握りしめて防衛し続けているからだと理解することです。

そして癒しを進めていく中で、人との対等な関わり方を覚えていくことで、コミュニケーションは楽しいものだということに気づくはずですね。

本質に目覚める

OSHO の言葉で次のようなものがあります。『最初で最後のステップは、自分が誰であるかを知ること、目覚めることだ。』

最初で最後のステップとはどういう意味でしょうか?人は、跳躍する時が来ると言っているのです。

その大切な跳躍はたった一回だけだと。何度もするようなものではないということですね。

なぜならその一度の跳躍で、唯一の目的が達成されてしまうからです。目的という言葉を使えばのことですが。

段階を踏むものではなく、一度の跳躍によって完全に目覚めてしまうと言っているのですね。

自分の本性に何となく気がつくなんてことはないのです。人間として生きるか、あるいは目覚めてしまうかのどちらかしかないのです。

これも方便ですが、私たちの本質はこの現象界のものではないということ。あなたの本質はどこにもいない。

目覚めるとは、あなたの本質に目覚めるということですが、その時にはこの世のあらゆる物語は消えてしまうのでしょうね。

内側に敵を作れば自我は安泰

人類の歴史を見れば明らかですが、世の中には敵か味方かのどちらかしかいないのです。敵とは戦い、味方とは協力してやはり敵と戦うという具合に。

そしてもちろん味方とだけ一緒にいたいと願うのです。だから敵を排除するために戦いがやめられないのです。

ところが自我にとっては、隠された部分では敵がどうしても必要なのです。戦うことが自我の生きる原動力となっているからです。

この場合の敵というのは、何も人間だけではありません。困った事態や病気、あるいは逆境なども敵としてみなされます。

こうした敵というものは自分の外側にあるのが常ですが、たまに自分の内側に敵を作り出してしまう人もいます。

当然自我にとっては最も都合の良い状態なのです。なぜなら外部にわざわざ敵を見つけに出ていく必要がないからです。

お目当ての敵はいつも自分と一緒に一番近い自分の内側にいるのですから。こうなると、自我はその力が衰えてくる心配をしなくて済むのです。

内側の敵が目立った動きをしようものなら、あっという間にそれを叩きのめして深いマインドの奥に放り込んでしまえばいいのですから。

ただし一時的にやっつけられたはずの敵は、マインドの奥に潜伏しているだけで決して死んだりはしないのです。

逆に、またチャンスを狙っては復活して戦いを挑んでくるのです。だから自我はまた戦うことができ、これがエンドレスに繰り返されるというわけです。

もしも自我の勢力から解放されて、穏やかで清々しい人生を生きたいと願うなら、あなたが敵対視しているマインドの部分を受け止めることですね。

それ以外に方法はないと気づくことです。

自己想起リベンジ?

日常の快不快や人生の幸不幸を全て忘れて、ひたすら自己留意、自己想起に専念することを継続したらどうなるのか?

そう思うことはよくあるのですが、そこはどっこいなかなか実際には実践が伴わずに、ぐうたらした毎日が続いています。

きっとそれほど強い自覚はないのですが、本当は強烈にブレーキがかかっているに違いありません。

時間もお金も労力も何一つ必要ないのですから、今この瞬間からもできることなのに、なかなか本気になることができないのは恐怖があるからなのでしょうね。

以前似たようなことを実践し出してしばらくした頃に、まれに見る身体の不調がやってきてびっくりしたことがありました。

それからというもの、そこそこ無理のない程度にしかやらないようになったのも大きいかも知れないですね。

自分という実体はないのだと気づいてしまったらどうしようという、思考が作り上げた自分の恐怖なのでしょう。何だそれ?って感じですよね。

この人生にもっと絶望して、もううんざりだという気持ちがやってきたら本気になれるのかなあとぼんやり思っています。

ただ在ることで充分

若い頃というのは、自分の可能性をできる限り伸ばして何者かになろうと頑張るのです。それは社会的にはとても素晴らしいことだと言えます。

少しでも努力して、今の自分よりもより高いところへと向上しようとするのですから。それを向上心と呼びますね。

そうした日々の活動の中に、防衛の要素が入り込まなければ理想的ですが、それがなかなか難しいのです。

残念ながら多くの人にとっての向上心というのは、防衛の要素が多分に含まれてしまうので、何者かになろうとする毎日に自己犠牲が混ざってしまうのです。

自我の観点からではなく、真実の観点から見るなら、「成る」あるいは「成ろうとする」ことは真実から遠のくことなのです。

「成る」ことよりも「在る」ことに意識を向けることができるなら、向上心よりも本質的な何かに気づくことができるのです。

自我にとっての人生とは「何か」になることですが、十分に意識的であるならそんな必要はないと気づくのです。

在るがままの自己に意識を向け続けることで、ただ在ることで充分だということがわかるようになるのですね。

死はマインドにのみ訪れる

年齢を重ねてくると、若い頃には感じることのできなかった感覚がやってくることがあります。

それはややぼんやりとしたものではあるのですが、もう自分の視野の中に死というものが入り込んでくるということです。

死の影がちらついてくるおかげで、自分を見ることがより自然なこととして受け入れられるようになるのです。

まだ若い頃というのは、実現していない夢や希望がたくさんあるので、人生の主役、当事者として生きている必要があるのです。

そうなると、自分を見る、観照するというのは難易度が高いのです。瞑想するのも、より良い自分になって目標を達成するためなのです。

これ自体は決して悪いことではないのですが、本来瞑想というのは自分のマインドから離れるための練習なのです。

見ること、観照することも同様にマインドから離れるためなのです。こうしたことが、今日一日生きることのど真ん中に据えられるのも、年齢が関係しているかもしれません。

マインドを観照し続けることで、ちらついている死が実際にやってくるのはマインドに対してだと気づくのです。

観照者としての自己には、死が訪れることはないのでしょうね。