痛みによって気づくこともある

まずは問うことだ。誰が苦しんでいるのか? それによって、身体や病気やマインドとの古い同一化が壊れる。それから、あなたは自分の内奥の核心をかいま見ることになる。さあ、尋ねてごらん。このマインドの本質とは何なのか?

by osho

身体が健康で、いい状態のときには気にも留めないのですが、どこかが具合悪くなったときには、それを痛がっているのは誰か?と尋ねるクセがついています。

ここのところ、手の指の関節の部分が痛くて、さりとて激痛ではないようなレベルのときには、この「尋ねる」を繰り返すチャンスなのです。

痛いなあ、困ったなあ、変な病気だったら嫌だなあ…などをぼんやり考えている無意識的状態になると、完全に痛む身体との同一化が続くことになるのです。

けれども意識的になればなるほど、関節の痛みとの間に近くて無限に遠い隙間があることに気づくことになるのです。

痛がっているのはマインドであり、マインドは自分の身体との同一化を通して自分自身が痛いのだという思い込みをするわけです。

このことを見抜くのが至難の技になってしまっているのは、マインドのなかにエゴが芽生えてしまったからなのでしょう。エゴこそが自分の正体だと感じているのです。

誰も具合が悪くはなりたくないのですが、そこにこそ大きなチャンスがあるということを思い出せば、具合が悪いのもそう悪いことばかりではないと気づいて、気分もよくなるはずですね。

 

分離(防衛)が消えて全体性(無防備)へと戻る

私たち人間もほかのすべての動物と同じように、完全な無意識状態で生まれてきます。赤ちゃんが無邪気なのは、まだエゴが芽生えてないからです。

しばらくすると、エゴを持った親との生活を通して、次第にエゴが育ってくるのです。エゴの成長とともに、無邪気さは少なくなる傾向にありますね。

それはエゴが、自己防衛を開始するからです。防衛するためには、無邪気さは都合の悪い態度だと判断するからですね。

そしてエゴの発達とともに、それまで眠っていた意識が、その一部だけを目覚めさせていくのです。つまり、意識的な(自意識)部分が発生します。

エゴという架空の自己を作り上げることで、人間は意識的な存在へと奇跡的に変貌することができたのです。

ただし、その意識的な部分はごく一部だけであり、残りの部分は無意識状態のままに残ります。そうやって、自覚できる部分と無自覚な部分に分離してしまうのです。

一般的には、この状態が死ぬまで続くことになるのです。ところが、ごくごく稀に、無意識の領域に光を当てることで完全に意識的な状態へと変わって行った人もいました。

彼らには隠された内面がなくなってしまったために、エゴという幻想も一緒に消えてなくなってしまったのです。

それが覚醒ということですね。だから覚醒した人は、完全なる無防備の状態なのです。そのために、彼らは無邪気な子供のようにもなるのです。

あらゆる分離が消えて、全体性へと戻ることになるのですね。

マインドよりハートで生きる

”ゆったりと”自由であれ
この言葉をできる限り深く心に刻んでおきなさい
この言葉に自分を貫かせるのだ
”ゆったりと”自由であれ
あらゆる状況にあって
あなたが楽々と水のように流れられるように–

by osho

温泉にでも浸かって、のんびりしているのをイメージすれば、ゆったりとくつろいで自由である状態になれそうな気がしますね。

けれども↑で言っているのは、あらゆる状況にあって、少なくとも内面だけはゆったりとしてその状況に呼応するように生きるということです。

例えば遅刻しそうなときには、慌てていたり焦ってしまうことが多いはずですね。早足になるのはいいのですが、内面ではゆったりと自由であることができるはずだと言ってもいるのです。

起きていることをどう判断して、どんな反応をするのかは私たちのマインドにかかっているのです。マインドは緊張するのが仕事のようなもの。

そうしたマインドを見守りながらも、ハートはゆったりと開いていることができると理解することです。

マインドは独自の世界で生きていますが、ハートはより真実の近くにあるのですね。ゆったりと自由であるためには、ハートで生きろ!ということですね。

 

ノーマインドこそが覚醒を意味する

なんだかんだ言って、私たちは自分のマインドを信じているのです。外側の世界は得体が知れないのですが、慣れ親しんだ自分のことはある程度分かっているし、だから信用もしているのです。

ときには、自分のことが信じられないと訴える方もいるのですが、そう訴えている自分のことは信じているわけですから、これは大そうな矛盾です。

冷静にマインドの生い立ちやメカニズムを観察すれば、それが信じるに値するものではないことがはっきりしてしまうのです。

マインドには考えることしかできません。それは分裂を前提にしているからです。その結果、信じるか信じないかの世界しか分からないのです。

であるなら、まずはマインドを信じないようにしてみればいいのです。これも矛盾するのですが、矛盾を承知で自分のマインドが主張することを信じない立場をとるのです。

信じないというよりは、疑ってかかるという表現の方が適しているかもしれません。そうすると、自分のマインドのクセ、習性のようなものが見えてきます。

そうやってマインドのことを深く理解することができるようになってくるのです。それはすでに信じないということを超えてしまっています。

そして信じるとか信じないといったマインドの世界から距離を取ることができるようになるのです。もうマインドと闘う必要がなくなるのです。

マインドを改善しようとする代わりにその正体を見抜くことができれば、マインドから解放されるようになるはずです。

そしてノーマインドの状態こそが、覚醒するということなのです。

納得は抑圧を生む

私たちのマインドにとって、納得できるのかそうでないのかはとても大きな問題ですね。気にくわない仕事でも、納得づくでやるなら、あまり不満を感じないものです。

合理的な納得、論理的な納得の仕方もあるでしょうし、感情的な納得というものだってあるのです。納得できなければ、いつまでも心に引っかかりが残ってしまうのです。

この納得という言葉は、何となく大人が使う言葉のように思うのですが、実はとても幼い頃から私たちのマインドは納得することで、防衛しようとしてきたのです。

例えば、毎日辛い思いをしながら生活している幼い子供がいて、少しでもその苦しみから抜けたくて自分を納得させようとすることがあります。

感性が豊かで聡明な子供であれば、これはきっと自分が生まれる前に悪いことをしたからだ、その罰が今やってきているんだと思い込もうとするかもしれません。

そういう理由があれば、日々の辛さに納得することができ、少しだけ気持ちを和らげることができるからです。

ただし問題があって、でっち上げられた理由で納得できたとしてもそれは表面的なものでしかないはずで、リアルな怒りや悲しみなどの感情は抑圧されてしまうのです。

その結果は、当然のごとくいずれ未来のどこかで、隠してきた感情が表面化するときがやってくることになるのです。

納得できたとしても、それで得られるものは一過性の安心でしかないということを深く理解することが大切ですね。

そうすれば、いずれは納得するかしないかということから離れた生活ができるようになるはずです。その方が人生の瞬間瞬間を楽しめるはずです。

マインドの壁に阻まれるのはマインドだけ

初めて来られたクライアントさんとのセッションで、ごくたまに感じることがあるのですが、どうしても言葉がすれ違ってしまい通じ合えないということ。

言葉のキャッチボールが上手くできずに、心地悪さを感じてしまうのです。相手の言葉は十二分に聴いて差し上げられるのですが、こちらの言葉が入っていってないことが分かるのです。

初回のたった2時間という短い時間では、クライアントさんが作った強力な壁をすり抜けて中に入っていくことはできないと感じます。

そうなると、その原因を探ろうとしても拒絶されてしまうのがおちですね。もう言葉はほとんど役に立たなくなってしまいます。

言葉によるコミュニケーションが如何に用をなさないものかということを痛切に感じさせられる瞬間です。

そんな時、少ない情報を手掛かりにただただクライアントさんと一緒の空間にいるようにしてみると、意外なことに気づくことができます。

クライアントさんをもっと楽な方向へと導こうとするエゴ的努力の代わりに、クライアントさんと同じ空気を吸うようにするのです。

そうすると何となくですが、そしてきっとほんの少しなんだろうけれど、クライアントさんが作っている壁に妨害されることのない、ある共有できるエネルギー場があると感じます。

それだけで互いの気持ちが一瞬同時に和むことがあるのだなと。そして願わくば、もう一度セッションができたらと願ってしまいます。

 

雪かきを楽しめる人、楽しめない人

久しぶりに都内に大雪が降って、移動手段がクルマなのでどうしても駐車場周りを雪かきせねばならなくて、仕方なくそして年甲斐もなく頑張ってみたのです。

当然のことながら、腰痛と全身の筋肉痛、おまけに何となくの倦怠感がやってきてくれました。

自覚はあったものの、やっぱり自分はこういう作業を楽しめないし、忌み嫌っているのですね。1秒でも早く終わらないかと思いながら頑張るわけです。

けれども一方では、こうした作業をそれほど嫌がらずに、場合によっては楽しんでやれる人もいるのですね。

そこにどんな違いがあるのかなと見つめてみたのですが、私の場合は雪と格闘している感がどうしても強くあるのです。

雪と闘って、打ち勝とうとしているのですから、当然のことながら楽しむことなどできるはずもありません。

格闘しているせいなのか、プラスティック製のスコップは完全に割れてしまったし、仕方なく急遽買ってきた金属製のスコップは、気がついたら先端の部分が丸まってしまって、元に戻すことができなくなっていました。

闘わない人は、少しずつでも無理せずにマイペースで、いい表現をすれば雪と戯れることができるのでしょうね。

何でもない普通のことを楽しめるかどうかは、この闘いのエネルギーがどれだけ使われずにいられるかにかかっているのかもしれません。

とはいうものの、カチカチに凍ってしっかり路面にこびりついたようなアイツを引っ剥がすのは、やっぱり性に合わないようです。もっと早めに雪かきしようと反省した次第です。

マインドは3次元しか理解できない

私が「欲望を落とす」と言うとき
どうか誤解しないでほしい
それはあなたが欲望を落とすという意味じゃない
そこに暗黙の了解があったら
それは落ちるのだ
不意に、あなたは問題点を見る
生はここにあるが
欲望はあそこにある–
あなたはそれを見る
と、欲望は消えてしまう

by osho

「私」というマインドにとっては、「生はここにある」と言われても、「ここ」に対して魅力を感じないのです。「今ここ」は当たり前過ぎて、どうでもいいのです。

ここには夢がないし、いつもと同じ代わり映えのしない現実だけがあると感じているのです。だから未来という欲望が必要と思われるのです。

マインド=欲望だと思えばいいのです。だからマインドに欲望を落とすなどということは不可能なことだといっているのです。

マインドは今この瞬間に感嘆することはできません。何かの拍子にマインドが機能停止したときにこそ、私たちは欲望から抜けて今ここに在ることができるのです。

それは例えば、突然何かとんでもない事が起きるなどして、マインドの対応能力を大きく上回る事態がやってくるなら、ハートだけが開いた状態になるはずです。

その瞬間には魅力がないなどという余裕も消えて、あるがままのこの瞬間の中へと入っていくことができるのでしょう。

瞬間とは永遠であるくらいに奥深くにあるものです。私たちが通常感じている空間は3次元ですが、この空間の奥には更に高い次元がいくつも畳み込まれて隠れています。

物理学はすでにそのことを発見しました。マインドがそれを見ることができないだけなのです。

ありうるすべての次元を見ることができるなら、その時には当然3次元の欲望などは色を失い、ただの幻だったと気づくのでしょうね。

自分の存在の中心では…

それこそ、瞑想のアートのすべてだ。できる限り内側深く、あなたの存在のまさに中心へと入るのだ。自分の存在の中心においては、あなたは永遠だということに、驚き、感嘆するだろう。そこには死はない。死など、あったためしはなかった。

by osho

ときに独り静かに内側へと入っていくと、普段これが自分だと感じていた存在が不確かになっていくのを見ることがあります。

それはとても不思議な、そして足場がなくなっていくような心許ない感覚なのです。だから長くその状態でいることができません。

きっと無自覚に避けてしまうのでしょうね。自分のことをただの記憶データの集まりだなどとは思っていないはずなのですが、結局のところそれを認めざるを得ないのです。

なぜなら、瞑想状態になって記憶へのアクセスが無くなるに従い、やっぱり自分という存在が曖昧になってしまうのですから。

それでもめげずにじっと見ていると、ただ気づいていることには大きさも位置も何もない、いわゆる「何もなさ」であると分かるのです。

それは空間とか時間に縛られることのない、またはそれらを含めた全体性へと広がっているという感覚になるのです。

そこからいつもの個人という認識へと戻ってくると、何とも大それた勘違いのままに人生は進んでいくんだなと思い、どこかで苦笑いしているのかもしれません…。

無意識は衝動に流されやすい

若い頃のことですが、夏真っ盛りの時期にプールで泳ぐのが好きでした。海よりは手頃だし、波がないのでしっかりと泳ぐこともできるのです。

泳いで疲れた後は、プールサイドで寝っ転がって日焼けするのも大好きでした。ジリジリと照りつける太陽の恵みを全身で感じるあの気持ち良さ。

時々喉の渇きを覚えて冷たい飲料水を飲んだりするのですが、ある時飲みすぎても胃に悪いと思い、我慢してプールに飛び込んだのです。

しばらく泳いでプールから上がったときには、完全に喉の渇きはなくなっていたのです。それで分かったのですが、喉の乾く理由は水分が足りないときだけでないのですね。

上昇した体温を下げるためにも喉は乾くのです。だからそのときは、水分補給よりも冷たい水に飛び込んだ方が効果があったというわけです。

私たちの身体は、必要に応じていろいろなサインを出してくるのですが、空腹を感じるのもその一つ。食物を摂取して栄養分を補給せよということです。

ところが、本来の空腹を感じるわけでもないのに、何か口に入れたいという衝動がくるときがありますね。あれは栄養分を補給せよでないのは明らかです。

マインドが不満、あるいは不満足な感覚を紛らそうとして、食べることを促そうとしてしまうのです。

そうして手近にある食べ物を口に放り込んで、満足させようとしてしまうのです。お腹が空いてないのに食べるのですから、内臓にいいわけないですね。

身体からの正直な訴えなのか、あるいはマインドがでっち上げた偽物の声なのか、しっかりと聴き分けることができる状態であることが大切ですね。

そのためには、できるだけ意識的であることが肝要なのです。無意識的であれば、どうしても衝動に流されてしまいがちになるからです。