願望が転生する

輪廻転生というのがあると言われていますが、実際私たちが生まれ変わるわけではなく、私たちの願望が生まれ変わるのです。

私とかあなたという個人としての実体はないので、生まれ変わりようがないのです。

その代わり、個々人を形作っているマインドの願望が肉体の死とともに消え去ることなく、思考や感情のエネルギーとして残存するのです。

その結果、次の人生への望みをかけて、そのエネルギーが新しい子宮を目指して入り込むのです。

その願望というのは、自分は惨めだという思い込みが作り出すものなのです。次こそ自分は惨めではなくなりたいというのが願望の本音です。

だからもしも今生の人生で、あなたが自分は惨めだという思い込みを持たずに死ぬなら、転生することはありません。

その必要がないからです。ギャンブルで負けると悔しくて、次々と賭け続けてしまうのに似ていますね。

いつか勝てると思ってすってんてんになるまでやめられないのですが、願望の転生に関しては終わりがありません。

もしもあなたが輪廻転生のループから抜け出したいと本気で思うなら、こうしたからくりに気づくことが第一です。

その上で、マインドの奥深くに抱え込んでしまった「惨めだ」という思い込みに光を当ててあげることです。

そのバカバカしさに気づくことができれば、願望は自然と消えてしまうはずです。結果、転生もなくなりあなたは覚醒して無へと帰っていくのでしょうね。

従事病

自我というのは自分は個人として生きているという思い込みを持っているのですが、それを維持しているのは他人との関わりによってなのです。

だからこそ自我は独りでは生きていけない宿命を持っているわけです。それだけではありません。自我は常に何かに従事していなければもたないのです。

従事するとは、対象となるものと何らかの関わりを持って、そこにエネルギーを注ぎ込んでいる状態のことです。

何かの問題が起これば、それに対処する。病気になれば、それを何とかして治そうとして手を尽くす。

何か困ったことが起きれば、必死になってそれを解決しようとして頑張る。私たちはそれが当たり前だと思っているのです。

けれども、それこそが自我の従事病なのですね。とにかく従事するターゲットが常に必要なのです。

だからのんびりと余暇を過ごすとか、ゆっくり昼寝でもして何をするでもなく時間の過ぎゆくままに任せる、なんてことを何日も繰り返すことはできないのです。

自我は必ず何か身になることをしなければとなって、イライラして手持ち無沙汰を解消しようと努力するのです。

その結果、防衛を続けてみたり、戦って勝とうとしてみたり、従事する対象を同時にいくつも持つことになるのです。

あなたは今何に従事していますか?従事している対象にきづけたら、そこにエネルギーを注ぐことをやめてみたら何が起きるのか確かめてみることです。

自我の反応を離れたところから見てみれば、自分は自我ではないと気づくことができるかもしれませんね。

悪くないだろう

あらゆる家電製品やクルマやどんなものでもそうなのですが、年月の経過とともに老化してあちこち故障し出したりしますね。

人間の身体もそれと全く同じで、最近は歳を重ねるごとにあちこち軋み出したりしていて、この先どうなっていくのだろうと危惧したりします。

飲み会なども行かなくなって人との関わりが極端に減ってしまい、特別行きたいところがあるわけでもなく、毎日淡々とした時間が過ぎていきます。

いよいよつまらない人生になってきたなあと思うマインドもあるのですが、それを逆手にとってやろうとするマインドもあったりします。

外側への興味が薄れてくればそれだけ意識は内側へと向かざるを得ないので、若い頃よりも格段に瞑想には有利になってきたのです。

瞑想的に生きる、意識的に生きる時間を増やしていくまたとないチャンスが高齢者の称号と共にやってきたわけです。

高齢者という言葉の響きはあまり好ましくないですが、無意識的な老人にだけはならないように心がけたいと思っています。

残された時間を何をするかではなくどう在るかにポイントを絞って生きるのも、「悪くないだろう〜」。

自己同化を見破る

私たちはあらゆるものと自己同化しているのです。身体との自己同化から始まって、マインドとの自己同化によって生きています。

そして毎日毎日ちょっとしたことであれ、自己同化してしまう習性があります。自分が選んだものとも自己同化するのです。

ここは気づきにくいところかもしれませんね。たとえば、ゴ◯◯リが死ぬほど嫌いという人はたくさんいますが、一体何と自己同化しているのでしょうか?

それは「◯◯が嫌い」ということと自己同化しているのです。そのせいで、◯◯が嫌いでなくなってしまったら、自分ではなくなってしまうと感じるのです。

だから◯◯が嫌いだという人は、◯◯を好きになりたいとは決して思わないのです。本来嫌いよりも好きの方が気持ちよく生きれるはずなのに…。

幼いころにお母さんが怖いと感じてしまったり、自分が悪いんだと決めつけてしまうと、そのことと自己同化してしまうのです。

その結果、大人になってもうお母さんは怖くないと理性では分かっても、怖くなくなることで自分ではなくなってしまうと感じるので、怖いままでいようとするのです。

自分が悪いんだ、自分がダメなんだ、自分がいないほうがいいんだと繰り返し思えば、その思いとの自己同化が起きてくるのです。

その結果、そんなことはないという理性の声はかき消されてしまうのです。一度自己同化してしまうと、それを解除すれば自分が消えるという恐怖がやってくるのです。

それが自己同化から抜け出しにくくさせている理由なのですね。そこをまずは見破ることから始めませんか?

毎日続けていること

何度か書いたことがあるのですが、このブログに記事を書こうと思ってキーボードに向かっている時、じ〜っとして何かが降りてくるのを待っているのです。

その時間はとても貴重なのですが、それはいつもはまり込んでいる人生物語の中から抜け出てくることができるからです。

ちょっとした瞑想のようなものでもあるのですが、場合によってはそれよりも鮮度が高くなることもあります。

実際こうやって書き出してしまうと、またモードが変わってしまうのですが、キーを打っているこの時間も嫌いじゃありません。

嫌いじゃないからこそ、ずっと続けてこれたわけです。最初の投稿からもうすぐ丸11年が経とうとしています。

日数にすると約4000日です。つまり4000回も毎日書いてきたことになり、その数字を見ると自分ながらちょっと驚きもあります。

書いている時間を15分くらいとすると、4000÷4=1000で、1000時間書いていたことになりますね。

書くことが降りてくるまで待っていた時間も加えると、平均で30分程度だとすれば、関わった時間は2000時間になりますね。

2000時間も気持ちのいい不思議な時間を過ごしてこれたのは、本当にありがたいとしか言いようがありません。

日記とか作文とかが大の苦手な少年時代からすれば、全く考えられないような変化とも言えますが、本人の中ではその頃と生きている感覚は少しも変わっていません。

誰かの人生で、毎日やり続けていることがあるなら、それはきっとその人にとって大好きなことなんだろうなと想像できます。

もしもあなたの人生で、毎日やり続けてていることが見当たらないとしたら、きっとまだ本当に好きなことに気づけていないのかもしれませんよ。

それが見つかるといいですね。

意識を内側に向ける練習

私は非常に大雑把に、あるいは大胆に、人類を2つの種類に分けることができると思っています。それは勿論男性と女性ではありませんよ。

それは内側に意識が向く人たちと、外側にばかり気を取られている人たちです。この両者の違いは年齢と共に大きくなっていくはずです。

その理由は簡単です。前者の場合は、常に自問自答をする習慣がついているので、その時々で自分がどう感じてどう考えているかに気づきやすいのです。

自分の本心はどうなのかとか、自分のマインドはどうなっているのかということと向き合う訓練ができているのです。

一口で言ってしまえば、自分のことを丸ごと理解するようになれるということです。だから見当違いなことをしでかさずに済むのです。

一方で後者の場合は、外側で何が起きているかということに着目するため、いつまでたっても自分の素顔に気づきにくくなってしまうのです。

そんな両者の違いが20年、30年と経つにつれて、生き方に大きな違いが生じるようになるのは、想像に難くありませんね。

でも安心して下さい。後者の人生をずっと送ってきた人でも、少しずつ内側に意識を向けることを習慣づけていくことは可能なのです。

日々の生活の中で、歩いているなら歩いている自分を見るのです。食事しているなら食事している自分に意識を向けるのです。

いつどんな時であれ、このことを思い出したらすかさず意識を自分に向ける練習をすることです。最初はそれが短い時間であっても大丈夫。

要は意識が内側に向いている状態を繰り返し自分自身に体験させてあげるのです。10年経った時に、全く異なる感覚で生きることができるようになるはずです。

自我の不満は必須のもの

私たちの誰もが共通に持っている欲求があるのですが、それは満たされたいというものです。

どうしたら満たされるのかは人によってそれぞれですが、とにかくどんなことをしても満たされたいと願っています。

欲しいものが手に入ったら満たされるだろうし、目標を達成したら満たされます。あるいは、自己価値が高くなったら満たされるのです。

たとえば誰かの役に立つことができたら満たされます。社会貢献をして、感謝されるなら大満足することができるでしょう。

ところが、どんな満足であれそれは一過性のものです。満足感に浸れるのも数日の間だけ。あっという間にまた元の状態に戻ってしまいます。

そのためすぐにでもまた別の何かによって満たされようとし出すのです。人生というのはその連続かもしれません。

一方でたとえ一時的であれ満たされるのなら羨ましいと思っている人もいるはずです。それはたとえば自分は何の役にも立たないデクの棒だと感じてる人。

長い間引きこもりを続けていたり、病気がちで人並みに働くこともできずにいる人。けれども気がついて欲しいことがあるのです。

自我というのは決して永遠に満たされることがないという宿命を持っています。だからその意味では人はみな平等な自我として生きているのです。

この世界に完全に満たされた人は一人もいないと断言できます。もしもそんな人がいたら、その人はもう自我が消えてしまった人。

一人の人間として生きている限り、みんな同じ不満状態を抱えて生きているということを忘れないことです。不満なのは自分だけではないと気づくことです。

自我はいつも忙しい

世の中には、常に多忙にしている人がいるし、逆に暇を持て余している人もいます。その中くらいに丁度頃合いのいい人もいますね。

ところが自我というのはどれも共通して忙しくしています。それは物理的に活動的かどうかということとは違うのです。

自我の目的の一つは自分がより幸せな人生を生きるようになることですね。場合によっては、他人も幸せになることを望んでいたりします。

それともう一つ大きな自我の目的があるのですが、それは自分の存在証明をし続ける必要があるということです。

どの自我も共通して忙しいのは、この後者が理由なのです。忙しいというよりも気を休めることができずにいると言った方がいいかもしれません。

ボヤボヤしていると自分がいるということが曖昧になってしまうことを知っているのです。

自我が求めている特別な自分というのは、ここからきています。特別であることで自分の存在を明確にしようとするのです。

だから逆に言えば、普通であることがとても難しいのです。普通では自分の輪郭が消えていってしまいそうで怖いのでしょうね。

そして特別であるためには、手段を問いません。特別に価値があるとか、特別に希少な難病になるといったこともあるのです。

そうまでして自分の存在証明をしたいのは、自我が実在するものではないとどこかで気付いているからに違いありません。

自分という個人がいなくてもいいとなったら、すべての防衛や緊張から解放されてしまうでしょうね。

その時になって初めて、ずっと求めていた幸せな人生を遥かに超えた至福がやってくることになるのですね。

社会の中で悠々と生きる

昨日のブログでは、人間というのは実在するものよりも仮想的なものに対して強くエネルギーを注ぎ込んでいるというお話しをしました。

もう少しその続きを書きたいと思います。私たちが暮らしている社会というのも、もちろん仮想的なものです。どこにも社会という実在はありません。

けれどもみんなで一斉に社会という仕組み、ルールなどを思考の中で共有しているので、実在しているように感じるのです。

社会の中で逞しく生きるには、その仕組みやルールを学んで、たとえばその中で価値があると認めてもらえる人物になる必要があるのです。

価値にはさまざまなものがありますが、希少価値というのはとても人間らしい感じがします。数が圧倒的に少なければ、ただそれだけで価値を持つのですから。

100メートルを9秒台で走れる人は世界中で100人といないでしょうから、それだけで価値ある人になれるのです。

ダイアモンドが高価なのは、それが美しいからでも飛び抜けて硬いからでもありません。地球上では希少だからですね。

逆にコンピュータなどに使われる半導体はケイ素を使うのですが、なくてはならない大切な元素ですが、そこらじゅうで採掘できるので安価なのです。

社会の中で活躍することは勿論悪いことでも良いことでもありませんが、それだけが人生ではありません。

思考が生み出したあらゆる価値に捉われることなく、自由にそして自然に生きることもできるのです。

社会から逃げることなく、社会の中にいてなおかつ社会に染まらずに、悠々とした生き方ができたら素晴らしいと思いませんか?

瞑想の中ですべてが消える

私たちは日頃あまり自覚してないかもしれませんが、実在するものよりも仮想的なものに夢中になっているのです。

仮想的なものというのは、思考によって「ある」ように思い込んでいるもののことです。たとえば目標というのは概念であって、実在しません。

価値というのも全く同じです。価値に触れたり見たりすることは不可能ですね。思考によって組み上げられたものだからです。

けれども、目標とか価値とか意味といったものこそ、私たちにとってはとても大切であり、無視できないものとなっているのです。

善悪、幸不幸、正不正、そう考えたらそんなものばかりで人生が出来上がっているように思えてきませんか?

たとえば価値というのは、毎日の生活に非常に密着しているものです。価値があるかないかが、そこにエネルギーを注ぎ込めるかどうかを支配していたりします。

何に価値を見出せるかで、その人の人柄とか人間性のようなものが透けて見えてきたりもしますね。

けれども一度瞑想の中に入ってしまえば、仮想的なものはすぐに消えていくことになるし、その後ゆっくりと実在するものさえも消えていくのですね。