「何も無さ」だけが在る

目を閉じてしばらく静かにしていると、そもそもこれって何だろう?という疑問のようなものに包まれるのです。

生まれたり死んだり、それとも関係のない宇宙とか、時空すらない意識とはなんなのだろう?といった尽きることのない疑問。

その疑問がまた次の疑問を生み出して、すべてが疑問だらけになっていくときに、ふと疑問そのものが消えていくのです。思考が限界を迎えるのでしょう。

そして疑問があるとか疑問がないといったこと自体が消えていくのですね。それは同時に疑問を感じていた自己も消えるのです。

そのときにようやく、すべてが静寂に包まれて(もちろん静寂すら本当はないのですが…)、「無いこと」だけがただ在るのです。

こんなふうに言葉を使えば使うほど、真実から遠ざかって行くわけですが、こうした言葉たちを介して何かがインスパイアされて、伝達されるかもしれないのす。

なぜなら「無いこと」は誰かのものではなく、すべてを包含した全体だからです。

無頓着の勧め

自分のことが好きではないという人が結構いるものですね。人生という物語を生きていく上で最も身近な存在である自分が嫌いと感じるなら、それは生きづらいはずです。

だから自分のことを好きになりたいと願うのは当然のことかもしれません。いついかなるときも、決して離れることがないのが自分なのですから。

で、何とかして自分を好きになろうとするわけです。自分を愛するようになるためには一体どうしたらいいのだろうかと考えるのです。

セラピーを受けるのも一つの方法かもしれません。自分のことを好きになれないとしたら、その原因はたった一つしかありません。

それは、自我が育っていく間に、どのような自己イメージを作り上げていったかということに尽きるのです。それは、周囲からどのような扱いを受けて来たかということを意味するのです。

幼い頃に信じ込んでしまった自己イメージは、そう簡単には修正することはできません。なぜなら、それを払拭しようとして頑張って来たからです。

その頑張りは、投資となって本人を圧迫するからです。そのことにこだわりを持つようになるからです。無頓着ではいられなくなるのです。

その点に着目すれば、自分を好きになろうと努力する代わりに、そのことに頓着しないようになることの方がいいと分かります。

言葉を変えれば、自分への興味、関心を持つ結果として、自己愛かもしくは自己嫌悪かのどちらかが生まれるということです。

本当はどちらも不要なのです。自分へのこだわりがなくなって、無頓着になれればそれが究極の癒しだと分かればいいのです。

視点を拡げる

私たちは、あまり意識せずに人間とはこうあるべきという基準のようなものを作っています。清く、正しく、美しくのように…。

男はこうあるべき、女はこうあるべき、そしてひとたび自分はこうあるべきという基準、理想を作ってしまうと、それだけ苦しむことになるのです。

なぜなら、現象界というのはあなたが望んだ通りになる保証などないからです。そればかりか、全体はあなたの個人的な希望などに興味もないからです。

自分の身体を作っている60兆個の細胞の一つひとつに私たちが興味を持っていないのと同じなのです。全体として健康でいられればいいのですから。

今のあなたの状態がどんなものであれ、全体としては問題ないのです。今この瞬間のあなたの状態が全体にとってOKだということに気づけばいいのです。

私という個人について考えるというのは、非常に局所的な狭い視点で見ていることに気づくこと。視点が狭ければ気になることが満載になるのは当然です。

一頭のいたいけな子鹿がライオンに追われて餌食にされる様だけを見れば、自然界とは何て残酷だろうという印象だけが残るのです。

けれども全体で見れば、それで生態系がきっちりと維持されているわけです。エゴが小さくなれば、自分は全体の一部として映るようになるのです。

そうなれば、自分とはこうあるべきというすべての理想が消滅して、ただあるがままでOKということが分かるようになるのですね。

三つの世界の話

誤解を恐れずに表現すると、非常に大雑把に言ってここには三つの世界が同時にあるのです。一つ目は、純粋な意識だけが在る世界。

二つ目は、その意識から立ち上がってくる現象界としての世界。そして三つ目は、現象界を元に思考が作り上げた物語としての世界。

常日頃から、わざわざこんなことを言葉に表現することはなくても、どこかでそのことを意識しつつ生活しているのです。

私の中では、一つ目だけが真実という感覚を持っています。二つ目の現象界については、真実から立ち上がってきたものなので、虚構とは言えないものの、はかないものなので真実とは言い難いのです。

一方、三つ目の物語としての世界は、完全なる虚構の世界。私たち一人ひとりの思考の中にだけ存在するものだからです。

で、人生だけに捉われてしまうと、三つ目の世界だけがあって、それこそが真実だというかなり大きな勘違いの生を生きることになってしまうのです。

その場合、人生を物語として見ることはできなくなるために、都合の悪いことが起きた時に、深刻になったりして心理的ダメージが大きいのです。

瞑想などによって思考が緩んでくると、自分が見ている人生と単に物事が起きている世界(現象界)を分けて見れるようになるのです。

そうなれば、同時に一つ目の唯一の真実である純粋な意識としての何も無さが、はっきりと際立ってくるようにもなるのです。

ここに書いてあることをそのまま取り込もうとしないで下さいね。何を言わんとしているかだけに着目することです。

それ以外はすべて虚構の世界の話だからです。

エゴが消えると全体が流れ込んでくる

この世界には私とあなた、あるいは私と誰かという区別があって、それを主体と客体などということもできますね。

自分と自分以外の誰かという分け方があると思えるのは、自分のことを個人として見ているからなのです。つまり局所的な存在としての主体です。

この見方がすべての勘違いを作り出す大元なのです。自分が一人称としての主体であることは疑いようのない事実ですが、個人という局所的存在だという考えが間違いなのです。

自分という主体は全体性だと気づくことができるなら、二人称や三人称といった客体は決して存在しないということにも気づくはず。

つまり真実はと言えば、主体しか実在できないということ。一人称としての主体がすべての一切合財なのです。

「私」というエゴが消えた瞬間に、局所的存在だった自己が全体へと広がるか、あるいは全体が自己の中へと流れ込んでくるのです。

この感覚が一瞬でも分かれば、そこから何かが花開いて行くのだろうと思うのです。今それを知っている人も、これから知る人も違いはありません。

誰もがいずれはそうした気づきに出会うことになっているのですから。

自分の知覚を見る

私たちはいつも自分の知覚を信じようとしているのです。自分が見たものは実際に見たままに実体があると思っているし、聞いた音も実際に存在すると考えるのです。

けれども、実在するものと知覚によって得た情報はいつも違っているのです。そればかりか、勝手な思い過ごしも沢山しているのです。

例えば物には固有の色があると感じているのですが、色という物体はこの世界には存在しません。もちろん、物質が反射する光の波長によって色が発生するというのは、周知の事実ですね。

けれどもそんなことは、普段はすっかり忘れてしまって、この色がいいあの色は濃すぎるなどといって、あたかも対象物が色を持っているように扱っているのです。

実際、肉体の目というは光の量が少なくなると、色を感じにくくなってしまうために、この世界をシロクロに見せてくれるようになりますね。

またマインドの状態も知覚を大きく影響させる力を持っています。飛び上がらんばかりに嬉しいときは、本当に瞳孔が開いて世界が明るく感じます。

場合によっては、バラ色に見えるようになるかもしれません。私は実際にそのように見えた経験があります。逆に、沈んだようなマインドの時には、やはり世界は灰色に見えてきます。

一旦、自分の知覚を信じることをやめてみることは気づきにとっては重要なことかもしれませんね。言葉は悪いですが疑ってかかるということです。

それがうまくいくと、自分の知覚を見るということができるようになるかもしれません。知覚はただそこに在るだけになる瞬間がくるのです。

ちょうどど真ん中の生き方

テニスの錦織選手を相当に舞い上がって応援していると、彼が試合に勝てば物凄く嬉しい反面、負けると非常に悔しい思いをするのです。

これが二元性の世界の掟なのですね。女性は出産のときに男性であれば失神してしまうような苦しみを味わう一方で、性的快感は男性の何倍も大きいと言われています。

そのようにして自然はバランスを取っているのです。だから幸福感を強く感じられる人というのは、それだけ不幸な人生を経験しているということ。

砂漠を何日も水なしで歩き続けて、もう一歩も歩けないという状態になった末に飲む水は、どんな高価なワインでも敵わないくらい美味しいはず。

要するに、一方の極端を経験すれば、かならずもう一方の極端もやってくるということです。二元性の世界はそのようにできているのです。

そして、その度合いが大きければ大きいほど、物語性も大きくなるということです。逆にその度合いが小さくなればなるほど、物語性も消えていくのです。

どちらの方向へもいかずに、ちょうどど真ん中にいることができるなら、そこにはどんな物語性も生み出されることはないのです。

それが中道とか中庸というものですね。それこそが生きる極意といってもいいのです。

真に満たされるためには

私たちは自分が持っているあらゆる欲望が実現した時にこそ、本当に心が満たされるだろうと信じて疑わないのです。

そしてあらゆる欲望が満たされてしまうことは決してないので、その幻想から抜け出すことができずにいるというわけです。

けれどもそのおかげで、いつかは満たされて安心することができるはずだという希望を持ち続けることもできるのです。

その一方で、どこかで気づいているのですが、真に満たされるためには、皮肉なことにあらゆる欲望が消えて無くなる必要があるということです。

欲望というのは、あれが欲しいこれが実現したらいいのにといった、一つひとつの個別のモノではなく、たった一つの欠乏感からやってくるのです。

その欠乏感は本当は対象など何でもいいのです。とにかく何かを求め続けること、そのこと自体が欠乏感を存続させることができるからです。

私たちは欠乏感から解放されたくて、欲望を作って何かを求め続けるのですが、残念なことにそれ自体が自分を欠乏感の虜にさせてしまうのです。

あらゆる欲望の裏にある欠乏感はどこからやってくるのかを見ること。それが個人としての分離感からくることを深く理解することです。

全体性に目覚めるまでは、欠乏感もそれからくるすべての欲望も決して消えることはないのですから。全体性はそれ自体で満ち足りているのです。

シンプルさを取り戻す

このブログでも何度も繰り返しお伝えしていることですが、人生をできるだけシンプルにする為に、エゴの囁きに翻弄されないようにすることです。

エゴの言うことを聞けば聞くほど、人生は複雑怪奇になっていくのですから。あなたが気をつけているべき唯一のことは、あなた自身であること。

他の誰かになろうとしたり、誰かの真似をしようとしないこと。それは元々不可能なことだし、そんな必要はまったくないのです。

あなたがあなた自身であり続けるためには、他の誰かのことを考えないこと。他の誰かだって、あなたと同じようにその人自身であればいいのです。

あなたは他の誰にもコントロールされてはいけないし、同様にして他の誰のこともコントロールしようとなど決してしないこと。

他の誰かのことを期待しない分、あなたも他の誰かの期待には応えようとしないこと。こうしたことが当たり前になって初めて、人生はシンプルなものになるのです。

自分の人生を今あるがままに見た時に、どれだけシンプルなのか、あるいはどれだけ複雑なものになってしまっているのか、正直に判断することです。

そしてもしも、何となく複雑さを感じるというなら、上記のことをチェックしてできる限りシンプルさを取り戻すべく勇気を持って生きることです。

人生を浪費しないように

未来のことを考えて不安になってしまうと、その不安を何とかして安心に変えようとして、最も大切な今を犠牲にしてしまうのです。

そして残念なことに、そのような生き方が明日急に変わるわけもなく、結局未来であった明日になっても、またもや未来を憂いて今を犠牲にしてしまうのです。

つまりそういう生き方がずっと続いていくことで、いつもいつもまだやってきていない未来のために今をこの瞬間を楽しむことができないのです。

これほど損な生き方が他にあるでしょうか?唯一実在する現在、その中でしか私たちは楽しんだり喜んだりすることができません。

それなのに、まだやってきてもいない未来、実在しない未来のためにそれを犠牲にするわけですから。このことにしっかり気づく必要がありますね。

いつも何かを心配しながら生きている人を見ると、本当にバカバカしいことをしていると思わざるを得ないのですが、気づくと自分も似たようなことをしていることがあります。

自分のことは気づきにくいということですね。できるだけ意識的でいるように訓練していると、こうしたことにもすぐに気づけるようになっていくはずです。

人生を浪費しないように、いつも今この瞬間に意識を向け続けること。そうすることで、未来へも過去へもエネルギーを向けずにいられるようになるのです。