思考と思考の狭間

最近では自分の部屋で過ごしている時には、一年を通してずっとエアコンをつけっぱなしにしている生活になっています。夏はクーラーで冬は暖房です。

夜寝る時にも、暖房をつけたまま寝るので、エアコンの稼働率は半端ないですね。あれが壊れたら本当に生活が成り立たないくらい依存しています。

昔大学生の頃、安アパートに1人で暮らしている時には、エアコンなんてなかったので冬はこたつ、夏は扇風機が活躍してました。

夏のテスト期間中に、暑くて扇風機を抱きかかえたまま勉強していたのを思い出します。その扇風機が勢い良く回っている時には、三枚ある羽がまるで繋がった一枚の丸い板のように見えるのです。

スイッチを切れば、次第に羽の回転が緩んできて、羽と羽の間に空間があることが見えてきますが、回転してるときには決してその空間を見ることはできませんね。

それと同じようにして、ずっと思考がグルグル回転し続けている人にとっては、一つひとつの思考がまるで連続した大きなモノのように感じるはずなのです。

けれども心を静かにする訓練をして、思考を緩めていくことができると、その時には思考と思考の間の空間に気づくことができるようになるのです。

その空間こそが、私たちの本質である純粋な意識なのです。思考が活発に動き続けていれば、思考に巻き込まれていることにさえ気づけなくなるかもしれません。

私たちは思考ではなく、意識なのだということは知識として知っているかもしれませんが、思考を緩めることができなければ、意識に気づくことはできないのです。

思考と思考の間の狭間に気づいていられる訓練をすることです。そうすれば自動的に思考の活動は低下することになるはずです。

なぜ自分なのかという疑問

何で自分はいつも自分であって、他の誰かではないのだろう?こんな疑問を持ったことはないでしょうか?きっとあるはずです。

こうした疑問は、こんな自分であるよりもあの人であったら良かったのに、といった願望からやってくるものではありません。

もっとシンプルに、もっと素朴な純粋な疑問なのです。生まれてからずっとこの自分でい続けていることへの疑問なのです。

たまたま今回は自分をやっているけれど、隣の◯◯ちゃんでもよかったはずなのに、なぜずっと自分でばかりいるのだろうという疑問なのです。

この疑問はどこからやってくるかというと、「私」という個人がいるという思いの不健全さから起きてくるのです。

この世界で他に比べようもない特別な存在としての「私」という感覚こそが、そうした疑問を作り出しているのです。

その感覚、その思いがどれほど矛盾するものなのか、私たちは普段考えたこともないのです。けれども、子供ののころなどにふとした時に感じたあの違和感。

すべては間違いだったのです。単なる思い込みだったということ。真実ではなかったのです。妄想であれば、どんな不条理があろうと当たり前のこと。

こうした疑問は、ご推察の通りエゴが消えてしまえばなくなってしまうのです。エゴという特別な「私」がなくなれば、何も不都合なことはないのですから。

エゴがなくなったらどれほど自然に戻れるのか、想像するだけでとても楽しくなりますね。

期待に応えようとしない

数ある自己防衛の手段の中で、良さそうに思えるものとして「人の期待に応えようとする」というものがありますね。

相手の期待に沿うようにしてあげるのですから、とても良いことのようについ考えてしまいがちですが、その裏にあるものは自分を安心させようとする思いなのです。

つまり所詮、防衛は防衛でしかないのです。相手の期待に応えることを、自分がどうしたいかということよりも優先すれば、いずれは不満が蓄積されるのです。

そして期待に応えた見返りが手に入らないと知れば、その不満はあっという間に怒りとなって本人を圧倒することになるはずです。

100歩譲って、もしも誰かの期待に応えてあげることができたとしても、その人の人生が満たされるわけでは決してないのです。

人は自分の人生を満ち足りたものにするためには、シンプルに自分がしたいようにするしかないのです。それ以外にはありません。

あなたは誰かの期待を満たすために生まれてきたわけではないし、そんなことを続ければいつまでも自分の本質に気づく機会はやってこないのです。

親や家族、あるいは好きな人の期待に応えようとして、人生を複雑なものにしていませんか?まずは自分本意に生きることから始めてみることです。

そうやって心にゆとりができるようになると、自然と自分も回りもハッピーになっていくものだと思うのです。

あなたの中の「私」は実在しない

あなたは生まれてこの方ずっと「私」がいると思っていますね。この「私」がいなくなるなどということはあり得ないと思っているのです。

その証拠に、人生はずっとこうして続いている。それはこの人生の主人公である「私」がい続けるからに違いないと信じているのです。

けれども、「私」というのは思考によって作られたものであるため、実体は何もないのです。人生が続いていると思えるのは、「私」がいると感じている瞬間だけです。

あなたが過去のことを考えると、「私」が出来上がるのです。あるいは、あなたが未来のことを考えるたびに、「私」が立ち上がってくるのです。

でももし、あなたが過去のことも未来のことも考えずに、今この瞬間にただ在るだけなら、そのときには「私」はどこにもいないのです。

「私」を感じることも見つけることもできないはずなのです。あなたの中の「私」というエゴは、現在の中には存在したことがないのです。

過去も未来も思考の中にしかないし、それと同じようにしてあなたのマインドの「私」というエゴも思考の中にしかない。

実際、「私」がいない時の方があなたは何でもより上手くやることができるのです。なぜなら「私」がいるときには、必ず防衛が邪魔をするからです。

「私」がいなければ、人生は非常に清々しいものへと変貌することでしょうね!

「私」が全体性の中へと溶けていく

このブログでも繰り返しお伝えしているとおり、癒しというのは自分は惨めだという思いを持っていることに気づき、そこから一歩も逃亡しなくなることなのです。

そもそも惨めさというものが実在したためしはなく、単に自分は惨めだという思いがあるだけだということに気づくことです。

過去を振り返って、どのようにして惨めさを溜め込んできたのかを詳細に見て、そしてその惨めさによって作り出されたあらゆるネガティブな感情からも逃げずに、それを味わい尽くすこと。

そうして次第にそれが虚構だということを実感できるようになっていくのです。ところがそれで終わりではありません。

実はあらゆる惨めさの根っこにあるもの、「私」という個として生きているという思い込みこそが、本当の意味での惨めさの原点なのです。

結局どれほど心の癒しを進めて行ったとしても、「私」という個人として生きている限りは、惨めさが消えて無くなることはないのです。

全体性へと戻ることができるまでは、いつまでも惨めさがつきまとってくるはずです。人生でどれほど活躍しようと、どんな成果を出そうと、愛する人と共にいようと無駄なこと。

そろそろ覚悟を決めて、「私」が観念するしかないということ。「私」が全体性の中へと溶けて消えていくしかないのですね。

闘う必要なんかない

闘う必要なんかない
泳ぐことすらも必要じゃない
流れと一緒に漂うのだ
川はそれ自身でひとりでに流れている
あらゆるものが必ず究極の大洋に至る
あなたはただどんな妨害もしないことだ
川と一緒に行くというそのこと
川とともに漂うこと
川とともにくつろぐこと

by osho

癒しと探究

子供の頃に、宇宙には起源があってそれをビッグバンと呼ぶらしいこと、そしてビッグバンが起きた時の宇宙全体の大きさは、針の先よりも小さかったと教えられた時には、本当にびっくりしたものです。

その後も科学は進歩して、宇宙の解明が継続してなされてきているのですが、解明されればされるだけ一方ではさらなる謎が現れるというのを聞いたことがありますね。

きっとそれまで見えてなかったことが見えるようになれば、その奥に隠されていた謎がその姿を顕わすようになるからなのでしょう。

心の癒しについても同じようなことが言えるのです。癒しを進めていけばいくほど、いろいろなことが分かってすっきりもするのですが、その奥にあったものがまた問題となって見えてくるのです。

つまりキリがないということです。宇宙の解明も同じように終わりは決してやって来はしないはずだと思っています。それが思考の特徴なのです。宇宙のせいではないのです。

思考は解明すべき謎がなくなっては生きていくことができないのです。だから、いつまでも次の謎解きをし続けたいのですね。

癒しというのは水平方向に進んでいくのですが、そこから脱出するためには垂直方向に意識の向きを変えることが必要なのです。

それが自己探究であり、真実への探究なのです。それだけが謎を解くということから解放してくれるのです。そして謎が謎でなくなったとき、探究は自ずと終わりを迎えるのですね。

情報収集と後処理

私たちは自分の知覚を使って、外側で起きたことを見聞きしては、それについて何らかの判断や解釈をしつつ生活しているのです。

つまり、知覚とは情報収集とその後処理である判断、解釈の二つのフェーズから成り立っているということが言えるのです。

そしてその二つのフェーズがあまりにも密着しているために、あたかも一つのモノであるかのように錯覚してしまうのです。

何が言いたいかというと、情報収集と後処理のように分けて見ることができなくなってしまっているということです。

それはどんな弊害をもたらすかと言うと、実際に外側で起きている事実と、それを自分がどのように後処理したのかの区別がつかなくなってしまうということ。

事実が事実としてあるがままには見れなくなっているのです。そうして自分なりの見方というものを通して物事を見るようになるということです。

例えばコップに水が半分入っているのを見て、まだ半分残っていると見る人がいれば、あと半分しか残っていないと見る人もいるということ。

そのどちらも事実ではないということに気づいてはいないのです。「あの人にこんな失礼なことを言われた」ということがすでに、事実と後処理が混在していることに気づけなくなるのです。

この場合の事実は、「あの人がこう言った」ということであって、後処理の部分は、「私はそれを失礼だと認識した」ということなのです。

このブログでいつもお伝えしている「意識的でいる」ことによって、自動的にこのことに気づいていることができるのです。

外側で起きていることをできるだけそのままに見る訓練をすれば、自ずと自分の内面での後処理にも気づいていることができるようになるのです。

そうすれば、昨日のブログで書いた防衛についても、つまり自分の惨めさから遠ざかろうとしていることにも、しっかりと気づけるようになるのです。

辛くても、認めたくなくても、気づくことができればそこから癒しは必ず進んでいくのです。そして自動的に無防備への道を歩みだすことができるのですね。

たった一つのことを止めるだけ

心の癒しというのは、これまで自分がやってきた「あること」に気づき、それをやめていくことなのです。そう聞くと、随分とシンプルなことに聞こえますよね。

けれどもこれは本当の事なのです。で、ずっと気づかずにやってきた「あること」とは一体何かということですが、それを一言で表現すると以下のようになります。

惨めな自分から逃れて、惨めではない自分になろうと努力してきたということ。たったこれだけのことなのですが、そのために膨大な自己防衛とそれに付随する自己犠牲を作り続けてきたのです。

だからこそ人生が辛く苦しいものになったのです。したがって癒しというのは、本当は自分がどれだけ自分のことを惨めだと思い込んでいたのかをまず思い出すこと。

惨めだという思いから一歩も逃げずに、その惨めさをしっかりと抱きしめてみるのです。そしてそれは事実ではなく、ただの思考、思い込みだったと気づくことなのです。

そもそも惨めというモノは実在しません。それは思考の中で生み出された架空のものに過ぎないのです。だから本当は恐れる必要すらないものなのです。

そこまで気づけたら、もう惨めさから逃げる必要がなくなってしまうでしょう。その結果、必死になって続けてきたあらゆる自己防衛が尻すぼみになり、自己犠牲も消え失せていくのです。

後に残るのは、惨めだという思いと闘ってきた人生という物語を、面白可笑しくただ見ることだけ。自動的にエゴは落ちていくしかないのですから。

意識をどこに向けるかが鍵

外側を見る代わりに、180度方向を変えて内側を見る練習をして下さいと伝えると、自分を客観視することだと勘違いされることがとても多いです。

長い間外側にばかり気を取られて生きて来た人にとっては、自分を見る=客観視のように思えてしまうのも無理もないことです。

客観視というのは、あたかも他人の目から自分の姿を見るようなイメージになりますが、これでは決して自分の内側を見ることはできませんね。

なぜなら、他人の目からは自分の外面しか見えないのですから。自分の内面を見るためには、自分の内面からそれ自体を見るしか方法はないのです。

見るという表現が誤解を生むのであれば、内側に意識を向けると言った方がわかりやすいのかもしれません。要するに、意識をどこに向けるかが大切なことなのです。

他人からは決して見られ得ないところ、自分の感情とか気持ちでもいいし、自分の思考でもいいのですが、できればそういったものを通り越したより深いところにまで、意識を向けられるといいのです。

そうすれば何もなさが自分にとって馴染み深いものに次第になっていくはずです。意識がそれ自体に気づいているという微妙なタッチ。

そこは無限の奥深さと静寂の領域。そこからあらゆる現象が立ち上がっていくのですね。