道元の生い立ち

かつて日本に輸入されて、日本で独自の花を咲かせた「禅」というものがありますね。その禅僧として最も有名な一人が、道元です。

彼はずば抜けて聡明な子供だったらしいのですが、実は二歳の時に父親が亡くなり、七歳の時には母親が亡くなったのです。

そんな状況にも関わらず、彼は心の奥で「これは好機だ、もはや障害は何もない」と思ったのだとか。

「両親二人は私を愛し、私は彼らを愛した。それこそが危険だったのだ。二人ともちょうど良い時に死んだ。」

「二人は私を破壊することなく、ちょうど良い時に死んだことに、私はこの上なく感謝している」

たった七歳の子供がこんなことを理解できるなんて、とても不思議なことではあるのですが…。

けれども、誤解を恐れずに言えば、人間の最大の障害は父親であり、母親であるという事実を踏まえれば、彼は冷静な判断をしていたのです。

彼は親からやってくる期待を裏切る心配をする必要がなくなったことに安堵して、その後の人生を全く自由に生きることができたのですね。

それが彼を覚醒させたと言ってもいいのかもしれません。こうしたことを知ると、やはり癒しというのはこれまで培ってきたものを捨てていく作業だということがよく理解できますね。

執着が一番癒しの邪魔

私たちのマインドが備えている仕組みの一つとして、執着心というのがありますね。

この執着の根っこは防衛から来るのですが、要するに自分を守りたくて、何かにしがみつこうとするのです。このしがみつきを執着と呼ぶわけです。

もう助からなくていいとなったら、人間は執着がなくなって無防備となり、一切の争いがマインドから消えていくことになるのです。

普通に生きている限りそんなことにはならないので、私たちは死ぬまで何かに執着し続けることになるのです。

もちろんその執着の強さというのは増減するので、できれば減らして行けたらいいですね。

なぜなら、執着が強いとそれ以外のことを見たり聞いたりできなくなってしまい、出口が見えなくなってしまうからです。

執着が小さくならなければ、癒しを進めていくことすら難しくなり、癒しを進めていけなければ執着は小さくならない。

こうしたデッドロックに陥った人を時々見かけます。その場合は、人間の自然治癒力に任せるしかないですね。

そして実は最も頑丈な執着が最後に残るのですが、それは「私」という自我への執着です。

この執着が小さくなっていくことで、人は覚醒へと近づいていけるのですね。

エネルギーが可視化したもの

つい先日もこのブログで書きましたが、私はこの世界、この宇宙全体を「現象界」と呼んだりしています。

現象というのは個別の分離した存在があるというよりは、エネルギーの動きを可視化したものだとも言えるのです。

風が吹いて来た時に、小さな子供がそれを大きな袋に取り込もうとしていたら、かわいいなと思わず笑顔になりますね。

分別があれば、風というのは分離した個別の存在ではなく、空気の動きでしかないことを知っているからです。

子供が取り込んだ袋の中には、ただの空気が溜まっているだけ。そこには風を起こしていたエネルギーはもうありません。

海面に発生する波も同じです。海面を上下運動させるエネルギーを可視化したものが波なのです。

このようにして、私たちが生きているこの世界の全てがエネルギーが起こしている現象でできているというわけです。

つまりこの現象界にあるものは、一つとして独立して存在しているものなどなく、全てはエネルギーが可視化された現象に過ぎなかったのです。

あなたも私も例外ではありません。ビジュアル的にはあまりにも個別に存在しているように見えますが、実のところただの現象なのですね。

誰かが苦しみ、悩み、絶望してもそうした現象はそのうち消えていくのですから、元々深刻になる必要もないということですね。

見守るって無敵

自我(「私」)として人生を生きる当事者の側面と、それをただ見守る側面の両方があると思って下さい。

ただし、長い間その両者のうちの前者側として生きてきてしまったため、後者の側面をすっかり忘れてしまっていたのです。

少しずつ後者としての自己を思い出すようにしても、なかなか自我の勢力が強いために、後者を忘れがちになるのです。

最近になって、見守る側の自分に真になれているかは別として、言ってみればそのフリをじ〜っとしてみたところ、意外なことを発見しました。

自我の側の私は、自分のことを決して嫌いではなく、どちらかと言えば好きな部類だなと思っていたのです。

けれども、見守る側としての立ち位置に慣れてきた今、どうも自我が思っているほど愛しくも何ともないのです。

もっと言えば、他人の眼として自分のことを客観的に見てみると、あまり好きな奴ではないと思っていることが判明しました。

なんか別に一緒にいたくないなあと…。気難しいし、ワガママだし、理屈っぽくて面倒な初老なのですね。

救いはもう一度見守る側になってみると、当然ですがそこにはどんな判断もないので好きも嫌いもありません。

結局、自分を見る三つの立場によって、全く異なる自分に対する印象があったということです。

私の場合、自我だけが自分のことを好ましいと思っていて、第三者の目では全く好ましくは思っていなくて、見守る目がそのどちらでもないと分かったのです。

見守るって無敵ですね。

万年欠乏症

自我というのは万年欠乏症なのです。自我と欲望がセットなのはそのためです。つまりは、何かが足りない、欠落しているという感覚が拭えないでいるのです。

それが自我の本性です。なぜそうなのかというと、私たちの本質である全体性からみれば、個人として在ることは全体性から見放された孤児のようなものだからです。

その欠乏感とは、全体性へと戻りたい、それとまた元通りに繋がりたいという感覚に過ぎないのです。

そして実は私たちは今この瞬間も全体から乖離したことなど一度もないのですが、自我として生きることでそのことを忘れてしまったのです。

その結果、果てしなく深い個人であるという思い込みから目覚めようとすることなく、そこからやってくる欲望をただ満たそうとするようになったのです。

これがどれほどの見当違いなのか、冷静にみればわかるはず。この見当違いの営みのことを人生というのですが、真実に気づくまではエンドレスになるのも頷けますね。

自我の欲望はあなたに時空の広がりをもたらします。もちろん全てイメージに過ぎないのですが。

欲望があればそれを満たそうとして、思考の働きによって過去と未来が生まれ、そのプロセス全体が人生となるのです。

あなたが自我を傍に置いて、全体性に気付いたなら、求め得るもの以上のものが手に入ったことになり、全ての欲望は消滅していくでしょうね。

人生はドッキリカメラ

テレビ番組の中で、概ね視聴率を稼げる番組と言うのが昔からあると思うのですが、私の中ではドッキリカメラがその筆頭に挙げられると思います。

子供の頃からよく観ていましたが、少しずつ趣向を変えてはまたやるのです。もうかれこれ50年以上は、何らかのドッキリテレビ番組を観てきましたね。

何がそれほど面白いのか自分でもイマイチ分からないのですが、ドッキリを仕掛けられた人が、ドッキリと知ったときのあの安心する顔が見たいのかもしれません。

実は私たちが日々生きている人生も、ドッキリテレビに似た要素がたぶんにあると思うのです。

人によってその人生は様々ですが、大抵の場合は人生物語の中にどっぷりと浸されてしまうのです。

そして必死になって、その難題を解こうと頑張るわけです。テレビのドッキリカメラと違うのは、定期的に種明かしをされているのに気づけないでいること。

実はドッキリでした!と言う天からの声が聞こえないくらい、人生物語に熱中してしまっているのです。

そして何かこれおかしいなと感じだした人から、天の声に耳を澄ますようになるのです。そしていつかはその声を聞いて、な〜んだそうだったのかとホッとするのです。

どうせホッとできるなら、早い方がいいに決まっていますが、人によってはドッキリにハマった状態を楽しんでいたいと言う人も多いのでしょうね。

いずれにしてもいつかは気付かされる時が必ず来るのですから、どちらでもいいと言うことなのでしょう。今日も天が仕掛けたドッキリを楽しむとしますか。

存在していて存在しない

私はいつの頃からか、この世界、この宇宙のことを現象界と呼ぶようになりました。あらゆる現象が起きては消えていく世界だからです。

それは私たちにとっては全く知ることのできない何処かからやってきて、現象として生じた後、またその知ることのできない何処かへと消えていくのです。

その知ることのできない何処かのことを、「無」と呼んだり、「空」と呼んだりするのですが、所詮は絶対に知られ得ないものです。

現象界においては、何かが生まれて存在することになり、いずれは消えてその存在がなくなるのです。

つまりは存在するか存在しないかの世界ですね。そう捉えるなら、「空」と言うのは存在するでもしないでもないのです。

どちらでもないのですが、だからこそ私たちの思考では決して把握することができないのです。

あなたの本質は、今この瞬間でも実はその「空」にあり、この現象界にはありません。だからあなたは生まれたり消えたりしないのです。

一方で、あなたがこれが私だと信じてきた自我は、残念ながら現象界に属しているので生まれては消えていくのです。

私たちは存在とは確固としたものだと信じていますが、存在ほどあやふやなものはありません。それはちょうど海面の波しぶき程度のものと同じだからです。

あなたの脳に立ち上がる全ての決意信号は、その「空」からやってくるので、脳神経科学者にはそれが理解できないのですね。

てことで、あなたの独自の決意なんてただの思い込みの産物であって、全ては「空」からやってきたものでこの現象界は回っているのです。

じゃあもっと気楽に生きようじゃないですか〜

筋トレ中の声を聴く

昨年から筋トレをするようになったのですが、なかなか自分が望んだようには筋肉肥大してくれないものですね。

それでもほんの少しずつ、まるで亀の歩みのようにゆっくりゆっくり、じわじわと筋肉が増えてきました。

ところが先日ある理由があって、一週間程度筋トレをお休みしていたのですが、そうしたら見る見るうちに筋肉が落ちてきてしまいました。

増やすのは亀の歩みのように遅いのに、落ちるのは本当にあっという間だったので、呆れるやらびっくりするやらで。

休む前の状態に戻すのに数週間はかかるのかなと思うと、何だか脱力してしまいます。

とはいうものの、筋トレをしているととても面白い現象に出会えるのです。それは自分のマインドの中で張り合う複数の声の存在。

もう一回できるぞと誰かが言うと、今日はもう無理という声が聞こえてきたり、あるいは誰かが見ているから張り切ろうと言うのもいたり。

本当にさまざまな声がやってきて、その瞬間一番声のデカイ奴が主導権を取るのですが、誰が勝つかは全く分からないのです。

彼ら複数の声の攻防を聞きながら、そのどれもを愛おしく感じながら明日もまた筋トレするのでしょうね、たぶん…。

マインドこそが苦しみを生む

正確にはマインドの中にある自我の仕組みこそが、この世界のあらゆる苦しみを生み出す張本人だということです。

これは何かの例え話しでもなければ、方便として言っているのでもありません。本当に自我がなければ苦悩はないのです。

自我の特徴は、とにかく自分自身を正直な目で見るのが苦手ということです。だからいつも外側に向けて気を張って生きているのです。

そのために、苦しみの原因は常に外側にあると信じているのです。外側の問題を解決すれば、苦しみはなくなると思い込んでいるのですね。

だからこれが苦しみの原因だと思うものがなくなった時、一過性ではあるけれど確かに苦しみは無くなるのですが、またいつの間にか苦しみはやってくるのです。

それこそが、苦しみの原因は外側にはなく、内側のマインド(自我)にあったという証拠です。

この「私」こそが、あらゆる苦しみの大元だったと気づくことです。「私」という自我がある限りは、外側がどうなろうとも苦しみはもれなく付いてくるのです。

さあじゃあどうすればいいのか?まずは、苦しみの原因が「私」にあると理解した上で、だからと言って「私」を敵対視する必要はないと知ることです。

なぜなら、自我の仕組みがそのように備わっているのは、「私」のせいではないからです。それは初めからそのようになっているのです。

あなたがするべきことは、ただあなたの中にいる「私」を見守る側になるように練習することです。

見守る=距離ができる、ということで、自我の煩悩愚息の凡夫さ加減が滑稽に思えてくるのです。

もしも幸運が巡ってきたら、見守る側のあなたは生まれることも死ぬこともない、真の自己だと気づくことになるでしょうね。

煩悩愚息の凡夫

私たち人間というのは、自分にとって都合の悪いことや見るのが怖いようなことからは、目を背けてしまう傾向がありますね。

自分という奴はあれがダメだし、これもダメ、といった否定的なものを見たくないし、何とかしてそれを誤魔化そうとしたり、改善しようと努めるのです。

けれども、昔から人間には百八つの煩悩があると言われるように、誰も彼も例外なく欲望にまみれているのです。

自分はそれほどではないはずと思っている人も多いかもしれませんが、みんなドングリの背比べなのです。

というよりも、備わっている煩悩に違いはないということ。どの煩悩(欲望)を強く出しているかという色合いが少しずつ違うだけです。

最近、「煩悩愚息(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」という言葉にハマっています。煩悩まみれのどうしようもない奴というくらいの意味だと思うのですが、何だか気持ちよくないですか?

自分は割といい人だと思うよりも、煩悩愚息の凡夫と認めてしまった方が清々しい感じがするのは私だけでしょうか?

それを受容するのです。自我というのは、苦しみがないと生きていけないということも受容するのです。

そこが出発点になるととても気が楽です。出発点であると同時に、終着点でもあり、所詮は自ら煩悩をなくすなどということは不可能だと割り切ることです。

しっかり諦めがついたら、あら不思議。気のせいかな?何だか欲望が小さくなってきた感じがします。なくなりはしませんけど…。