子供時代の消化不良が後々問題になる

人は成長する段階で、特に子供時代と言われる大切な時期に、やっておくべきこと、体験する必要のあることなどがあるのです。

そうしたことが何らかの理由で足りてなかったりして、十分に体験できないままに大人になってしまうと、後々色々と面倒なことになるのです。

例えば、無邪気で過ごす時間が必要な時に、それができずに大人の顔色を伺ってみたり、妙に大人びた子供として生きてしまうことがあります。

そうなると、使われなかった無邪気さが、理性で生きようとする大人の中で炸裂してしまい、困った人になる可能性が出てくるのです。

あるいは、十分に甘える体験をしなければいけない時期に、甘えることができなかったり、かまってもらえずに大人になった場合にも問題が起きてきます。

甘えたい、かまって欲しいが残存してしまうため、大人になっても子供じみたかまってちゃんになることもあるかも知れません。

本人としては何の責任もないのですが、子供時代の欲求が消化不良を起こしているため、理性では太刀打ちできなくなってしまうのです。

このような場合の癒しの方法として有効なのは、大人の自分が内側で暴れている過去の幼い自分の存在にまず気づくこと。

そしてその子に対して、理想の親のように向き合ってあげること。気持ちを受け止めてあげて、甘えさえてあげて、十分にかまってあげるのです。

そのような作業を繰り返し続けていくことで、次第に子供の頃の自分が満足するようになり、大人の自分が困った事態から解放されるようになるのですね。 

不自然さから離れる

私たちの存在というのは、まったくもって自然の一部であるのですから、不自然に感じることとは相容れないはずなのです。

それなのに、人生には不自然に感じることや不自然に思えるような事が沢山あると思いませんか?それは全て自我のせいなのです。

自我というのは不自然さの中でしか生きられないのです。自我は自然に逆らう事で、何とか存続しているようものなのです。

元々、自然には分離というものがないのに、自我は自分は外の世界と分離していると思い込んでいるのですから。

そこからあらゆる不自然さが生まれるのです。一緒にいたくない人と一緒にいる、やりたくないことをやる、言いたいことを言わない。

勿論、私たちは野生動物ではなく、社会的な存在なので、街中でもよおしてもトイレが見つかるまでは我慢します。

要するに程度問題なのですね。少しの不自然さは許容できますが、正しさを優先するあまりの度を超えた我慢や理不尽さは不自然さの極みです。

毎日の生活を見返してみて、どの程度の不自然さと量があるのか、じっくり検証してみることです。

もしも物凄く不自然に生きているという事実が判明したなら、一刻も早くその不自然さからできるだけ遠くに離れることです。

それが難しいと感じるなら、セラピストなどのプロの力を借りることも検討してみるといいかも知れませんね。

思考を見守る

「無くて七癖」という言葉があるように、どんな人でもそれなりの癖を持っているものですね。

癖そのものがいい悪いということではないのですが、それに気づかずにいることで本人が損をしてしまうケースがあるのです。

癖にも種類があって、今日お話しするのは思考の癖についてです。「思い癖」と言ってみたり、私の場合だと「思考回路」、あるいは「思考パターン」などと呼んだりします。

要するに、決まって同じような考え方を使ってしまうということです。例えば、「自分が悪い」という思考パターンにはまっている人は多いです。

親に叱られたら、ああ自分が悪いんだなと。親が悲しんだら自分のせいだと思ってしまう。誰かに否定されても自分がいけないんだとなるのです。

それが進むと、誰かと誰かが言い争いしているのを見ただけで、何だか自分が悪いような気がするなど、私に言わせたらとんでもない自分への言いがかりです。

この「自分が悪い」という思考パターンにハマってしまうと、怒りの感情を感じることができなくなる傾向が強くなってしまい、その結果知らずに怒りを溜め込むことになるのです。

一方で、「誰かが悪い」という思考パターンを持っている人もいます。いつも自分以外の誰かが悪い、お前のせいだという思いです。

このパターンを使うと、強力な被害者意識を持って生きることになるので、人生がボロボロになってしまいます。

こういった無用な思考パターンから抜けるためには、自分の思考に気づいていてあげる必要があるのです。

そのためには、日頃から自分のパターンを覚えておいて、そこにハマっていないかをチェックする練習をすることですね。

意識的に生きることができれば、自然と自分の思考を見守ることにもなるので、是非とも実践することです。

安心するために思考を止める

学生の頃、調子に乗ってお酒を飲み過ぎてしまった翌朝、目が覚めて「アレ!?昨日あれからどうしたんだっけ?」ということがたまにありました。

完全な記憶喪失状態になってしまうのですね。お酒の席での途中までは覚えているのですが、それ以降どうやって帰宅したのかなどを一切覚えていないのです。

コンタクトレンズを外した記憶もないので、確かめてみるとちゃんと外して洗浄までしてあるのです。

どこかで転んだみたいにズボンが汚れていたり、知らない擦り傷などを見つけると、一体何があったのだろうとちょっと不安になるのです。

経験した人だけが分かることですが、記憶がなくなるというのは本当に嫌なものですね。自分が信じられなくなるのですから。

高齢になって短期記憶がなくなってしまうと、あの状態が日常的になってしまったのと同じなので、本人はとても辛いだろうと察することができます。

私たちは不安を払拭しようとしてあれこれと考えるのですが、その時思考が頼りにしているのは記憶なのです。

だから記憶がない状態では、安心したくて考えれば考えるほど思考は行き詰まってしまい、より一層不安になってしまうという悪循環を生むことになるのです。

そんな時には、日頃から意識的に生きる練習をしておけば、安心するためには思考を止めればいいと分かるので、すぐに瞑想へとシフトすることになるのです。

安心しようとして思考するという悪い習慣をなくしていく努力は、いずれやっておいて良かったと思える日が来るでしょうね。

自我はいらない問題を創る

昨日のブログでは、自我は不安を安心に変えようとする一方で、不安がなくなることを恐れてもいるという、何とも奇妙な自己矛盾について書きました。

それをまた違った言葉でoshoは表現しているのですが、それは次のようなものです。

「人はいらない問題を創る。私はあなた方に理解してもらいたい。自分で創る問題以外に、生において問題など存在しないのだ。」 by osho

これまた高齢になった母親の言動を見守っていると、上記の言葉がスッポリとはまって、非常に納得がいくのです。

客観的に見て何一つ問題がない状態において、あれやこれやと勝手に問題を創りあげては、困った困ったとやっているのです。

食べ物がなくなったらどうしよう。家の鍵が見つからなかったらどうしよう。こうした不要なありもしない心配事を無限に作り出しているのです。

私たちは問題が起きれば、いち早くそれを解決してスッキリとしたいという願望を持っているのですが、一方で問題がなければそれはそれで困ってしまうのです。

だから自我の毎日というのは、問題を創って(見つけて)はそれを解決するという無限ループを呈しているのです。

いわゆる自作自演という言い方もできると思います。ああ、そういえば15年くらい前に「人生は自作自演」という記事を書いたことがありました。

今日の内容をもう少し一般論に拡大したような内容だったと思います。ホームページのコラムの方にありますので、気が向いたらそちらも読んでみて下さい。

不安と闘うことで生きる自我

自我というのは、常に安心を求めて生きているのです。なぜなら、自分の根っこにはどうにも払拭し得ない不安がデンとあるからです。

だからいつも自己防衛に熱中しているのです。防衛することで不安を安心に変えようとするからです。「自我=防衛」と私が呼ぶのはそのためです。

ところがです。その一方では、不安がなくなってしまうことを物凄く恐れてもいるのです。これは自覚できないのが普通です。

高齢の母親は、世界で一番するべきことが何もない、非常に安泰な状態で生活しているにもかかわらず、時々どうしたらいい?という感じでプチパニックになります。

その様子を見ていると、不安を探して見つからないので、無理矢理でも自分を騙してなんとか不安をでっちあげるということをしているのが透けて見えるのです。

真に安心してしまうと、自我は生きていけないのです。安心の中で、緩んで溶けていってしまうのです。それがとても怖いのでしょう。

だからはっきりさせる必要があるのですが、あなたという自我はいつも不安から逃れて安心したいと願っているのですが、その裏では本当に不安が消えてしまうことを死ぬほど恐れてもいるということ。

この絶妙なバランスの間で、自我は存続しようとしているのです。このバカバカしさを深く理解して、その右往左往ぶりを見守ってあげることですね。 

分離感のくだらなさ

今現在、人類は数十年に一度、あるいは百年に一度のパンデミックに襲われている状況がまだ続いています。

ちょうど100年前に、スペイン風邪が流行って、当時の世界の人口18億人の三分の一くらいの人が感染したそうですね。

そのうち死者は5000万とも1億人とも言われています。ものすごい死亡率だったわけで、今回はまだそこまでは酷くないようです。

こんなに酷い目に遭ってしまうと、ウイルスというのは本当に恐ろしいものだという認識になるのは当然かも知れません。

けれども、実はウイルスがいなければ今のような人間にはなっていなかったと言われたらどうでしょうか?

胎児がお母さんのお腹でスクスク育つためには、母体の血液が赤ちゃんに入って行かないような絶妙な仕組みが必要なのです。

その仕組みを司っているは、実は大昔のウイルスの遺伝子からやってきたということらしいのです。

あるいは、私たちの身体には抗体という仕組みがあって、それが菌などのよそ者から身体を守ってくれるのは周知の事実ですが、それもウイルス由来の遺伝子が司っているのだとか。

それ以外にも人間の遺伝子の半数近くがウイルス由来の遺伝子らしいのです。これを知ると、人間が環境から独立した生物だなんてことが、どれほどの勘違いかがわかります。

私たち人間は、この世界の一部であって、そのどこにも分離など存在しないということです。自我だけが持っている分離感のくだらなさをしっかり認識する必要がありますね。 

まずは内的世界を探求する

私たちは誰でも自分の非常にプライベートな内的世界で生きているのです。私はそれを小さい頃からなんとなく感じていました。

人によっては、そのことにあまり気づかずに生活している場合もあるでしょう。けれども、気づいているかどうかの違いがあるだけで、実際には皆が同じ状態にあるのです。

自分の内的世界以外のことは知ることができません。互いにそれを知ることも決してできないことは明白です。

私たちにできることは、類推することだけ。きっとこうに違いないとか、自分もこうだったので、あなたも同じだろうということです。

それを知っているとするのは間違いなのです。だからそこはもうキッパリと諦めること。一人ひとりの内的世界が交わることはないのですから。

その代わりに内的世界をしっかり見つめ直すのです。自分が生きているプライベート世界とはどんなものなのか。

そしてそのプライベートな世界、空間を探求し続けていると、今度はその中にこの宇宙の全てが含まれているという感覚がやってきます。

そうして、自分は個人ではなかったと気づくのです。これは、たった一人孤独の中で瞑想しているうちに、全体性へと変化していくことに似ています。

内的世界だと思い込んでいたのは自我であり、見つめ続けるうちに自我が小さくなって、その結果内側も外側も消えてしまうのですね。

人の目を恐れるな

自我が芽生えるまでは、誰もがある意味、純粋な動物のような生き方をしていたのですが、自我と共に私たちは「他人から見られる存在」へと変化してしまったのです。

自我がない時には、見られる自分がいないので、世界と一体で生きているのです。それが、なんと残念なことに自我と共に周囲から見られる存在に落とし込まれたのです。

それからが地獄の人生の始まりというわけです。そうなると、他人からどう見られるのかが気になって仕方なくなったのです。

もちろん、あまり気にならない人もいれば、ものすごく人の目が気になってしまうタイプの人もいます。

後者の人の場合は、大抵がいわゆるHSP の人、つまり過度に敏感な気質を持っている人であることが多いでしょうね。

かつてこのブログでも書いたことがありましたが、オーストラリアのホスピスで死にゆく人々への「一番後悔していることは?」というアンケートを取った時のこと。

その結果、「他人の目を気にしてやりたいことをやらなかったこと」がダントツ一位に輝いたのでした。

人にどう思われるか、どう見られているのかを気にするあまり、自分に正直な生き方ができなかったことへの後悔を、多くの人が持っているということですね。

見られる存在としての自我として生きているのですが、それでも他人からの評価ほど当てにならない、バカバカしいものはないという理解ができるといいですね。

全体性が消えなくなる

瞑想と言うと何となく難しそうで気が乗らなくなるかも知れないので、ただ少しの時間静かに坐していようとするのです。

しばらくするとマインドが色々働きかけて来て、今そこに座って瞑想しようとしてるんだねとか、身体の体勢などのイメージも送ってこようとします。

いつものことなので、それと闘おうとせずにそのままにしておくのです。すると身体とは全く無関係の意識だけが際立ってくるのです。

そうすると身体でもマインドでもない、ただ気づいていると言う状態になって、個人でも日本人でも誰でもない感覚が目立ってくるのです。

あらゆる概念から解放されることで、大きさや形という空間もなく、時間もなくただ在るだけになってきます。

それでも時々マインドが疑いを投げかけて来るのですが、それはマインドが置き去りにされて、消えそうになるのを恐れているからなのですね。

知識が何の役にも立たず、過去も未来も消えて行くと同時にマインド自体も消えそうになるのを恐れて暴れ出そうとするのです。

もしもそうなっていきなり目を開けてしまったら、このプロセス全体が正しい方向に行っていたことを物語っているので、喜んだ方がいいですね。

そうしてまたマインドに呑み込まれたとしても、あの誰でもない感覚は残ってくれるので、また次もすぐにノーマインドの状態へと入って行きやすくなるのです。

そしていつどんな時であっても、概念から解放された全体性の感覚と共に生きる事ができるようになるのです。これに勝るものはありません。