自我は「ふつう」が嫌い

もしもあなたが描いた絵を見て、誰かが「ふつうだね」っていったらどうでしょうか?何だかあまり嬉しくないはずです。

自分の性格について、他人から「ふつうで特に特徴があるというわけではない」と言われたら気分が悪くなるかもしれません。

このように、「ふつう」という言葉は決して否定的なことではないはずなのに、私たちはこの言葉をいい気持ちでは受け止められないのです。

それはなぜかというと、自我というのは「ふつう」が嫌いだからです。「ふつう」であるということは、大勢の中にあって埋もれてしまうからです。

埋もれてしまったら、自分の存在が際立たなくなって、いてもいなくても同じと言われているように感じるのです。

自我は自分が存在していることを周囲に知らせたくて仕方がないのです。実のところ奥深くでは、そのくらい存在があやふやだと感じているからなのです。

極端に聞こえるかもしれませんが、実際「ふつう」でなければ何でも構わないと思っている節もあるくらい。

人よりも飛び抜けて優っていることだけでなく、その逆に極端に劣っていることでも「ふつう」よりはマシなのです。これはよく見なければ自覚できませんが。

だからこそ「ふつう」であることは、自我にとっては最も難しいことなのです。その難しい「ふつう」であることこそが、中道を生きるということなのですね。