充分以上をイメージすると…

リラックスとはこの瞬間が充分以上であり、求め、期待され得る以上だということだ。

求めるものは何もない。欲し得る充分なもの以上–。そのときエネルギーは決してどこへも動かない。

それは穏やかな淵となる。自分自身のエネルギーの中に、あなたは溶け去る。

by osho

期待していること、欲していること、それらがどんなものであれそれ以上のものがここにあるとしたら、とイメージしてみるのです。

一般的には、これが手に入ったらいいなとか、こうなったら嬉しいなといった程度をイメージしてみると思います。

けれども、ここではそれがすべて実現してもう充分だと感じることをはるかに超えたものがやってくる。

そのときにこそ本当にリラックスすることができるというのです。だとしたら、真にリラックスしたことなど自我ができてから一度もないのでしょうね。

もしも本当のリラックス状態がやってきてしまったなら、自我は消えてしまうのです。自分自身のエネルギーの中に、あなたは溶け去る…とはそういうこと。

なぜなら、自我はもう求めることができなくなってしまうからです。欲望こそが自我の存続を支える原動力なのです。

私の中では、「充分以上」というのをイメージしようとした記憶はありません。充分過ぎて、自我が発狂してしまいそうなときに、静かな至福で満たされるのでしょうね。

自我から離れれば、くつろぎはやってくる

くつろぎとは何だろうか?それはあなたのエネルギーが未来へも過去へもどこへも動かないひとつの<境地>のことだ。

エネルギーはただあなたとともにある。自分自身のエネルギーの静寂の淵の中に、その暖かみの中に、あなたは包まれる。

その瞬間こそすべて。ほかにはどんな瞬間もない。時が止まる。

by osho

時が止まる…、本当に時が止まる時にはそんな概念すら消えてしまっているものです。だからそれをイメージすることはできません。

不安や孤独から逃れるために、闘い続けるのが人生なのですが、それは自我として生きているならある程度は仕方のないこと。

けれども、そんな闘いの日々の中でも、時には「くつろいでいる」時間がどうしても必要なのです。

くつろげば、休戦状態の中でゆったりとした気持ちになるし、束の間自我から離れていられるかもしれません。

ところが、隠していた不安や孤独が必ずやってきてあなたを脅すのです。くつろいだって、何も変わらない。そんなことでは救われないと。

だからくつろぎの境地を目指すだけではどうにもならないのです。自分の本質が自我と同化していることを見抜くこと。

それができれば、くつろぐことはたやすいことになるのですね。

マインドは振り子のようなもの

振り子を思い浮かべて下さい。振り子は、何も手を加えなければ、地球の引力によって下に引っ張られているだけなので、垂直に静止していますね。

指でつまんで少しだけ引っ張って手を離すと、その分だけ反対方向へと振れて、それがしばらく繰り返されて終いには停止します。

もっと強く引いてあげると、より強く反対方向へと振れることになります。ブランコなどでも同じ原理ですね。

実は私たちのマインドでも全く同じことが言えるのです。マインドの一部がどちらかに揺れると、それと同じ分だけ反対方向へと向かう部分が出来るのです。

これがマインドの分裂です。一方がどこかの方向に強く向かえば向かうほど、もう一方が同じ分だけ反対方向へと向かうことになって、バランスが取れるのです。

両者の距離が大きくなればなるほど、分裂の度合いが強くなるということです。その時、マインドは最も勢いがある状態なのです。

たとえば、自分はこうあるべきだという思いがあれば、そんなの辛いから嫌だという思いがやってきます。それが分裂です。

こうあるべきが信念のように強力であれば、その分だけ嫌だという拒絶も強くなって、分裂は大きくなるのです。

それが心を病むということです。放っておくと自然と振り子は静止するのと同じように、マインドも放っておけばいつかは分裂の度合いが小さくなって、真ん中で静かにいるようになるのです。

それが中道を生きるということです。そのとき、もうマインドは勢いがなくなって、自然と消滅していくことになるのでしょうね。


観照者に焦点を合わせる

体験されることはすべてみな幻なのだと覚えていればいい。体験する者のみが真実なのだ。

観照者に注意を払いなさい。体験にではなく、その観照者に焦点を合わせなさい。

たとえどんなに素晴らしくても、いっさいの体験はみな夢もどきにすぎない。ひとはそれらをすべて乗り越えて行かなくてはならないのだ。

by osho

意識的であるとは、最終的には観照者に焦点を合わせる、意識が意識に意識を向けるということなのです。

こうしたことは、どれほど研究を積んでも思考には理解することができないことです。

体験という現実は、究極的にはイマジネーションに似たものです。現れては消える、それが真実とは異なる特徴なのです。

意識である観照者とは、あらゆる現実の背景として在るのです。それこそが私たちの本質なのです。

背景は何でもないもの、あれとかこれとか言えない永遠のものです。ここに意識を向けていると、そこはかとない至福感がやってきてくれますね。

自己イメージを見つけるには

あなたはどんな自己イメージを持っていますか?と聞かれたら、その答えを得るために私たちはこれまで生きてきた記憶を辿るのです。

どんなことが自分の身に降りかかったのか、自分の性格はどんなものでどういった傾向を強く持っているのかを思い出そうとするのです。

そういったことも確かに自己イメージの一部を担っているのですが、もっと明確に自己イメージを見つける良い方法があるのです。

それは、自分が自分のことをどう思っているのかではなく、自分は周囲の人々からどんな人間だと見られている、と感じているかを思い出すのです。

それこそが自己イメージの中心となるものなのです。要するに、自己イメージというのは実体のあるものではありません。

そして人からこう思われているに違いないというのも、それが事実かどうかを本当に知ることはできないのです。

結局、そう思われていると自分が思っていることが、自己イメージを作り上げているのだということを理解することです。

そしてその自己イメージがどんなものであれ、そのすべてが嘘だということをしっかり見抜くことです。それが人生を変えることになるのですから。

意識的であるとは?

意識的であるということが、どういうことなのかよく理解できないという人は、睡眠中の夢のことを思い出せばいいのです。

非常にリアルな夢を時として見ることがありますね。目が覚めたときに、本当に体験したかのような感覚が生々しく残っていたりするのです。

けれども、その夢がどれほどリアルであったとしても、夢は意識的ではあり得ないのです。

夢は無意識的な体験なのです。その体験をしつつある自分を見つめていることができないからです。

夢はその仮想的な体験のみに意識が集中しているのです。意識的であるときには、どこかに100%集中しているということはありません。

必ずすべての状況に対して気づいているようになっているからです。夢を見ている自分に気づいてしまったら、必ず目が覚めてしまうでしょう。

ここまで読んでも、夢と現実の違いが分からないのでしたら、現実を生きていても意識的ではないということです。

この文章を読んでいる自分に意識を向けていること。視線は画面に向かっているのですが、同時に真反対の方向にいる自分を意識するということですね。

自己批判もマインドのもの

初めに、自分自身を批判するのを止めることだ。批判する代わりに、あなたの不完全さ、あらゆる弱さ、あらゆる誤り、あらゆる失敗を持つあなた自身を受け入れることから始めてごらん。完全であることを自分自身に求めてはいけない。それは不可能な何かを求めているだけだ。所詮あなたは人間なのだ。

by osho

↑所詮あなたは人間なのだ、というのは自我として生きているということです。思考が凝縮したマインドがあなたをまとまった一人の人間に仕立てあげているということ。

自分が人間であるという思いは、マインドの思考によるものであって真実ではないということを見抜くこと。

マインドは自分とその外側に広がる世界とが分離していると信じている思考群なので、もうすでに真実から遠く離れてしまっているのです。

常識的に知っているということと、単に信じているということが同じだということを明確に理解することです。

そうすれば、自分自身を批判するのを止める代わりに、その批判する自分はマインドの作り上げた偽物の自分だと分かるはずです。

自分の不完全さ、弱さ、誤り、失敗、それと同レベルに自己批判もただあるだけだと理解することです。

そうなったら批判するのをなかなかやめられない自分を批判することだけはなくなっていくはずです。

マインドを愛を持って見つめてあげるという練習を続けていれば、こうしたことがはっきりしてくるはずですね。

マインドが止まれば真実がやってくる

何が(真実の)判断基準なのだろう?唯一の判断基準は、それがあなたに至福を与えるかどうかだ。もしそれが、時間が消え、マインドが消え、突然世界が止まる地点にあなたを連れてゆくなら、それは真実だ。真実のみが世界を止めることができる。真実のみがマインドを止めることができる。

by osho

↑突然世界が止まる…と言われても、そんなことはあるはずがないと思ってしまうとしても、それは当然のことですね。

こうした表現をそのまま鵜呑みにしてしまうと、より真実から遠ざかってしまうのです。所詮この内容をそのまま自我が理解できるわけはないのです。

一時的であったとしてもマインドが停止した状態になれば、世界が止まるという本当の意味を知ることができます。

世界が止まるというよりも、時間というものはないのだということが明確に分かっている状態になるということです。

過去と未来をイメージしているのは思考であって、その思考がマインドとともに消えてしまうと、今しかなくなってしまうのです。

どこへも流れていく先などないということが分かるということ。↑上の表現は私の中では反対なのです。

真実のみが世界を止め、マインドを止める…と言っているのですが、マインドが止まれば世界が止まると同時に、真実が顕れてくるということですね。

自己イメージは自我の持ち物

私たちの誰もが自我として生きています。それは避けようのないことなのですが、その代償は計り知れないくらいに大きなものです。

自我の根っこにあるものは、幼い頃に周りにいた大人たちによって作られてしまった自己イメージなのです。

それは全くもって本当の自己とは異なるものですが、それ以外の自己イメージを持つことができないために、それを後生大事にしてそれこそが自分だと信じ込むのです。

どんな自我を持った家族に囲まれて幼い頃を過ごしたか、それこそがどんな自己イメージを植えつけられたのかということを意味するのです。

もしも親に関心を持ってもらえないという感覚を受け取ってしまったら、それこそ大変な人生が待ち構えることになってしまいます。

なぜなら、関心を持ってもらえない自分というのは価値のない存在だという、途方も無い間違った信念を持ってしまうからです。

人生のどの時点からでもいいので、あなたがどんな自己イメージを持っていようと、そのすべてを嘘っぱちだと見破ることです。

自己イメージは自我のものであり、あなたの本質はそれとは全く異なるもの、純粋な意識なのだということに、気づくことが大切ですね。

ただすべてを見守る

禅の方式は単純だ–非行為、無為。何もせずに静かに坐ること–外も見ず、内も見ず、まったく何も探さずに、ただ自分自身でいること–すると、その瞬間に、仏陀が知られる。仏陀はあなたの存在そのものだ。仏教の”仏陀”は、他の宗教で”神”が意味するものとまったく同じだ。

by osho

私たち人間にとって、もっとも難しいことは何もしないことです。たった1分と言えどもじっとして何もせずにいたら、すぐに何かの考えが浮かんできます。

何もしないのですから、考えることもしないはずなのに、気がつくと何かを考えている自分がいます。

身体を動かさずにじっとしていることだけでも、それほど長い時間はいられるものではないですね。

つまり自我というのは、何かをし続けることで生き延びるものなのです。何もせずにただ在り続けると、自我は発狂しそうになるはずなのです。

そして最終的には自我が消えていくことになるのでしょうね。けれども、そんな荒療治をせずとも、少しずつ自我のいない雰囲気を感じられるようにはなります。

それが瞑想だったり座禅だったりの練習を通して身につけていけるものです。もしも思考がやってきたら、それをただ見守ることです。

↑上で言っている「ただ自分自身でいる」とは、ぼーっとしていることではなく、意識的な状態でいるということです。

それが見守るということです。私たちの本質は覚醒した意識だからですね。