誰かになろうとしない

自我というのは、思考によってでっち上げられたものなので、実在するものではないのです。

だから心のうちは常に暗澹としているのです。自我の努力というのは、何とかしてしっかりとした誰かになろうとすることなのです。

社会で認められる人、心のやさしい人、何かの能力に抜きん出ている人、誰からも好かれる人、人格者等々。

こうした理想的な自分像を掲げて、絶え間ぬ我慢と努力を重ねて、何とかそんなピカピカな自分になろうと奮闘するわけです。

それが自我の習性であることを深く理解すること。自我として生きている限りは、大なり小なりこうした原動力を持っているのです。

ところが自我は一つ隠していることがあるのです。それは、本当にそんな自分になってしまったら、それはそれで困り果てるのです。

なぜなら誰かになろうとする目標がなくなってしまえば、それこそ自我の生きる原動力が消えてしまうからです。

つまり誰かになろうとしてなれないことで自己嫌悪になると同時に、なってしまったらなったで路頭に迷うことになるのです。

ただ在ることにくつろぐことができたら、誰かになろうとすることもなく、自然と自我は小さくなり、あらゆる奮闘努力、そして不安から解放されるのですね。

内側にのみ真実がある

老子は、真理を見出すために部屋の外にでてゆく必要はない、扉を開ける必要すらない、目を開ける必要すらない、と言う–。真理とはあなたの実存だからだ。それを知ることがブッダフッドだ。

by osho

一般的に瞑想するときに目を閉じるのは、↑こうしたことが理由なのですね。目も耳も外側に向けて知覚するようにできています。

そういった感覚を閉ざすことで、意識を内側に向けやすくさせようとする目的があるということです。

↑老子のこのような言葉を聴くと、どれだけ私たちが社会という外側の世界ばかりを見て暮らしているのか、理解することができますね。

そればかりか、外側の世界だけが頼みの綱だと思い込んでいます。何かを手に入れるのは決まって外側の世界からだからです。

仕事でもレジャーでも、すべてが外にある。観光をしてみたり、人と一緒に何かを体験するのも外側なのです。

内側だけがまったく独りで向かう孤独な世界。けれどもそこにのみ真実が隠されていると言っているのです。

現実的に言って、外側を見ずに生きることはできないので、外側と内側の両方に意識を向けていられる練習をすることが必要です。

たとえば目を開けていても、何も見ずにいる実践を繰り返すと、目を開けたまま瞑想をすることができるようになります。

瞑想の方法が分からないという人がいますが、要するに内側に意識が向いている状態でいることだと理解すればいいのですね。

そしてより深く内側に向くことで、実は内側と外側を区別していたのは自我だったと気づくことになるのです。真実には内も外もないのです。

自我は孤独、全体性は単独

もしあなたが自分自身を深く見守ったら、驚くだろう–。あなたの行動はすべてみな、ひとつの原因に帰着しうる。その原因とは、あなたが孤独を恐れているということだ。その他のことはすべて口実にすぎない。ほんとうの理由は、あなたが自分はひじょうに孤独だと気づいているということだ。

by osho

孤独は自我にとっての根源的なものです。自我という思考は、自分とは外側の世界とは隔たった独立した存在だという思い込みでできているのです。

つまりは自分以外のいかなる存在とも交わることができないということ。肌と肌をくっつけることはできても、それよりも深く一つになることはできません。

それが孤独を意味するのです。それを避けようとして、自我はあらゆる手段を使って防衛するのです。

誰かと一緒にいれば、孤独をごまかすことができるので、家族、友人、恋人、それ以外の誰であれ、上手に利用して孤独から解放されようとするのです。

けれども、孤独を癒すことは原理的に不可能なこと。まずはそのことをしっかり理解することです。

孤独ではないと感じている人がいるのは事実ですが、それは孤独から目を背けていることに成功しているに過ぎないのです。

孤独感に苛まれているとしても、そのことを恥じないこと。それは単に孤独に気づいているだけだと受け止めるのです。

地球上のすべての人々が同じだけの孤独を持っているという事実を思い出し、孤独から逃げずにいることです。

自分は孤独なのではなく、単独だということに気づくなら、それと同時に自我も小さくなっていくはずです。

願望が失望を生む

偉大な思想家ラスキンはこう言った。人生にあるのは二つの失望だけだ、と。あるものを望みながらそれが得られないことと、あるものを望んでそれを獲得することだ。二つの失望のみ。それを得なければ、たしかにあなたは失望する。ところが得ても、やはりあなたは失望する。

by osho

数年前に、部屋の隣に広いバルコニーのある生活がしてみたいと思い立って、いろいろ物件を探していたことがありました。

運良く、ちょうど手頃な家賃の貸しマンションが見つかり、気持ち良さそうなバルコニーもついていて、さっそく猫足バスタブを購入して、外の空気を感じながらの入浴を楽しみました。

初めてのバルコニー生活はなかなか快適で、お風呂だけでなくそこで飲食をしたり、ゆったりと読書をしたり、勿論瞑想をしてみたり。

こんなに気持ちいいのだったら、もっと早くバルコニー生活を手に入れておけばよかったと思ったものです。

真夜中に寝っ転がって星を見たり、運が良ければ流れ星に出会うこともできます。そういえば、UFO を目撃したこともありましたね。

ただ残念なのは、真夏と真冬はとてもじゃないけれど、外での生活は無理なので、一年の間に心地よく使える期間は限られていたのです。

早く穏やかな季節にならないかなと思っていたところ、よ〜く心の中を見てみたら、あれほど憧れていたバルコニー生活に対して、もうそれほどの魅力を感じてはいないことが分かっちゃいました。

ああ、やっぱりまたいつものやつが出てきたのです。つまり、願望が達成されても、しばらくすると今度はまた別の何かを欲するようになる。

結局は、何を手に入れたとしても失望するからこそ、また次への願望が生まれるのです。この繰り返しをいつまで続けるのか?じっくり見る必要がありますね。



罪悪感ほどくだらないものはない

もしもあなたが罪悪感を感じずに生きたいと願うなら、できる限り従順な人物になればいいのですね。

自分の正直な気持ちや思いを下に置き、他人の気持ちや意向、あるいは期待を優先するような生き方を選べばいいのです。

そうすれば、罪悪感どころか恐怖も小さくなるかもしれません。人から否定されることも少なくなるし、逆に好かれる人物になれるかもしれません。

ただし、知らぬまにあなたの自我は強大化するでしょうね。それは最大の防衛方法だからです。

そして防衛はそれに比例して自己犠牲を生み出します。要するに、その瞬間瞬間は安心安全なのですが、いずれは我慢のエネルギーが噴出するのです。

そうそういつまでも奴隷のような人生が続くわけがありません。ひどい病魔に冒されるか、鬱の人生が待っています。

そうならないためには、最初に戻って、罪悪感を感じずに生きようとすることが間違いだったと気づくことです。

罪悪感は必ずやってきます。それはマインドで生きる限りは必然なのです。そのことを織り込み済みで生きるのです。

そして罪悪感によって死んだ人などいないことも思い出して下さい。罪悪感を恐れずに、できるだけそれを味わうのです。

罪悪感と共に生きることを選ぶのです。最後は、罪悪感ほどくだらないものはないと気づくことになるはずです。

そうなったらもう、二度と罪悪感などやってこなくなってしまうでしょうね。

モノの処分で思うこと

最近ちょっとした引越しをしたのですが、普段なるべくモノを増やさないように生活していたつもりでも、処分すべきモノがたくさんでました。

普通のゴミとして捨てられるものはいいのですが、粗大ゴミや専門業者に引き取ってもらわねばならないものなど、それなりにありました。

そのたびに、あれが欲しいこれが必要だと思って購入したのですが、こうして処分するときのことも少しは考えておいた方がよかったなと感じたのです。

処分するにも労力もお金もそれなりにかかるからです。それなりにと言いましたが、実際には結構な労力と時間が必要になるのですね。

ただ、処分せずに残ったモノであっても、私の場合は貴重品とか高価なモノなどは一つもないので、その気になったらいつでも廃棄できるものばかり。

形見的なモノもないし、自分が生きてきた証のようなものもまったくありません。自分が死んだ後に財産分与などが起こる心配もありません。

そういう意味では、いつでも身一つで死んでいく準備はできてるようなものです。落ち着いたら、もっともっと身辺整理したくなりましたね。

外側のものでは満たされない

あなたがそれを取り逃しているのはそのためだ。なぜなら、あなたは外側を見ているが、それは内側にあるからだ。あなたは外を探すが、それは内にある。それゆえに、あなたの探求とその宝は絶対に出会わない。外の世界の果てしない道に旅立つ前に、内なる世界を一目でも垣間見るがいい。

by osho

それは内側にある、の「それ」とは一体何のことでしょうか?私たちが探している「その宝」とは何なのでしょう?

それは誰もが無自覚ではあってもずっと探し求めているもの、それは自分の真実、自分の本質、自分の根源なのです。

それをすっかり忘れてしまった上に、見当違いのもので代用しようと外側にばかり目を向けて生活しているのです。

自分という存在は個人だという根深い思い込みがあるため、何かが足りないという欠乏感を拭うことができずにいるのです。

それを解決しようとして、外側にあるものを手に入れることで自分を満たそうとするのが人生なのです。

したがって何を外側から入手しようとも、決して満たされるということはありません。だから死ぬまでその努力は続くわけです。

もうそろそろ外側に求めることの虚しさに気づき、向きを180度変えて内へ内へと意識を向ける練習に取り掛かる必要があるのです。

そして自我の壁、自我の抵抗をものともせずに内側深くに入り込むことができるなら、いつかは自分の芯にある「何もなさ」と出会うことになるはずです。

二刀流で生きる

広大無辺の青空の中に、無数の雲が来り去ったりしているのを見ることができますが、自分の内面も同じように見ることが肝要なのです。

通常私たちは、マインドと自分を同化しているため、自分という存在は○◯という人物だと思い込んでいます。

それはマインドが100%の自分なのです。そうなると、その自分がすべてなのでそれをもっと何とかしたい、もっと磨きたいと思うのです。

自分を変えたいという欲望を持っていないマインドはありません。けれども、自分を変えようとして変わるものではないのです。

勿論、表面的な自分が変わることはいくらでもありますが、それはあくまでも表層的なことであって、芯からの変化ではないのです。

それよりも、マインドの自分の部分とそれを見ている部分の二面性に焦点を当てることが大切なのです。

マインドという雲の塊の部分と、青空という「見る」部分の二つが常に自分の内面に在るという自覚。

こうなると、マインドとしてこの社会で生きている部分はそのままでありながらも、もう一方では常に「無」あるいは真実を体験している自分がいるのです。

この二刀流の生き方ができるなら、マインドはいつかその勢いをひとりでに失っていくことになるのですね。そして青空だけが残ることになるのです。