追い詰められたらチャンスあり

我が国日本では戦後70年以上に渡って、幸運にも戦争に巻き込まれることなくやってきましたね。だから今では戦争経験者がとても少なくなってきました。

国レベルでは戦っていないのですが、個々人の内面で戦っている人はたくさんいます。クライアントさんの中にも一定の割合でいらっしゃいます。

一体何と戦っているのか?他人となのか、社会となのか?個々人の本当の戦いというのは、自分自身との戦いなのです。

一見すると、誰かと戦っていたり、環境と戦っているように見えても、その実は自分のマインドの中で戦いが起きているのです。

自分で自分に何らかの圧力をかけたり、何かを強いることで日々が戦いになってしまうということです。

だからリラックスすることができなくなるし、いつも重い荷物を背負ってしまっているような感じがするはずです。

力を入れることよりもリラックスすることの方が遥かに難しいのと同様に、戦うことよりも戦いをやめることの方が断然難しいのです。

なぜなら戦う唯一の理由は、不安や恐怖から逃げようとすることだからです。戦いをやめるということは、その不安や恐怖と直面することになるのです。

だから戦いをやめるためには、勇気と決断が必要になるのです。けれども、勇気がなくても戦いをやめられるチャンスもあります。

それは追い詰められたとき。追い詰められると、人は勇気を使わなくても戦いから足を洗うことができるのです。

きっといつかはそんなチャンスがやってくるはずです。だから、追い詰められた状態になったなら、やっとチャンスがきたと理解することですね。

信頼を見出そう!

信じるためには、それがどんなものであれ信じるに足る根拠が必要となりますね。根拠なく信じてしまえば、盲信と言われてしまうのです。

ところが信頼というのは、どんな根拠も必要とはしないのです。というより、根拠を持つこと自体が不可能なのです。

なぜなら信頼にはターゲットがないからです。ターゲットがないということを直感的に理解することです。

あなたが何かを信頼するという言い方よりも、あなたの本質が信頼なのだという方が真実に近い感じがします。

もしもあなたが自分の内側に信頼を発見するなら、人間(自我)が根っこに抱えている不安や孤独も消えていくことになるはずです。

私たちは不安を安心に変えたい、孤独という恐怖から逃げて安心したいと常に思って生きているのですが、その方法では決して不安も孤独もなくならないのです。

鍵となるのは、信頼なのですね。信頼への深い理解がやってきたら、人間(自我)が抱えているあらゆる苦悩がなくなってしまうでしょうね。

信頼はいつも静かな恍惚感とともにあるような気がします。表現を変えれば、至福感でもあるようです。

意味のない言葉遊びになってしまわないように…、実践あるのみです。ほんの少しの時間でも内側深くに入って、それを見出せるように。

期待がなければ救われる

あなたが仮にオリンピック選手だとして、金メダルを獲ることを期待されるのと、参加することに意義があると言われるのとどちらを選ぶでしょうか?

それは勿論金メダルを獲れる選手だと期待される方がいいに決まっていますよね。誰だってより上位の成績を期待されたいのですから。

あなたが子供の時に、ご両親から何も期待していないと言われるよりも、期待してるからねと言われる方が嬉しいはずですね。

つまり、人は期待することや期待されることに肯定的なイメージを持っているのです。誰にも期待されなくなったらおしまいだと思っているのです。

けれども実は愛というのは一切の期待がありません。なぜなら愛は未来には関心がないからです。今この瞬間に対して、期待するということは不可能だからです。

じゃあ期待というのは一体何なのか?それはズバリ、防衛なのです。自分自身や相手に期待することで、安心を得ようとしているのです。

愛とは無防備のことなので、期待することがないわけです。とはいうものの、自我というのは期待をなくしたらこれまた生きてはいけません。

だからそこそこの期待を持つのは構わないのですが、期待値を高くしているととても生きづらい人生がやってきます。

自分への期待値が高過ぎれば、人生は戦いになるし、惨めさがいつもつきまとうことになるはずです。

そして他人に対する期待値が高ければ、依存が強くなって不満ばかりが募り、これまた不自由な人生になってしまうのです。

一度あなたの期待値を細かく調査してみるといいかもしれませんね。期待がなくなったとき、本当に救われるはずだからです。

マインドは分裂だらけ

私たち人間の生物としての生理現象なのですが、好きな人とは一緒にいたいと思うし、逆に嫌いな人とは距離を置きたいと思うものですね。

このことは人と人との間に限らず、一つのマインドの中でさえ起きるのです。つまりあなたが自分の◯◯な部分が嫌いと感じると、そこから離れようとするのです。

離れようとすると言っても一つのマインドの中でのことなので、具体的には◯◯な部分を抑圧して、それがないことのようにするということです。

そうしてマインドは分裂するわけです。事実、私たちのマインドは分裂だらけなのですが、気づいていない人が多いのです。

なぜなら気づいてしまったら、抑圧している意味がなくなってしまうからです。その都合の悪い〇〇な部分というのにも色々あるのです。

たとえば、辛気くさいとか嫉妬深いとか、受け止めきれない否定的な性格の場合もあるし、感じたくない過去に溜めた感情の場合もあるでしょう。

つまりは自分自身の人格や肉体に関連する場合と、体験と紐付けされているネガティブな感情の場合とがあるのです。

そのどちらもが都合の悪い自分の一部となって、その他の部分から強く引き離されてしまうのです。分裂が大きくなればなるほど、裏側に回され隠された部分がいつかは復讐に転じてくるのです。

それが表舞台に出てきて活躍すると、表側のあなたは人生で大きな困難を迎えることになるかもしれません。

癒しというのは、マインドとは分裂しているものだという事実を深く理解することから始まるのです。

そして、その分裂の原因を探して、それを受け止めることで分裂を小さくしていくことなのです。場合によっては専門家の力を借りる必要もあるかもしれませんね。

自我と社会の相互作用

私たちの自我というのは、社会によって作られると言えます。もう少し正確に言うと、社会によって作られた他(親など)の自我によって作られるのです。

社会によって育てられた自我が成長することで、また新たな社会をもたらすことになるのです。

そしてまた更にその新たな社会が新しい自我を生み出すというように、社会と自我の相互作用が無限に続いていくのです。

だから歴史を遡ってみても、自我が落ちて覚醒した人がほとんどいないのです。彼らの後を追おうにも、その勢力は社会によって葬られてしまうのです。

社会はその子供とも言える自我の存続を守るように組み立てられているので、人類が覚醒することを命がけて妨害してくるわけです。

この社会が問題山積みなのは、当然と言えば当然のことであって、戦争がいっこうになくならない理由も同じなのです。

自我は幸せを求めているフリをして、その実自我そのものの存続を目指しているのです。だから社会が平和になったり、争い事が人類から消えて無くなることはないのです。

そうなったら最後、自我の崩壊が起きるからですね。こうしたことを忘れずに生を生きると、見えてくるものがありますね。

対象は関係ない

もしもあなたが誰かを本当に愛したのなら、それがどんな相手であろうとあなたの中で起きていることに違いはないのです。

世界一の美男子であろうと、誰も相手にしないような不細工男子であろうが、年齢も性別も人種も年収も、一切関係ないのです。

もしもあなたが、信頼に値する人であれば心から信頼できると思うなら、それは間違いかもしれません。

仮にあなたが信頼した相手が誰からも信頼され得る人格者であろうと、多くの人から非難の的になるような人だとしても、それは無関係なのです。

信頼したということがあなたの中で起こったことがすべてであって、そこにはどんな違いもありません。

もしもあなたが、お金を儲けて人より良い生活をしたいという欲望を持っているとしても、神と一つになりたいという欲望を持つことと違いはないのです。

欲望を持つということがあなたのマインドを占領したということに違いはなく、対象は無関係なのですね。

対象に囚われてしまうと、こうした本質的なことを見抜くことができなくなるのです。いつも自分の内面で何が起きているのかを見つめることですね。

内側の子供とともに生きる

少しゆっくりと心を落ち着かせて、自分の内側を感じてみれば分かるはずですが、そこにはさまざまな自分がいるのです。

大人の自分の内側深くに、これまで生きてきたかつての自分も一緒になってこの生を生きているのを感じることができます。

私の場合だと、すごく幼いころから女の人が好きでした。まだ性的なものを持っていないのですが、とにかく柔ない雰囲気が好みなのでしょうね。

それと同時に、何だかじっと見つめられるとちょっと恥ずかしい感覚も持っているのです。それが幼児の頃の自分です。

小学生の頃の自分も色濃く存在を感じます。彼はすでに人のマインドに興味を持っていたし、宇宙やその背後にある不可知な何かにも惹かれるものがありました。

一般的には、大人になるにつれて別の興味が育っていって、立派な社会人へと成長していくものだと思うのですが、私の場合は小学生のまま今に至っています。

大人になって身につけた興味のほとんどは、もうすでに使わない人生になってしまっています。今年になってやり始めた筋トレにしても、その興味は小学生の頃のものだし。

だからちょっとバランスが悪いのかもしれません。中学、高校、大学、社会人という一連の成長がモノになっていない感じがするからです。

きっと私は、このまま内側の小学生の自分と共に残りの生を生きていくのだと思います。あなたの中にはどんな年齢の自分がいますか?

そして彼らは何をしたがっているでしょうか?その声をしっかり聴いてあげられるといいですね。

期待は防衛からくる

もしもあなたが、自分への期待値が高いという自覚があるなら、即刻その期待値を下げる必要があるのです。

期待値が高ければ、それを目指そうとして「〜べき」とか、「〜ねばならない」で生きることになるからです。

そうなったら、期待値通りにならなかった自分に対して厳しい自己否定や自己嫌悪に悩むことになってしまうのです。

そもそもどうして自分への期待値が高いのか、それを考える必要があるのです。実は、惨めな自分を払拭するためにこそ自分への期待値を高くしなければならないのです。

これが悪循環を招くのは明白ですね。つまり、惨めさがある→払拭するために期待値を高める→現実との落差が大きくなる→新たな惨めさが生み出される。

更なる副作用として、自分への期待値が高ければ、知らず知らずのうちに他人に対する期待値も高くなってしまうのです。

そうなったら、当然のこと他人に対する不満や怒りを強く感じるようになるので、穏やかな人生を過ごすことができなくなるのです。

自分のマインドの中に、自分に対して、そして他人に対してどのような期待があるのか、じっくりと見つめて見ることです。

期待というものの本質を理解できれば、それがどれほどバカバカしいものかに気づくはずですね。

部分よりも全体

世の中には自分のことを信じられない人もいて、そういう人は大抵どうしたら自分を信じられるようになるのかと悩むのです。

自分を信じられないと、様々な弊害があるから苦悩するのですね。たとえば、自分の考えが正しいのかどうか分からなければ、安心することもできません。

自分の感覚さえも信用できなくなれば、何を信じて生きていけば良いのか分からなくなってしまいます。

だからやはり一度は自分のことを信じられるようになる必要がありそうです。そのためには、自己否定を一旦脇に置いてどんな自分でも認めてあげることです。

マインドというのは、天使のような部分から悪魔のような部分までもれなく網羅しているという事実に目を向けて、自分のマインドが特別ではないと気づくこと。

そうした訓練を重ねていくうちに、今ある自分自身を受け容れるようになるのです。そうなったら、自分を信じることができるようになるはずです。

但しそこが終着点ではありません。自分とは所詮マインドでしかないということの深い理解の中で、そんなものを信じることに意味はないと気づくのです。

自分(のマインド)を信じるよりも、生を信じること。全体性を信頼することの方が、断然賢い生き方なのです。

部分よりは全体を信頼するというシンプルな生き方ですね。

自我=孤独

人間というのは本来孤独なものです。個人として生きているのですから、外側の世界から切り離されている状態なので、孤独であることは確定しているのです。

だからこそ社会を作り出してその中で仲良く暮らそうとするのです。出来る限り、孤独であるという事実から逃れようとして、群をなすのですね。

それが良いとか悪いということではないのですが、そのことに気づかずにいるとしたら、そこが問題となるのです。

なぜなら、孤独であることに気づかなければ、自分を騙して人はうわべだけの生を生きることになるからです。

健康な家族に囲まれて育った子供は、この孤独に気づきにくいのです。大好きな家族がいれば安心できるということで、自分は孤独ではないと信じるのです。

けれども、成長して様々な経験をしていく中で、どうしても生来の孤独を見なければならない状況もやってきます。

いずれは孤独であることに気づくことになるなら、出来るだけ早いうちがダメージも少ないはずです。

いつまでも孤独から逃げ回っていて、本当の自分の姿を見ようとしない人もいますが、孤独であることを認めてからでないと人は本当には優しくなれないのです。

個人(自我)=孤独ということであって、つまり自我と孤独は同義語なのですが、一瞬でも自我が落ちているときは、孤独などどこかへ消えていってしまいます。

思考のないただの意識の状態には、孤独というものは存在しません。そこには全体性という単独があるのみなのですね。