意識は広大無辺

自分の内側の奥深くに、想像を絶するような何かがあるのを感じるときがあります。それは個人としての私とは途方もなく違うものです。

もしも幼い頃からずっと厚い雲で覆われたどんよりとした空しか知らなければ、当然それを空だと思い込むわけです。

けれども、それはただの雲を見ているわけで、実はその後ろ側に雲とは全く似ても似つかない広大無辺の青空が広がっているのです。

そのことと似ているように思いますね。広大無辺というところは、なぜか非常に似ているように感じます。

それをいつも全体性と呼んだりして、その言葉から何となくのニュアンスを感じ取ってもらいたいと願っているのですが、所詮は言葉なので難しいです。

それでも雲で覆われた空と広大無辺の青空という比喩を使うと、あの感覚に近いように思います。

雲は思考を意味し、青空が意識(全体性)を意味すると考えればいいのですが、そもそも思考と意識の違いが曖昧な人が大勢いるのです。

そりゃそうですよね、こんなことをつらつら考える必要など日常生活ではまったくないのですから。

それでも伝え続けていきたいと思うのは、人はきっといつかはそこを通過することになるはずと感じているからです。

自分という一人称が思考(自我)から意識へと向かうとき、あらゆる二元性が消えてそこにあるのは至福だけとなり、生も死もない非二元が顕れるのでしょうね。