外側からの毒と内側に溜めた毒

自己否定の感覚が強いまま大人になってしまうと、自分の存在に対しての価値に気づけないために、自分を粗末に扱うようになってしまう可能性があります。

たとえば、自分の身体のことをケアする気持ちがなくて、具合が悪かったりしてもあまり気にせずに無理をさせたりしてしまうのです。

身体にいいとされる食事などには全然興味を持てなくて、ジャンクフードばかりを夜食に食べるなどということもあったりするのです。

それでも少しずつ癒しを進めていくと、自分の身体を気遣う気持ちが芽生えてきます。自分の身体が喜ぶような食事をするようになったり、体調に気配りできるようになるのです。

それはとても素晴らしいことですね。けれども、その段階で癒しを進めなくなってしまうなら、もっと大事なことには気づけなくなってしまうのです。

食事に気を付けるのは、外側から毒が入って来ないように注意することですが、その毒に比べて内側に蓄えたマインドの毒は遥かに強大なものなのです。

内面の毒をそのままにしておくなら、どれだけ食事に気を付けてあげたとしても、効果は薄いと言わざるを得ないのです。

内面の毒は、時として身体へと投げられて、血液中に入り込んだり、ガンやその他の重篤な病気を引き起こす原因ともなるのです。

身体への気遣いはそのまま続けながら、それを内面へと広げていくことです。内面の毒を味わって溶かしていくことができれば、おのずと身体も健康になっていくのですから。

シンプルな人生と複雑な人生

シンプルな人生と複雑な人生とがあるとしたら、どちらを望むでしょうか?実は、望むかどうかとは関係なく、人生は不自由だと感じている人ほど、複雑な人生を生きているのです。

不自由な人生を望む人はいないでしょうけれど、複雑な人生の方が面白いと思っている人はいるかもしれませんが、自由で複雑な人生というのは不可能なのです。

自由でシンプルか、不自由で複雑かのどちらかになるということです。のめり込んで観てしまうようなドラマなどは、間違いなく複雑な人生を生きている人が主人公ですね。

シンプルな人生では、人が観て興味を抱くようなドラマには決してならないのです。だから、鬱積していて、苦しくて、不自由な人の人生こそが、昼メロになったりするのです。

人生を複雑にするのは、自己防衛です。自分の正直な気持ちや感覚などを無視するような、過度の防衛をすればするほど、複雑怪奇な人生を形成することになるのです。

当の本人も、自分は本当は何をしたいのか、どう感じているのか、何を拒絶しているのかといった基本中の基本の部分が分からなくなってしまうのです。

幸せになろうとして、わざわざ不幸になる道を選んでみたり、一緒にいたくない人といつまでもズルズルと一緒に暮らしてみたり、他人には不思議な言動にしか映らないのです。

もしも人生が不自由だと感じるなら、人生を複雑化している自分の生き方そのものを見直してみることです。まったくもって余分なことばかりしていることに気づくはずです。

何度も何度も言いますが、行きたいところに行き、行きたくないところには行かない、言いたいことを言い、言いたくないことは言わない。

やりたいことをやり、やりたくないことはやらない、一緒にいたい人と一緒にいて、一緒にいたくない人とは一緒にいない。

これほどシンプルなことはありませんが、それではとても生きていくことなどできないと固く信じている人がいるかもしれませんね。

けれども、実際にシンプルな生を送っている人がいるのも事実です。あきらめずに、生き方を徹底的にチェックしてみることをお勧めします。

非常識の勧め

誰だって非常識な人だと思われたくないですね。非常識という言葉には、何かとてつもない否定的なニュアンスが盛り込まれているからです。

人間失格まではいかないかもしれないけれど、どうしようもないダメ人間とか、世間の鼻つまみ者のような感覚があると思います。

その感覚を使うなら、私にとっての非常識とは、イヤホンをしてスマホをいじりながら、右側通行をしている自転車に乗っている人が浮かんできます。

その一方で、私のようにあらゆる冠婚葬祭事にまったく興味を持てないのは、そういうことに深い思い入れを持っている人からすれば、非常識な人ということになるのでしょう。

ここで少し冷静に非常識という言葉の意味を味わってみると、ただ「常識にあらず」と言っているに過ぎないということも分かります。

常識と異なることが、すぐに否定されるというのはおかしなことです。常識とは、一般的なマジョリティと言っているに過ぎないのですから。

誰かにとっての常識は、他の誰かにとっての非常識であることは多々あることですし、それが当然のことなのです。私は、非常識という言葉を否定的に扱う人間の心理の背後にある自己防衛を強く感じてしまうのです。

ですので、癒しの観点からすると、非常識をお勧めしたいのです。勿論、否定的な意味でということではなく、常識的であるということが防衛に繋がりやすいという観点からです。

誰からも後ろ指をさされないように生きれば、常識から外れないようになってしまうのは当然のことですね。常識かどうかを判断せずに、自分に正直に生きて、それを人から非常識と思われてもいいという覚悟が必要ですね。

人生の目的は、自分の本質に気づくこと

のどが渇いて死にそうと思えばそれだけ水が美味しいと感じるものですね。だから、ビールをおいしく飲むためには、サウナに入ったりする人もいるわけです。

幸せを感じるためには、不幸を体験しなければなりませんし、健康を実感するためには、不健康な状態を知っていなければならないのです。

これがこの世界の法則なのです。そして、ここからが今日の本題なのですが、私たちは自分自身を知るためには、自分ではないものに一度なる必要があるのです。

それを自己同化と呼びます。つまり、身体と自分を同化し、マインドと自分を同化し、その上で名前や性別、国籍や年齢、自分の財産、こうしたすべての属性についても自己同化させるのです。

その後でそうした同化を見破ってはずしていくのです。自分はあれでもないし、これでもない、それでもないという具合にことごとくはずしていくのです。

自分は身体ではないと深く理解することができれば、自分には形はないと知ることになるのです。そして、更に自分はマインドではないと理解すれば、残るものは何なのか?

そうして、とうとう何も残らないところまで追い込んで、ようやく自分の本質に気づくようになるのです。人生が辛く苦しいのは、自己同化がその原因です。

そして、なぜ自己同化するかといえば、自己に気づくためだったということです。だから、その気づきを得ることができないままなら、苦しみ損だということです。

不安を見つめること

不安を持っていない人はいないと思うのですが、不安が何から発生するかをはっきりと知っている人は少ないのではないでしょうか?

不安は、思考からやってくるのです。思考によって自分の状態や未来を考えて、それを判断することで不安感が作られるのです。

それなら、考えないようにすれば不安から逃れることができるはずですね。それは確かに真実なのですが、残念なことに不安のエネルギーは思考を活性化させる特徴があるのです。

つまり、思考によって不安を作り上げてしまうと、その不安自体が新たな思考を生み出すことになり、それがまた次なる不安を作り出すという悪循環にはまるのです。

そのために、不安を強く感じている人は、そこから抜け出すことがなかなか難しいということになってしまうわけです。更に、マインドはその不安をこねくり回して、また別の罠を作り出すのです。

それは、不安がなければないで、そのことが不安だという心理です。あまりにも不安と共に暮らしている時間が長いと、人はその不安さえも自分の一部のように感じ出すのです。

だから、何かの拍子に不安が小さくなって、安らいだ気持ちになれたとすると、それ自体を不安に感じるようになって、新しい不安の材料を手に入れようとするのです。

そうやって、いつもの不安と密接な毎日へと戻してしまうのです。なかなかやっかいなものですね。こうした悪循環、ジレンマから抜ける唯一の方法は、その不安に対して何もしないでいることです。

不安を安心に変えようとすることを止めるのです。不安があっても死ぬわけではないということを思い出して、その不安をジッと見つめているのです。

それがうまくいけば、不安は何もせずとも自ずと小さくなっていくのです。実践あるのみです!

個性は存在からの贈り物

クライアントさんとお話ししていると、「自分の○○な性格を何とかしたい」と言われることがよくあります。つまり、性格を直したいということなのでしょう。

でも性格は変わらないのではないかと思って、半ば諦めてしまっている人もいます。私たちは、その人の性格こそがその人の個性だと思っているものです。

けれども、性格とは生後作られていくものであって、それは個性とは関係ありません。性格とは、私たちが幼い頃から纏ってきた着物のようなもの。

だからそれを潔く脱ぎ捨ててしまえば、自分の性格とはさよならできるのです。言葉を変えれば、人生をかけて培ってきたものへの執着を捨ててしまえばいいのです。

そのときにこそ、生まれながらに持っている個性が開花するのです。あなたのエゴが身に着けた性格を、エゴもろとも手放すとき、あなた本来の個性が顕われるのです。

個性は、存在からの贈り物であって、どんな個性でも素晴らしいものです。ほとんどの場合、その人の個性をむき出しにして生きていることはありません。

歴史上の多くの光明を得た人を見れば分かるのですが、どの人もそれ以外の人とまったく異なる個性を持っているのです。光明を得た後に、その人の個性が光り出すのですね。

意識と思考の違いを明確にする

人によっては、このブログの内容が分かりづらいと感じることがあるかもしれません。それは、一つに意識と思考の違いに気づいていないということが挙げられます。

ブログは文章による表現なので、当然のこと思考によって顕されているものですが、その思考を使って意識を表現しようとするので、そこにはおのずと無理があるのです。

「人生」という場合、すでに思考が動いています。思考を使わなければ、そもそも人生などというものは存在しないのですから。

人生という物語を紡ぎ出しているのは思考なのです。その思考の中にのみ、価値とか意味とか、あるいは意義や目的といった観念があるのです。

本当は、過去や未来というものでさえ観念でしかありません。あまりにも、思考の中にばかりいることになった結果、そういった観念を真実と勘違いするようになってしまうのです。

思考の中にあっても、ただ見るということを訓練することによって、思考と思考の狭間にある意識に気づくことができるようになるのです。

意識に気づくことができると、それだけで一種独特の感覚がやってくるようになります。何の理由もない深い安心感のようなもの。

意識は気づきであり、静寂であり、全体性でもあるということがなぜか分かってくるのです。それには、どんな理屈もありません。

このような気づきと共に在る時間をなるべく増やすことで、より意識的でいることができるようになるのです。そうなったら、このブログの内容が難しいとは感じなくなるでしょうね。

壮大なかくれんぼ

いつも言っているように、行為には遊びと仕事の二種類しかありません。遊びとは、手段と目的が一つであり、仕事とは手段と目的が分離しているもののこと。

私たちのマインドは、大抵目的指向になってしまっているため、その行為が仕事中心となってしまうのです。必ず、今行っていることが未来に存在する目的を実現するためのものになっているのです。

一方で、遊びにはどんな未来も含まれません。なぜなら、今この瞬間が敢えて言えば目的だからです。手段としての行為そのものが目的なのです。

だから、遊びには「なぜ」がありません。なぜそうするのかと聞かれても答えはないのです。ただ、そうしたいからと答える以外にはないのです。

神は、私に言わせればこの世界というおもちゃを使ってただ遊んでいるのです。己の姿を隠しながら、かくれんぼをしながら永遠の遊びを続けているのです。

だから、神に向かって「なぜ」この世界を作ったのかと質問しても、まったく無意味なことなのです。神はこの世界の創造者ではありません。

ただ遊んでいるに過ぎないのです。そこにどんな目的もないし、理由もないのです。もしも目的があるのであれば、神には欲求があるということになってしまいます。

神は壮大なかくれんぼをしながら、この世界というおもちゃで面白おかしく遊び続けているのです。だから、もしもあなたのマインドに深刻さがあるなら、それを大笑いしているはずなのです。

そして、あなたの行為のほとんどが遊びになったなら、あなたは神聖な存在となるのです。

「改善病」に罹っていることに気づくこと

私たちの誰もが罹っている病、それは「改善病」です。つまり、このままではダメだという感覚、もっとこうなりたいとか、より良い自分になるためには、などをずっと考えているのです。

まずは、これがある種の心の病だということに気づくことです。自分を変えよう、自分を何とかしてもっと素晴らしい存在にしようと躍起になっていることに気づくこと。

そしてその改善病こそが、あらゆる苦しみの根源だということです。そればかりか、そうやって改善しようと目論んで、真に改善できた試しはないのです。

なぜなら、それはエゴが必死になっているだけだから。エゴの本当の目的は、そうやって苦しみを生み出し続けることなのです。それが自分の存在を明確にすると感じるからです。

私たちにとって、本当に必要なことは変えようとする努力ではなく、自分自身を真に知ろうとする事、つまり自己探求なのです。

いつも目を向けて、見守って、瞑想すること、常に気付いていること。自分に対して意識的であること。そうやって、深く知るに連れて、自己の本質に気づくようになるのです。

自分自身でいるだけでいいのです。私たちはすでに自分であるものでいるだけでいいのです。改善病が完治したとき、あなたはあなた自身の素晴らしさに本当に気づくことができるのです。

それ以外には、どんな努力をしても無駄だし、どんな成長も不可能だということに気づくことです。

自分さえも観念上の代物

慣れない法務局に行って、小難しい書類を提出して相続登記の申し込みをしてきたのです。それだけで、頭が痛くなる感じがしました。

名義を変更するだけで10万円近いお金が必要ということにも驚かされるのですが、それよりも何よりも、手続きの難しさには参りました。

最後は法務局の人に詰めの部分を手伝ってもらって、ようやく書類を提出することができたのです。書類に不備がなければ、一週間程度で無事に不動産の相続の処理が終わります。

土地と建物が自分の所有物になったからといって、これっぽっちも何かが変わるわけでもなく、ただただ国に代金を支払っただけという感覚なのです。

勿論、誰か知らない人の名義になったとしたら、それはそれでいずれは困った事態になるのだろうけど、誰かに脅かされない限りは、誰の所有物であろうと、家の住み心地は変わらないのです。

この社会で物事を円滑にするためには、取り決め事や約束事、あるいはルールなどを作って生活することは絶対的に必要なことですね。

例えば、信号機がなければクルマは大渋滞を起こして、使い物にならなくなってしまいます。けれども、そうしたことは生きるうえでの本質的なことではありません。

何が誰に所属しているかということなどに価値を見出してしまうと、互いの意味のない比較が始まって、人生を楽しむことが難しくなってしまいます。

自分は誰かの所有物ではないのと同時に、自分が誰かや何かを所有しているわけでもありません。単に、みんなが名前を持っている方が便利だというだけです。

名前に殊更の価値などはあるはずもありませんね。瞑想すれば、自分には名前も戸籍もあらゆる付帯するものはないと気づくことができます。

そして最後には、自分そのものすら観念上の代物だと気づくことになるのです。