自分自身を溶かす

久しぶりに、osho の言葉です。染み入りますね…。

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いることは緊張だ。
いないことは安らぎだ。

あなたが消えたとたん、存在全体がその姿をガラリと変える。
それゆえ、あなたこそが唯一の問題だ。もし自分の問題を溶かし去ることができたら・・・。
それはつまり、自分自身を溶かすということだ。

だからあなたに救済は存在しない。ただ<究極>へと自分自身を溶かすしかない。
そして、それほど偉大で、それほど尊く、それほど奇跡的なことはない。
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光への扉など存在しない

私たちは、マインドという閉ざされた暗闇の中でもがきながら、何とかして光輝く外の世界への扉を探そうと必死になっているのです。

けれども、マインドの中にいるというのは単なる思い込み、つまり観念でしかないのです。真実は、誰もが光で満たされた外側にいるのです。

希望の扉を探すのではなく、真実に気づくだけでいいのです。「見ること」は、それに気づかせてくれる唯一の方法だと思うのです。

マインドの内側を見ているとき、自分がマインドの外にいるということが分かるのです。マインドとの自己同一化は非常に強烈なので、放っておけばいつまでもマインドの中で右往左往することになるのです。

光を求めて外に出ようとするどんな努力も止めて、ただ見ることを実践するのです。見ることは、その対象から離れていることに気づかせてくれます。

マインドを見ないからこそ、マインドの住人として生きなければならないのです。マインドを徹底的に見ることによって、外に立っている自分に気づくのです。

何があっても、私たちはマインドの中になど入ることは不可能なのです。マインドも外の世界に出ていくことは不可能なこと。外は光であって、内は闇だからです。

決してその両者が行き来することはできないのです。カギは、努力して何かをするのではなく、ただ見ること。外の世界の光こそが、私たちの本質なのです。

死ぬ準備

 

「死ぬ準備」と言われて、どんなことをイメージするでしょうか?大抵は、持ち物を処分したり、財産の整理をしてみたり、遺言を書いたりと、残された人に対するものがメインだったりします。

勿論それも大切なことかもしれませんが、実はもっともっと大切なことがあるのです。それは、死にゆく自分自身に対する準備なのです。

そう言うと、今度は死ぬ覚悟をするとか、心の準備を整えておくなどのように思いがちですが、そうでもありません。実は、死を通り抜ける準備なのです。

私たちの存在の本質についての洞察を深めていくと、死というのは一つのイベントであるということが分かってきます。確かに大きな出来事です。

けれども、それは肉体やエゴの死であって、自己の本質がそれで変わることはないのです。そのことを身をもって体験するための準備が必要なのです。

そのためには、死に瀕して危篤状態(無意識)にならないことなのです。意識を持って死を迎えることができるなら、死は一つの通過するイベントでしかなくなるのです。

もしも意識的に死ぬことができるなら、来世は今世のすべての記憶を持って生まれてくるはずです。それは魅力的な人生になることでしょうね。

死に対する恐怖を持たずに生きれるのですから。そうなったら、まったく異なる人生を送ることができるだけでなく、間違いなくその生で光明を得ることになるはずです。

生を深い瞑想と共に生きることと、死ぬ準備をすることは一つのものです。如何に意識的であり続けるか、すべてはそこにかかっているのです。

 

辛辣な手紙

先日、あるクライアントさんからメールが届きました。何だろうと思って読んでみると、私自身とセッションに対する痛烈な批判のような内容でした。

初めは冷静に書き出してはいるのですが、「ふざけんじゃねえよ」のような抑えきれない不満の感情表現があったりして、なかなか辛辣なのです。

調べてみると、そのクライアントさんは三か月くらい前に一度だけいらしたことがある人で、だとするとこの三か月というもの、憤懣やるかたない気持ちとともにあったということです。

自分の気持ちをどのように解決しようかと、悶々としてイライラして、しんどい日々を送られたのだろうなと思うと、大変申し訳ない気持ちにもなりました。

そしてこうも思ったのです。このクライアントさんに対して、特別な対応をしたわけではないと分かっているので、だとすると他にも似たような気持になったクライアントさんもいるのではないか?

ただ、黙って耐えているだけで、きっと私に対してやり場のない怒りを抱えているクライアントさんがいるに違いない。ただ、訴えてこないだけなのだろうと。

こうしたメールを送ってくる人はほとんど皆無なのですが、きっと潜在的にはそこそこいらっしゃるのかもしれないと思ったのです。

セラピストに悪気がないのは、理性では分かっていただいているかもしれませんが、感情が反応してしまうのでしょうね。私は、できるだけ気づいてほしくてセッションをやっているので、耳障りなことも言う必要があるのです。

誰にも言われたことのないようなことを私にズバッと言われたら、それは不服感も味わうはずです。次にまた来ていただけるという保証がないために、一回目になるべく多くのことを気づいていただこうと。

それが逆効果になった例なのかもしれません。そのクライアントさんが、怒りをしっかりと味わい尽くして、元々心の奥にあった怒りにも気づくことができて、結果よかったと思っていただけたらいいなと思うのみです。

なんでもいいよ!

今日は素直に内側で今感じていることを、そのまま言葉にしてみようと思います。一番適している言葉は、「なんでもいいよ!」というものです。

愉快な人生でも、悲惨な人生でも、皮肉な人生でも、理不尽極まる人生であろうとも、なんでもいいのです。なぜなら、人生はあっという間の出来事で、すぐに跡形もなく消えていってしまうのですから。

たとえ、そんな風にお気楽に思えないとしても、それでも勿論いいのです。気分が最悪に重くて、とてもじゃないけど生きていたくないとしても、それでもいいのです。

すべての問題は死が救ってくれるのです。死によって、あなたは深い深い眠りに落ちるのです。それはそれは、心地のいい最高の熟睡を得られるのですから。

それならば、生きている間に思い切り戦っても良し、ぐうたらな毎日を送っても良し、癒しなんぞに興味を持たずにひたすらエゴの世界を突っ走っても良し。

スピリチュアルにぞっこんになって、すべての時間と労力をつぎ込んでも良し。恋愛に明け暮れて、相手に溺れてしまうのも良し。

人は産まれて、生きて、そして死ぬという大原則のもと、全くの平等なのですね。それ以外の違いなど大したことはありません。砂粒の一つひとつの形の違いほどの差異しかありません。

なんでもいいなら、リラックスしましょう。でもリラックスできなくてもいいし、瞑想がいいと言われて真面目に取り組むのもいいけど、そんなの興味なしでもまったくOK。

私たちは、不自由だと思い込んでいるとしても、本当は完全に自由なのです。だって、なんだっていいのですから。そうなると、最後は自動的に自分自身から自由になるのでしょうね。

人生は不思議な組み合わせ

私の母親は、上三人が男、下四人が女という七人兄弟の末っ子なのですが、現在亡くならずに残っているのは上から五番目の姉と母親の二人だけ。

ただ、その叔母はもう95歳という高齢なので、クルマであっても長距離は難儀になっていて、まだ元気な母親の方が叔母に会いに行くことができるので、一昨日クルマで連れて行ってあげたのです。

その道中の二時間弱の間に、母親から面白い話しを聞くことができました。知っているようで知らなかった父親と母親の最初の出会いの場所とか。

なぜ母親がその職場に行くようになったのかという理由や、一つ上の姉の性格がおとなしい人だったために、実家の近所の家に嫁にいくはめになったこととか。

その姉がその縁談を断っていたら、母親が代わりにそこに嫁に行っていたかもしれない。としたら、自分はこの世に生まれてはいない。

また、嫁いだ姉の隣の家の人が母親を見染めて、やはり嫁に欲しいと言われたときに、すでに父親と知り合っていたために、断ることができたということ。

ほんの少しでもそういったタイミングや、個人の性格などが異なっているだけで、未来はまったく違ったものになっていただろうということをリアルに感じたのです。

自分という個人は、まったくの偶然の賜物なのですね。すべてがからまっていて、何一つ無駄がない。そういったこのワールドのもつれを意識してみると、すべてがただあるがままでいいということが、またはっきりするのです。

幸不幸は思考が作る

深い瞑想をするようになると、不思議な感覚がやってくるようになります。それは、敢えて言葉で表現すると、決して幸せではないのに満ち足りているというもの。

決して幸せではないというのは、不幸だという感覚とはまた違うのです。瞑想状態においては、幸福感も不幸な感覚もどちらも消えてしまうのですから。

なぜなら、幸福感も不幸な感覚も純粋な感性からやってくるものではなく、実は思考がその元には動いているということです。

思考によって、○○だから幸せなのだとか、○○だから不幸に違いないというように、幸不幸を決めるために思考を働かせて判断しているのです。

私の独断で言わせてもらえば、純粋にハートだけで幸福感を感じたり、不幸だと感じることはできないと思うのです。ハートはもっと別のものを感じるはずなのです。

それは、どんな理由もない感覚なのです。だから「何故か」という質問には答えることができないもの。満ち足りた感も不足感も実はそういうものなのです。

私たちは、何を手に入れたとしても、不足感から逃れられません。それは、これといった理由のないものだからなのです。それは分離しているという状態からやってくるものだからです。

もう一方の満ち足りた感というのも、具体的などんな理由もあるわけではありません。それは、分離が消滅した状態において自動的にやってくるものだからです。

幸不幸を求めることが不毛なことだと深く理解することができると、分離しているという思考から離れることによってのみ、不足感から解放されると気づくのです。

それを至福と呼ぶのですね。

欲の分だけ面倒がやってくる

この社会というのは、実のところ所有とかその権利とかで出来ているのですね。所有というのが単なる概念であって、所有という真実はないと知っているものにとっては、なかなか生き辛いのです。

所有というのは、単なる約束事であって、実体というものはありません。これは私のカバン、これは私のクルマというのは、誰もがそれを認めてくれるかどうかにかかっているわけです。

世界に自分一人しかいなければ、所有という概念は消え去ります。こうした約束事が大事なのは、その約束を破る不届き者がいる可能性があるからです。

誰もが約束を守る真っ当な世界であれば、法律はそれほど必要なくなるはずです。相続という面倒なものが発生するのも、この所有の概念を守るためなのですね。

亡くなった人が所有していたものを相続する際に、面倒な手続きが必要となるのは、人間の欲が様々な問題を引き起こす可能性があるからなのです。

所有の概念に、共有するというものがありますね。つまり、複数の人同士で、何か一つのものを所有するというものです。これがなかなか面倒なのです。

私たちの通常の感覚であれば、あるものを自分ともう一人の二人で共有するというときに、もう一人の人がもういらないと言ったら、自分だけのものになると思っています。

けれども、法律的には、共有というのは、所有権を分割することになるのです。二人で、0.5ずつとか、0.6と0.4などのように、分割する割合というものが発生するのです。

したがって、相手が所有を放棄したとしても、残りの部分を相続しなければ全部が自分の所有にはならないということです。

はあ、面倒面倒!!こんな社会にしたのは、私たち一人ひとりの欲望のせいなのですね。私自身の反省も込めて、自分の欲の深さの分だけ、人生は面倒なことになるということです。

過去を終わらせる

癒しにとって最も必要なことは、過去を終わらせるということです。ということは、裏を返せば、過去が終わっていないといろいろ不具合が出るということです。

この「過去が終わっていない」とは、いったいどういうことかというと、その時々に思い切り生きてこなかったことがあるということです。

十全に生きることができれば、過去は残らずに明日へと向かえるのですが、我慢をしたり気を使ったりして十分に自分のままでいられないでいると、過去は生き残り続けてしまうのです。

まだ無邪気な幼い子供は、泣くときは思い切り全身を使って泣くし、怒るときも全力で怒りを表現するのですが、あの状態であれば、過去は残りません。

これはちょうど若い力士が、大関や横綱の胸を借りて、持っているありったけの力を使ってぶつかっていくのに似ています。

力の限りを使ってぶつかっていくからこそ、最大の練習の効果が出るわけです。子供もまったく同じようにして、我慢や気を遣うことなく、全力で親にぶつかっていくなら、過去は残らないのです。

その逆に、親が不安や怒りのエネルギーをまとっていたりすると、小さいながらも無邪気さを使うことができずに、生殺しのように生きれば、その分だけ過去のエネルギーは残り続けてしまうのです。

過去を終わらせるとは、そうした残存エネルギーを味わって消滅させるということを意味します。そのようにして癒しを進めていけば、過去のエネルギーが現在の自分をコントロールすることもなくなるのです。

何だか生きづらいと感じることがあるのなら、このような癒しを進めていく必要があるということですね。一人でするのが難しい場合には、セラピストの力を借りるのも一つの手だと思います。

雑務のオンパレード

今日は、いつもの自分の平平凡凡な毎日とは違った、ちょっと珍しい体験をしたのです。それも、自分としては物凄く苦手なこと。

専門的な?言葉で言えば、相続登記というらしいのですが、平たく言えば父親が他界したことによる遺産相続のうちの一つなのですが、土地の名義変更にまつわる雑務ですね。

耳慣れない法務局という役所へ出向いて、不動産の登記事項証明書というのを取得するのです。そして、次に区役所へ行って、父親の死亡から出生までのすべての戸籍謄本を取得。

結局は、区役所だけでは用が足りずに、父親が生まれた地元の役所に連絡をして、そこからも入手しなければいけないことを知り、もうすでに少しヘロヘロ。

そして今度は、都税事務所というところに行って、固定資産評価証明書というものを取得したのですが、それには自分と父親の関係を保証する私の戸籍謄本が必要と分かり、区役所へ戻るはめに。

最後には、自宅の近くの区民事務所で母親の戸籍謄本、父親と自分の住民票の取得、更に母親と自分の印鑑証明の取得と続いたときに、母親が実印を作っていなかったことが発覚。

郵便局へ行って、小為替を手に入れようとして、それは午後4時までで終了したと告げられ愕然として、疲労困憊の状態で自宅に戻ってきたのです。

きっと普通だったら、専門家に頼むのかもしれませんが、どうもそれがいやで自分でやろうと決意したことで、こんな苦手のオンパレードとなってしまったのです。

これだけやっても、まだまだ目的である相続登記の終了には至っておらず、いかに国が定めた処理をすることが大変なことなのかを思い知らされました。

やっぱりシンプルが一番ですね。ああ、早くいつものラク~なセッションだけの毎日に戻りたい!