敏感な人ほど深く病む

本当にたくさんのクライアントさんと向き合ってきて思うのは、苦悩する深さは敏感さの程度に比例するということです。つまり、敏感であればあるほど、深い病みを抱えてしまうということ。

勿論、生育環境というのが非常に大きなウェイトを占めていることは、間違いのないことではあるのですが、それにどう反応するかは、やはり本人の感性の問題なのです。

そして一つ気付かなければならないことがあるとすると、実は元々持っている敏感さが、その生育環境によっても影響してしまうということです。

幼い子供にとって、日々の生活が危険すぎてまったく安心できるような状況ではないとしたら、敏感さはさらに研ぎ澄まされて、強烈になっていくことがあるのです。

逆に、たとえ敏感タイプであったとしても、安定したマインドを持った両親に育てられるなら、子供は深い安心を与えられるのです。

このようにして、子供はその成育環境と持って生まれた敏感さとの組み合わせによって、どのように病んでしまうのかが決まってくるということです。

クライアントさんによっては、自分の敏感体質を呪うような気持を持っている方もいるかもしれませんが、それは当然のことですね。

けれども、その敏感さこそが本当は何よりも大切な宝物なのです。なぜなら、それがなければ人生で最も大切なことにも気付けないで終わってしまうかもしれないからです。

私はいつもセッションでもお話しするのですが、その敏感さゆえにこれまでは苦しんできたことは事実ですが、これからはその敏感さを使って、大切な気づきを手に入れることができるのだと。

その気づきとは、自分の本質に気づくこと。その繊細な感性を最大限利用して、意識的でいる訓練をしていくことなのです。

二つの仮面を引っ剥がす

あるがままの自分、ありのままの自分で生きるということは、誰もが望んではいるものの、実際にはなかなか難しいものなのですね。

その反対に、もっと自分はこうでなければならないとか、何とかしてこうならねばならないといったような願望、切実な思いをもって生きていたりするのです。

それはある意味、仮面をつけて生きているようなものだと思えばいいのです。誰だって、会う人ごとに微妙に違う仮面を自動的にかぶり直すのです。

勿論、独りで家にいるときには、そうした仮面をとってのんびりしたくなるはずですが、あまりにも仮面をつけることに夢中になっていると、つい仮面を脱ぐことを忘れてしまうことになるのです。

そうなると、年がら年中仮面をつけっぱなしにするようになって、結果として仮面をかぶっていることを忘れてしまうようになるのです。

そうなると、やっかいな事態になってきます。本当の自分、素の自分の顔がどんなだったのかを思い出せなくなってしまい、その仮面を自分の顔だと思うようになってしまうからです。

都合がいい面も確かにあるのですが、やはりいつかは何か違和感を持って生きることになるはずなのです。そして、自分を癒すことを始めると、仮面の存在に気づくことから始まるのです。

今までの自分は本当の自分ではなかったと。そうやって少しずつ、元々のオリジナルの自分の顔を取り戻していくわけです。それはきっと素晴らしく気持ちのいい体験になるはずです。

一般的な癒しでできることは、ここまでです。この先には何があるかというと、実は見つけたと思ったオリジナルの顔も、生後でっちあげられた顔に過ぎなかったと気づく必要があるのです。

最後に気づくこと、それはオリジナルの顔を引っ剥がしたときに、いったいどんな顔がそこにはあるのか?結論から言えば、どんな顔もそこにはないということです。

それが本顔を得るということ。あなたの本当の顔は、透明で大きさも形もないのです。そのときに、人生という物語をただ見る立場である自分に気づくことにもなるのでしょうね。

役立たずの勧め

昨日のブログで、誰もが自分の惨めだという思いと戦っているということを書きました。惨めさから逃れるために、人間は様々な防衛法を編み出してきたのです。

その中でも、相当にしつこくてなかなかそこから抜け出せないものに、「人の役に立つ」というのがあります。役に立つ自分になるという手法です。

私はこれを昔から、「役に立ちたい症候群」と呼んで、注意を呼びかけてきました。そういうクライアントさんがいらしたら、役立たずになって下さいとお願いします。

冷静に考えれば分かることですが、役に立つというのは誰かにとって便利な存在になるということであって、そこに愛があるかどうかは分かりません。

誰もが欲しがっている愛は、相手が役に立つかどうかとは無縁なのです。役に立つかどうかなど、眼中にありません。それが愛なのです。

けれども、役に立ちたい人の心はかなり必死なので、そんなことには気づかずに、役に立つことができるならとばかりに、頑張ってしまうのです。

問題は、そのときに必ず発生してしまう重度の自己犠牲。その自己犠牲のために、いずれはウツ症状が顕われたり、あらゆる問題行動を起こすようになるのです。

エゴが小さくなれば、役に立ちたいという思いは一掃されてしまいます。その代わりに、慈悲の心がやってきます。そこにはどんな自己犠牲も存在しないのです。

100歩譲って、本当に役立ちたいのであれば、死ぬまでに自分のエネルギーを気持ちのいいものにしておくことです。なぜなら、死んだ後にそのエネルギーはこの世界に留まるからです。

それが人類の未来に影響を及ぼすのです。苦しい人生を生きて死ぬと、その苦しみの波動が人類に悪影響を及ぼすことになるのです。これは人迷惑です。

逆に清々しいエネルギーで死ねば、そのエネルギーが地球を覆い、人類に貢献することになるのですね。

惨めさを受け止める

私たちは、誰であれ大なり小なり戦っているのです。一体何と戦い続けているのかというと、自分が一番恐れているものとです。ある意味死よりも恐れているものです。

それは実は、自分の惨めさなのです。正確に言えば、自分は惨めだという思いです。幼少のころからその惨めな思いとずっと戦ってきているのです。

人よりも劣っているという劣等感は惨めさを起こすし、理不尽なことを言われたりされたりしても惨めさは募ります。誰からも相手にされないなら、それも惨めな気持ちになるはずです。

無力感というのは、最も惨めさを生み出すものでしょうね。だから、エゴはできないよりもできるということに価値があると思い込むのです。

何であれ、癒しとは惨めな思いと戦うことをやめていくことなのです。そのためには、まず初めに自分の惨めな思いに気が付くことです。

大抵の場合、惨めな思いを隠して生きているからです。それは当然のことですね。その感覚を味わいたくないからこそ、戦っているのですから。

だからまず、どれだけ自分は惨めな思いを持っているのかを探ることです。そのうえで、その惨めさから一歩も逃げないようにするのです。

惨めさとは、思考が創り出したものであり、実在するものではありません。だから安心して惨めさの中に入っていくのです。逃げるのをやめたとき、戦いは終結を迎えるのです。

戦わなくなったとき、人生はあなたにやさしく微笑み出すはずです。それまであれほど牙を向けてきた人生だったのに、突如として暖かさに包まれることになるはずです。

過去のエネルギーを完結させる

生まれてしばらくすると、私たちの内面は分裂を始めます。自分そのままでいようとするオリジナルの部分と、そのままではいけないとする抑圧的な部分とに。

この分裂はこの世界で生きていくためには、どうしても必要なことなのですが、一方で中途半端に生きるということをもたらすことにもなるのです。

分裂したどちらか、その瞬間に勝った方が使われて、残された方は使われずにいるので、結果として中途半端になってしまうのです。

つまり、全的に生きることができなくなって、感情や思考などのエネルギーを残しながら生きていくことになるということです。

そして、その過去に残したエネルギーは、自分を成仏させて完結させたいために、いつか表舞台へと出ようとするのです。そのときに、理性を巻き込んでいつもの自分とは違う状態となるのです。

そうなってようやく、過去の何かが自分の人生を邪魔していると人は気づくことになるのですね。私たちは、今日生まれたようには決して生きれないのです。

完結されていない感情や思考のエネルギーが、裏から手を回してあなたの行動パターンや、生き方の細かな部分に至るまで、強く影響を与えることになるからです。

そのことに少しでも早く気付いてあげて、過去のエネルギーを成仏させてあげるための方法を実践することです。それが癒しと呼ばれるものです。

そしてもう一つ、過去のエネルギーが手出しできない領域を作り出すことです。それが意識的であるということ。過去のエネルギーによって投げられた思考を見ているなら、それは自動的に勢力を失うのですから。

意識的でいる訓練

セラピストの私が言うことではないと思われてしまうかもしれませんが、癒しなどさっさと終わらせて、後はできるだけ意識的でいる訓練をすることです。

意識的でいることの大切さを深く理解して、それを実践しようという気持ちになるために、人によってはある程度の癒しの作業が必要となると思えばいいのです。

今この瞬間から、意識的でいるということをライフワークにしようと本気で思えるのなら、高額のお金を払って、時間と労力を費やしてまで、セラピストのところに行って癒しを進める必要はありません。

意識的でいるということは、別の言葉で言えばいつでも瞑想状態でいるようなものです。一日何十分でもいいので、時間を決めて瞑想の実践をするということも有効です。

そして同時に、ごく普通の日常の生活の中で、思考に飲み込まれずにそれを意識していることの方が、より効果的であると感じています。

癒しというのは、あくまでもエゴによるエゴのための癒しであるため、やり過ぎるとエゴを強化してしまうという悪影響があり得るのです。

その一方で、意識だけが副作用がまったくないままに、潜在意識を燃やしていくことができるのです。そこにエゴが介在する余地はありません。

何となく感じるのですが、意識的でいる訓練を徹底的に継続していくことで、その副次効果として、自動的に必要な癒しも起こってくるはずなのです。

数年先には、そのようなセッションができればいいなと思うのです。

意識に意識を向ける

趣味というほど、のめり込んでいるわけではないのですが、時々夜空に瞬く星を見るのが好きなのです。望遠鏡は手放してしまったので、もっぱら双眼鏡を使います。

視力が悪いせいもあるのですが、肉眼ではほんの少ししか見ることのできない星が、双眼鏡の威力によって星屑という言葉がぴったりするくらいに、空が星だらけになるのです。それはそれは壮観なのです。

ほんの20~30分だけでも見れたら、とても心が落ち着いていい気分になれるのですが、残念ながらここのところずっと雲が張り出していて、星が隠されてしまっています。

雲が悪い存在ということではないのですが、雲ばかりが続くと「何だかなあ雲の奴」っていう気持ちにもなるのです。それは、ちょうど意識を隠してしまう思考のようなものです。

思考そのものを悪者扱いするのは、まったくのお門違いなのですが、それがあまりにも意識を覆い隠したまま停滞してしまうと、困ったことになってしまうのです。

雲ばかりが主役となってしまい、すべての本質である意識のことを忘れてしまうことになるからです。一日のうち、どのくらい意識のことを意識することができるでしょうか?

物語の中に没入してしまえば、意識のことはどこかへ飛んで行ってしまうはずです。なぜなら、物語自体が思考そのものだからです。

意識だけが物語の外にいることができる唯一のものなのです。思考がこしらえた人生という壮大な物語の中を泳いでいる自分を、意識し続けることです。

意識という「そら」と共に在るなら、どんな物語であろうと寛いで見ていることができるのでしょうね。

目の前のものを淡々と処理する

自分の中で、苦手だと自覚のあることがそれなりにあるのですが、その中でも最も苦手だとつくづく感じるのは、公的書類などの提出です。

会社員の頃は自動的に天引きされていた税金も、今の仕事をするようになって、確定申告をせざるを得ない状況になったのです。

仕方なく、清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟で、書類作成に取り組んだときには、心と身体のどこかが軋んでいるような感じになりました。

本当にオーバーではなくて、目も半開きくらいになってしまって、どうも視界の悪い状態で書類と格闘してしまうのですね。何と言っても、困るのが書類の書き方の説明が理解できない。

さすがに、確定申告についてはもう10回以上繰り返してきた経緯もあってか、大分穏やかな気持ちで処理することができるようになったのです。

ところが、今回父親が他界したことで、とんでもなく難解な様々な書類を提出しなければならなくなって、今非常に暗たんとした気持ちなのです。

これまでずっと逃げてきたせいなのか、それらが一度にやって来たという感じなのです。自分の大切な時間が奪われるという思いは、なかなかしんどいものがあります。

こういったことが得意だという人はいないのかもしれませんが、私の場合は異常な苦手意識が邪魔をして、理解力が低下させられてしまうようです。

得手不得手が誰にでもあるように、公的書類は私にとって難敵のようです。結局、どれほど苦手であろうとも、目の前にあるものを淡々と処理することだけを意識すればいいのですね。

起きていることは常に中立

この地球において、人類の歴史を振り返ると、いいこともあるけれど悲惨なことの方が圧倒的に多いように感じてしまいます。そして、どうもそういうことはこれからも続くように思います。

けれども、起きていることに何等かの意味を与えているのは我々の方だということです。そこに価値があるとかないとか、悲惨だとか、それは出来事そのものではありません。

私たちのマインドの中にのみあるものです。起きていることは、それがどんなものであれ中立であって、いいも悪いも本質的にはないのですね。

更に言えば、出来事の渦中に私たちは生きているように感じているのですが、それは物語の住人としての立場から見たものにすぎません。

私たちの本質は、この出来事と接触しているものの、まったくその影響を受けるものではありません。いつも言うように、それは映像とそれを映し出すスクリーンの関係のようなものなのです。

スクリーン上に投影された単なる光の束に、意味づけしているのは私たちであり、その映像はスクリーンを必要とはするけれど、スクリーン自体は映像という概念すら持ちません。

そこでどんな悲惨な物語が展開されていようと、スクリーンは距離ゼロで接触していながらも、どんな影響も受けることはないのです。

私たちがずっと勘違いしてきたこと、それは自分を映像の一部だと思ってきたのですが、真実はスクリーンだったということです。

一日のうちに、何度もその感覚を思い出すことができるなら、少しずつ物語をただ楽しめるようになっていくはずです。そして、深刻さはどこかへ行ってしまうでしょうね。

法要について

仏教の最も根本の部分であるゴータマ・ブッダの真意をある程度分かるようになると、その仏教の(申し訳ないけれど)成れの果てである様々な宗派について、どんな関心もなくしてしまいます。

父親の亡骸を火葬してもらうときに、家の宗派を聞かれてすぐには分からなかったのですが、結局その宗派のお坊さんを呼んで、お経をあげてもらうことになったのです。

私の感覚では、法外に高いお布施を支払ってそこにどんな意味があるのか…。それでも、何もしないというのもどうかと思い、周りに言われるままに執り行ったのです。

そして今度は、納骨のときに四十九日の法要もしてしまおうということになったのですが、みなさんは初七日とか四十九日の法要にはどんな意味が込められているかご存じですか?

私は個人的には全く興味がなかったのですが、行うのが当然という家族の態度にやや腹が立ち、調べて見たのですが、それはもう途方もないものでした。

いつの時代から始まったのかは分かりませんが、人が死ぬと七日ごとに、閻魔大王様に審判されるということです。つまり、初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日ときて、7回目に四十九日がやってくるのです。

四十九日の日に、故人が極楽浄土できるのかどうかという最終的な審判が下るとのことで、それをみんなで祈るための儀式なのですね。

こうしたことを知ったうえでも、本当に四十九日の法要を是非やりたいと願うのであれば、それはその人の意志も尊重されねばならないでしょう。

けれども、誰もがやっているから、非常識と思われたくなくてそういった法要をしなければならないと思っているなら、これはもうただの防衛に過ぎません。

家族がやりたいというのであれば、絶対にやりたくないというのでもないわけで、それはどちらでも構わないのですが、もう少し自分の本当の気持ちに気づくことも必要なことではないかと思うのです。