飼い主を責められない

最近ニュース等でよく話題になっているパワハラについてなのですが、そんな言葉が世間にないころからずっとあったのだと思いますね。

それが言葉ができたことで共通の認識ができるようになったのでしょう。そうなると、埋もれていたものが順番に表面化していくので、なかなか大変です。

いつになったらパワハラがなくなる世の中になるのか、まだまだ出ていないウミは沢山あるのだと思います。

セラピストが話題にするのは、世の中で起きているあらゆるパワハラの根っこにあるもの、それは「家庭内パワハラ」とも呼べるようなものです。

もちろんパワハラをするのは親側であって、被害者は弱い立場の子供達であることがほとんどです。

夫婦の間でパワハラがあることもあるし、それが子供達へのパワハラへと繋がっていくことは容易に想像できます。

家庭内パワハラを経験すると、被害に遭った子供のエネルギーが傷となって残るため、その後の人生においてもパワハラに出喰わす可能性が高くなるのです。

毅然とした態度で「ノー」が言えない人の何と多いことか。こうした事実はセラピストになって初めて知り得たことだったのです。

家庭内パワハラが定常化すると、被害者としての自覚も怪しくなり、言葉は悪いのですがある種の洗脳状態にさせられるのです。

そうなると、ペットとしての身分に落とされた子供は、飼い主である親を責める気持ちも起きなくなってしまうかもしれません。

セラピストとして気になるのは、クライアントさんが親を責める気持ちがちゃんとあるかどうかという点です。

親への怒り、親への不満にしっかり気づいていてくれるなら、癒しはそれほど難しくはならないはずだからです。

死が唯一の完全なる救い

死はあらゆる人に起こり、避けられない。それは唯一確かなものだ。だからそれを受け容れてごらん。その中で喜び、その中で歓喜に満ちてあることだ。

by osho

↑そう、だから安心だし大丈夫というのがある気がします。このことに想いを馳せて見ると、なぜか今長い夢を見ているような感じがしてきます。

それと同時に、本質的には生きているのでも死んでいるのでも、そのどちらでもないという気づきもやってくるのです。

こうした感覚というのは、生が活動的過ぎると気づけなくなってしまうかもしれませんね。勿論それも悪くはないのですが…。

人並みに死に対する恐れは持っているのですが、もう一方では死によって救われるというのもあるのです。

所詮人生は面倒くさくて、この物語が永遠に続くとなったらそれこそ地獄のように感じられるだろうし。誰だっていつかは夢から覚めたいのです。

死によってあらゆる一切合切が清算されて、誰も彼もが同等に無へと帰還するのですから、こんなすっきりすることはありません。

死に対する恐怖心については、いつか自己の不在にはっきり気づいてしまえばいいのです。仮に気付かなくたって、真実は変わらないのですからね。

血糖値と記憶の関係

先日あるテレビ番組で観て知ったのですが、血糖値と記憶障害には関係性があるとのことで、非常に参考になる内容でしたね。

頭をフルに回転させると、脳の糖分が不足してくるということはなんとなく誰もが知っていることです。

番組では、将棋の棋士たちが休憩時間には何かしら甘いものを食している姿を映していました。

ある人はケーキ類、ある人はチョコレートといった感じで、それぞれにきっと好みがあるのでしょうけれど、糖分を摂取するということでは同様でした。

ところが一方では、血糖値が高い状態が続くと、今度は逆に脳にとっては問題があるということなのです。

一見すると矛盾するような気もするのですが、実は糖分を摂取すると血糖値が高くなり、それに呼応してインスリンが分泌されるのです。

そしてそのインスリンが介在することによって、血液中の糖分が細胞へと運ばれてその機能を果たすことができるということなのです。

けれども、血糖値が高すぎると、分泌されたインスリンが首から下の細胞に対して機能するだけで、脳にまで到達しなくなってしまうらしいのです。

つまり、脳内には糖分が余剰しているのだけれど、インスリンが到達してくれないために脳細胞は糖分が不足した状態になるのだそうです。

それによって、一時記憶を司る海馬がうまく機能しなくなってしまい、その結果として記憶障害が起きてくるということらしいです。

脳に直接インスリンを投与できればいいのにと素人なりに思ったのですが、どうもそれは今のところ現実的ではないようですね。

結局のところ、記憶障害が起きないように気をつけるためには、非常に単純なことですが、糖分を摂り過ぎないことが一番のようなのです。

甘いものには目がないという人にとっては、ちょっと困った情報だったかもしれませんが、要するに食べ過ぎなければいいわけなのです。

食べ過ぎというのは野生動物においては有り得ないことなので、それは人間のマインドのなせる技なのです。

食べ過ぎがなかなかやめられないということでしたら、それは意志の弱さの問題よりもマインドが抱えている不満に目を向けた方がいいかもしれません。

マインドの仕組みをしっかり理解するようにして、その上で自分のマインドを監視すれば、食べ過ぎの原因は明確になるはずです。

理由のない満足だけがホンモノ

クルマの自動運転が現実的なレベルになってきましたね。本格的に実用になる時代がもうすぐそこまで来ている気がします。

それと同期して、きっと電気自動車が普及することになって、そうなると充電は無線で送電できるようになって、充電スタンドも不要になるかもしれません。

自動運転が普及すれば、マイカーを所有するということに実質何の意味もなくなってしまうでしょう。

どうしても自分で運転したいとか、あのクルマを所有したいといった一部の金持ちの趣味として残るだけになるはずです。

車が必要な時には、スマホで呼び出して目的地まで連れて行ってもらうだけ。車中では、もちろん仕事をすることもお酒を飲むことも、睡眠を取ることだってできるのです。

さまざまな店舗やオフィスには駐車場が不要になるため、建築物の様相も違ってくるはずですね。

日本は土地が狭いのでそれは都合がいいです。人が運転するよりも自動運転の方が圧倒的に安全であることを誰もが認めるようになるはずです。

クルマ同士の事故はほとんどなくなるし、人身事故も減るでしょうが、ただなくなることはありません。それは人に落ち度があるからです。

とまあちょっとイメージすると、いいことずくめのように見えますが、人は生活が便利になったからといって満たされるというわけではありません。

それは全く違うことなのです。毎日2時間かけて、飲み水を汲みに遠い場所まで歩いて行かねばならない地域に暮らしている子供が、不満だらけかというとそうではないからです。

便利さはすぐに慣れてしまいます。満足に理由がある場合には、その満足は一過性のものだということです。

理由のない満足だけがホンモノなのですが、それを外側に求めることはできません。内側を深く見ることでしか見出すことはできないのですね。

イベントのない毎日はどう?

昨日は運動会だった小中学校がたくさんあったようですね。私が子供のころは、運動会は秋で、今の時期は小運動会と呼んで、年2回やってた記憶があります。

私の住まいの隣の小学校でも運動会があって、朝っぱらから大音響が鳴り響いて、朝ぐうたら寝ている私は当然起こされることになったのです。

午後一の仕事を終えて戻ってくると、夕方一仕事終えた子供達が三々五々下校する姿があったのですが、運動会で大活躍したせいなのか、いつもよりも疲れた風情でした。

いつものように路上で悪ふざけするような子供も見かけず、いい感じだなと思ったのです。子供はそこそこ疲れさせると塩梅がいいもんですね。

今日からは朝邪魔されずに寝ていられる日が戻ってきます。この3週間というもの、運動会の練習が連日続いていたので。

もう何回も同じ音楽、同じ歌を聞かされて無駄に覚えてしまったくらいなのです。時々、子供達が一斉に「おお!」と掛け声をかけるのですが、その迫力が好きなのです。

そうやって、大人たちは子供達にいろいろなことをやらせるのですね。自分も子供の頃はいろいろ意味もわからずにやらされたのだろうなと。

イベント嫌いな自分はとにかく嫌で嫌で仕方なかったのを覚えています。運動会なんてなくなればいいのにって本当に思っていました。

高校生になって、勉強やってるよりも体育祭のことを考えていた方が楽しいと思うように多少変化はしたと思いますが、基本的なイベント嫌いは今もって健在です。

そして気がついて見ると、今となってはまったくもってイベントのない毎日になってしまいました。それを願っていたのは自分なので、当然かもしれませんが。

ある意味夢は叶いました。そうなると、私のエゴの別の部分が言っています。「何もやることがない人生はきつい!」と。人間て贅沢なものですね。

マインドの中の自分以外の誰か

子供の頃というのは、親の存在がとても大きいものですね。頼れる者が他にいないのですから、当然といえば当然のことです。

その上で、場合によっては親にコントロールされてしまったような状態にあると、単に親の存在が外側で大きいだけでなく、内側でも大きいものとなってしまうのです。

内側で大きいというのは、子供の内面にまで親のエネルギーが入り込んでしまうと考えればいいのです。

すると、子供自身の部分が三日月型にひしゃげたような形になって、それ以外のところに親がどしっといるようなマインドになってしまうのです。

本来マインドの内側は100%自分自身でなくてはならないはずなのに、擬似的な親が80%〜90%を占めるようになるということです。

そのような状態で成長して大人になると、当然親からは離れて行くのですが、そうすると内面を占めていた親の部分が空洞になってしまうのです。

それはそれで居心地が悪いので、本人は自覚することなく親の代わりにマインドの中に入ってくれる人を探すことになるのです。

それがパートナーだったり、それ以外の誰かになったりするわけです。これがいわゆる依存を意味するのです。

マインドの中に大きく存在する人なしでは生きていけないという状態です。依存は、同時に執着を生み出します。

だからいざその存在がいなくなってしまうと、とてつもなく寂しいし孤独にもなってしまうということです。

自分のマインドの中に作ってしまった自分以外の誰かの存在に気づいて、少しずつでもそれを外側の世界へと戻してあげることです。

それで初めて、依存と執着が消えて行くのですから。

ただ見るということ

死と生は、その観照者の視野へと入ってくるが、その観照者は永遠だ。それは、あなたが生まれる前からあり、あなたが逝ってからもそこにあるだろう。あなたは何百万回もこの世に来たし、これからも来るだろう―それでもなお、あなたはけっして来たことはない。

by osho

言葉で真実を表現しようとすれば、そのすべてが方便になってしまうのです。↑この言葉もそのように読む必要があります。

もしもこの言葉から何か具体的なイメージが浮かぶとしたら、それは間違いです。言葉の背後にある何かを感じるようにするほうがいいのです。

観照者という誰かがいるわけでもないし、その存在が視野を持っているということもありません。

ただ真実からやってくる生と死の繰り返しに気づいている意識が在るということです。とこのように解説すれば、これも立派な方便になるわけです。

真実は解明されるものではありません。解明とは思考の範疇のものだからです。それよりも真実は思考がないときに、その姿を露出してくれるのです。

だから真実はどこか遠いところに隠されているということもないのです。こうした osho の言葉に触れることで、現実という物語を見つめるきっかけにすればいいのです。

ただただ見つめるなら、そこにはもうすでに真実がやってきてくれるからです。それは大そうなものではなく、すごく当たり前なことなのです。

単純過ぎて、思考が止まってしまうくらいなのです。あなたが何百万回この世に来て去って行ったとしても、真のあなたは見ているだけなのですね。

存在の最も奥深い核心

信頼はあなたの内側から、あなたの主体性から育つ。ちょうど疑いが内なるものであるように、信頼もそうだ。そして、内なるものだけが、内なるものを変容させることができる。信念は外からのものだ。それは助けにはならない。あなたの存在のもっとも奥深い核心に届くことはできないからだ。

by osho

繊細な人は大抵が罪悪感を感じることが辛いために、それから逃げようとして自己犠牲を繰り返してしまうのです。

私自身も罪悪感からは遠ざかりたいという衝動を持っている自覚があります。けれども、一方では罪悪感は存在の最も奥深いところまでは届かないと分かっています。

そうした言葉では表現できないような安心感があるからこそ、何が何でも罪悪感から逃げようとはしないでいられるようになったのです。

罪悪感でやられてしまうのは、所詮はエゴの部分だけだからです。罪悪感に限らず、実はどんな感情であっても同じことが言えるのです。

どのような感情であれ思考であれ、それらは全部エゴの範疇だからです。↑上で言っているように信念も思考であり、それらは全部外からのものです。

信頼は思考や感情とは異なる存在の深い部分からやってくるものなので、信念や信じることとは全く違うのです。

もっと簡単に言ってしまえば、表面的なこと、あるいは物語の中のことは、それが何であれ存在のもっとも奥深くへは達しないのです。

なぜなら、真実と物語が触れ合うことは不可能だからです。こうした気づきは、日頃意識的である練習によって自然と身についてくるものだと思いますね。

立派を目指してはいけない

ふつうになりなさい。それは私の教えでもある。もしそれを教えと呼べるならだが–。というのも、今日に至るまで、教えは、あなたがたをどこかふつうでない目的に駆り立ててきたからだ。だが、覚醒した人に尋ねたら、彼らはつねにこう言ってきた。ただふつうでありなさい、と。

by osho

ふつうであるということは、極端ではないということです。両極端のど真ん中、これこそがふつうということの本当の意味なのです。

ところが、親や社会全体からはふつうから抜け出して、飛び抜けることこそが価値あることだと教え込まれるのです。

だから誰もが飛び抜けて優れたり、飛び抜けた成果を出せば立派な人物になれたと思ってしまうのです。

もしもそれを立派なことだと表現するのなら、立派を目指してはいけないということになります。

このブログでもう過去に何度も繰り返して書いていますが、ど真ん中というのは中道、中庸を生きるということです。

だからふつうというのは一番難しいのです。オリンピックで金メダルを取ったり、大会やコンクールで優勝すれば立派だと思われるのです。

だからそういう人たちが何か変なことをしでかすと、みんなが首をかしげることになるのですが、極端を生きれば成果は出せても激しい分離が起きるのです。

その結果、真反対のエネルギーによって問題行動を起こす確率が高くなってしまうのは、マインドの仕組みを理解すれば至極当たり前のことだと分かります。

適当(なバランス感覚)とわがまま(我のまま)に生きるのが中道の特徴だと思って下さい。

そして完全にど真ん中になった瞬間、エゴは耐えられずに絶滅してしまうのです。それを覚醒というのですね。

真の洞察とは…

そこに洞察が、了解が、突然の明晰さが、透明さがやって来るようにしなさい─「私は苦しみではない」それを、あなたは見る。いいかね、見ることが肝心だ。それは、記憶から取ってくる答えではない。それは、あなたの存在のもっとも深い核心からつかみ取るべき洞察なのだ。

by osho

↑そういった深い洞察というのは、エゴのものではないのです。エゴとは思考、つまり過去の記憶から作り出されたものでできているので、全てが古臭い。

どれほど新しい体験だと思ったとしても、どんなに斬新な発想だと思えたとしても、所詮は過去の焼き回しに過ぎないのです。

以前自己の不在を体験したとき、これまでの人生で体験したどんな体験とも全く違うものでした。

なぜなら、通常は体験には体験者としての自分が絶対に不可欠だったのですが、その体験は体験者がいないという体験だったからです。

これがどんな体験なのかを想像してみたところで、そこに近づくことすらできないのです。想像できないというのが正しい表現でしょうね。

イメージできるということ、イマジネーションというのはすべて過去の記憶からやってくるものだからです。

そして非常に残念なことに、不在体験から戻ってきた時点でエゴは自分の奇妙な体験だと思い込んでしまうのです。

過去になってしまったものへのエゴの解釈というのは、本当に自分勝手でそれこそがエゴイスティックな洞察に違いないのです。

エゴの努力では真の洞察を得ることができないということが、なんとも悩ましいところなんですね。