「個人」という仮面

社会人一年生の時、学生時代の自堕落な生活から打って変わって、毎日の生活が規則正しくなったりして、急変したのを覚えています。

たまたま自宅から徒歩で15分くらいのところに会社があったのですが、歩いている間に自分はいつ社会人の顔になるのだろうと自分を見張っていたことがありました。

それで分かったのですが、オフィスに近づくに連れて会社の顔見知りの人々に会って挨拶を交わすごとに、だんだんと会社員の装いを作っていくのです。

朝ギリギリまで寝ていた素の自分から、ちょっと如才無い態度の自分、言わば社会人の仮面を装着するわけです。

一度その仮面を着けてしまえば、後はそんな自覚など忘れてこれが自分そのものだと思い違いするくらい上手に仮面と同化するのです。

人はさまざまな仮面を持っていますね。子供と一緒にいるときには親という仮面、パートナーと一緒の時にはまた違う仮面。

とにかく誰かと一緒のときには必ず何らかの仮面を着けているのです。そして独りきりになったときに、ようやくすべての仮面を脱ぎ捨てて自由になるのです。

けれどもあまりに長時間仮面を着け続けていると、それと完全に同化してしまうがために仮面を脱ぐことができなくなってしまうのです。

そうなると、もう決して清々しい人生を感じることはできなくなるでしょうね。どれほど周囲から承認されたとしても、決して満たされることもないのです。

仮面が承認されればされるほど、本当の自分は惨めな思いをするからです。仮面が悪いのではなく、仮面のことを忘れてしまうことが問題なのです。

そして最後に、どんな人も共通して着け続けてしまっている仮面があるのです。それが「個人」という仮面です。

誰もがそれは本当の私の顔であって、決して仮面なんかではないと信じて疑わないのです。

けれども世の中には、その仮面を仮面と見抜き、脱ぎ捨てて二度と着けることがなくなった人もいるのです。

禅では「本顔を得る」というらしいですが、つまりは自分の本当の顔を知るということですね。