知識は無知を覆い隠す

借り物の知識を避けること
借り物の知識というのは心のトリックになる
それは無知を覆い隠すのだ
それは決して無知を打ち壊しはしない
そして知識に取り囲まれれば取り囲まれるほど
内面深い中心において
まさにあなたの実存の根において
無知と暗闇が存在する

by osho

知識というのは、すべからく借り物であり、貰い物だということです。知識とは、そういう情報があるということを単に知っているということだからです。

知識が豊富であれば、物知りだという評価をもらえるし、クイズ番組では優勝することができるかもしれません。

けれども、どんな知識も自分の血や肉になることはないのです。本当に知るためには、体験すること以外にはないですし、それが気づきへと繋がるのです。

深い理解である気づきは、どれほどの知識をかき集めたところで手にすることはできません。それはやってくるものだからです。

知識そのものに良いも悪いもないのですが、知識は自己防衛に利用されることが多いのです。そうなると、知識は自分が無知であることを覆い隠すのです。

最近テレビの情報番組などでよく見かけるようになった、自称知識人と言われるコメンテーターの話す内容が、あまりにも薄っぺら過ぎて笑えるくらいです。

瞑想をすると、自分は何も知らないということに気付かされますが、そこが私たちの原点なのです。

知識は物語の中で表面的にだけ役立つように見えることもあるのですが、最も大切な無知に気づけなくなってしまう危険なものだともいえますね。

隠されたマインドの部分に光を当てる

マインドの中に潜在意識とか無意識とか言われる部分があるということを疑う人はあまりいないはずだと思うのですが、いざ自分のこととなると違うようです。

自分のマインドにも潜在していて気づくことのできない部分が沢山あるのだと日頃分かっているかどうか、今一度見つめて欲しいのです。

たとえば、自分は〇〇をしたいと思っているのに、それをしないでいるとしたら、したくないと思っている部分があるということです。

逆に、〇〇などしたくないと思っているのに、してしまうのなら、それをしたいと思っている部分が隠れているということです。

こんな単純なことですが、一般論なら分かるのに、いざ自分自身のこととなると急に分からなくなってしまうのは不思議なことです。

自分を癒したいと思う気持ちでセッションを受けて、なかなか癒されないとしたら、それは癒されたくないという思いが潜んでいるということだと気づけばいいのです。

なぜなら、マインドの100%でそれを願っているなら、邪魔する部分がないのであれば、淡々と癒されていくはずだからです。

そうならないのであれば、その理由を外側に見つけようとする前に、自分の中にこそそれを阻止しようとする部分があるに違いないと見当をつけるべきなのです。

それができて初めて、内側で反対している部分の真意を汲み取ろうとするようになるのです。それが受け止めることを実践させることになるのです。

マインドの中のあらゆる部分を見出した上で、すべてを同等に受け止めることができるようになったとき、それらは自然と衰退していくことになるのですね。

義務と責任を全体に返す

最初の呼吸は全体によってなされる
そして、もし最初の呼吸が全体によってなされるのだとしたら
ほかのあらゆることも
あなたの行為ではあり得ない
もし自分で息をしていると思ったら
道を踏みはずしているのだ
そしてこの誤ったステップのために
自我が生まれる
自我とは蓄積した無知のことだ

by osho

私たちが社会の中で生きていくためには、自我(エゴ)がなくてはならないのです。そのため、幼子の自我が正常に成長するように促すわけです。

万が一、自我の発達が阻害されでもしたら、社会にうまく順応することができなくなってしまうかもしれないからです。

その大切な自我のことを、osho は蓄積した無知と言っているのですから、どれほど常識から逸脱したことを表現しているのか分かります。

自我は自動的に発生するものではなく、すでに成長させた自我を持っている親に育てられる過程で、子供の中にも同じような自我が芽生えるのです。

但し、一度自我が成長してしまったなら、今度は自我は実在しないということを見抜くことこそが、最大の気づきであるということです。

なぜなら自己の本質を知らずに生きていることこそが、私たちの本当の苦しみの原因だからです。自我はあなたではありません。

自我とは、あなたがこれこそが自分だと長年信じ込んで来た「私」のことを指すだけなのです。

自我を自己と同一視することによって、義務と責任が生まれるのです。自我はそれを立派に果たすことで、自己満足しようとするのですが、それは必ず敗北します。

全体(存在)はあなたの自我のことなど構ってはくれないからです。義務と責任を全体に返すことこそが、明け渡しへの道なのです。

そのときに、元々実在しない自我が消えていくのですね。

信頼と罪悪感は反比例する

信頼とは、何かを信じたり信じなかったりすることとは、まったく異なる次元にあるものです。

「信頼する」というと動詞になりますが、信頼が在る状態のことをいうのではないかと思います。信じることは、何か特定のターゲットがあるのですが、信頼にはそうしたものはありません。

あるいは都合のいいことが起きたり、都合の悪いことが起きたりする、そのすべてをひっくるめたもの、<存在>そのものが信頼のターゲットなのかもしれません。

信頼が深くなってくると、物事の善悪や正不正に関心を持たなくなっていくのです。そのために、自分の言動を悔やんだりして罪悪感を持つことが減ってくるのです。

逆に言えば、罪悪感まみれのマインドというのは、存在に対する信頼が小さい状態であると言えるのです。

だからもしも100%の信頼があるのなら、罪悪感は消滅してしまうのです。どこかの宗教が、原罪などと言って、人は生まれながらに罪深いというなら、まったくもって信頼のない状態だと言わざるを得ません。

自分の内側をじっくり見てみると、信頼がどっしりとあるのか、その逆に罪悪感がずっしり横たわってるのか、気づくことができるはずです。

いずれにしても罪悪感を恐れる代わりに、信頼の方に意識を向け続けることをお勧めします。信頼が増えれば自然と罪悪感は小さくなっていくからです。

瞬間ごとにそれは花開く

それ(=神)はつねに花開いている
毎瞬ごとにそれは花開く
しかし、あなたはそれが見えない
あなたの心は、過去と未来で雑然としている
そして、現在というのはごく狭い現象なのだ
まばたきするかしないかのうちに
それはどこかへ行ってしまう

by osho

今この瞬間を起点として、後方には過去が、そして前方には未来がそれぞれ無限に広がっているという感覚を持っていますね。

この感覚というのは、実は思考が作っているものなのです。思考が作った時間という概念がそういう感覚を生み出しているに過ぎないのです。

↑上の表現では、現在というのはまばたきするかしないかの間だと言っていますが、これも思考にまみれた私たちに分かりやすいような言葉を選んでいるのです。

実は無思考になったときには、今この瞬間が狭い現象だという感覚は完全に消えてしまいます。このことは体験から言えるのです。

そしてそのときに、現在という今この瞬間は永遠だというのが真に理解できるのですが、これは思考では全く意味不明なことになるのです。

時間lは思考が作っているということを思考によって理解することは不可能なことです。だから、それが腑に落ちなければそのままにしておくことです。

ただ思考では理解不能なことを、切り捨てないでおくことは必要なことだと思うのです。そこにこそ、真実へのヒントが隠されているからです。

選挙に見る戦争の縮図

今回の衆議院選挙の様子などを、横目でチラ見しながらも、やっぱり腑に落ちない、不思議な光景が沢山あったなと思うのです。

選挙カーに乗って、名前を連呼するだけの毎度おなじみのあの宣伝。騒音になるだけで、あれに一体どんな意味があるのかなと。

もっとひどくなると、街頭演説で「みなさんのお力でどうか私を男にしてください!」って…。

さらに、当選した議員が、選挙事務所などでやる万歳三唱。なぜ万歳なのか?あのお方たちは、きっと自分のことしか最初から考えていないのではないかと疑ってしまいます。

驚きのあまりあきれて笑ってしまったのは、アベノミクスの向こうを張って、ユリのミクスって、羞恥心をかなぐり捨ててまで首相になりたいのでしょうか?

頭はいいのかもしれませんが、政治家のみなさんの野心や保身の醜さには、毎回うんざりしてしまうのは私だけでしょうか?

もちろん中には国家のために身を投げ出す系の方々もいらっしゃると思うのですが、政治に期待できない現状を生んでいるのは、個々人のエゴのなせる技。

それもこれも物語として捉えるなら、なかなか興味深く見ることもできますが、人類から戦争がなくならない要因の縮図を見させられているようですね。

深い理解が気づきをもたらす

心は絶えず、過去か未来のことを考えている
なぜそんなに過去のことを考えるのだろう?
去ったものは去ったもの!
それは帰って来ない
過去は死んでいるのだ!
なぜ、あなたは
もう過ぎ去ってしまい
どうすることもできない過去のことを考え続けるのだろう?

by osho

↑本当になぜだと思いますか?わたしの答えはいたってシンプルです。それは、思考は過去と未来とだけ繋がっているからです。

今この瞬間の実在の中に思考は入り込むことができないのです。だから、過去か未来のことを考えるしかないのです。ではなぜ考えるのか?

それは考えなければ、エゴはいずれ生き絶えていくからです。元々エゴという存在は、思考によって作り出された実在しないものなので、思考がなくなればエゴは消滅します。

そのことがエゴにとっては恐怖でしかないのです。誰だって死にたくありません。一度自分がいるという考えに取り憑かれたなら、生き続けたいという願望(思考)が生まれるのです。

そして考え続けるためには、今度は自己防衛、あるいは闘うということに取り憑かれればいいわけです。自分を心理的に守るためには、考え続ける必要が生じるからです。

だから考えることをやめようと自分を強いる必要はありません。強いてもいい結果はやってこないからです。それよりも大切なことは気づきなのです。

これも私の考えでしかありませんが、修業をしなくても、深い理解によって非常に大切なことに気づくことができるのです。

実際気づきとは、深い理解からやってきます。それは同義語だと思ってもいいかもしれません。

深い理解は、経験の繰り返しとそこに注意を向け続ける(見る)ことでやってきてくれるものです。苦行のような修業は必ずしも必要ないのです。

そしてやってきた気づき(深い理解)によって、ひとりでに真実へと向かうようになるのでしょうね。これは自己改善とは全く異なるものなのです。

物語は思考の中でしか存続できない

人生は物語だというときに、何を言いたいのかといえば、人生は実在するものではないということです。

思考は実在の一部だとしても、思考の中身は実在とは何の関係もないものだということです。そして人生はその思考が作り上げた架空のものです。

でも実際に私はこうして毎日生きているし、いろいろな体験をしながら日々人生が進んでいると思っているのですが、その思いこそが思考なのです。

思考を見ようとすると、あっという間に思考はその動きをやめてしまいます。そのときに、日常の一切合切も一緒になって消えてしまうのを見るのです。

自分はこのような人物だというのも消えるし、あれは誰とかこれは何かといった個別的なものがすべて消滅してしまうのです。

そこにはどんな物語性も残っていることができません。なぜなら、物語性は思考の中でしか存続できないからです。

真実はどんな高度な思考を駆使したところで、遥か及ばない未知のもの。思考は把握する対象を必要としますが、真実は対象とはなりえないのです。

こうしたことが少しでも腑に落ちるなら、深刻さが確実に落ちていくことになるのです。深刻さも思考の一部だからです。

人類を二種類に分類する

わたしが勝手に人類を二種類に分類するとしたら、それは国籍でも性別でも信じている宗教でもなく、あるいは善人か悪人かでもありません。

一つ目は、人生という物語に深く翻弄されてるが故に、100%物語の住人と化してしまっている人。当然、それが物語であることにも気づけません。

もう一方は、人生という物語の内容がどれほど悲惨で苦悩するようなものであっても、それを物語と見抜いている人。

なぜこのような分け方をするかと言うと、それ以外の分類が無数にあるとしても、そのすべてが物語の中の話しになってしまうからです。

物語の中に全面的にいるのか、それともそれを見る側になれるのかの両者には決定的な違いがあります。次元が違うと言ってもいいくらいです。

それは映画で言えば、スクリーンに映し出される映像の中の存在と、映像を映し出すスクリーンとの次元の違いと同じなのです。

人生を物語だと見抜いたとしても、人生がそこで終わってしまうわけではなく、その後も普段通りの人生は続いていくのですが、気楽さが決定的に違ってくるのです。

物語と密着していれば、必ずや深刻さが滲み出てくるのです。なぜなら、起きてくることの一つひとつに翻弄されて、それと戦わねばならないからです。

戦うのをやめて下さいとクライアントさんにお伝えするのも、物語を見る側になるための第一歩だからなのです。

自分以外の誰かになろうと必死になっていたりしたら、不可能を可能にしようとして絶え間ない戦いの中で思考まみれになって死んでいくことになるのです。

全部丸ごとひっくるめて物語だということが腑に落ちた時、すべてはあるがままでOKだと分かるのです。

マインドのメカニズムはどれも同じ

心というのはメカニズムだ
それは独創的でなどあり得ない
それは生きてさえいないのだ
どうしてそれが独創的であり得る?
それは社会的なものだ
それがゆえに、覚者たちが口をすっぱくして
心を落とさない限り
真実を知ることはできないだろう、と強調する
真実はつねに独創的なものだからだ

by osho

↑この「心」というのは、マインドのことを指しているのです。日本語で「心」と言うとき、マインドのことを指す場合とハートのことを言う場合があるため、間違いやすいのです。

だから私は、なるべく心という単語を使わないようにしています。心を落とすという場合の心は、マインドのことだと思って間違いありません。ハートを落とすことはできないからです。

ハートはマインドが優位になるにつれて、反対に抑圧されてきたものです。ハートは感じ、マインドは考えるのです。

私がまがりなりにもセラピストをやっていられるのも、実は私たちのマインドというのはそのメカニズムにおいては、どれも同じだと知っているからです。

一人一人のマインドのメカニズムが違っているとしたら、この世界からセラピストなど消えていなくなってしまうはずです。

だから真に独創的なマインドを持った人などいないということです。エゴは自分のことを、良しにつけ悪しきにつけ特別扱いしたいのでしょうが、それは無理なこと。

結果としてどんな状態のマインドであれ、癒しの方法について基本的には違いなどないのです。違って見えるのは、表層の部分だけなのです。

だからどんな育ち方をしたところで、み〜んな同じ。自分だけ劣っていると思うなら、それはエゴの作戦なのです。

どんな人にも劣等感はあるし、罪悪感も執着心も憎しみも嫉妬も全部品揃えしています。だれでも同じマインドのメカニズムに突き動かされて生きているのです。

そこを見抜けば、もっともっと気が楽になるはずです。