期待から離れるためにマインドを理解する

自分の気持ち、内面の状態を平穏にしておきたいと願っているのでしたら、あらゆる期待をするマインドをなるべく使わないように生きることです。

なぜなら、悲しくなったり焦ったり、落ち込んだりと、とにかく嫌な気持ちになるのは、期待とそれに対する現実との落差が原因だからです。

ただし、自我というのは欲深いマインドを抱えているので、常に何らかの期待を抱きながら生活しているのです。

欲深さが大きければそれだけ、あるいは不安や恐怖が大きければそれだけ期待値も高くなってしまうのです。

そうなると、常に現実との落差に喘ぎ続けなければならなくなり、本当に辛い毎日がやってくることになるのです。

では期待を小さくするためにはどうしたらいいのか?それは、マインドの仕組みをできるだけ深く理解することです。

この深い理解こそが、期待してしまうことから離れていられるようにする極意のようなものなのです。

自我が期待をしてしまう仕組みを理解すれば、そこから離れているための方法も自ずと分かってきます。

マインドを深く理解すると、それは自分の本質ではないということの理解へと進みます。そのことでマインドの期待からも離れていられるようになるのです。

自分の人生や自分自身に対してどのような期待を持っているのか、まずはそれをじっくりと調べてみてください。

そして期待値が高いということが分かったなら、マインドを理解することに専念することですね。 

助けてもらう喜び

私たち人間というのは、独りで生きるよりも集団で生きていくようにできているようですね。

だからこそ社会というルールの中で、互いに上手に助け合って生きることを選んだわけです。

人に助けてもらうこともあれば、逆に人を助けることもあります。つまりは、助けを受ける側になったり、与える側になったりするのです。

その両方がうまくバランスが取れているといいのですが、多くの人は助けてもらうよりも助ける側になりたいと思っているのです。

実際助けてもらうのがとても苦手な人もいるのです。助けてもらうことは情けないという思いや、惨めさを伴うことがあるからでしょう。

逆に助ける立場というのは、少し優位に立っているような気がするので、こちらの方が安全なわけです。

私の若いときには、助けることも助けられることもどちらもあまり好きではありませんでした。できるなら自分一人で完結したいという思いでした。

年齢を重ねて防衛が小さくなってくると、助けてもらうことにほとんど抵抗がなくなり、助けてもらえる喜びを素直に感じるようにもなりました。

その結果、助ける側が小さいままで、助けてもらう側がとても大きく育ってきたという感じで、お得感が絶大です。

このまま助けてもらいながら死んでいけるといいなと思うようになりましたね。みなさんはどうですか?もっと助けてもらってもいいのではないかと思います。

自我である「フリ」を見抜く

私たちは日頃、あらゆる「フリ」をしています。元気なフリ、疲れたフリ、あるいは善人のフリ、良い子のフリ。

かつて会社員だった頃、会社の業績をアップさせることに興味があるフリをしていたことがあって、それは病気を生み出しました。

思い出すと恥ずかしいですが、頑張っているフリ、本当はやる気がないのに前向きなフリもしていたことがあります。

こうした「フリ」を繰り返していると、少しずつ病んできます。自覚があったとしても、健康にはなりませんね。

そして怖いのは、自覚することができない「フリ」です。知らず知らずのうちに、何かしらのフリをしていると、その病みはずっと大きなものになっていきます。

さらにいえば、私たちが最も大きなエネルギーを使って継続的にやっているフリは、自我であることのフリなのです。

誰それという名前を持ってこの社会で生きているという個人としてのフリですね。このフリを見破ることは難しいです。

けれども間違いなく自我のフリをしているのです。ほんの少しの間であれ、自我が落ちているときには、はっきりとした体験として気づくことができます。

ではフリをやめたとき、本当の自己とは一体何?という疑問がやってきますが、その答えは実際の体験によって確かめられるといいですね。

いつもあるマイホーム

何か特別なことのように瞑想をしようとして、大上段に構える必要もなく、ただ静かに坐してこの瞬間にいるだけでいいのです。

そうすると、一種の至福感のようなものがやってきてくれるのです。それは決して幸福な気持ちになるのではありません。

ただゆったりとした安らいだ感覚であり、静寂と沈黙、そしてとても落ち着いた穏やかさに包まれるのです。

ここには楽しさや嬉しさ、あるいは快楽や苦しみなどもありません。もちろん興奮とか、高揚感などとは遠いものです。

ただそういった自我の好物ではない、もっと本質的な何かがそこにはあるという感じがするのです。

人生という、思考(マインド)が作り上げた騒々しい毎日の中にあっても、こうしたハートの中にある静かな時間を持つことが出来るのです。

それがとても幸運なことであり、何かの恵みのような気がします。変化ばかりの人生も悪くないですが、こうした時間のない体験もいいものです。

これこそが私たちの起源であり、マイホームなのだと感じますね。

あなたの世界はあなたの思考の産物

ひと月くらい前にクルマを盗まれる夢を見たのですが、つい先日今度はお財布を盗まれる夢を見ました。

目覚めて気になったので、すぐに夢占いを調べたのですが、イマイチ良く分からなかったので、もうほとんどその意味を忘れてしまいました。

大切なものを盗まれる夢なので、あまりいい気持ちはしないのですが、そのときにこれが夢だと気づくことができたら、気楽になれるでしょうね。

それと同じことが、この現実に対しても言えるのです。osho の次の言葉を繰り返してみるといいと思います。

“あなたの思考すべてが、あなたとあなたの生を創りだしていることがわかる。それらがあなたの地獄を創りだし、あなたの天国を創りだす。それらがあなたの惨めさを創りだし、あなたの喜びを創りだす。いずれも幻想だ–苦痛と快楽、甘美な夢と悪夢、いずれも幻想だ。”

この世界を創造したのは神だとよく言われますが、私たち一人ひとりの世界はその人が創造したものなのです。

だから地球上の人間の数だけ世界があるということですね。ただし、どれもこれも幻想なのです。

もしもあなたがこの世界は過酷なものだと思っているなら、それはあなたが創ったものだということ。

あなたが、自分は惨めだと思っているなら、その惨めさも幻想なのです。どこにもそんなものは実在しません。

全てが思考の産物だと真に理解できれば、人生はとてもシンプルなものだと気づくことになるのでしょうね。

生の感情と本音に気づく


幼い頃の自己防衛の方法にはどんなものがあるのかなと思って色々思い巡らせていると、やはり最初に思いつくのが感情に蓋をするというものです。

不安、恐怖、孤独、悲しみ、怒り、こういった都合の悪い感情を生で感じてしまうと、辛くて生きていけないので、それを無意識的に抑圧するのです。

ある意味ロボットのようになって生きるということです。これは表面的には非常に本人は楽に過ごせることになります。

感情だけでなく、本音も一緒に隠すので、心のあらゆる苦しみを消すことができるのです。例えば、本能的に持っている親への期待を抑圧するのです。

こちらは感情ではありませんが、自覚している範囲だけでも周囲に期待せずにいることで、不満を持つことがなくなり表面的であれ平静でいられるのです。

ただし、この二つの防衛のツケはいずれやってきます。なぜなら抑圧した感情と本音のエネルギーが、満を持して大人になった本人を裏から操るからです。

その結果、ものすごく怒りっぽくなってしまったり、怒らないではいられないような理不尽さに翻弄されたりするのです。

このようになってしまった場合の癒し方ですが、まずは自分自身のことで怒りや悲しみをしっかり感じられるようにすることです。

しょっちゅう怒っているからと言って、本当に怒りを味わっているとは限らないことを知ることです。感情を効率的に味わうためには、思考を傍に置くこと。

そして日々の自分の内面を見張っていられるように練習することです。そうして初めて、自分の本音と向き合うことができるようになるのです。

瞬間瞬間の感情と本音に気づけるようになれば、生きている感覚が全く違ってくるはずですね。

全体と波長を合わせる

この宇宙の森羅万象は全体(存在)が取り仕切っています。起きることの全てが個別にあるのではないということ。

全体というのは部分の総和ではなく、全体は全体でしかないのです。ところが自我だけが、特別だと思い込んでいるのです。

自分に都合のいいことだけを望み、それが起きてくれたら喜ぶのですが、望まないことが起きると世を恨むのです。

残念ながら自我はこの生き方以外できないのですね。だから不満が消えることはないということです。

逆に不満がない状態というのは、望むことが起きた時に満足するのではなく、起きたことを望むようになること。

そうなったらどんな不満も消えてしまいます。それでは起きたことが望むものになるためにはどうすればいいのか?

それは全体と波長を合わせることです。個別の目的や目標をもつ代わりに、全体が与えてくれるプレゼントを望むのです。

それには「見る側」に戻るしかないですが、自我はそれをとことん邪魔してくるので、普段は意識的に生きると共に、ときには瞑想することで自我から距離を置くようにする必要がありますね。

何であれ全体からのプレゼント

先週久しぶりに東京に雪が降った次の日、以前に買っておいた雪靴を履いて事務所に出かけたのです。

細心の注意を払ってクルマの運転をして無事到着して気が緩んだのか、あるいは初めて履く雪靴に慢心したのか、まさかの転倒。

かかとのところに金属のギザギザがついていて、これなら滑らないはずと思っていたはずなのに…。

逆につま先の方がツルツル滑る感じがしてはいたのですが。カチカチに凍って少し傾斜のある歩道を歩いていたら、あっという間に転んで膝が血だらけ。

顔や腰を打ったりしなかっただけマシなのですが、この年齢になって転倒するとは思ってもいなくて、急に降り掛かったちょっとした災難。

次の日、同じ場所を通りたくなくてちょうど道路の反対側を歩きながら、あそこで転んだんだと思って見ていたら。

何とその場所を若い女性が普通のスニーカーを履いた状態で、スケートのように滑ってなんとも楽しそうにしているのです。

年齢差なのか、運動神経の違いなのかは分かりませんが、呆気に取られてしまいました。

この災難も何かのプレゼントなのかと苦笑いしつつ、今日も風呂上がりに患部の処置をしながら思ったのでした。

自分なりの魔法の言葉

みなさんの中にあるかどうかは分かりませんが、私のマインドの中にはかなり以前からある「特別な言葉」があります。

それは何かというと、「ただそれだけ」という言葉です。なんだそれ?と思うかもしれませんが、それは自分なりには重要な意味があるのです。

年齢は定かではありませんが、きっと小学生の頃にはもうすでに考え出していたと思うのです。

生きていると日々自分の嫌な気持ち、嫌な気分、嫌な感情、焦る気持ちやどうしようという困った感覚などがたくさんやってきますね。

落ち込んでみたり、嫉妬や劣等感、あるいは罪悪感に苛まれたり、とにかく不都合なものは毎日必ずやってきます。

そう言ったあらゆる都合の悪いものから解放されたいと思っていたのです。そのためにあみ出した言葉が「ただそれだけ」だったのです。

何か都合の悪いことが起きたときに、「ただそれだけ」と自分に言ってあげることで、ちょっと距離ができるような気がしたのですね。

今ではその理由が分かります。「ただそれだけ」というのはただ単にそれが起きているだけ、というニュアンスなのです。

つまりは、それに対してただそれを見てそれを感じるだけで、それに対してどんな解釈も判断もしないでいるということです。

思考を使わずにいられれば、何がやってきたとしてもそれをただ見ていることができるのです。

子供の頃はそのようには理解できていなかったので、この魔法の言葉を用いるようになったのだと思います。

みなさんも、自分なりの魔法の言葉を持っているのではないでしょうか?そしてその魔法がどう言った理由で効果を発揮するのかを、検証してみるといいと思いますね。

中道=「ふつう」の中の「ふつう」

ブッダは自らの生き方を中道と呼んだと言われていますね。ある極端とその真反対の極端のちょうど真ん中のことを中道と呼んだのです。

孔子はそれを中庸と呼んだらしいですが、どんな言葉であれそれが伝えようとしていることは同じです。

ところがこの中道や中庸を勘違いして理解してしまった人がたくさんいます。一つの例をあげれば、中道が正しい道だと思っているのです。

それが間違いだと言うことが分かるでしょうか?中道は、正しさと正しくないことのちょうどど真ん中なのです。

善と悪の真ん中でもあり、誠実さと不誠実の中間でもあります。もうお分かりだと思いますが、真ん中というのは「ふつう」と言うことです。

極端に真面目でもなく、不真面目でもないと言うこと。物事を信じるのでもなく、信じないのでもないと言うこと。

私たち自我にとっては、この「ふつう」と言うのは特に魅力を感じるわけでもないし、なんなら忌み嫌っている可能性すらあります。

と言うのも、「ふつう」であると自我はその中で埋もれてしまって存在が危ぶまれてしまうと思っているからです。

中道というのが何となく難しい感じがするというのでしたら、それは「ふつう」の中の更に「ふつう」であることをイメージすればいいのです。

それが如何に難しいことであるか、実際自我には無理なことです。だからこそ、ブッダは中道を目指せばいずれは覚醒すると言ったのですね。