死は自我にのみやって来る

どうもあまり評判は良くないようなのですが、すみません今日も死に関連したお話しになってしまいます。

というのも、なぜ私たちの煩悩が無くならないのかと考えてみると、その大きな理由の一つは、誰もがいつかは死ぬことになるからだと思うのです。

誰にとっても死にまつわるイメージはあまりよくないものです。せっかく築き上げたものを丸ごと奪い取られてしまうし、大切な人とは別れなければならないし。

さらには、死後は一体どうなってしまうのかが全くもって不明なため、そうした確定した未来の不安によって、心が暗くなってしまうのです。

こうしたことをどれほど頭を捻って考えたところで、一ミリも解決が見つからないと分かっているので、死については考えないようにして生きているのです。

目の前で起きている毎日の出来事に気持ちを奪われていれば、死のことなどどこかへすっ飛んでしまうので、好都合なのですね。

けれども、死ぬことが確定している毎日には違いがないので、心の奥底では明るくしてはいられないのです。

誰もが心の奥底に闇を抱えているのには、こうした理由があったのです。これを思考では解決できないことを、まずは見抜くことです。

それと同時に、死を避けることができないのは自我だということも理解する必要がありますね。死は自我にのみやってくるのです。

たくさん集まってあたかも自我があるかのように見せていた思考が、肉体の死とともに方々へとバラけて行くのでそれは自我の死のように見えるのです。

けれども私たちの本質は違います。自我として生きている間に、そこへの信頼を深めることができるといいですね。

頭脳明晰はウソ

「lucid(ルシッド)」という単語は、元々はラテン語で光と言う意味だったと思います。そこから明るいだとか、頭脳明晰などという意味を持つようになったらしいです。

私は特に意味などにはあまり関心もなく、単にこの単語の響きが気に入ったのでこのセッションルームの屋号に使いました。

頭脳明晰というと何となく聞こえはいいですが、実は頭脳が明晰ということはないのです。頭脳というのはマインド(思考)のことですね。

残念ながら頭脳は混乱です。マインドはいつも混乱していて、瞑想などによってマインドが静かになった時のみ、混乱も一緒に静まるのです。

真に明晰なのはハートの方です。ハート自体は常に自然とともにあって、あるがままを感じているのです。

ところが、マインドが優勢になって混乱を引き起こすと、ハートは隠されてしまい、真実への道も閉ざされてしまいます。

競争の厳しい社会の中にあって、できるだけハートが開いているようにするためには、マインドが暴走して混乱してしまわないように、監視している必要があります。

要するに意識的であることが絶対的に必要だということです。充分に意識的であれば、思考もそれなりに役立てることができ、マインドとハートのバランスが取れるようになるのですね。

無関心の勧め

昨日のブログで「無関心」という言葉を使ったので、その流れで今日は無関心ということについて書いてみたいと思います。

どうやら世間的には、無関心という言葉はネガティブな響きを持っているようですね。たとえば、政治に無関心だとか、自分の健康に無関心等々。

無関心であるよりも、関心を持つことの方が何か積極的な感じもします。好きなことには関心が出てくるわけで。

何事においても関心を持つことで、学んでいけるということもありますし。人としても、誰かに関心を持ってもらえた方が嬉しいはずです。

確かにそうなのですが、私は無関心でいることの大切さも知って欲しいのです。というのも、自我というのは自分に対して絶大な関心を持っているのです。

あなたがどれほど自分を否定しようが、嫌いだと思おうが、それは強い関心を抱いているからなのです。

もしもあなたが、自分のことを好きなのか嫌いなのかなんてどうでもいいと思えるなら、全く違う人生が待っているはずです。

自分が今幸せなのか不幸なのか、そんなこと考えたこともないという状態であるなら、きっと防衛も小さい状態になっているはずです。

自分という存在や自分の人生に対して、無関心でいられるようになったら、自然に覚醒がやってくることになるでしょうね。

理想には無関心になれ

私たち人間も自然の一部であることは明白なのですが、普段はすっかりそのことを忘れてしまい、不自然な毎日を生きているのです。

自我は自然であることを好まないのです。その代わりにより正しいこと、より優れていることに価値があると思っているのです。

自然にはそんな概念は勿論ないので、人生を自我の思うままにさせればそれだけ不自然な方向へと向かってしまうのです。

自然であることが心身ともに健康であることなのに、そこから逸脱する生活が長くなると、その自然であることが何なのかが分からなくなるのですね。

自然であるために、それを目指す必要はないのです。こうありたいという希望から離れるだけで、人は自然の中へと戻ることができるからです。

あるべき姿への希望が小さくなれば、不自然な頑張りや我慢、そして無理なども小さくなって、ただ在ることにくつろいでいられるようになるのです。

あなたはこれまでどんな自分を目指して来たでしょうか?その結果今満たされていないのなら、あなたが掲げてきた自分像は不自然なものだということです。

正しい自分、価値ある自分、愛される自分、優れている自分、こうした理想をドブに捨てるか、無関心になることをお勧めします。

家庭内ハラスメント

私が子供の頃にはハラスメントという言葉を聞くことはありませんでした。イジメは昔からずっとありましたけれど、被害に遭ったことはなかったと思います。

それでも、周囲のあちこちではそれなりに目にすることはあったと思うのですが、正義の味方に返り咲くのが嫌で、きっと見ないようにしていたのですね。

この仕事をするようになってからは、世間で◯◯ハラスメントが話題になるたびに、個人的にはそれに「家庭内」という枕言葉をつけて考えるようになりました。

要するに、家庭内パワハラ、家庭内モラハラ、家庭内セクハラ、家庭内イジメといった感じです。

しかも、単に◯◯ハラスメントよりも、家庭内◯◯の方がタチが悪いのです。なぜなら、被害者が子供の場合が多いからです。

一人では生きていけない弱者である子供にとっては、どんな家庭内ハラスメントからも逃げる術がないのですから。大切な何かを犠牲にするしか、生き延びれません。

それを思うと、家族という単位を呪いたくなることもありますね。しかも、家庭内ハラスメントを経験してしまった子供は、社会に出てからも◯◯ハラスメントに遭うことになる確率が高いのです。

あるいは、家庭内ハラスメントを被った子供が社会に出て、逆に◯◯ハラスメントの加害者側となることも多いかもしれません。

家庭内イジメに遭っていた子供が、学校などでイジメをする側になることと原理は同じです。

家庭内ハラスメントがなくならない限りは、社会の中でのハラスメントも無くなることはないでしょうね。 

マインドは変わらない

ネット上で色々な買い物ができるようになって、忙しい人や私のように外出の苦手な者にとっては特に便利になったと思うのです。

ただ、実物を見ずに買うのはリスクがあることは確かです。特に身につけるものとか、家具などもそうですね。

つい先日、冬用の上着をネットで買う際に、サイズが微妙だなと思って躊躇していた折、実際にお店で試着するのと同じようなシステムがあるのを知りました。

ひとまず希望のものを送ってもらい、実物を見て着て、不要なものは送り返せばいいという優れもののシステムで、これならリスクなしに買えて本当に便利。

このコロナ禍の時代にもマッチしていますね。きっともうすでに皆さんはご存知だったのでしょうけれど、私は軽いカルチャショックを受けました。

きっと近未来にはもっと便利なシステムが開発されるんでしょうね。いつかは、着た人の身体に自動的にフィットしてくれる服とかが開発されるかもしれません。

クルマは自動運転の時代がもうそこまで来ているし、そうなると個人でクルマを所有する時代がそのうち終わるのでしょう。

肉類の代わりになる食品が開発されて実用化されれば、動物を殺さずに済む時代がやってきます。そうなったら、屠殺するこの時代をどんなに野蛮な時代だったんだと懐古することになるはずですね。

若い人はともかく、私のようにこの先何十年も生きられないとなると、そんな先進的な時代のことも見てみたいと思うのです。

けれどもそんな憧れるような時代が来たとしても、人間のマインドはあまり変化しないのかもしれません。

だったら今回の人生の中で、なるべく気づきの多い瞬間を生きられるようにしたいものですね。

自分が何かを知ること

osho は次のように言っています。「最初で最後のステップは、自分が誰であるかを知ること、目覚めることだ」と。

最初で最後というのはもちろん、それ一つしかないということですね。だからステップはたった一つということ。

階段があるとすると、そこには一段しかないということです。その一段こそが、自分を知ることだと言っているわけです。

ということは、この人生で様々な悲喜こもごものことが起きるのですが、そうしたことはすべて物語の一部でしかないということ。

何を実現しても、何を獲得したところで、それはたった一つのステップも登ってはいないということです。

平な地面であっちに行ったりこっちにいったりしているだけなのです。何をしても何をしなくても全く同じだということ。

社会にどれだけ貢献したとしても、オリンピックで金メダルを取ろうと、一段たりとも上へは登っていないのです。

逆に言えば、極悪非道の人生を生きようと、一生を引きこもり状態で過ごそうと、なんの役にも立たない人生でも所詮は同じなのです。

たった一つだけ、自分の本性を知ること、目覚めること。このステップを登るためにこの世に生を受けたのだと分かれば、もっと気楽に生きられると思いませんか。

アンチ活動を見つめてみる

小学生の頃は、毎晩のようにプロ野球の試合をテレビで見ていたものです。父親が帰宅している時には、大抵一緒に見ていました。

そのころは、巨人軍と他チームの試合という組み合わせばかりを放送していたものですから、自然と巨人の選手だけを覚えてしまうのです。

そうなると、馴染みの選手がたくさんいる巨人軍を応援するようになるのです。東京在住の自分は当然のように巨人ファンになっていて、それを疑うこともありませんでした。

ところが、アンチ巨人という言葉を知って、びっくりしたことがあったのです。他のチームを応援するならともかく、なんだアンチ巨人て?

なぜ特定の野球チームを嫌いになることができるのか、ホントわかりませんでしたね。応援する気が起きないというだけなら分かるのですが。

この積極的に応援しない気持ち、そして嫌いだということをわざわざ表明することの不自然さは一体なんなのだろう?

人は嫌いなものからは自動的に離れていくものです。ところがアンチの人たちというのは、嫌いなターゲットから離れるどころかいつも注視して気にしてばかり。

最近ではアンチ活動なんて言葉もあるのですね。わざわざ時間とお金と労力を費やして、ターゲットをあの手この手で否定する活動を展開し続けるのです。

もしもあなたがアンチ◯◯に該当するようなら、それから得られるものが一体なんなのか見た方がいいでしょうね。

大切な人生の一コマをそんな程度の低い防衛に費やしていると理解できたら、その時点で馬鹿らしくなって自ずと卒業することになると思います。 

マインドを信用するな

クライアントさんとのセッションを通して気づいたことは、この点に関しては私の方が楽だろうなという部分があるということです。

それは、人を信用するかどうかという点です。私は他人を信用することがないのです。正確には自分のマインドも他人のマインドもまったく信用していない。

なぜこれが楽かというと、心底裏切られるという可能性がゼロだからです。そもそも信用とは、言い換えると期待するということです。

信用するということを分解すると、まずは対象となる人を◯◯だと思い込むというフェーズがあるのです。

こうに違いないとか、こんなことは決してしないなどです。この思い込みを勝手にしておいて、それが裏切られることがないと期待するのです。

これが信用するということなので、当然裏切られて信用できない人にひっくり返ることになるわけです。

あまりにも私たちのマインドというものについて無知過ぎるということですね。マインドは環境さえ整えば、何でもありだということを知ることです。

一万年生きていれば、誰だって殺人の一度や二度はするかもしれません。そんなことで驚いていたらキリがありません。

信用するという観点では、もうすっかり諦めてしまってください。自分自身に対しても、それから大好きで大切な誰かのことも。

その代わり、信頼を探求するのです。信頼にはどんな期待も混ざってきませんし、信頼の対象は存在なのです。

すべては生まれて滅するという森羅万象を支えているルールを信頼するということでもいいかもしれませんね。

梯子のことは忘れること

仏教の教えによると、悟りというものには段階らしきものがあるそうで、全部で52段なのだそうです。

そして最上級である52段目の悟りを得たものは、お釈迦様しかいないのだそうで、それを「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と表現するそうです。

ブッダが最上級の悟りを得たということに異論はありませんが、それ以外の人はそこまで到達したことがないというのはどうなのでしょう?

さらにいうと、物事には段階があるという概念は、自我のものだと思うのです。自我はレベルという考え方が大好物なので。

完全に自我が落ちるという意味での悟り、覚醒にレベルがあるというのは私にとっては不自然な気がしますね。

osho も次のように言っています。「エンライトメント(覚醒)は梯子の最終段ではない。

覚醒は梯子から降りること、永久に降りて、2度と梯子を求めないこと。自然になることだ…」と。

一つはっきりしていることは、覚醒してしまったら覚醒などというものはないというところにいくのでしょうね。