真理はすぐそばにある

真理は何も自分から見つからないように隠れようとしているわけでもないし、本当はすぐ目の前にいつでも見つかるように広がっているのです。

問題はそれを見ようとしないだけなのです。なぜなら真理というのは、マインドにとっては非常に都合の悪いものだからです。

したがって真理に到達するためには、難行苦行を遂行できる特別な人だけがそれを可能にできるとイメージされやすいのです。

大事なのは、見抜くということです。目の前に繰り広げられる日々の物語に一喜一憂するのであれば、真理はその影に隠れて見えなくなってしまうでしょう。

真理は物語の中にはないからです。だからまずは、物語を物語だと気付く目を持つこと。その時に初めて物語の向こう側があるという感覚がやってきます。

私たちが日頃見聞きして感じているのは、対象物としてのこの世界なのですが、真理は対象物ではなく、ただ在るもの。

次のような練習をしてみると、もしかしたら何となくそれを感じられるかもしれません。目を開けた状態のまま、視点を固定しつつも何も見ていないという状態にするのです。

するとすぐに意識が内側へと向いてきます。それだけで普段見ている物語の背景に在る真理を感じられるかもしれません。是非試してみて下さい。

シンプルさを取り戻す

幼い頃、何もかもがとてもシンプルだったのです。毎日の中に複雑さなどどこにもありませんでした。

ただそうしたいからする、面白そうだからやってみる。そこにはどんな目的もなかったのです。

ところが自我の発達とともに、ひとたび目的ができてしまうと、それを達成するためにシンプルさから遠ざかってしまうようになるのです。

なぜなら、目的達成という未来に気持ちがいってしまうために、ちょうど今をどう楽しむかということにエネルギーを使わなくなってしまうからです。

だから複雑になっていくのです。せっかく自分を楽しませてくれるものが今この瞬間に満載なはずなのに、そういったものが色あせて感じられてしまうようになるのです。

ちょうど今が犠牲にならなければ、目的を達成することができないという生き方になってしまうのです。

こうしたことに気づいて、過去や未来よりも今を大切に、今感じていることがすべてだと思って生きようと思っても、これまでの習慣が邪魔をするのです。

残念ながら、自我は今この瞬間を愉しむことができないのです。だからすぐに過去か未来へと気持ちが向かってしまうわけです。

そんな自分の自我の習慣をただ見ていてあげるという練習をすることです。そしてそれを楽しめるようになったら、結果としてシンプルさを取り戻すことができるかもしれませんね。

親2世が自分を裁く

人間というのは社会的な存在と言っていいと思います。社会の中で生きていくためには、ある程度のルールというものは必要となるのです。

ただしルールを最優先させてしまえば、行きづらい不自由な生活を強いられてしまうという面もあるのです。

ルールは社会生活を快適にするためのものであるならいいのですが、ルールを守ることを防衛の手段にしてしまうと危険です。

たとえば、幼い頃から親にとっての正しさ、それを守ることを強制されてしまうと、これから自由に羽ばたこうとする大切なエネルギーを阻害されることになるのです。

子供は、特に敏感な子供にとっては、正しさを守らそうとする親の意向を必死に汲み取ってしまうため、反抗したり自分の意見を主張することができなくなってしまうのです。

そうなると、何かをするときに許可を必要とするマインドが出来上がってしまい、自分一人で決断したり、自信を持って前へ進むことができなくなるのです。

親と同じマインドが子供のマインドの中に作られて(それを親2世と呼びます)、それが自分を裁くのです。

すると、他人からも裁かれるのではないかという恐れが作られるようになって、どうにも不自由で生きづらい人生がやってくるというわけです。

優れた親というものは、子供に正しさを教える代わりに気持ちを受け止めることを優先してくれるものです。

その違いは子供の人生にとって、計り知れない影響を与えることになると知ることですね。

思考が現実に与える影響

科学というのは、迷信や誰かの一方的な主張などとは違い、論理的に導きだされた理論を実験という手段で証明していくものですね。

つまり科学的な正しさとは、客観的な正しさがあらゆる実験によって検証されたものだということです。

実際、一つの理論が発表されると、世界中の大勢の科学者たちがこぞって様々な実験を考案して、その結果として理論の正しさ(あるいは間違い)を裏付けようとするのです。

そうして十分に吟味された実験方法、実験手段を用いて得られた実験結果こそが、客観的な事実を証明したことになるのです。

有名なネイチャー誌などに公表された論文などは、そういう意味では物凄く権威があって、その結果を誰もが信じることになるのです。

ところが、そうした論文の多く(8割程度も)は何年かすると、その間違いが発見されたりしているそうなのです。

ここからは私の勝手な考え方ではあるのですが、単に実験方法が未熟だったということではなく、何かしらの違う要因が働いているのではないかと感じるのです。

それは実験者の思考ではないかと思うのです。似たような実験をしたとしても、実験者の思考エネルギーが全く異なる場合には、それに応じて異なる結果がでてしまうのではないかと。

こうしたことがほんの少しでもあり得るとするなら、科学はこの先行き詰まる可能性もあるということになります。

たとえば身近な例をあげれば、人体の健康にとって良い食べ物とは?ということでも、科学的な検証によって大雑把なことは確かに分かるのです。

けれども、食べ物を摂取する人の思考エネルギーによって、何が良くて何が悪いかということは充分に変わる可能性があるということです。

あなたの思考があなたの人生に与える影響がどれほどのものか、そのことを一度よく考えてみるのは決して無駄なことではないはずですね。

すべては過ぎてゆく

私にとって、本当に嬉しい気持ちになれるときというのは、自分の希望が叶ったときよりも、心から救われたと思えるときでした。

それだけマインドというのは安心したいのですね。マインド(自我)として生きている限り、不安がなくなることはないからでしょう。

喜びがやってきても、嬉しくてたまらない瞬間がきても、またすぐに不安は戻ってきてしまうのです。

その不安を根底から打ち消してしまうようなこと、それに気づいた時には心のそこから救われるのです。

私にとって、それは「すべては過ぎてゆく」ということなのです。自我としての自分が永遠に続くとしたら、それはもう地獄です。

けれども自我は必ず消えていくのですから、旅の恥はかき捨てとばかりに生きていけばいいのです。そう思うととても気が休まるのです。

人生でどれほど辛いことがやってきたとしても、耐え難いことが繰り返されたとしても、どんなものも一様に過ぎ去っていくのです。

それがとてもとても安らかな気持ちにしてくれるのです。そのことを思い出せば、あらゆる深刻さも吹き飛んでしまいますね。

瞑想とエンドルフィン

10年くらい前にも見よう見まねで瞑想をしていたのですが、そのときには少し深く入り込むとフワッとしたいい気持ちになれることを知っていました。

それがやってくることこそが、瞑想に成功した証だと勝手に思い込んでいたのですが、今ではそれがほんの通過点でしかなかったと分かるようになりました。

フワッとしたいい気分がやってくるのは、きっと脳内麻薬物質と言われているエンドルフィンが分泌されたせいなのでしょう。

エンドルフィンは脳内ホルモンの一種で、モルヒネの何倍もの鎮痛作用があると言われているのです。

瞑想に慣れてくると、それが自動的に分泌されることでちょっとした多幸感を味わえるというわけです。

ただそれはあくまでも身体がやってくれる作用であり、思考の中にいたとしてもそれは起きてしまうのです。

それに比べて、至福感というのは快楽物質とは全く異なる感覚で、それがやってきてくれるときというのは、思考をただ見ていられる状態なのです。

瞑想が苦手だという人の場合でも、地道に繰り返し練習をすることで、誰でも少しずつ慣れてくるはずです。

そして瞑想中に、その思考を見ているのは誰か?というのも同時にやってみるといいかもしれませんね。

思考のブラックホール

自分は思考ではないということを、どうすれば気付けるのか?これこそが鍵だと思うのです。

ある場所に思考が集まりだすと、さらにその吸引力によって似たような思考群が大量にやってきてはその塊を強化するのです。

ある意味ブラックホールのようなものなのかもしれません。何かの物質が集まると、その質量によって外のものをさらに引き寄せる力が強化されるのです。

そうして、最後は光さえも吸収して逃さない、ブラックホールが出来上がるのですが、私たちのマインドも同じようなものかもしれません。

ただし、何度も言うように思考がどれほど凝縮しようとも、それはただの思考であってあなたの本質ではありません。

あなたは、その思考が集まり、浮遊してまた集まる、その空間だと気づけばいいのです。その空間こそ別の表現を使えば意識なのです。

思考と同化しないためには、思考を眺めること。思考を常に見ていることができれば、それに飲み込まれることはなくなります。

あなたは自由に思考を浮遊させる広大無辺の空間、意識なのですね。そうなったら思考を恐れることもなくなってしまいます。

ハイアーマインドの声

昨日のブログの補足なのですが、ロアーマインドはハイアーマインドの存在を知ることはないと書きました。

確かに波動が違いすぎて、上位から下位を見ることはできるのですが、下位から上位を見ることはできないのです。

とはいうものの、例外的な事柄というのはあるものです。非常に辛く苦しい日々を送っている子供がいるとすると、その子のハイアーマインドが口を開くこともあるのです。

本人はその声がどこから届くものなのか、全く想像すらできないのですが、とにかく孤独でどうしようもない時に、鋭い洞察の声がやってくるということがあります。

私はそれが本人のハイアーマインドから来るものだと考えています。波動の違いを飛び越えて、それでもある瞬間にはその子の無思考の状態がその声を聞こえるくらいに波動を上げるのだと考えることもできます。

またクライアントさんの中には、催眠状態になったときだけハイアーマインドが出てきて、含蓄のある言葉を話す場合があります。

残念ながら、ご本人が催眠から覚めた時にその言葉をしっかり覚えておくことができないために、それがそのまま癒しに繋がることはありません。

毎日の生活に余裕がなく、ロアーマインドに巻き込まれていると、ハイアーマインドに気付くことは難しくなるのです。

けれどもたとえ一瞬であろうと、それと繋がる可能性はあるということを覚えておいて欲しいと思います。

二重生活を愉しむ

二重生活と言っても、表と裏ということではありません。ハイアーマインドとロアーマインドの双方に気づいているということです。

誰のマインドであれ、波動の非常に高い部分と低い部分に分かれているのです。多くの人は、低い部分つまりロアーマインドとして生きています。

それは防衛の大きさによって変わってくるのですが、ロアーマインドに飲み込まれていれば、人生をリアルな世界だと思い込んでいるのです。

一方ハイアーマインドの特徴は、人生を物語として見る目を持っているということ。ただ残念なことに、ロアーマインドからは遠くに分離しているので、ロアーマインドからはハイアーマインドを知ることはありません。

ハイアーマインドからすれば、ロアーマインドも含めてすべてをただありのままに見ることができるのです。

二重生活者となるためには、両者の真ん中に位置する必要があります。ロアーマインドの生活を見ながらも、ハイアーマインドの感覚を同時に感じるのです。

私自身は、ブログを書いているときにはハイアーマインド寄りになっていると思いますが、何か困ったことが起こるとロアーマインド寄りになるといった具合です。

どうせマインドで生きるのなら、二重生活を楽しんでみるのもいいと思いますよ。

水を見習いたい

人間の身体の60%くらいは水分でできているらしいですが、普段は自分のことを水人間だとは思ってないはずです。

しっかりとした骨格や筋組織、それと内臓などでできているという感覚です。そしてそうした固体というのは、固有の形を保持しているのです。

ところが水というのは、それ自身の固有の形を持っていません。逆に言えば、どんな形にでもなれる無類の柔軟性を持っているわけです。

水を超高速で小さなノズルから噴射させれば、鉄でも穴を開けることができるし、ベッドの中に水を敷くとあの素晴らしいウォーターベッドにもなるのです。

水の無形性に比べてみると、私たち自我というのは自分の独自性や特別さというものをとても大切にしていることがわかりますね。

自我にとって一番苦手なこととは、水のように周囲にぴったりと馴染んで溶けていってしまうことです。

それは自我にとっての自殺行為とみなされるからです。身体は水を多く含んでいるのではなく、水がベースで身体ができていると思えば、もう少し水を見習うこともできるかもしれませんね。