身体に対して意識的であること

せっかく少し遠目の病院に行って腰に痛い注射を打ってもらったのですが、どうも調子に乗ってしまったようで、痛みがぶり返してしまいました。

2時間以上の運転も負担になったようですが、やはり1番良くなかったのは身体への意識がまた散漫になってしまったことかと。

痛みがあるときには、自然と自分の身体の様子にしっかり意識が向いた状態にいられたのですが、気がついたら無意識になっていたわけです。

それで知らずにシャワーなどで不用意に身体をひねってしまったりしたのが原因だと思われます。

これは以前にも書いたことですが、具合の良くないときというのは大切な気づきを得る大チャンスだということ。

普段自分の身体に意識を向け続けることが難しいのですが、痛みや不具合があるときにはしっかり見続けることができるのです。

それをどれだけ自分にとって自然なことにしてしまえるのか、やはり放っておくと外へ外へと注意が向いてしまうのですね。

能のある演目では、舞台袖から舞台中央まで歩いてくるのに、30分もかけるものがありますが、あれはこれ以上注意深くできないくらいに身体の動きに注意する一つの良い事例です。

すぐに忘れてしまいがちな、身体に対して意識的であること。あたらめてまた一から出直そうと思うのです。

どんな自分であれ、責める必要はない

もう何度も繰り返して、すっかり癖になってしまっている腰痛がまたやってきてしまいました。

きっかけはいろいろなんですが、特別無理をしたわけでもなく、ただ何となくの予兆のようなものはあるのです。

だからと言って、それを避ける手段を持っているわけでもなく、結局はまた「ギクッ」という一瞬のショックとともに、痛みはやってくるのです。

ただ以前と違うのは、少しでも早く治してあげようという気持ちが起きるようになったことですね。

以前だったら、不便は承知の上で、自然治癒するまで放っておくことが多かったのですが、今はなるべく早め早めに処置を受けに行けるようになったのです。

そのおかげもあってか、無駄なエネルギーを浪費することもなく、日常の生活に早々に戻れるようになりました。

至極当たり前のことなのですが、こういうことってできない人にとってはなかなかできないもので、すぐに対処できる人にはこの気持ちは分かってもらえいないのですね。

なので、私はどちらの人の気持ちも今では分かってあげられるようになったのです。すぐに対応できなくても、大丈夫。

どんな自分であれ、責める必要はまったくないということだけは確かですよ!

マインドには愛は分からない

だが、心に留めておくがいい。さもなければ、あなたはことの全体を間違って解釈しかねない。あなたが愛と呼ぶものが消えると、別の種類の愛が誕生する。あなたはそれにまったく気づいていない。瞑想が消えると、まったく違う種類の瞑想性が生まれる。それはあなたの思いもよらないものだ。

by osho

クライアントさんとお話ししていると、ときどき自分は人を愛することができないという問題を抱えていると言われることがあります。

ご本人としては、そういう自分はダメな人間だと思って自責しているのでしょうけれど、その気持ちは分かるものの本当はお門違いなのです。

残念なことですが、マインドとして生きている限り、人は愛を知らないのです。もちろん恋愛などのエゴの愛は知っていますが、それを真の愛と誤解しているのです。

誰かを必要とすることを、愛だと勘違いしているのですが、それはあまりにも意識が低過ぎます。

私自身のことですが、もうすでに学生の頃から自分は誰のことも本当には愛せないということに気づいていました。

愛は好き嫌いということとは全く異なるものです。愛はマインドが消えた瞬間に顕れる非常に本質的なものです。

だからクライアントさんには、愛がないのは当然のことで、それを悩むことはないとお伝えするのです。

愛に限らず、自分は人並みにできないということで自己否定してしまうのは、マインドについての理解が足りないからだと気づくこと。

マインドを深く理解することができると、自分を責めるのもマインドの仕組みの一つに過ぎないと分かって、とても楽になれるはずです。

依存の根っこにある不安を見てあげる

幼い頃に両親から安心させてもらうことができないでいると、その子のマインドは不安のかたまりになってしまいます。

そうなれば、その不安をどうにかして安心に変えようとする毎日になってしまうのです。

その結果、幼い無邪気な子供の興味の代わりに、自己防衛の方に生きるエネルギーのほとんどを使うようになるのです。

そのため、自分が何に興味があるのかとか、何が好きなのかといった基本的な自分らしさを見失ってしまう可能性が高くなるのです。

不安や恐怖から逃れようとして、必要以上に親に依存してしまう場合もあるかもしれません。

その依存を存続させるために、相手を好きだという気持ちにすり替えてしまうこともあるのです。

よく幼い子供がお母さんの後ろにくっついて歩いている姿を見ることがあり、お母さんのことが大好きなんだねと思えるかもしれません。

けれども、それは好きという気持ちよりもその子の不安を表していると思った方が当たっているはずです。

安心している子供は、いくらお母さんのことが大好きであっても、後をくっついて歩いたりしないものです。もっと自由奔放に見えるはず。

もしもあなたが、成長しても親に依存している部分があると感じるなら、その根底にある不安を見つけてあげることです。

そうすることで、気付かずにいた親へのあるがままの気持ちも見つかるかもしれませんね。

個人もマインドもそんな実体はない

私たちのマインドとは、個人という塊として存在しているという思考をベースにした、単なる思考群に過ぎません。

個人という実体があるかのように思い込んでいるために、それが原因となって様々な結果がやってくるのです。

それは不安だったり、孤独感だったり、あるいは惨めさだったりするのですが、それはとても都合が悪いものなので、できる限り感じないように工夫するようになるのです。

不安をできるだけ安心に変えようとして、自分と誰かを比較しようとしてみたり、欲しいものを手に入れようと努力するのです。

あるいは、孤独を紛らすために誰かと一緒にいようとするのです。社会で活躍して自分の価値を見出そうとすることで、なんとか惨めではない自分になろうとするのです。

こうした生き方すべての根底にあるのが、個人としての自分があるという間違った思い込みなのです。

その努力は果てしなく、生きている限り続くものです。ここではっきりさせておきましょう。個人は決して本当には満たされることがないということ。

死ぬ前に、私は自分の人生に満足していると言う人もいるでしょうけれど、その裏にはマインドの不満が隠されていて、その思考エネルギーが転生するのです。

個人、あるいはマインドという実体などないと見抜くこと以外に、真に満たされることはないのです。

マインドをよ〜く日々見守ることができるなら、そんなものはそもそもないということに気づくことになるのでしょうね。

マインドは分離によって支えられている

これはマインドの基本中の基本なのですが、あなたがこれが自分だと認識しているマインドの部分というのは、ほんの一部に過ぎないということ。

気づいていないマインドの部分の方が本当は多いのです。自覚しているマインドの部分からすると、都合の悪い部分は見えないようになっているということです。

先日ちょこっと瞑想しようと思って目をつぶった瞬間に、どこからか「ああうっとうしい〜」という声が聞こえました。

普段は自覚していないのですが、瞑想をとても嫌がっているマインドの部分があるということですね。

分かってはいたのですが、日頃そこに目を向けていなかったということです。理想を言えば、マインドのどの部分にでも目を向けてあげられればいいのです。

私は◯◯なんです!というのは簡単ですが、そのときには必ずそうではないマインドの部分があるということを意識してあげることです。

いつでもマインドのあらゆる部分に光を当ててあげられるようになれば、いずれマインドは消滅してしまうでしょう。

なぜならマインドは分離によって支えられているからです。

思考がある時、物事は不明瞭

私たちの生活は、気づいているかいないかは別として、とにかく思考まみれです。思考が止まることはまずありません。

この思考の正体そのものを説明することは難しいのですが、どのような状態になると思考が活動するのかは分かります。

それは、物事が不明確なとき、不明瞭で本当は分からないときに、思考がそれをああでもないこうでもないと考える余地があるということ。

ということは、私たちが明確に分かっているという場合でも、明確に分かっていると思考で理解しているに過ぎないということです。

たとえば、丸いものを見て、これは丸いものだというのは明らかだと「思う」のです。丸いものだと判断を下すのですが、その判断自体が思考からくるのです。

以前自分がいなくなる体験をしたとき、時間はないということが明らかだったのですが、あれは「時間がない」という言葉とは違うものでした。

明らか過ぎて思考は活動できないのです。というよりも、思考が落ちてしまっていたために、真実の中に入ってしまったということかもしれません。

真実の体験は、思考による言葉では決して表現することができないので、残念ながら実際に体験するしかありません。

この世界を思考によって生きている時、何もかもが不明瞭だということを忘れないようにしたいものですね。

身体と離れた存在の質に気づく

身体には健康なときもあれば、病気のときもある。見守ってごらん。ただ見守っていれば、突如として、あなたはまったく違った存在の質を感じ取るだろう。あなたは身体ではない。身体はもちろん病むが、あなたは病んではいない。

by osho

身体が充分に健康なときには、まるで身体がないかのように感じるものですね。身体に意識が向かなくなるからかもしれません。

一方で、身体が不調だったり、痛みや不快感があるときには、そこに注意が向いてしまうのは当然のことです。

そして身体の存在が自分にとって大きなものと感じるようになるのです。けれども、そのときには大きな気づきのチャンスもあると↑上で言っているのです。

つまり具合の悪さと戦うのをやめられたとき、身体の不調をただ見守ることができたとき、全く違った存在の質を感じられるかもしれないということ。

身体からやってくる様々な信号とは離れている存在の質、それこそが本来の自分だという感覚。

自我というのはいつも身体とぺったりくっついて、身体を含めたトータルな自分というものを感じているのです。

けれども、身体との間に距離を感じることができるなら、身体との一体感は薄れていき、決して病むことのない、苦しむことのない存在の質に気づくのです。

身体の不調は本当に嫌なものですが、そんなところにも大切な気づきのチャンスは転がっているということですね。

退屈という飛び道具

何か辛いことがあったり、苦境に立たされていたり、苦悩しているときには、必ず自我が活性化しているのです。

そこから逃れようとして、それと戦って、それを回避しようとすることで、それを我慢することで自分の存在が明確になるのです。

けれども、そのような状態から解放されてくつろぐ時、自我は静かになって自分が誰だか分からなくなってしまいます。

自分の年齢を思い出しても、誰か他の人の年齢のようにも感じるし、自分の生い立ちを思い出してみても、すごく遠いことのように思うのです。

◯◯歳という数字が自分に似つかわしくなく感じるのです。もうここにはどんな物語も残されていないような。

俳優さんや役者さんが、役柄を演じた後に自分自身に戻る時、そこには明確な個人がいるのですが、それに似ています。

ただし、自我が演じていた誰かから戻ってくる時には、そこには誰でもない自分だけが残されているのです。

この状態が続くと、自我は巻き返しを計って「退屈」という飛び道具で誘ってくるのです。

退屈から抜け出そうとすれば、また自我という俳優さんのお出ましとなるわけですね。今日はそれをただ見ていられる感じがします。

無邪気さを捜す必要はない

あなたは自分の中にある無邪気さに気づいていますか?あるいは、その無邪気さをどのくらい日常使って生活しているでしょうか?

無邪気さなんて、もうすっかり遥か昔に忘れてきてしまったと感じている人もいるかもしれませんね。

幼い頃というのは、まだ社会的な存在ではないので生まれたままの無邪気さがそのまま残っているのですが、成長するにつれて少しずつ影をひそめるようになるのです。

特に幼い頃から不安な家庭環境で育ってしまうと、早いうちから無邪気さが隠れてしまい、子供なのにどこか大人びた感じになったりするのです。

そうなると、大人になるにつれて更にその無邪気さは厳重に心の地下室へと閉じ込められて、息苦しい不自由な生き方しかできなくなってしまうのです。

無邪気なままの非社会的な部分をどうやって思い出せばいいのか?どうやってそれを捜せばいいのだろうかと考えることがあるかもしれません。

けれども、無邪気さを捜す必要などないのです。なぜなら、隠しているのは自分自身であるからです。

捜すのではなく、隠すことになった切実な理由を見てあげることですね。そこには、無邪気なままでは生きていけないという子供の頃の激しい恐怖があったのです。

その恐怖と共にいつもいられるようになったなら、無邪気さは自然と戻ってきてくれるはずなのです。