自己同化を見破る

私たちはあらゆるものと自己同化しているのです。身体との自己同化から始まって、マインドとの自己同化によって生きています。

そして毎日毎日ちょっとしたことであれ、自己同化してしまう習性があります。自分が選んだものとも自己同化するのです。

ここは気づきにくいところかもしれませんね。たとえば、ゴ◯◯リが死ぬほど嫌いという人はたくさんいますが、一体何と自己同化しているのでしょうか?

それは「◯◯が嫌い」ということと自己同化しているのです。そのせいで、◯◯が嫌いでなくなってしまったら、自分ではなくなってしまうと感じるのです。

だから◯◯が嫌いだという人は、◯◯を好きになりたいとは決して思わないのです。本来嫌いよりも好きの方が気持ちよく生きれるはずなのに…。

幼いころにお母さんが怖いと感じてしまったり、自分が悪いんだと決めつけてしまうと、そのことと自己同化してしまうのです。

その結果、大人になってもうお母さんは怖くないと理性では分かっても、怖くなくなることで自分ではなくなってしまうと感じるので、怖いままでいようとするのです。

自分が悪いんだ、自分がダメなんだ、自分がいないほうがいいんだと繰り返し思えば、その思いとの自己同化が起きてくるのです。

その結果、そんなことはないという理性の声はかき消されてしまうのです。一度自己同化してしまうと、それを解除すれば自分が消えるという恐怖がやってくるのです。

それが自己同化から抜け出しにくくさせている理由なのですね。そこをまずは見破ることから始めませんか?

毎日続けていること

何度か書いたことがあるのですが、このブログに記事を書こうと思ってキーボードに向かっている時、じ〜っとして何かが降りてくるのを待っているのです。

その時間はとても貴重なのですが、それはいつもはまり込んでいる人生物語の中から抜け出てくることができるからです。

ちょっとした瞑想のようなものでもあるのですが、場合によってはそれよりも鮮度が高くなることもあります。

実際こうやって書き出してしまうと、またモードが変わってしまうのですが、キーを打っているこの時間も嫌いじゃありません。

嫌いじゃないからこそ、ずっと続けてこれたわけです。最初の投稿からもうすぐ丸11年が経とうとしています。

日数にすると約4000日です。つまり4000回も毎日書いてきたことになり、その数字を見ると自分ながらちょっと驚きもあります。

書いている時間を15分くらいとすると、4000÷4=1000で、1000時間書いていたことになりますね。

書くことが降りてくるまで待っていた時間も加えると、平均で30分程度だとすれば、関わった時間は2000時間になりますね。

2000時間も気持ちのいい不思議な時間を過ごしてこれたのは、本当にありがたいとしか言いようがありません。

日記とか作文とかが大の苦手な少年時代からすれば、全く考えられないような変化とも言えますが、本人の中ではその頃と生きている感覚は少しも変わっていません。

誰かの人生で、毎日やり続けていることがあるなら、それはきっとその人にとって大好きなことなんだろうなと想像できます。

もしもあなたの人生で、毎日やり続けてていることが見当たらないとしたら、きっとまだ本当に好きなことに気づけていないのかもしれませんよ。

それが見つかるといいですね。

意識を内側に向ける練習

私は非常に大雑把に、あるいは大胆に、人類を2つの種類に分けることができると思っています。それは勿論男性と女性ではありませんよ。

それは内側に意識が向く人たちと、外側にばかり気を取られている人たちです。この両者の違いは年齢と共に大きくなっていくはずです。

その理由は簡単です。前者の場合は、常に自問自答をする習慣がついているので、その時々で自分がどう感じてどう考えているかに気づきやすいのです。

自分の本心はどうなのかとか、自分のマインドはどうなっているのかということと向き合う訓練ができているのです。

一口で言ってしまえば、自分のことを丸ごと理解するようになれるということです。だから見当違いなことをしでかさずに済むのです。

一方で後者の場合は、外側で何が起きているかということに着目するため、いつまでたっても自分の素顔に気づきにくくなってしまうのです。

そんな両者の違いが20年、30年と経つにつれて、生き方に大きな違いが生じるようになるのは、想像に難くありませんね。

でも安心して下さい。後者の人生をずっと送ってきた人でも、少しずつ内側に意識を向けることを習慣づけていくことは可能なのです。

日々の生活の中で、歩いているなら歩いている自分を見るのです。食事しているなら食事している自分に意識を向けるのです。

いつどんな時であれ、このことを思い出したらすかさず意識を自分に向ける練習をすることです。最初はそれが短い時間であっても大丈夫。

要は意識が内側に向いている状態を繰り返し自分自身に体験させてあげるのです。10年経った時に、全く異なる感覚で生きることができるようになるはずです。

自我の不満は必須のもの

私たちの誰もが共通に持っている欲求があるのですが、それは満たされたいというものです。

どうしたら満たされるのかは人によってそれぞれですが、とにかくどんなことをしても満たされたいと願っています。

欲しいものが手に入ったら満たされるだろうし、目標を達成したら満たされます。あるいは、自己価値が高くなったら満たされるのです。

たとえば誰かの役に立つことができたら満たされます。社会貢献をして、感謝されるなら大満足することができるでしょう。

ところが、どんな満足であれそれは一過性のものです。満足感に浸れるのも数日の間だけ。あっという間にまた元の状態に戻ってしまいます。

そのためすぐにでもまた別の何かによって満たされようとし出すのです。人生というのはその連続かもしれません。

一方でたとえ一時的であれ満たされるのなら羨ましいと思っている人もいるはずです。それはたとえば自分は何の役にも立たないデクの棒だと感じてる人。

長い間引きこもりを続けていたり、病気がちで人並みに働くこともできずにいる人。けれども気がついて欲しいことがあるのです。

自我というのは決して永遠に満たされることがないという宿命を持っています。だからその意味では人はみな平等な自我として生きているのです。

この世界に完全に満たされた人は一人もいないと断言できます。もしもそんな人がいたら、その人はもう自我が消えてしまった人。

一人の人間として生きている限り、みんな同じ不満状態を抱えて生きているということを忘れないことです。不満なのは自分だけではないと気づくことです。

自我はいつも忙しい

世の中には、常に多忙にしている人がいるし、逆に暇を持て余している人もいます。その中くらいに丁度頃合いのいい人もいますね。

ところが自我というのはどれも共通して忙しくしています。それは物理的に活動的かどうかということとは違うのです。

自我の目的の一つは自分がより幸せな人生を生きるようになることですね。場合によっては、他人も幸せになることを望んでいたりします。

それともう一つ大きな自我の目的があるのですが、それは自分の存在証明をし続ける必要があるということです。

どの自我も共通して忙しいのは、この後者が理由なのです。忙しいというよりも気を休めることができずにいると言った方がいいかもしれません。

ボヤボヤしていると自分がいるということが曖昧になってしまうことを知っているのです。

自我が求めている特別な自分というのは、ここからきています。特別であることで自分の存在を明確にしようとするのです。

だから逆に言えば、普通であることがとても難しいのです。普通では自分の輪郭が消えていってしまいそうで怖いのでしょうね。

そして特別であるためには、手段を問いません。特別に価値があるとか、特別に希少な難病になるといったこともあるのです。

そうまでして自分の存在証明をしたいのは、自我が実在するものではないとどこかで気付いているからに違いありません。

自分という個人がいなくてもいいとなったら、すべての防衛や緊張から解放されてしまうでしょうね。

その時になって初めて、ずっと求めていた幸せな人生を遥かに超えた至福がやってくることになるのですね。

社会の中で悠々と生きる

昨日のブログでは、人間というのは実在するものよりも仮想的なものに対して強くエネルギーを注ぎ込んでいるというお話しをしました。

もう少しその続きを書きたいと思います。私たちが暮らしている社会というのも、もちろん仮想的なものです。どこにも社会という実在はありません。

けれどもみんなで一斉に社会という仕組み、ルールなどを思考の中で共有しているので、実在しているように感じるのです。

社会の中で逞しく生きるには、その仕組みやルールを学んで、たとえばその中で価値があると認めてもらえる人物になる必要があるのです。

価値にはさまざまなものがありますが、希少価値というのはとても人間らしい感じがします。数が圧倒的に少なければ、ただそれだけで価値を持つのですから。

100メートルを9秒台で走れる人は世界中で100人といないでしょうから、それだけで価値ある人になれるのです。

ダイアモンドが高価なのは、それが美しいからでも飛び抜けて硬いからでもありません。地球上では希少だからですね。

逆にコンピュータなどに使われる半導体はケイ素を使うのですが、なくてはならない大切な元素ですが、そこらじゅうで採掘できるので安価なのです。

社会の中で活躍することは勿論悪いことでも良いことでもありませんが、それだけが人生ではありません。

思考が生み出したあらゆる価値に捉われることなく、自由にそして自然に生きることもできるのです。

社会から逃げることなく、社会の中にいてなおかつ社会に染まらずに、悠々とした生き方ができたら素晴らしいと思いませんか?

瞑想の中ですべてが消える

私たちは日頃あまり自覚してないかもしれませんが、実在するものよりも仮想的なものに夢中になっているのです。

仮想的なものというのは、思考によって「ある」ように思い込んでいるもののことです。たとえば目標というのは概念であって、実在しません。

価値というのも全く同じです。価値に触れたり見たりすることは不可能ですね。思考によって組み上げられたものだからです。

けれども、目標とか価値とか意味といったものこそ、私たちにとってはとても大切であり、無視できないものとなっているのです。

善悪、幸不幸、正不正、そう考えたらそんなものばかりで人生が出来上がっているように思えてきませんか?

たとえば価値というのは、毎日の生活に非常に密着しているものです。価値があるかないかが、そこにエネルギーを注ぎ込めるかどうかを支配していたりします。

何に価値を見出せるかで、その人の人柄とか人間性のようなものが透けて見えてきたりもしますね。

けれども一度瞑想の中に入ってしまえば、仮想的なものはすぐに消えていくことになるし、その後ゆっくりと実在するものさえも消えていくのですね。

悪循環を断ち切る

まず初めに不安や恐怖、そして孤独があります。そこから逃げたくて、安心したくて我慢をしてしまうのです。

その我慢は、我慢したくない、嫌だという思いを溜め込むのです。このサイクルを繰り返すことで、ため込んだ嫌だのエネルギーが我慢にブレーキをかけるのです。

その結果、もうこれ以上我慢したくないが勝ち、普通に出来ていたこともできなくなってしまうのです。

そうなると、できない自分を責めるようになります。自責だけで済むならまだいいのですが、嫌だのエネルギーは何かしらの問題行動を発動させます。

その結果、罪悪感までやってくることになるのです。自責と罪悪感とでマインドはボロボロになるのです。

そしてやっぱりうまくいかないとなり、また不安と恐怖、そして孤独のところへと戻ってくるのです。

この一連の流れを何度も飽きることなくやり続けているのです。この悪循環をどこかで断ち切らなければなりません。

安心しようとして我慢すること(自己防衛)をやめるのか、自分を責めることをやめるのか、罪悪感が来てもそれを受け止めるのか。

悪循環から抜け出すチャンスは何度でもやってきますので、焦らずにじっくりと向き合うことですね。

自己否定から離れていく

素直な自己表現や感情表現を抑えてしまう三つの要素、これについてはもう何度となくこのブログで触れてきました。

毎日ここに訪れてくれて、この拙い文章を読んでくださっている方であれば、そこそこ記憶に残っているのではないでしょうか?

その三つとは、「恐怖」と「罪悪感」それと「自己否定」なのです。恐怖を感じている状態では、自己表現が自動的に抑えられてしまうのは直感的に理解できますね。

泣く子も黙るという言葉があるように、無邪気な幼児といえども、恐怖を感じてしまえば素直に泣きじゃくることができなくなってしまうという例えです。

成長するに連れて、それほど強い恐怖を感じることがなくなってくるので、そうなると罪悪感の方がより強く自己表現を抑圧することになるのです。

相手を傷つけてしまったとか、悪いことをしたなとか、可哀想だなと感じれば自由な自己表現や感情表現はやはり抑え込まれてしまいます。

最後に残った三つ目の要素である自己否定ですが、上記二つの要素を遥かに凌いでダントツトップで抑圧することになるのがこの自分が悪いという思いです。

どれほど怒っていようが、どれほど言いたいことがあろうが、自己嫌悪、自己否定をしてしまえば、これ以上ないくらいに自己表現は抑圧されます。

もしも子供が、親にとって都合の悪いだろう生の自分を厳重に抑え込もうとするなら、この自己否定を使うことになるのです。

自己否定はやめた方がいいと巷で言われるのですが、その本当の理由はこれなのです。

自己否定しつづければ必ず、怒りと嫌だという思いが蓄積されてしまい、後々の人生に多大な悪影響を与えることになってしまいます。

自己否定をしてきた本人にとっては、嫌な感情や都合の悪い思いなどを完全に抑え込むことができるので、とても都合がいいわけです。

そうした自己防衛の手段として自己否定を選んだのだと深く理解することで、少しずつ自己否定から離れていくことができるでしょうね。

二元性の背後にあるもの

目標を持って生きなさいと教えられたので、その通りにしてみて分かったのはその目標を達成してもしなくても、満たされることはなかったということ。

猛勉強して第一志望の学校に見事合格したら、その瞬間は嬉しくて堪らない気持ちになるのですが、その先はあっという間に普通になっていきます。

そしてすぐに次なる目標を設定して、そこに向かって頑張るのです。この目標を達成できたら、もう次はやってこないという究極の目標があるかのように信じて。

けれどもそんな目標はないのです。きっと私たちが成功者だと認めるような人であればあるほど、その人の中で密かな苦悩があるはずです。

アップルの社長になったスティーブジョブスは、さぞ満足の行く人生だろうと周囲は思うのですが、当の本人はなぜか「禅」に興味を示したりするのです。

それはこの目標を達成した暁には、真の満足を手に入れられるはずと予想していたのに、何も変わることはなかったと気付いてしまうからです。

これはいわゆる宗教と同じで、功徳を積んでいって究極的には神に到達するという目標があるのですが、功徳を積めば積むほど自我が強くなる。

だからこうした宗教はニセモノなのです。正しさを教える宗教に全く興味がないのはこうした理由があります。

その点、禅は全く違うものですね。目標も正しさもすべては自我のもの。そうした二元性の背後にある真実を見抜くこと。

禅に教えがないのは教えられないからです。教えるものがないからです。独りでそれを見出すしかないのですね。