自我が問題を創る

人はいらない問題を創る。私はあなた方に、理解してもらいたい。自分で創る問題以外に、生において問題など存在しないのだ。

ただ、分かろうとしてごらん。何であれ、あなたにとっていい感じがするものは、いいものだ。だとしたら、その道を果てまで行きなさい。

by osho

あなたのマインドが問題を創るのです。それ以外には、この世界に問題というものは存在しません。

いやいやそんなことはない、自分は何も悪いことをしていないし、問題が起きることなど望んでいるはずもない。

誰であれそう思っているのですが、自我には自覚できる部分と自覚できない部分があるのです。

問題なんて起きて欲しくないと思っているのは、自覚できる自我の部分に過ぎないということです。

その裏側では、着々と問題をこしらえては文句を言い、問題を考案しては被害者となり、問題を見つけては解決しようとするのです。

そのことにはっきりと気づくことです。問題を解決する、対処する、戦う、そういった生き方から足を洗う必要があるのです。

百歩譲って、問題が見つかったら、できるだけ愛を持ってそれを放っておくという態度を身につけること。

それを続けているうちに、あなたのマインド(自我)の問題を作るエネルギーが小さくなっていくのですね。

思考に飲み込まれずにいる訓練

誰であれ、「考える」ことと「感じる」ことが違うということくらいは分かっています。「考える」とは、思考するということ。

では「思う」というのはどうでしょう?勿論「思う」というのも思考するということです。なにかを思うときには、大抵は言葉がついてくるからです。

それに比べて、「感じる」というのは思考とは違うものです。思考がマインド(頭)のものだとすれば、「感じる」感覚はハートのものです。

ところが、「感じる」ときにも、自動的に思考が一緒にくっついてくるのです。つまり、ハートの領分までマインドがしゃしゃり出てくるということです。

あのバラはなんて美しいんだろう!と言葉に出した途端に思考が動いているということです。ただ無言で感じるままにいるということができないのです。

そのくらい、毎日の生活の中に思考が組み込まれてしまっているのです。ただし、思考そのものに良いも悪いもありません。

問題となるのは、思考に飲み込まれてしまうこと。思考していることに気づかずにいること。自我は、思考を防衛の手段として使うのです。

1時間に1回でもいいので、思考しているということに気づく練習をすることです。そうして、思考を見ていられるように訓練するのです。

結果としてハートが開き、自分の本質への気づきも起きてくるのでしょうね。

見るものとしての本来の顔

あなたが身体でも心でもなく、ただ純粋な意識、看る者だったときの本来の顔を思いだし、自覚すること。それこそが、あらゆる瞑想の目指すものだ。

by osho

人生というのは何かを達成しようとする傾向がありますね。希望を叶えることや、欲しいモノを手に入れること、あるいは理想の自分像に近づく等々。

けれどもそうした目的というのは、人生という物語の中でのみ意味を持つものであって、瞑想が目指すのはその物語から抜けること。

人生物語というのは、あくまでも自分は身体と心からなる個人であり、それがすべての土台なわけです。

物語の中でそれを楽しむのはけっして悪いことではないのですが、そればかりではいつまでたっても真実に気づくことができません。

人生の本当の目的とは、それは本来の目的ではないと気づくこと。ただ純粋な意識としての自分の本質を思い出すこと。

それこそが生まれてきた真の理由だと理解すること。そこから気づきはやってくるのですね。

マインドを深く理解する

マインドの生い立ち、マインドの仕組み、マインドの機能、マインドの戦略、マインドの目的、こういったものを深く理解することです。

そうすると、この世界で起きているあらゆる出来事の裏側が透けて見えてくるのです。なぜなら、この世界、この社会はマインドによって運営されているからです。

いつまでたっても戦争がなくならないことも、政治家が汚職をしたり、聖職者がセクハラをしてみたりすることも、すべてが理解できるのです。

ほとんどの疑問は解決してしまいます。どうして家族が仲違いするのか、たくさんの夫婦が離婚する理由も簡単に分かってしまいます。

そればかりか、どうすれば生き方をよりシンプルにすることができるのか、癒しをすすめていくにはどうすればいいかも分かります。

なぜ瞑想がもてはやされるようになったのか、病気や怪我などもマインドが深く関わっているという事実も知るようになるのです。

おねしょが止まらない理由、不登校や引きこもり、あらゆる種類の生きづらさの真の理由も分かってしまいます。

誰もがセラピストになればいいと言っているのではありません。けれども、この世界がマインドの世界だということを、もう少し真剣に考える必要があるのです。

マインドを深く見つめることができれば、マインドから必ず自由になるときがやってきます。それが覚醒だし、それが恩寵なのですね。

マインドは思考をキャッチするアンテナ

漂っているのは思考であり、あなた自身は思考ではなく、思考が漂っている空間そのものであるということがわかれば、

あなたはすでに自性心に到達している。あなたはあなたの意識という現象を理解したことになるのだ。

そのとき識別は停止する。そのとき善なるものは何もなく、悪なるものはなにもない。

by osho

私自身、こういった文章を読んでも、なかなか理解することができませんでした。思考は自分の内側で作り出されるものだと思っていたからです。

頭を使って考えるというのが常識だからですね。けれども、頭というのは周りに浮遊している思考をキャッチするアンテナのようなもの。

ラジオの受信機がチューニングが合った電波をキャッチするのと同じように、頭(マインド)はそれ自体が保有している思考のエネルギーにマッチした思考を取り込むのです。

だから個々人のマインドが同じ思考の空間にいても、それぞれ違った思考をキャッチするわけです。

マインドの思考エネルギーが変化すれば、そのマインドがキャッチしやすい思考も変化するということですね。

マインドというのはこれまでにキャッチした思考の塊であり、これ以降も似たような思考をキャッチし続けるのです。

この無限ループから脱出するためには、思考群であるマインドを見る(意識する)こと以外ありません。

マインドを見続けることができるなら、マインドは次第に吸引力を失って行き、マインド自体も弱体化していくことになるのです。

後悔すら過去に置いてくる

要らなくなったものを処分しようとすると、意外にも大変な労力と時間とお金が必要となるということを体験しています。

実際、買ってまだ2ヶ月も経ってなくて、ほとんど使わなかったものとかあって、勿体無いとは思いながら、でももう不要になったので捨てようと決意するわけです。

そのときに、ふと購入したときの自分の精神状態が充分に意識的ではなかったという残念なことに気づくのです。

必要に迫られてか、あるいは欲しくてたまらなくて手に入れたわけですが、いざ処分しようとするときに気づいてしまいますね。

入手しようとするときの理由づけというのは、そのときにはまともだと感じていたのですが、本当はそうではなかったことが何度もあるのです。

ところでこうした後悔というのも、しばらくするとまた忘れてしまって同じようなことを繰り返すことになるのです。

自分にとってそこそこ金額のはるモノの場合は尚更なのですが、なかなか学ばないわけですね。

そして最後には、そんな後悔も、学ばないという困った感も全部まとめて過去の中に置いてきてしまえば、今はハッピーでいられるのです。

マインドとは寄り集まった思考

寄り集まった思考

何百万という思考の群があなたに

あたかも<心>というものが存在しているかのような幻覚を与える

それはちょうど<群衆>のようなものなのだ

何百万という人たちが群れ集まって立っている

だが、いったい<群衆>などというものはあるのだろうか?

by osho

↑上で言う<心>というのは、このブログではマインドと呼ぶようにしていますので、心という曖昧な言葉を使う代わりにマインドという言葉を使って下さい。

その上で、ここではマインドというモノがあるわけではないということに気づきなさいと言っているのです。

思考が複雑にもつれ合って、塊のようになっているだけなのですね。その思考群こそがマインドであり、これが自分だという感覚を与えているのです。

思考が寄り集まる理由は単純です。一つの思考があると、それと波動が似ている思考を引き寄せる性質があるのです。

そうやってできた思考の塊は、この世界広く浮遊している他の思考の中から似ている波動を持った思考を更に引っ張り込んで、それ自体がより大きなものへと成長するのです。

群衆を遠くから眺めれば、あたかも一つのまとまったまるでアメーバーのような対象として見ることもできるかもしれません。

それと同様に、マインドを遠くから見ることであたかもそれ自体が存在していると錯覚してしまうのです。

けれども、マインドを注意深く至近距離から見守るなら、一つひとつの思考がばらけて行ってしまいには消えていくのです。

自分のマインドに意識を向け続けていられるなら、自分はマインドなどではないということに自ずと気づくことになるのでしょうね。

大変な偽善者

解脱というものは、はるか遠くにあるんじゃない。それはあなたのすぐうしろに隠されている。

ひとたびあなたが真正になったら、その扉は開かれる。ところがあなたは大変な嘘つきだ。

大変な偽善者だ。あなたはなんとも深く偽っている。解放がはるかかなたにあるように感じるのはそのためだ。

by osho

深く偽っている、と言われても一体全体何をどう偽っているというのでしょうか?それは自分の本質についてです。

私たちの誰もがこの自分は個人として存在して、今まさにここにいる、と信じているのです。その信念こそが深い偽りなのです。

深く信じ込んでしまっているので、それが真実だと感じてしまうわけです。けれども、そんな嘘は簡単に見破ることができます。

ちなみに、自分がここにいるというとき、肉体以外の自分をどこに見いだせるでしょうか?誰も自分の本性を見つけることはできません。

ただ何となくこの肉体の「辺り」にいるに違いないと思っているだけなのです。肉体以外、実際見ることも触れることもできません。

そんな大切なことに気づかずにいるなんて、本当に不思議なことですね。だからこそ深く偽っていると言われてしまうのです。

これが自分だと感じている何かを何処にも見つけることができないという事実から、目を背けずにいることです。

その事実を受け容れることができれば、これが自分だと信じている自分とはただの自己イメージの産物だったのだと理解できるのです。

ゆったりと自由であれ

自分自身と戦わないこと。ゆったりと自由でありなさい。あなたのまわりに、品性だの道徳だのというワクをつくろうとしないこと。

自分自身を調教しすぎないこと。さもなければ、その訓練そのものが束縛になってしまうだろう。

自由でいなさい。漂い、状況とともに動くのだ。状況に応えるのだ。

by osho

自由でいるとは、自分に対して何事も強いないということ。なにかを強いれば、自我の奴隷になってしまうのです。

自我は自分を自由気ままでいさせようとはしないのです。囚われのない自由なマインドは、自然とその力を失っていくからです。

自我にとってそれは自殺するようなもの。自我は、自分を束縛しておきたいのです。正しさや忍耐によって、誰からも否定されないでいようとするのです。

自分自身と戦わないと言っても、自分がシンプルにそうしたいということであれば、それをすればいいだけで、それは決して戦っていることにはならないのです。

もしもあなたが自己防衛のために自分と戦うのであれば、それは非常に不自由な状況の中に入ってしまうのです。

つまり、避けなければならないのは自分自身と戦って、自己犠牲が付いてくる場合のみということを覚えておくことですね。

あなたが不自由さを感じて生きているなら、完全に自我に乗っ取られていると理解することです。

そこから脱出するためには、まずは戦うためのあらゆる武器や戦略をゴミ箱行きにすることです。

そして恐怖が来ても、罪悪感が来ても、それをそのままに感じてあげること。そうやって、次第にゆったりと自由であることを体験するのです。

自我か真の自己か

人間というのはちょうど玉ネギのようなものだ。幾重もの思考や感覚をむいてゆけば、最後には何があるだろう?

無だ。この無にはどんな支えもいらない。この無はひとり立ちして存在する。

だから仏陀は言う。神はない。神の必要はない、と。

by osho

私たちが生きているこの宇宙には、中心というものがありません。これは観測の結果導き出された事実です。

空間に中心がないというのは、自我としては何とも不気味というか承諾しかねるところがあるのですが、仕方ありませんね。

中心という概念は、有限の世界でのみ意味を持つものなので、無限の宇宙にはそぐわないのです。

そして私たちは、自分という個人は有限の存在だということを知っているので、やはり自分の中心となる何かがあると感じているのです。

けれども、自分の内側をどれほど探求して見回し尽くしたとしても、どこにも自分の中心など見つけることはできないし、そもそも自分を見つけることすらできません。

受け入れがたいことですが、それが誰でも体験する真実なのです。中心がないのは、自分の本質は有限ではないからですね。

自我という思考には、無限ということを真に理解することができません。だから、自我にとって自分の本質を知ることは不可能なこと。

つまり、自我が生を生きるのか、真の自己が生を生きるのか、そのどちらかでしかないということですね。