自信のなさも持たない

人はキャリアを積んで行って、それなりの結果を残すことができるようになって、次第に自信ができてくるのです。

他人からの高評価を得たり、自分でもできないと思い込んでいたものができるようになったりと、それが自信をつけていく道なのです。

それとは反対に、いつまで経っても自信がないという自覚を持ちつづける場合もあるのです。そういう人は、自信をつけたいと願うことでしょう。

ところが実際は、自信がついたという人であっても、ほんの少しの失敗や何かをきっかけに、あっという間に自信喪失状態になることもあります。

ずっと継続して自信満々ということは少ないはずです。こうした自信があるとか自信がないということと離れた生き方も実はあるのです。

つまり自信を持たずに生きるのです。これは自信喪失という意味ではなく、ただ自信のあるなしから解放された状態なのです。

物事へのこだわりが小さくなると、それに伴って自信も必要がなくなるのです。これは感覚としてはなかなか分かりづらいかもしれません。

自信のなさも持たないという表現をすれば分かりやすいでしょうか。自信のあるなしはエゴのものだと理解しておくことですね。

気づきのチャンスは常にある

人生においては、喜ばしいことばかり起きるというわけではありませんね。悲しいこと、困ったこと、起きて欲しくないことも起きるのです。

けれども、そんなときが最大のチャンス到来なのです。一体何のチャンスかというと、大切なことへの気づきを得るチャンスなのです。

私たちは、嬉しいことや都合のいいことの中では、気づきを得ることがとても難しいのです。なぜなら、そのような場合には無意識的になる傾向があるからです。

一方で、追い詰められたらそこに意識を集中することができるのです。そして、事態から逃げずに、そして心理的な対処をせずにいるようにするだけで、必ず気づきがやってきます。

ところが自我というのは、問題が起きればすぐにそれを何とかして解決しようとするか、そこから逃亡しようとしてしまうのです。

そうして大切な気づきのチャンスを台無しにしてしまうわけです。もしも取り立てて困った事態が起きなくても、自我の根本的な問題に気づいているなら、いつどんなときでも気づきのチャンスがあるはずです。

自我は、常に不安と孤独を持っています。それなしには自我は成立しないのです。そのことに気づいていられるなら、何があってもなくても、追い詰められた状態にいることができます。

それこそが本当に自我から解放される大きな気づきを得る道なのです。辛いことが起きたら気づくチャンス、嬉しいことがあったら大いに喜べばいいのですから、どちらにしても人生は得ですね。

自我が苦しみを作り出す

3日間行方不明だった2歳の男児が、無事救出されたというニュースを見ました。内心では、もうダメなんじゃないかと思っていたので、ホッとしましたね。

報道によると、ボランティアの方によって発見されたらしいですが、弱っているわけでもなくしっかりとした状態だったそうですね。

その後母親に手渡されたときにも、泣き出すわけでもなくもらった飴を食べていたということです。

番組の中で、本当に強い子だということが言われていましたが、確かに気丈なところのある男の子なのかもしれませんが、もう一つ大きな理由があると思うのです。

それは年齢です。ちょうど2歳になったばかりのやんちゃな男の子だとすると、言葉はしゃべれるとしても自我がしっかりできあがってないのではないかと。

だとすれば、痛みや恐怖はその都度感じるものの、継続的な苦しみのようなものを自覚することはないのだろうと想像できるのです。

簡単に言えば、まだ人間になりきれてない状態なのです。この状態であれば、半分くらい動物のように生きているので、苦悩することはないのです。

逆にいうと、苦悩できるようになるためにはそれなりに自我が成長していなければならないということです。

私たちは、身に降りかかったことで苦悩すると思っていますが、そうではなく自我が苦悩を作り出すということです。

人生の苦しみを外側からやってくる事柄のせいにするのですが、本当のところ苦しみを作っているのは自分の自我だということを再認識することですね。

幸不幸と至福の違い

人は誰もが幸せになりたいと願い、すでに幸せな人はもっと幸せになりたいと願っているのです。

欲しいものが手に入ったり、願っていたことが現実になれば、幸福感がやってきてくれるはずです。

逆に不幸というのは、その逆の状況によって引き起こされるのですが、幸福も不幸もいずれにしてもそうなるには理由があるのです。

つまり、〇〇だから不幸であり、〇〇だから幸せだと言う具合に。そして理由が必要なことというのは、結局のところすべて一過性であるということです。

幸せな理由は、不幸との比較によるということもあります。幸せも不幸も、どちらも人生物語の中での出来事です。

そこと全く次元の異なる至福というものがあるのです。至福には理由がまったくありません。〇〇だから至福を感じるとは言えないのです。

だからこそ、至福の状態とは永遠のものです。それが起きる理由がないのであれば、それがなくなる理由もないからです。

幸不幸が振り子のオモリであるなら、至福は振り子の支点だと思えばいいのです。幸不幸は状況によって行ったり来たりして、どこかにとどまることはありません。

振り子がどの状態であろうが、支点である至福はずっとそこにあるのです。支点が変化することはないのです。

もしもあなたが、今この瞬間の中に永遠性を感じられるのなら、きっと同時に至福をも感じ取ることになるはずです。

一過性でしかない幸せを求める代わりに、不動の至福を見出せるように意識的になる方を強くおススメしますね。

思考の外側を理解しようとしない

随分前から、きっと子供の頃からだったと思うのですが、この現実世界がすべてではないということをどこかで感じていたのです。

こんなふうに言葉で表現したことはなかったですし、もっと漠然とした感覚だったと思うのですが、確かにこれだけではないと感じていました。

それが人々が言う天国とか地獄、あるいは死後の世界のようなものとは根本的に違うのもどこかで分かっていました。

今ならそういった類のものは、思考が作り上げたものだとはっきり分かります。私が感じていたものは、思考では到底理解できない何かだと知っていました。

思考を使うなら、自分の場合は現実から解放されたときには何か長い夢から覚めて、ああそうだったのかと正気に戻ったときのようなもの。

その方が天国地獄に死後の世界よりも、ややしっくりくるのです。けれども、こうした想像はいずれにしても思考であり、真実ではありません。

思考の外側のものを理解しようとしないことです。それはただ在るだけだからです。理解しようとすることからきっぱり離れるのです。

そしてもっと素直に、ただ在るものと共にいればいいのです。この現実世界は、海で言えば海面のさざ波のようなもの。

海全体をハートで感じつつ、今日も目の前の現実と一緒に漂うことにするとしますかね。

死から逃げずにいれば、死はないと気づく

子供の頃に、初めて死んだらどうなるんだろう?という考えがやってきたときには、心が凍りついて顔が引きつったようになったのを覚えています。

誰もがいつかは自分にも死が訪れるということを知っているくせに、そこから目を背けて生きているのです。

だって考えたって仕方ないじゃない、という声が聞こえてきそうですが、そういうことではなく死を身近に感じながら生きるかどうかということ。

死から逃げずにいられると、生き方が変わるのです。人は知らないうちに死という現実から離れようとして、それを忘れる術を見出そうとするのです。

目標を持つことも、何かに没頭することも、何かと争うことも、すべてが死を忘れるための作戦だったのです。

けれども、死から逃げないという態度ができると、今度はそれまでまったく気づけなかった自分の内側の不死性に気づいていけるようになるのです。

これって皮肉なものですね。死を恐れて逃げ惑っているときが一番死が怖い状態を作り上げるのです。

その一方で、死から逃げずに真正面から向き合うなら、死はないということが分かってくるということです。

死だけでなく、あらゆる大切なこと、そして真実もいつだってすぐそばにあるのに、怖くて見ようとしないでいるために、当然のことながら見落としてしまうのですね。

死は自分自身からの解放

ここ10年くらいの間に起きた自分の内面の変化のうち、もっとも際立っているもの、日々の生活に強く影響したものはなんだろうと考えて見ました。

実はいろいろあるのですが、やはり一番は一口に言ってしまえば死生観が大きく変わったということです。

生きるということは、常に死ぬことをどう捉えているかが強く影響しているのです。だから、死に対する感覚が変われば生き方もおのずと変化するのです。

若い頃は、死は自分には来ないもの、自分以外の誰かが死ぬという思いがあったのですが、年齢とともに死がより身近なものとなったのです。

だからこそ死を真正面から見ることになり、その結果忌み嫌うべきものだった死が、ある意味歓迎すべきものという部分が大きくなってきたのです。

死は解放です。あらゆるものからの解放というだけでなく、自分自身からも解放されるということが救いなのです。

私たちは誰もが強制されたわけでもないのに、自分という自我を作り出して、その罠に深くはまり込んだ状態で日々過ごしているのです。

そしていつかは死がその罠から解放してくれるのですから、十分に安心して思い切り罠の中で楽しめばいいだけです。

それが気楽さを生み、無防備で清々しい人生にしてくれるのです。もちろん自我はそれでも、なんとかして苦しみを生み出そうと頑張りますが。

そんなこんなをすべてひっくるめて、救いがくるまで楽しめばいいのですね。

二元性から非二元へ

マインドというのは、いつでも自分に都合のいいことばかりが起きて欲しいと願っているのです。

それがマインドの根本的な問題なのです。普通に考えれば、いやなことが起きて欲しくないというのは当然のことですが、残念ながらマインドの生きている場所は、二元性の世界なのです。

二元性ということは、都合のいいことが起きれば、必ずその分だけ都合の悪いことが起きることになっているのです。

快楽を求めれば不快がやってくるし、幸せを求めれば不幸が同じ量だけやってくるのです。これが二元性の原理です。

二元性というのは思考が作ったものであって、実在するものではありません。実在は常に非二元だからです。

この原理に気づき、これを逆手に取って生きる方法があります。それは、都合のいいことをあまり求めない生き方です。

都合のいいことにそれほど関心がなければ、都合の悪いこともそれほど起きなくなっていくのです。それが二元性のバランスです。

どれかを選択するということから離れることができるなら、やってくることをそのままに受け入れるようになるのです。

その結果、思考は緩んでいい悪いどころか、好き嫌いすら薄れてしまうのですね。それこそが究極の生き方であり、二元性から非二元へと戻っていくことになるのです。

無が親で、現象が子

眠りの中で夢を見ている時、夢を見ているということを忘れて(つまり無意識になって)その夢の内容にばかり注意が向いていますね。

ちなみに、夢を見ていることを意識した瞬間に、通常は夢から目覚めてしまうという経験をしたことがあるかもしれません。

これと同じことが、毎日の生活の中で起きています。つまり、起きている現象にばかり注意が向いて、その源である「何もなさ」を忘れてしまっているのです。

このことを忘れずにいるには日々の訓練が必要です。音楽を聞いている時に、その源である無音、つまり静寂を感じている練習をするのです。

映画を鑑賞しているときに、映像の源にあるスクリーンを感じているようにするのと同じです。

自分という存在も含めて、あらゆる起きつつある現象の大元には常に源泉としての「何もなさ」が在ることに注意を向けること。

それを感じていられるなら、目を開けていても目の前の現象を何も見ずにいることもできるようになるはずです。

夏休みにこんな練習をしてみるのもいいかもしれませんね。

盲導犬に教えられたこと

マンションの近所に、盲導犬を育成している施設があります。そのため、近所をクルマで通ったり散歩したりしていると、盲導犬の訓練をしている場面に出くわすことがよくあるのです。

盲導犬のタマゴに対して、訓練係の人がアイマスクをした状態で、実際に歩道を歩いたりしているのです。

その姿を見るたびに、あるテレビ番組で見た盲導犬の一生のような物語を思い出すのです。

生まれてから一年くらいは、一般の家庭で普通のペットとして飼われるのですね。その家の子供達と仲良くはしゃぎながらの楽しい毎日。

ところが、ある日突然盲導犬として育成されるために、施設へと連れていかれてしまうのです。子供達との別れはとても悲しいのです。

訓練を受けたからと言って、実際に盲導犬として独り立ちできる犬はわずかだと聞いたことがあります。

それはそうでしょうね、犬にだって向き不向きというものがあるはずですから。同じように訓練を受けたとしても、合わない犬だっているのです。

目の不自由な方々の文字通り目となって働くのですから、運良く盲導犬になれたとしても、そのストレスは計り知れないものがあるのでしょうね。

犬の平均的な寿命よりもかなり短い命になってしまうということです。そして、ある年月盲導犬としての使命を全うした時点で、元々飼ってもらっていた家庭へと返されるのです。

そのとき、家族の誰もが歓迎している中で、その犬はしばらくなにが起きているのか分からずに、じっとみんなをみつめているのです。

そしてふと気がついて、思い切り元の飼い主たちのところに走って飛びつくのです。その姿は涙なしでは見れません。

絶対に走ってはいけない、決して飛びついたりしてはいけないと長年訓練されてきた、その規則を一瞬にして忘れたかのように家族の元へと飛び込んでいくのです。

そしてそこから短いですが、幼い頃と同じ自由な人生を生きて死んでいくのですね。私たち人間にも同じことが言えるのだと思います。

社会はある意味過酷な場所です。さまざまな訓練を受け、規則で制限された生き方を強いられるのですから。

それでも、いつかは幼い無邪気なころの自分をしっかり思い出して、あの自由だったころのように、楽しく無防備に生きることができたらいいのにと思うのです。