超然としている自分

私たちはいつも自分を感じながら生きているのですが、その中に物事に捉われずに、常に超然としている自分がいるのを発見することは素晴らしいことです。

その感覚をより明確にしたくて、何か自分の内面に起きるたびにそれを捜す習慣が付いてきました。

たとえば、何だか気分が悪いなと感じたときに、その気分の悪さに全く影響されずにいる自分がいるのを感じるようにするのです。

100℃のサウナに入っていて、もう暑くて出たいなと思ったときに、その暑さから全く解放されている自分を見つけるようにするのです。

超然とするというのは単に擬人化した表現でしかありません。なぜなら、実際にはそれは人物などではないからです。

ここはどんな言葉を駆使しても正確に表現することはできませんが、以前よく使っていた言葉を用いると…。

映画を映し出すスクリーンのようなもの。映像との距離はゼロですが、どんな映像が繰り出されようが、スクリーンは全くその影響を受けないでいられます。

それと同じこと。この世界を3次元の映像だと考えると、それを映し出しているスクリーンこそが、自分の本質なのだろうと。

スクリーンでも背景でもなんでも構いません。その感覚を何かあるたびに捜す練習をするといいと思います。

最終的には、自我としての自分が死にゆく時にも、超然とそれを見届けることができるのでしょうね。

覚醒した意識の状態

私たち自我にとって、意識的であり続けるということが如何に難しいことであるか、実践したことのある人には分かるでしょう。

意識を自分に向けていようと試みるも、あっという間にそのことをすっかり忘れて、目の前で起きていることや頭の中にある思考に組み込まれてしまうのです。

本当にそれほど難しいことなのかと疑うなら、一度試してみるといいのです。お風呂に入ってから出るまでの間に、お風呂に入っていること以外のことを考えずにいられるか。

きっとほとんどの人が、身体を洗ったり湯船に浸かりながらも、昨日のことや明日のことなどを考え出すはずです。

なぜそれほどまでに意識的であり続けることが難しいのか?自我の立場に立って考えてみると分かりやすいかもしれません。

自我にとって、十分に意識的であるということは、非常に危険な状態であるということを理解する必要があります。

私たちが意識的である瞬間、過去へも未来へも思考を飛ばすことができなくなり、今この瞬間に留まることになるのです。

そうなると、物語の中にしか棲むことができない自我にとっては、それが続けば死を意味することになるからです。

だから自我にとっては、何かに没頭したり果てしない思考の連鎖の中で無意識になっているのが一番安全なのです。

覚醒した意識というのは、自我ではないということも理解しておくといいと思います。つまり、意識的であることで、これが自分だと思っていた自我が力を失っていくことになるのです。

そりゃあ抵抗されるはずですね。だから何度失敗を繰り返しても構わないのです。そういうものなので。

それでもまた今日も少しでも意識的であろうと努めることは、人生の中で一番意味のあることだとも言えますね。

癒しが進まない理由

多くの人にとって当たり前のことだと思うのですが、あの人好きだなと感じる人もいれば、苦手、嫌いだと思う人もいるのです。

誰だって好きな人と一緒にいるのは楽しいし、いい時間を過ごすことができると知っていますね。

その一方で、嫌いな人とは口もききたくないし、顔を合わせたくもないのです。とにかく関わりたくないと思うのです。

ところで、その嫌いだなと思っている人のことを、もしも好きになれるとしたらどうでしょうか?

果たしてその嫌いな人を好きになりたいと願うでしょうか?一般的には、嫌いな人を好きになりたいなどとは考えないものです。

嫌いなのですから、ずっと嫌いのままで結構。一緒に過ごしたくないのですから、好きになる必要がないと思うわけです。

けれども、その人のことを好きになったとしたら、その人とも楽しい時間を一緒に過ごすことができるのです。

それを考えたら、嫌いでいるよりも好きになった方が得だということは、頭では理解できますね。

それなのに、なぜ私たちは嫌いな人のことを好きになりたいとは決して思わないのでしょうか?

それは、その人のことを嫌いだと感じているのが今の自分なので、もしも好きになってしまったら、今の自分が消えてしまうと思うからです。

強く嫌っている場合には、そこに敵対視する強いエネルギーが含まれているので、そのエネルギーの行き場がなくなってしまうのです。

実は癒しがとんとん拍子に進んでいかない理由もこれと同じなのです。今までの自分の生き方を変えたくないのです。

変えていくことができたら、癒しは進むと理解できたとしても、これまでの自分が消えてしまうのが怖いのですね。

でも安心してください。癒していっても、これまでの自分の考え方や生き方がなくなるわけではありません。ただ、それを選択しない自分が生まれるのです。

そうやって少しずつ生き方が変わってくることで、それまで自分が作ってしまった苦しみや生きづらさが改善されていくということです。

不要なものツートップ

この世界はそれが在るように在るのですし、それが起きるべく起きているのです。それについて、私たちは関係していないし、もちろん無力でもあります。

その前提に立った上で、私が個人的に癒しの観点からして、不要だなと感じるものを挙げてみたいと思います。

まず、真っ先に思いつくのが「深刻さ」です。良い悪いではなくて、馬鹿馬鹿しいというのが本音です。

真剣さは歓迎しますが、深刻さは愚かしい限りで、そこからは何にも生まれてはこないのです。

永遠からすればほんの一瞬の生を、深刻に受け止めて生きるなんて、本当に残念なことですね。

それに関連して、「罪悪感」もまた間違いなく不要なものです。人によっては時として必要なものだと思っている場合があるかも知れません。

けれども、いかなる状況であれ罪悪感だけは全く必要ないばかりか、人生を楽しむことを阻害する、百害あって一利なしの要因となるのです。

この二つは私の中での不要なものツートップですかね。そして、自己否定、執着、信念などが続く感じです。

執着は理解を妨げる

何かに執着すると、その執着した対象についての理解を深くすることができなくなってしまうのです。

執着というのはしがみつくことです。もしも溺れそうになっていたら、何でもかんでもしがみつこうとするものです。

自分が何にしがみつこうとしているのかなど、見極めている余裕がないからですね。だから執着は目をつぶらすことになるのです。

恋人に執着すれば、その恋人のことを本当には理解することができなくなってしまうのと同じです。

お金に執着してしまえば、お金に対して正しい理解をすることができなくなって、お金の亡者になってしまうはず。

死ぬのが怖いというのが一般的な私たちの反応ですが、それは生に執着しているからに違いありません。

そして生に執着してしまうと、生の何たるかを知ることができなくなってしまうのです。つまりは、死が怖いということは生きるということが分からないということ。

生きているようで実は生きていないようなものだということです。もしもあなたが明日死んでもいいよ、という状態になったなら?

きっとそのときには生の味わいを存分に感じることができるようになったということですね。

現実は一瞬の夢

浜辺に打ち寄せる波は、それがどんなものであれ必ずまた引き返していくのです。それがこの宇宙の決まり事、法則なのです。

だから私たちもその法則の中にいるのです。得体の知れない無からやってきて、ほんのしばらくの間人間として生きて、その後また得体の知れない無へと戻っていくのです。

この法則は絶対であり、例外はありません。その無と無の間に仮そめの人生物語が起きるのですが、それは無からしたらほんの一瞬のこと。

あってもないようなものです。それなのに私たちは何かと思い悩み、苦しんだりしつつ、自分だけはその法則の中にいないかのように生きるのです。

夢の中も同じようなことが言えます。あなたが眠りにつくと、夢の中へとやってきて、ひとときの物語を体験し、あなたが目覚めるときには現実へと戻っていくのです。

夢の中身がどれほどのものであろうと、目覚めた瞬間にその全てが消滅してしまうのですから、潔い限りですね。

この生とて同じことです。無と無の間に起きたあらゆる出来事は完全になかったことになるのですから。

だったら思う存分、何も気にせずこの現実という一瞬の夢を楽しむことにしませんか。

取引から足を洗う

私たちが日頃馴染んでいる文化というのは、その根底に取引によって支えられているという事実があります。

その理由は、自我が取引を好むからだと私は見ています。その昔、まだ社会が未熟だった頃は物々交換によって、生活をしていたのです。

身近なところでは、お小遣いあげるから肩叩いてちょうだいなんて言われてる子供を見ることがあります。

取引ですから、何かを差し出してその代わりに何かを貰うということですね。一般的な社会人は、労働してその対価を受け取るのです。

何だかそれがつまらないと感じてしまうのは私だけでしょうか?どうも若い頃から、給料をもらって喜んだ試しがないのです。

自分が与えた労働はこの程度というものに見合った対価を貰うだけなので、当然な気がして嬉しくないというのが正直なところ。

もちろん、働く場所がなくて困っている人がいたら、その人にとっては働いて対価をもらえるだけでもありがたいと感じるでしょうね。

とはいうものの、私としては想定を超えた対価をもらえるなら、それなりに嬉しいはずなのですが、普通はそんなことはありません。

物々交換の頃はシンプルで良かったと思うのですが、現代においては取引というのは大変な思いをした分だけの対価をもらうというようになってしまっている節があります。

こんなことを言ってはどうかと思われるかもしれませんが、私にとっては労働の対価ではなく、拾う、当たる、プレゼントされる、などが嬉しいのです。

何だか得した感じがするのです。実はこれ、現実の世界でも実現できるのです。それは、あなたがやりたくてうずうずしていることをするだけ。

それが結果として誰かに認められたら、いただいたモノやお金は対価ではなく、プレゼントということになるからです。

これはもう取引ではありませんね。あなたが自分に正直に生きていれば、取引などせずに生きていくことができるということです。

自我はその可能性をはなから否定しているので、現実もそうなってしまうのです。取引をせずに生きるにはどうしたらいいかを、一度真剣に考えてみるといいと思いますね。

あなたを通して物事は起こる

どれほど一生懸命に生きたとしても、人は必ず後悔してしまうことがあるものですね。過去のことを考えるなと言われても、どうしても考えてしまうのです。

後悔が大きいと、何度も何度も繰り返して同じことを悔やむことになるし、そうなると気持ちも暗くなって落ち込む状態になったりします。

後悔をゼロにすることは難しいとしても、それを少なくしたいと思っても無理はないです。

そのためにはどのような方法があるのでしょうか?実はいろいろなことが考えられるのですが、今日は一番画期的な方法をお伝えしたいと思います。

まず初めに後悔する理由を見てみると、自分が為し手だと思っていることに起因していることが分かります。

自分がやらかしてしまったという思いこそが、あらゆる後悔の原因になっていることは明白ですね。そこを変えるのです。

自分の身に起きていることは、自分が為しているのではなく、自分のことを物事が起こる空間だと見るのです。

あなたを通してあらゆることが起きては過ぎ去って行くのです。あなたは現象が起きる場なのです。

それなら何が起きても、どんな結果がやって来ようと、そこにはどんな後悔もあるはずがありません。もちろん、同時にどんな手柄もないのは当然のことですが。

このような感覚を大きくしていくためには、常日頃から意識的であり続ける練習をすることです。

十分に意識的になって、自分を見つめ続けることによって、為し手から見る側へと変わっていくことができるからです。

時間はかかっても、これをあなたのライフワークにすることができれば、気がついたら後悔からも手柄からも解放されることになるはずです。

共通幻想に気づく

私たちの社会が高度に発展してきた根っこには、共通幻想というものがあるというお話しです。

たとえば、所有という概念がありますが、それも共通幻想の一つなのです。仮にあなたが死ぬまで無人島で一人暮らしをしているとします。

その時あなたの所有物はこれとこれだと宣言する必要があるでしょうか?あるはずないですよね、なぜならこれは私のものだと言っても聞いてくれる人がいないのですから。

認めてもらうべき誰もいないのですから、これは自分の所有物だと宣言しなくてもいいということが分かります。

つまり所有という概念は、複数の人間の間で取り交わされた約束事なのです。これはあなたの土地で、それは私のクルマという具合に。

そして取り決めというのはみんなで共有している約束なのです。実在するようなものではないので、共通幻想と私は呼ぶのです。

あるいは、貨幣なんていうのも共通幻想の最たるものです。一万円札が一万円の価値があると、みんなで決めてそれに従っているだけです。

その紙切れにどんな価値があるのかは、やっぱりみんなのお約束ごとに過ぎません。この共通幻想があったから、貨幣経済が成立しているのです。

実在しないものを、みんなで共有できるというのは人間に与えられた特殊な能力だと思います。

ただしそれはあくまでも社会で生きていくための決め事であって、一人ひとりの内面では真実ではないということをしっかり理解しておくことです。

そうすることによって、社会の中にあって社会に染まらずに生きることも可能なはずなのです。それはとても自然で清々しいものに違いありません。

人生に間違いなどない

自我にとって目的を持たずに生きていくことは、とても難しいことなのです。だからいつも、目的や目標を抱いて、それを目指して毎日生きているのです。

この年齢になって、そのことをはっきり自覚できるようになりました。クライアントさんとセッションをしていると、どこかに目的地があると信じているのを感じます。

何者かになろうとしていたり、いつか必ずこうなるだろうという期待、今はまだ無理だけど目標を達成すれば人生は喜ばしいものになるに違いない。

こうした欲望があるから、辛い今を我慢して生きているのです。まだ先はあるという思いが、人生を諦めずにいられる理由なのですね。

けれども残酷なようですが、人生はどこにも向かってはいません。終着地など存在しないのです。いつも今がずっとあるだけです。

このことをひとたび実感することができれば、たちまちあらゆる執着や不安が小さくなってしまうでしょう。

なぜなら人生を間違って生きることなどできないと分かるからです。これまでに人生を顧みて、取り返しのつかない生き方をしてきてしまったと思うこともあるかもしれません。

その気持ちは理解できますが、人生はどこにも向かってはいないのですから、正しいも間違いもないのです。

到着地があると思えば、そこから外れてしまったということも起きるでしょうけれど、そんなものはないのでどんな間違いもないということです。

それが分かってくると、後悔もなくなるし、自分の人生を他人のそれと比べることも無くなるでしょうね。