内側の広大な世界に意識を向ける

人生というのは、光のような無邪気さから始まるのですが、しばらくすると自分の惨めさが耐え難くなるのです。

そうすると、何とかその惨めさを払拭しようとして社会の中で頑張ることになるのです。

社会というのは外側の世界であり、その外側に広がる世界こそ自分が活躍できる場所だと認識するわけです。

ところがどれほど結果を出したとしても、どうしても気持ちが晴れやかになり続けることができないと知るのです。

そしてようやくそれまでの生き方を見直さねばならないと自覚するようになるのです。そして外側にばかり向いていた意識を内側へと転換するのです。

こうして見るべきところが180度変わるのです。一度内側を見ることに気づけば、あとはこれまでとは全く異なる世界が広がっていることに驚くのです。

人によっては外側の世界だけで生きて死んで行く場合もありますが、もしもあなたが内側こそ見るべき場所だと気づけたなら、ラッキーだと思うべきです。

内側は外側のように五感で認識することができない世界なので、それだけに奥深い世界なのです。

そしてあなたが本当は何者なのか、余計な雑音から解放された暁にはそれを見ることができるのでしょうね。

自我を見守る

自我にとっては、それが何であれ戦うということが自分の存続にとって必要不可欠なものだということを知っているのです。

戦う相手、あるいはターゲットというのはそれぞれ人によって千差万別です。たとえば、目標を設定してそれに向かって進んでいくのも一種の戦いです。

それは目標に到達するということが戦いのターゲットになっているわけです。到達するまでのプロセスがあれば、自我は安泰なのです。

または、戦いの相手が人間になる場合もありますね。人類の歴史を見れば明らかなように、戦争が絶えない理由はここにあるのです。

戦争のような大規模なものでなくても、誰かを嫌いになってその人を攻撃したり、蹴落としたりして自分が勝利することが快楽にもなるのです。

そしてもちろんその戦いのプロセスが続いていく限り、自我はやはり安泰だと感じるのです。

よってどれほど世界平和を唱えたところで、自我の本性を知ってしまえばそれがどれほど無意味なことであるか分かるのです。

世の中からあらゆる争い事を無くそうとするなら、まずは自分の自我をしっかり見守ることから始めなければなりません。

すべての問題はこの世界の中にあるのではなく、私たちの内側にある自我の仕組みから起きてくるのですから。

そのことに深く気づいた人から、自我を見守るという生き方をすることになるのだと思います。

過去の惨めさを思い出してあげる

もしもいじめられている子を見かけたら、きっと可哀想にと思うかもしれませんが、決して惨めだなとは思わないのです。

それは、惨めさというのは期待値との落差だからですね。つまり、自分以外の誰かに対する期待値がないのが普通なので、そこに惨めさが起きないのです。

自分自身に起きることに対しては、意識していてもいなくても必ず何らかの期待値を持っているものです。

だから、自分自身に対しては時として惨めだと思うことがあるのです。特に、子供の頃というのは誰でも不自由さの中で生きているので、惨めさをよく知っているはず。

ところが、それがあまりにも辛いと感じると成長するにつれてそれを他人事のようにしてしまう場合があるのです。

そうすることで惨めさから解放されるからです。勿論過去の自分を思い出して可哀想だとは感じるのですが、それでも惨めだという思いよりはマシなのです。

これがもっと極端になって、重症化してしまう場合もあるのです。あれは自分ではなかったとして、別人格にしてしまうことがあるのです。

それがいわゆる多重人格、今では解離性同一性障害などというモノモノしい名前がついたりします。

すべては自分を守ろうとする自己防衛から起きるマインドの働きだと言えます。あれもこれも自分だったと受け入れて、過去の辛さを引き受けてあげられるといいですね。

罪悪感なんて怖くない

繊細で敏感タイプで生まれてくると、その多くの人たちに共通する特徴があるのですが、その一つは罪悪感です。

子供の頃からずっと、折に触れて罪悪感を感じてきたはずなのです。もちろんなぜ罪悪感を感じてきたのかについては、その子の生育環境によるところが大きいのです。

たとえば、親がコントローラーの場合には、子供を自由にコントロールするために親が罪悪感を利用するのです。

子供は、罪悪感を感じるように仕向けられてしまうので、罪悪感とは切っても切れない関係だと思ってしまうのです。

あるいは、一番オーソドックスなケースとしては、親の期待に応えることができない時に子供は勝手に罪悪感を感じてしまうのです。

いずれにしても罪悪感を感じることは非常に辛いことなので、子供は罪悪感を感じないように工夫をするようになるのです。

それは自分の本心を隠してみたり、それだけでなく相手の気持ちを優先させるようにするのです。

その結果、自覚のないままに不満を募らせて怒りが蓄積されるのです。そのエネルギーがうつ症状やあらゆる問題行動を起こす原動力となるわけです。

罪悪感から逃げれば、自由を失うことになるだけでなく、自己犠牲も蓄積してしまいます。つまりはいずれは人生が行き詰まってしまうことになるはずです。

罪悪感に親しみがあるという人は、とにかく罪悪感から逃げずにそれを感じてあげる練習をすることをお勧めします。

罪悪感が怖く無くなってきたら、自分の自由で清々しい人生を取り戻すことができるようになるはずです。

不可能性を見抜く

実際にやってみないことには、可能か不可能かは分からないから、とりあえず挑戦してみる、と言うのがあります。

特に若い人には、私も勇気を出して沢山挑戦してみてほしいと思うのです。たとえ可能性がほんのわずかであっても、諦めずにチャレンジすることは素敵なことです。

けれども、最初から不可能だと分かっていることに挑戦することほど馬鹿げたことはありませんね。

そんな無駄な努力はないからです。100メートルを5秒で走れるようになりたいと思って、毎日練習するのは無意味です。

ただし、目的は達成されないとしてもその練習のおかげで、足腰が丈夫になったり健康維持ができたりすることはあるかもしれません。

問題は、そこに自己犠牲が紛れているといつかは破綻する時がやってくるということです。そして子供の頃というのは、不可能だと気づけないことが多いのです。

たとえば親からの期待に応えようと頑張る子供は沢山いますが、いくら頑張ったところで不可能なこともあるのです。

その子は親の期待に応えられない自分を責めたり、罪悪感を感じてしまうことになるでしょう。

もしもあなたのマインドに罪悪感がびっしりこびりついているなら、子供の頃に何らかの理由で不可能なことをずっとできるようになろうとしていたことを疑ってみて下さい。

この世の中は、不可能性に満ちています。不可能なことをしっかり見極めて、そこから手を引くことで罪悪感から離れていくことができるのですね。

惨めさを見守る

自我の一生というのは、自分は惨めなんかじゃないということを証明しようとして悪戦苦闘することを言うのです。

もちろんそればかりではないのですが、そのエネルギー源はどこからくるのかと言えば、自分は惨めだと言う思い込みからくるわけです。

何であれ自我は期待を持って物事を見るのです。そうなると、その期待値に対して現実が届かなかったならば、その落差を惨めだと思うのです。

だから期待値が高ければ高いほど、また現実が期待値から離れていればいるほど、惨めさの大きさも増すのです。

この惨めではないということを証明しようとする生き方を辞めない限り、惨めさは付きまとうことになります。

頑張れば頑張るほど、実は惨めなんだと言う思い込みが強くなって、最後は信念になってしまうのですから。

惨めさから解放される唯一の方法は、見守ること以外ありません。惨めさは事実ではなく、思考に過ぎないと言うことを見破ることです。

それには見守ることです。その思考と距離を置くことで、惨めさを笑っていられるようになるのです。

思い込みに光を当てると自然と落ちる

今日も昨日に引き続き思い込みの話しをしたいと思います。私ごとですが、子供の頃会社から帰ってきた父親が心臓が痛いと言って、辛そうに横になっている姿をよく見ていました。

それで大人になって社会で働くということは、きっと大変なことなんだろうと思い込んでしまったのだと思います。

思い込みが強くて、疑う余地がないほどであればあるほど、それは現実化してしまう可能性が高くなるのです。

結局会社員になってからというもの、忙殺される毎日が多かったのも事実だし、精神的な負担も結構ありました。

40代半ばで癌を患った時に、こんな生活を続けていたら人生が終わってしまうと感じて、一時的に働くのをやめてしまいました。

社会的には一番働き盛りの年代だし、大黒柱として家族のために頑張らなければならない時に、先の見通しが全くない状態で無職になったのです。

そして自分の内側をよく見つめる時間ができた時に、ようやく気づいたのです。社会人になるということは大変なことだという思い込みを持っていると。

それは真実ではなく、単なる子供の頃にでっち上げた思い込みに過ぎないと気づいたことで、それは自然と自分の中から落ちていってくれたのです。

それと同時にもう自分をいじめるような毎日を送ることは絶対にしないと自分に誓ったのです。そのことが今の生活のスタート地点だったわけです。

マインドが隠し持っている不要な思い込みを見出してあげれば、それはひとりでに落ちていってくれるのです。

是非試してみてください。努力は要りませんので。

このままではダメだという思い込み

昨日のブログで、私たちのマインドは思い込みの積み重ねによってできているというお話しをしました。

具体的な思い込みを一つひとつ挙げていってもキリがないので、代表的で多くの人のマインドがそれに侵されているものについてお伝えしますね。

それは、「このままの自分ではダメだ」という思い込みです。このまま何もせずに手をこまねているだけだと大変なことになると信じているのです。

幼い頃にマインドの中に作ってしまった親二世にけしかけられているのです。親二世は、親そっくりに作り上げたマインドの部分なのです。

親が自分を注意したり否定したり叱ったりするのを真似するのです。そうやって、親から直接傷つけられるのを防ごうとする防衛手段ですね。

それが一度マインドの中にできてしまうと、常にもっともっとできるはずだと追い詰めてくるのです。

実際の親は、期待を込めて子供に詰め寄るのですが、子供の側はそれが辛いのでそこから逃げようとするのです。

それを食い止めるのが親二世というわけです。親二世に見張っていてもらうことで、安心しようとするのです。

親二世に乗っ取られてしまうことで、このままの自分ではダメだと思い込むようになってしまうということです。

この思い込みが外れるだけで、全く違う人生の香りを味わうことができるようになるでしょうね。

癒しとは思い込みを外す作業

私たちのマインドというのは、「思い込み」を積み重ねて出来上がっていると言ってもいいのです。

一番根っこにある思い込みとは、周囲からやってくる情報をそのまま取り入れることで作る自己イメージです。

最も初期の自己イメージは、まだ自我が出来上がる前から作り出したものです。だからその思い込みは生涯色濃く本人を縛ることになるのです。

その後自我が作り出されるわけですが、これも勿論思い込みによるものです。「私」という個人がいるという途方もない思い込みです。

その後も徹底して思い込みをくる日もくる日も続けていくのです。自分の身に体験が起こると、自分がその体験をしたと思い込むのです。

つまりは、体験者としての「私」がここにいるという思い込みですね。そんなことを繰り返して、大人へと成長していくのです。

だから成長とは言うものの、今の自分というのは思い込みという張りぼてによって、できているのだと理解することです。

人によって、つまりマインドによってその思い込みの内容や量、そして質はそれこそ千差万別です。

生きる上でのルールを沢山持っている人は、さらに思い込みの量が増えてしまうはずですね。

癒しというのは、これまでこうして溜め込んできてしまった思い込みに気付いて、少しずつ外していく作業のことを言うのです。

そしてすべての思い込みから解放された時に、人はマインドなど元々なかったと気づくことになるのですね。

知らないモノへの反応に注意する

私たちのマインドというのは、内部分裂することでその均衡を保っているとも言えるのです。

たとえば、この人と結婚したいという思いがあれば、同時に結婚したくないという真逆の思いも持っているのです。

ただしそのことに気づくことができるかどうかは別の話しです。この人を好きだと思えば嫌いもついてくるのですが、気づけないことがほとんどです。

知らない事柄に触れると、それに好奇心を刺激されることもあるし、反対にそれを毛嫌いすることもあるのです。

知らないモノや人に接して好奇心や冒険心が起きるのであれば、マインドの中の防衛は小さい状態だと言えます。

一方で、知らないモノや人に触れて、それを毛嫌いするのであれば、防衛が大きい状態なのです。

食べたことがない食べ物が出された時に、興味を持って一口食べてみるのは無防備であり、得体の知れないものは食べたくないと思うなら、それは防衛です。

食わず嫌いなどと言われるのがそれですが、私は大抵食べ物に関してはそちらの部類になります。

知らないモノや人に触れてどちらの反応をするのか、よく自分のマインドを観察してみるといいと思います。自分の防衛の特色に気づくはずですね。