瞑想を恐れる自我くん

瞑想はある人にとっては気持ちいい体験と感じるかもしれないし、またある人にとっては不安や恐怖を感じる体験となる場合もあるでしょう。

それくらい人によって感じ方が様々なのですが、その違いというのはどこからやってくるのかを考えたことがあるのです。

以前、セッションルームで瞑想会なるものを開いていたことがあったのですが、あるクライアントさんがその会にお友達を連れてきて下さったのです。

私はそのお友達の方とは面識がなかったので、でもご本人が参加してみようという気になったから来たのだろうから大丈夫だろうと安易に考えていたのです。

みんなで一斉に瞑想を始めて数分が経った時に、その方が急に立ち上がって玄関の方に出て行かれたので、トイレに行ったのだろうくらいに思っていました。

しばらくして、その人は部屋に戻ってきて、確か20分〜30分くらいで瞑想を終えたのですが、その人が言うにはトイレに行ったのではなく、帰ろうと思って部屋を出たそうなのです。

たまたま玄関の鍵を開けられなかったために、すごすごと部屋に戻ってきたらしいのです。その人にとっては、そのくらい瞑想が恐ろしいものに感じられたのです。

このまま瞑想していたら自分がどうにかなってしまいそうな気がしたらしいのです。つまり自我にとっては、ある意味命が危ないレベルの危機感を感じるのでしょう。

私はこうした自我の反応がとても興味深いのです。私自身の中にも、瞑想を怖がっているマインドの部分が確かにあるのです。

それが面白くて瞑想をしてしまうと言う面も実はあります。何にせよ、自我が強く反応することには、黙っていられないのです。

もしも仮に100時間ぶっ通しで瞑想をし続けたら、私の自我はどうなるのか考えるとちょっとワクワクしますが、実際にそんなことをするつもりは本当のところありません。だってこの私こそが自我なんだもん。

内側には静かで穏やかな悦びが在る

時々心静かにしていると、何とも言いようのない良い気持ちになることがあります。これには理由がないので、不思議な気がします。

理由なくやってきてくれているものなので、本当はずっと続いているはずなのですが、暫くするとどうも自分からそれを感じないようにしてしまうみたいです。

自我は理由のないものは嫌いなのかもしれませんが、何だか勿体無い気もします。何はなくともやってくるものが、気持ちいいものなんてラッキーです。

きっとこれは誰にでもあるものなのだと思うのですが、普段は外側からの強い刺激によってかき消されてしまっているのでしょう。

ちょうど大音量でハードロックに聴き入っているときには、小さくて可憐な鈴の音があったとしても聞こえないのと同じです。

瞑想しているときの至福感は、その鈴の音と同じようなものなのかもしれません。それはただ在ることからやってくる不思議な感覚。

意識が外に向いている間は、気づくことができないのです。すべての体験は外側で起きているものなのです。

内側にはその体験に気づいている何者かが在るだけ。その正体が至福感であり、それはとても静かで穏やかな悦びのようなものかもしれませんね。

常識と義理から遠い生活

毎日通っているスポーツクラブがあるのですが、そこで毎朝顔を合わすおじ様たちのうちの一人に、ワインをもらったのです。

たまたまサウナの中でワインの話しが出て、一しきり盛り上がったときに「美味しいので箱で購入しているワインがあるけど、いる?」って言われて。

正直なもんだから、飲んでみたいと言ったら本当に持ってきてくれたのです。陽気な方で、「うちはお金持ちなのでお返しはいらないよ」と半分真面目に言われたのです。

そこではたと気付いたのですが、口には出さないでいましたが元々お返しをするという発想が自分にはなかったのです。

ああそうかあ、こういうときには世間的には何かお返しをするものかあと気付いたのです。

私はずっと以前から、何かの貰い物をしてもお礼を言うだけで、それ以外のお返し的なことをしたことがないのです。

お返しのことを考えるくらいだったら、誰にも何も貰いたくないというのが本音なのです。相当に非社会的ですね。

子供の頃の方がよっぽど社会性があったように思います。そこそこ良い子をやっていた記憶があるので。

それを意識的にやめて行った記憶も残っています。常識とか義理とかそんなものに縛られたくないという気持ちが強かったのかもしれません。

今でも常識と義理は私の中心にはないですが、それでもこうして特に不自由なく暮らしていて、問題ないですね。

退屈の向こう側

マインドにはそれ自身の正体を見ようとすると、それを阻止するような仕組みが備わっているのです。

だから私たちは、マインドを深く見ることができないでいるのです。マインドは、その正体がバレてしまうと、とても具合が悪いことを知っているのですね。

たとえば何もせずにジッとしていると、退屈な感じがしてきます。疲れている時などは、何もしたくないのでそのままただ休養していることもできます。

けれども、充分に休息を取ってまた活力が出てくると、身体を動かしたくなったり、何かをしたくなるのです。

それをそのままに放っておくと、退屈で退屈で死にそうになるのですが、それは文字通り自我が死にそうなくらいに危機的状態になっているということなのです。

退屈というのは、そのままジッとしていると、下手をするとマインドの正体がバレてしまう危険があると察するからでしょうね。

だから退屈がやってきても、何もせずにいることができるなら、誰でもマインドの正体に近づくことができるのです。

瞑想というのは、そこに近づこうとしているわけですが、瞑想をしているという意識があるなら、それは退屈を避ける格好の手段となってしまうのです。

瞑想もせずに、真にただ無目的に何もせずにいるなら、退屈の向こう側に気づくことになるかもしれません。そのとき、マインドの真の姿を見ることになるはずです。

社会性と反社会性

こうあるべきだとか、こうすべきといったいわゆる「ベキ論」の中で生きている人は、それが正しさを利用した防衛だと気付かないのです。

正しいことは良いことだと思い込んでいるのですが、それで幸せになったり満たされることはないと知る必要があります。

それがどれほど正しいことだとしても、防衛である限りは必ずや自己犠牲が付きまとい、その結果は不自由で不満な人生がやってくるのです。

防衛というのは一瞬の安心を得るために、正直な自分を騙してみたり、あらぬ方向に強いてみたりすることで、反発を生み出すのです。

その結果、マインドの中が社会性の部分と反社会性の部分に分裂してしまうのです。その反社会性の部分がうつ症状を引き起こしたりするわけです。

防衛による一瞬の安心感を求めて大切な人生をつまらないものにしないためにも、マインドのカラクリを理解することです。

闇の深い自我こそ、こうあるべきとかこうすべきという正しさの中で過ごすのですが、闇が浅くなった自我はしたいかしたくないかをベースに生きるようになるのです。

そして最終的には、自我の消滅とともにそのどちらでもなくなるのです。そうなると、ある種の受動的な生き方になっていくかもしれませんね。

二元性の法則

私自身の体験としてすべてを実証したわけではないので、確証は持てていないのですが、どうもこの二元性の世界にはそれ特有の法則があるようです。

例えば、コインを何度も投げて表と裏の出る回数を比べてみると、投げる回数が多ければ多いほど、両者は同じ数になっていくのです。

このことは誰でも何となく知っていることですね。そうした法則が、その他の多くのことにも当てはまるということです。

何かを求めると、なにかを失うことになるのです。その求める気持ちが強ければ強いほど、失ったときのダメージも大きなものになるのです。

快楽を求めれば、不快が必ずやってくるのです。快楽を強く求めればそれだけ、強い不快がやってくるという寸法なのです。

勿論両者が交互にやってくるというわけではありません。コインを投げたときだって、連続して表が出ることだってあるし、その反対もあるのです。

求めれば失うの反対もあります。それは与えれば入ってくるという法則。与えるとその分失うと思いがちですが、実は与えると入ってきて増えるのです。

自我にとってはこの法則がどうも分かりにくいようです。もしもあなたがなにも求めなければ、失うことはなくなるのでしょうね。

改善と変容の違い

多くの人の自我が持っている欲望の中でも、特に面倒なのが自分を改善したいという欲望です。私はそれを改善病と呼んでいます。

綺麗な言葉を使うと、自分をもっと磨きたいであったり、もっと成熟したいとなったりしますが、要するにもっと素晴らしい自分になりたいというものです。

けれども、真に変容することを望んではいないのです。変容するとは、今あるあなたがある意味消えて、新しいあなたになるということだからです。

そのくらい改善と変容は異なるのです。セッションにいらっしゃるクライアントさんの本当の願いとは、今の自分のままで問題が解決すること。

今ある自分はそのままにしておいて、都合よく治したいところだけが改善されればいいと思っているのです。

ところが深く理解することができれば、それが不可能なことだと気づくはずなのです。今の問題を作っているのは今のあなただからです。

今のあなたの一部が死んで、生まれ変わることによってのみ問題が消えていくのですが、それを受け容れることができないのです。

そのくらい自我は自分を本当は変えたくないと頑に思っているのです。そのことを知っておくことは無駄なことではないですね。

本質に気づけば悩みは消える

私たちの苦悩の原因は、本当の自分ではないものを自分だと間違って信じ込んでしまったことにあるのです。

人は自分が少しも困っておらず、心に余裕とゆとりがあって気持ちいい状態でいられるときには、驚く程他人に対して寛大で親切なのです。

これは誰でもある程度は気付いていることですね。自分がハッピーでいられるときには、他人に対して思いやり深くいられるのです。

困っている人がいたら、自然と手を差し伸べようとしてしまうのです。それは決して良い人間になろうという思いからではありません。

私たちはそもそもがそういう存在としてできているからです。私たちの本質が表面化しているときには、誰もが慈悲深いのです。

ところが、自我が表に出ているときは完全に変わってしまうのです。自我には愛というものが分からないからです。

残念なことに、それこそが自分なんだと思い込んでいるわけです。なんで自分はこんなふうに汚い人間なんだろうとか、ダメな奴だと思って苦しむわけです。

自我というのは、良いも悪いもなくただ不安と孤独で成り立っているのですから、それをなんとかしようと踏ん張ってるあまりに、防衛だらけとなるのです。

それはそういうものだとしっかり見極めることです。その上で、自分の本質は誰かでいようとする自我ではなく、純粋な覚醒した意識だと気づけばいいのですね。

永遠の謎

まだ若い頃、哲学って面白いなあと思っていたことを覚えています。何が魅力かって、頭の中だけでずっと解き続けることができることです。

マインドというのは、難解なものを好む習性があるようで、ほとんど何の役に立つわけでもないけれども、謎解きは楽しいのです。

ただ間違いを起こしやすいのは、哲学的思索を追求していくことで真理に近づいていくことができるのではないかと感じることです。

誰にとっても真理というのは謎なわけで、その謎に挑戦することで興奮もするし、真理にいずれは到達するかもしれないという期待を持つのです。

けれども、そこにハマってしまう前に気づけて本当に良かったのですが、真理は哲学からはとてつもなく離れたところにあるのです。

というよりも、哲学を追求すればするほど真理からは遠のくのです。なぜなら哲学は思索であり、それは一つの思考の形に過ぎないからです。

どんな形の思考であれ、それが消えていった先に見えてくるものがあるのです。真理は思考が及ばないもの、永遠に謎である何かなのですね。

だから探究が無意味だと気付いたときに、探究するずっと前から目の前にあったもの、それが真理なのです。

褒められたい願望がある?

自分のことを「褒められて伸びるタイプだ」と言っている人がいますね。確かにけなされるよりは、誰だって褒められた方が嬉しいものです。

ところで、褒められるというのは、具体的にはどういうことなのでしょうか?単に肯定するというのともちょっと違うし。

例えば、ただ思ったことを言っただけで、相手が褒められたと感じることがあるとしたら、褒める褒められるというのは主観的なものなのかも。

100メートルを10秒で走る人に「足速いですね」って言ったって、言われた方は当たり前過ぎて褒められたとは感じないでしょうし。

ということは、褒められたと感じるのは本人が思っている以上のことを言われた時のことなのかもしれませんね。

こうして見てみると、褒めるとか褒められるというのはどちらにしてもかなり曖昧なもののようです。

クライアントさんの中には、幼い頃に親に褒められた記憶がないので、大人になった今でも褒めて欲しいという気持ちが強くあると言う人がいます。

意外とそういう人は多いかもしれません。実は褒められたいと願っている人は、幼い頃にしっかりと受け止めてもらえなかったはずなのです。

なぜそんなことが言えるかというと、受け止められた感がしっかりあると、別に褒めて欲しいとは思わないのです。

褒められたら一緒にけなされるがくっついてくるのを感じるからです。だからどちらもいらないということになるのです。

もしもあなたが褒められたい願望が強いのなら、自分のことをしっかり受け止める練習をすることです。

インナーチャイルドが受け止められて安心すると、それだけで褒めて欲しい気持ちが薄らいでくるはずですよ。