癒しとは

自分で自分の世話が充分にできないことを依存といいますね。赤ちゃんや幼い子供であれば、当然身の回りの世話はすべて親兄弟などにやってもらわねば生きていけません。それが、少しずつ着替えや食事が自分でできるようになり、徐々に自立の道を進んでいくわけです。

そしてこの日本では20歳にもなると、一人前の大人として認められるようになり、自立した一人の人間として期待され、そのように扱われるようになります。この社会では自立するということが、認められるための絶対条件であると言っても過言ではないです。

自立といっても、経済的な自立というのもありますが、トータルで言えば精神的な自立ということになるでしょう。しかし、大人になっても、幼い頃の依存心たっぷりの意識が残っていると、時としてまるで子供じみた言動をする人もいます。

一人では寂しくていられない、たばこや暴飲暴食をやめられない、不必要な買い物をやめられないなどなど、そういった様々な依存症で苦しんでいる方は沢山いらっしゃいます。あるいは、子供のように暗いところが怖いとか、いつも不安でたまらないなど、様々な不安症、恐怖症など、大人の自分の理性ではコントロールできないくらいに強い力でやられてしまうのです。

このように、ある面では自立しているのに、ある面ではまだ依存が強く残っているという場合、ご本人はかなり苦悩するはずです。こんな場合に、その依存部分を少しずつ自立させてトータルに自立できるようにしていくのが心の癒し(セラピー)です。

トータルな自立ができた人は、この社会の中で比較的楽しく生活していくことができるわけです。では、心の癒しというのは、精神的な自立がゴールなのかというと、実はそうではありません。

癒しとは幸せになることです。心の中の依存に苦しめられている人からみたら、自立できてる人はきっと幸せなんだろうと思ってしまうのでしょうが、自立=幸福ではないのです。少し前のブログでも書きましたが、真の幸福とは永続的な平安な心です。

自立していても、一歩外に出たら7人の敵がいると思っているのでしたら、それは決して安心してはいられませんね。いくら経済的に裕福であっても、高い地位や名誉を手に入れたとしても、ただ自立しているだけでは満たされるということはありません。

実は精神的自立の先に目指すものがあります。それは、自立している者同士が互いに助け合う、つまり相互依存の状態です。自立しているといっても、完璧な人間などどこにもいないわけで、そういった部分を互いに補い合うことがより成熟した人の進む道なのです。これはただ自立している状態よりも幸福度がより高くなるはずです。

そして、ついでなので更にもっと先があるということをお話しします。依存→自立→相互依存 ときて、その次は何だと思いますか?ここからは人間業ではなくなっていきます。それは、人間を超越した何かに対するスピリチュアルな依存です。

今私が興味を持って読んでいる「軌跡のコース」には、この最終目的地まで我々が進んで行くための方法が細かく書かれています。究極の幸せを目指すための実践方法が事細かく準備されています。

私は個人的には、この依存→自立→相互依存→スピリチュアルな依存 という道は直線ではないと思っています。極端な話、最初の依存状態の人が最後のスピリチュアルな依存へジャンプして行ってしまってもいいのではないかと考えます。

そういうことが本当に可能かどうか、それは今後のセラピーによって、分かっていくことだと思っています。いずれにしても、癒しの目的は最終目的地、つまり真の幸せな人生にすることです。その方法をみなさんと分かち合っていけたらいいなと思っています。

人生は自作自演

セラピストになってしばらく経ったときに、「人生は自作自演」というコラムを書いたことがありました。今読み返してみても、真面目に訴えている自分の姿が浮かんできますね。あの頃はまだ、自分の身に起こることは自分が起こしている、そういう考え方を採用してみましょうという表現をしていました。

つまり、何が本当で何が本当でないかなどということは、追求していったところで結局何も証明などできるはずもないので、ただ幸せになるためだけに、その考え方を使って生きてみましょうと提案していたのです。

これはある意味とてもスマートなやり方だなと今でも思います。理屈で幸せになれるわけではないので、幸せになるためのツールの一つとして使ってみて下さいよって言ってたわけです。そしてそれは基本的には今も変わっていません。

変わらないどころか、益々強くなってきています。それは、自作自演、つまり自分の身に起きることは自分が起こしている、というメカニズムについて以前よりも詳細に分かるようになったという変化が自分の中に起きているのが大きいかもしれません。 なのでこの自作自演というものがより一層自分の中に深く入り込んできたという実感があります。

それでも、昨日ブログで書いたような、スーパーな理不尽さとか、困った事態とかが身に降りかかってきたときには、この自作自演の法則を忘れてしまいそうになってしまいますね。でも例外はないとして、しばらくして復帰することができるのですが、リアルタイムで意識し続けるのはなかなか困難を伴います。

なおかつ、そのことが一過性のものではなくて、継続的に起きていることであると更に自分の思いがそれを発生させているとは、思いたくもなくなってしまうのは人情でしょうね。どうして自分がこんなことを…?と思って当然です。

それでもめげずに、また淡々とこの法則のことを思い出すのです。これを解決するのは、やはり自分の中にある愛をどれだけ与えられるのかということにかかっているのでしょうね。それができるようになってくれば、理不尽さも困った事態も何もなくなっていくはずです。

理不尽なこと

理不尽なことを見たり、聞いたり、経験したりしたことのない人はいないでしょうね。それどころじゃない、毎日必ず理不尽な目に遭ってるっていう人もいらっしゃるかもしれません。

実は最近自分の身にも理不尽なことが起きていまして、でも思うところがあってそれをむげに跳ね除けずにいるのです。こういう経験は記憶してる限り初めてで、今までの自分だったらほとんど考えもせずにその理不尽さを却下していましたね。ばっさり切るというか、容赦しなかったと思います。

その理不尽さは千人の人に聞いたら千人がそりゃ理不尽だと間違いなく言うくらいのスーパーなものです。こんなことがあってさあ、これって理不尽だと思わない?などと人に確認しなければならないようなものじゃないということですね。

理不尽さを前にしたときに、どういう反応をするかというのは人によってそれぞれ違いがあると思いますが、大きく分けて三つのグループになるのではないかと思います。

一つ目は、殊更反応しないで黙ってやり過ごす、あるいは相手の言うことをきくという人達。このグループの人の特徴は、その場を丸く収めたい、相手に不愉快な思いをさせたくないなどが強いのです。従って、知らず知らずのうちに自己犠牲を溜めていく可能性が大です。

二つ目は、一つ目のグループと反応に関してはほとんど変わらない人達なのですが、そこには自己犠牲がない、つまりその理不尽さを愛のパワーで溶かしてしまうことのできる人達です。これは理想ですね。

そして三つ目は、私が属するグループですが、はっきりとした拒絶ができる人達です。この人達は、ある意味自立できている人と言えるかもしれませんね。自分の意見がはっきり言えるのですから。

一つ目のグループの人達は、そうすると依存している人達だと言えるでしょうね。そして、二つ目のグループの人達は、癒しが進んでいる人達ということになりますね。一つ目と二つ目は表面的にはニコニコしていてそっくりなことが多いのですが、心の中は随分と違います。

一つ目のグループも三つ目のグループも出来る限り二つ目のグループへと向かえれば人生がとてもすばらしくなるはずです。分かりやすく言ってしまえば、この二つ目のグループの人達は愛に溢れているので、理不尽さを感じなくて済むのです。

理不尽さというのは、理屈に合わないことで自分が不利益となるような事態から、自分を守ろうとする心の状態が感じるものなのです。だから、愛で生きれる人たちは理不尽さを感じないでいられるのです。これって、すごいことですね。

というわけで、ノーを言うのはたやすいことなのですが、敢えてその理不尽さを愛で溶かして克服したくて、今まさにその中に突入しているというわけです。でも、長い間の癖でつい理不尽さを不合理だと糾弾したくなってしまう自分がいるので、油断できないです。

そしてなるべく早くに二つ目のグループの仲間入りを果たしたいなと思っています。だから、今自分にとって、この理不尽さというのは旬のものだし、成長するためにはぜひとも必要なものだと思っています。

価値のあるものとは

自分にとって、価値のあるものとは一体何だろうと考えてみたのですが、簡単に答えが出るものと思っていたのにもかかわらず、意外なことに結構悩んでしまいました。

思いつくに任せて挙げてみると、家族などの愛する人、家、愛車、仕事、お金、自分(自分の内訳は健康な身体、健康な精神)などが出てきます。

大きな目で捉えると、この地球、太陽、宇宙、空気、水、食べ物、動植物など。そして、もっと抽象的なものとして考えると、愛(思いやり、やさしさなど)、能力、自由、意欲、情熱、など。この抽象的なものは考えたらきりなく出てきそうなので止めました。

価値のあるものというのを、その時に自分が一番欲しているものと言い換えてみると、ある事情においては絶対これ、というものが出てきます。例えば、ぎらつく太陽の下で砂漠を何日か歩かされたら、水が一番価値あるものと思うかもしれません。

病気で苦しんでいる人にとっては、健康な身体が一番だと思うでしょうね。結局、自分にとっての価値というのは、その時々の自分の状態や立場などによって変わりうるものだと言うことが分かります。

しかし、物事をできるだけシンプルにしたいという昔からの自分の癖によって、できるだけ答えを絞り込みたいという欲求が出てきてしまいましたので、何とかしたいと思います。

で、考えたのが、自分がことさら欲しいと思うものには永続性が保証されるわけではないので、そういったものは価値のあるものからはこの際はずすことにしてみました。

そうすると、結局残ったのは、地球、太陽、宇宙などになってしまいました。う~ん、あまり面白い結果になったとは言えないですね。

自分が欲しいと思うもの、欲するものというのは、つまりは受け取る事を期待するものということになりますね。なので、敢えてその反対はどうかと考えてみました。つまりは、与えるものについての価値あるものを考えて見ます。

すると、情報、愛、知恵、勇気、慈悲、祝福、感謝などが挙げられます。ちょっとスピリチュアルな感じになってきました。ここまできて、ついに気が付いてしまいました。自分にとって恒久的に価値のあるものとは、与えることそのものなのではないかということに。

そして、何を与えるかといえば、上記したものをすべてひっくるめて愛という言葉で表現できそうです。ああ、そうなのかあ、自分にとって価値のあるものとは、結論は『愛を与える』ということになってしまうということですね。

じゃあ、その唯一価値あるものである、『愛を与える』がどれだけできているのか考えてみると、何ともお恥ずかしい気持ちになってしまいます。ここは一つ、本気でこの価値あるものを実践していかねばならないでしょうね。

みなさんも自分にとって、一体何が本当に価値のあるものなのか、一度真剣に考えてみるのは無駄なことではないと思いますよ。そして、価値のないものをできるだけ手放していくことも大切なことかもしれませんね。

スピリチュアルって

スピリチュアルという言葉が普通に使われるようになってどのくらい経つでしょうか。スピリットが霊という意味だとすれば、スピリチュアルは霊的なというところでしょうか。でもなんとなく霊という言葉は幽霊みたいなものを連想しやすいので、日本人にとっては英語の方が受け入れやすいのかもしれません。

悪霊などといういやな言葉もある反面、聖霊のように清清しいイメージを与えてくれる言葉もありますね。ちなみに、聖霊は Holy Spirit というらしいです。スピリチュアルカウンセラと呼ばれる有名人もいらっしゃるくらいですから、このスピリチュアルという言葉はかなり市民権を得たようです。

私は目に見えないものは信じない、と言う人は一昔前ならたくさんいたと思いますが、こういう言葉が普通に使われる時代ですから、最近ではそれほど目に見える見えないということに拘らなくなってきているのかもしれませんね。

実際、電気だって、磁力、重力だって、勿論心も目には見えないですが、その存在を否定することはできません。ただ、守護霊さんがいるかどうかは確かに定かではありませんが。自分の外側にどんなスピリチュアルな存在がいるかどうかは置いておいて、自分自身についてはどうでしょうか?

自分はスピリチュアルな存在なのか、それとも一見して分かるように物理的(肉体的)な存在なのか、はたまた両面を併せ持つような存在なのか。ここはいろいろ意見が分かれるところだと思います。どう思うかは個人の自由ですが、それによって生き方に違いが出てくることはないのでしょうか?

実際生き方の違いだけではなくて、癒しについても自分をどう見るかによって大きな違いが出るのだろうと思うようになってきました。ここの部分をこれから少しずつ、このブログで説明していきたいと思っていますので、ご期待下さい。

幸せとは何だろう

どんな問題を抱えたクライアントさんがいらしても、セラピーの基本的な目的はたった一つ。それは、当たり前ですがクライアントさんの大切な人生がより幸せなものになって行くこと、ただそれだけを目指してセッションをしています。

ところが、どういうわけか、残念なことにクライアントさんによってそうは思っていないという場合もあるのです。せっかくセラピーにいらしている張本人が、自分の幸せを望んでいないとはどういうことでしょうか?

勿論ご本人はそういった自覚はないのが普通ですが、何度かセッションをしていくうちに、そのことがはっきり分かってくるのです。幸せというのは、一般的に心が平安な状態であることを言います。悲しんだり、怒ったり、怖がったり、絶望したり、誰かを憎んだりしていない状態です。

このホンモノの平安というのは、安定していてずっとその状態が続いているという特徴があります。この永続的な心の平安というのが本当の幸せな状態であるのです。ところが、多くのクライアントさんが求めているのは、一時的な安堵感、安心である場合が多いのです。

この一時的な平安と永続的な平安とは似ているようで、実は全く違うものだと言えます。なぜなら一時的な平安というのは、例えて言えば戦争と戦争の間の一時休戦状態のようなものであるからです。これは幸せとは程遠いものですね。

そして大切なことは、この一時的な平安を求めている限り、絶対に永続的な平安(ホンモノの幸せ)は手に入らないということなんです。一時的な平安は、瞬間芸的なものですから、その時に安心していられればいいというものです。そして、その安心感は概ね自己防衛をすることで得ることになります。

一方、ホンモノの平安というのは、全くその逆で自己防衛をしない生き方をすることによってのみ得ることが出来るのです。どんな場合でも無防備でいられるような人はほとんどいないでしょうから、これは大変難しい生き方と言えるかもしれません。

セラピーを継続していくと、ひとりでに自己防衛が少なくなって行きます。これが心の癒しですね。また意図的にできるだけ防衛しないように生活していくということを進めていく必要もあると思います。

防衛しないでいれば、実は攻撃されずに安心を得ることができるんです。なぜそういうことが言えるのかについては、セッションの中で詳しくお話しさせていただいています。少しだけでも防衛が減れば、毎日の生活はとても過ごしやすいものに変化してくるでしょう。

いずれにせよ、まず、自分は幸せを求めてはいなかったということに気づいていただき、その上で幸せ、つまり永続的な心の平安を求めていくにはどうしたらいいかを明らかにしていく必要があります。そして、幸せをもとめなければ、決して幸せを手にすることはできないということですね。

ブログにしては、なんだかコラムのようになってしまいました。(汗)

奇跡のコースとの出会い

自分の中で今奇跡的なことが起こっています。それというのも、生涯で初めて、まじめに勉強を始めたからです。それは初めて、真剣に取り組むに値すると感じるものと出会えたからです。

学生の時から社会人になってもずっと一貫して勉強嫌いな自分がいて、仕方なく勉強をすることもあったのですが、そこには今のように学習したいという強い意欲は全くありませんでした。

それが、A Course In Miracles(奇跡のコース)という不思議な本(以後 ACIM と略します)と出会って、一変してしまったのです。元々本を読むことも好きではない自分が、一生繰り返して読み続けたいとまで思うようになったのは、まさに奇跡といってもいいと思います。

丸8年に渡って心の癒しをやってきて、何となく手詰まりな感覚とでもいうものがここ数年出てきていたのです。それを解消したくて、昨年外部のセミナー等に出て自分の癒しを兼ねて情報収集をし出した矢先に、この ACIM と出会いました。

今まで自分なりに信じてやってきたセラピーの方法が間違っていたとは全く思わないのですが、ACIM と出会ってから物事を見る世界観ともいうべきものが大きく変化し出したのです。今、それを自分のセラピーにどう生かしていったらいいのかを模索中です。

そしてセッションにおけるクライアントさんとの関わりに限らず、人とのつながりや結びつきにも、自分の中で少しずつ変化が起きつつあるようです。本当の癒しは、人との関係性の中に見出せるものだということが分かってきました。

自分が今そうした過渡期にあるのを感じています。その変化の足跡を残すため、そしてそれを是非分かち合っていただきたくて、このブログを始めることにしました。ずぼらなので、毎日更新できないかもしれませんが、気長にお付き合い下さい。