欲しがり屋さんを鎮めるには?

私たちが生きる社会とは戦場です。この社会の中で立派に戦って結果を残したいと思っているのです。時代背景もあって、特に男性の場合はそれが強いのです。

もちろん今はもう男女の差はなくなり、誰もが社会で活躍したいと願っています。他の言い方をすれば、私たちは「誰か」になりたいのです。

ところがその中の一定数の人たちは、社会で頭角を顕すことに興味がなく、目には見えない精神性の方に意識が向くのです。

彼らは下世話な社会などは欲の塊だとばかりに否定して、もっと高尚なことへと探求の矛先が向けられるわけです。

けれども求めていることにはどんな違いもありません。それが物質的なものであれ、非物質的なものであれまるで同じなのです。

その探求者が頑張れば頑張るほど、求めているものは遠ざかることになるのです。なぜなら、力を増した探求者が一番の邪魔者だからです。

探求者がいなくなった時、つまり求めることから解放されたときに、求めていたものがやってくるのです。なんとも皮肉なものですね。

早く寝なければと焦れば焦るほど寝付けないのですが、それを忘れてしまったときに自動的に眠りへと入っていけるのに似ています。

欲しがり屋さんのパワーを鎮めるのに一番効果があるのは、彼をずっと見守っていてあげることです。

彼と戦ってしまったり、彼に飲み込まれてしまえばそのパワーはずっと強いままとなってしまうことを知っておくといいですね。

自分という人物を観る

皆さんは、ご自身のことをどんな人物だと思っていますか?たとえば、早寝早起きで、律儀で、真面目などの言い方がありますね。

私は、自分がどんな奴かを表現しようとしたら、自分のマインドの中に棲んでいる、代表的な人格を挙げることにしています。

ちなみにこんな感じです。安心したがり、文句言いたがり、面倒臭がり、カッコつけたがり、恥ずかしがり、自由でいたがり等々。

このほかにもいるでしょうけれど、大体はこの程度で自分を表現できてしまうんですね。かなり単純かもしれません。

安心したがっている人は、その不安を残り少なくなってきた未来に投影していて、年金だけでは老後が不安だと言っています。

文句言いたがりは、普段通勤の時などに運転しながら他のドライバーや歩いている人、自転車の人などにいつも腹を立てていて笑えます。

面倒臭がりは、年季が入っていて何か用がなければテコでも動こうとしません。冷蔵庫に入っている炭酸を飲みにいくのもやっとの思い。

カッコつけたがりは、この年齢になっても健在で、腹の出っ張りをやや気にしているのですが、面倒臭がりがダイエットなどをやらせてくれません。

恥ずかしがりは、真正面から人の目を見るのが苦手ですが、セッションではそんなことを言っていられないので、克服されてるようです。

最後に自由でいたがりは、私の中では特別な中心人物なので、彼の存在を忘れたことはありません。今日も明日も彼がど真ん中にいるのです。

ざっとこんな感じのマインドですが、この人物との人生もかなり長くなってきましたが、それを観る側の自分との関係も定着してきたようです。

マインドとはプロセス

私は頻繁に「マインド」という言葉を使いますが、気をつけなければいけないのはあたかもマインドというものが在るかのような錯覚を与えかねないということです。

マインドは実在するものでは全くありません。肉体の中に心臓などの臓器が実在するのとは違うのです。

実在しないのですが、仕組みや働きとしてあたかも存在するように感じるだけです。言うなれば思考のプロセスです。

どんなプロセスかというと、欲望するというプロセス、あるいは防衛するというプロセスと考えればいいのです。

なかなかあり得ないことですが、もしもあなたがあらゆる欲望をなくしてしまったとしたら、欲望するプロセスが停止してしまうので、マインドも消えます。

同様にして、あなたが無邪気になって防衛することをやめてしまったとしたら、防衛するプロセスが停止してしまい、マインドも消え失せるでしょう。

つまりはあなたに今もマインドがあると感じるなら、欲望し続けているか、防衛し続けていると思えばいいのです。

マインドというプロセスが停止してしまった後に残るもの、それこそが本当のあなたの姿ということになります。それは純粋な目覚めた意識なのですね。

思考は見守り、感情は味わう

癒しと関わる以前の自分のことを思い出せば無理もないと分かるのですが、多くの人にとって思考と感情の関係について、詳しくは知らないままなのです。

最も身近な自分の内面のことなのに、あまりにも無知過ぎるのではないですか?と言いたくなる時、ああ自分もそうだったなと思い返すことにしています。

たとえば、感情というのはその多くは思考によって生み出されるものです。思考が原因となって、その結果として感情がやってくるのです。

もちろん、中には思考とは関わらずに感情だけが起きてくるということもあるかもしれませんが、それは例外だと思ってください。

仮に怒りの感情が湧いたとしたら、その前に惨めだという思考があったということを意味しています。

惨めだなあという思考によって、直接的にやってくるのは悲しみという感情ですが、それ以外にもその惨めさを覆い隠すために怒りがやってくるのです。

そして思考を緩めるためには、それを見張ること。見守ることができたら、思考は自然と穏やかになっていくものです。

一方の感情というのは、思考とは異なり強いエネルギーなのです。それはしっかり味わうことでしか、消えていかないのです。

思考は見守り、感情は味わう。こうした違いをしっかりと理解することによって、過去から解放された人生を生きることができるようになるのですね。

思考の特徴を理解する

頭の良い人というのは、私のような凡人では解くことのできないような難問でもスラスラ解いてしまいます。

もう少し簡単な問題だったら自分でも解けるはずなのですが、かといってあまりにも簡単過ぎると今度は面食らってしまい、やっぱり分からない。

簡単過ぎるのは実は思考にとっては不向きなのです。シンプル過ぎると思考がそれを取り扱えなくなってしまうからです。

これは思考の宿命でもあるのです。思考の働きというのは、ターゲットとなるものをあるがままにしておくことができないのです。

それをこねくり回して、美しいだの汚いだの、好きだの嫌いだの、その他あらゆる調理をした後で見ることになるのです。

そしてそうしたプロセスを一瞬にしてこなしてしまうので、私たちはそれだけ多くのことを思考がやらかしていることに気づかないのです。

思考がそのプロセスを放棄してしまうような事態、例えばビックリし過ぎるとか、シンプル過ぎるものを見せられるなどが起きると、思考は停止してしまうのです。

その時には、本人の意思とは無関係に思考が落ちて、強制的に瞑想状態になるということです。

瞑想するときに目をつぶるのは、視覚を遮断することでそういう効果を利用しているのですね。

思考の特徴について色々知ってみると、瞑想に入りやすくするための工夫ができるようになると思います。

たとえば、目を開いているのに何も見ない、どこにもピントを合わせない、眼球を固定するなども試してみるといいですね。

幼い自分を愛しく思えるか?

癒しを進めていく過程において、必ず通過することになる関門のようなものがあります。

それは、大人の自分が幼かった頃の自分をどう見ているかということ。そもそも癒しは、幼い頃の自分のことを意識するようになるところから始まります。

そして、その子のことをどのように見ているかを調査すると、あまり興味がないという場合もあるし、好ましく思っていないということもあるでしょうね。

心が病んでいる状態というのは、子供の自分と大人の自分が分裂していることを意味します。だから子供の頃の自分のことを否定していることも多いのです。

その地点から脱出するためには、大人の自分が子供の頃の自分のことをより身近に感じるようになり、その子を愛しいと思えるようになる必要があるのです。

そうなれば、分裂は小さくなって心のバランスが取れて、抑圧されている部分も小さくなるのです。

ただ、忌み嫌っているものを無理やり愛しく感じられるように強いることなどできません。

なぜ好きではないのかを丁寧に検証する必要があるのです。その原因が明らかになれば、自然と気持ちは変化してくるはずなのです。

防衛に気づくこと

私たち人間というのは、個として生きているのですが、そのためには結構エネルギーを使い続けているのです。

自分を放っておくことができたなら、個として生きることはできなくなってしまうのです。

自我がどうやって自我であり続けるかというと、他と戦うことによるのです。このブログでいつもお伝えしている言葉を使えば、自己防衛によるということ。

自己防衛が自我を存続させるのに絶対的に必要なのです。もしもあなたが自己防衛(戦い)をやめてしまうなら、自我はなくなり個であることはできなくなるのです。

個でなくなると、全体と一つになるのです。それが覚醒ということです。誰もが常に防衛し続けていると聞いても、ピンとこない人も多いかもしれません。

それは自我(マインド)のことをあまりにも知らな過ぎるからです。少し深く理解しようとすれば、防衛こそが個であることを維持する鍵だと分かるはず。

そしてこの防衛こそが、私たちが苦しんだり悩んだりすることになる原因なのです。なぜなら防衛は必ず自己犠牲を伴うからです。

自己防衛を少しでもやめていくためには、自己防衛をしているという自覚がどうしても必要になります。

だからまず自己防衛について理解を深め、その後自己防衛をしていることに気づくこと。できるだけリアルタイムで。

そこからようやくゆっくりと自己防衛を小さくしていくことが可能になるのです。是非深い理解と実践を繰り返していって欲しいと思います。

マインドは動画撮影できない

いわゆる筋トレというものには、大きく分けて2種類のものがあるのですが、一つはウエイトレーニングであり、もう一つが自重トレーニングです。

ウエイトトレーニングは一般的によく知られている、スポーツジムなどに置いてあるマシンを使ったり、バーベルやダンベルなどのフリーウエイトを使うものです。

そして自重トレーニングというのは、自分の身体の重さを利用してするトレーニングのことで、特別な設備などがいらない分手軽にできるメリットがあります。

この自粛期間中、何とか家で筋トレができないかと考えた人たちがたくさんいたらしく、自重トレーニングが静かなブームになっていたりします。

私もその一人で、スポーツクラブの自粛期間は家で細々と自重トレーニングをしたりしていました。

もちろん一人でやるわけですから、特に家の中にジムのような大きな鏡などあるわけもなく、自分がどんな状態でやっているのかを客観視できないわけです。

それでスマホを使って動画撮影することを思いつき、実際に撮影してみて驚いたことは、自分がイメージしているようにはできていなかったということです。

わからないものですね。自分の身体がどのようなフォームでやっているのか、あまりにもダサくてびっくりしたり。所詮人間とはそういうものです。

身体でもそうなのですから、内面なんてもっと分からなくて当然なのかもしれません。他人のことはよくわかるのに、自分のこととなるとまるで分からない。

かといって、内面を動画撮影して確認することなど不可能なので、やはりマインドを見るという練習がとても大切なことなのだろうなと改めて思うのです。

幼い自分に理想の親として接する

幼い子供にとって、親の存在とは一体どんな意味があるのだろうと考えてみると、主に二つのことが挙げられると思います。

一つは成長して社会の一員として生きていくためのあらゆる知識を教えてくれる存在ということ。

私たちは親を通して社会のことを学ぶのです。ここに何らかの支障があると、子供は社会の中でうまくやっていくことができなくなるのです。

そしてもう一つは、親は子供を安心させてくれる存在であるということ。自我(マインド)というのは、その生い立ちからして不安を抱えています。

その不安がなくなることは原理的にあり得ないのですが、それでも親が受け止めてくれることで子供は安心を感じることができるのです。

そうした親子の関係性ができてないと、子供はいつまで経っても不安を強く抱えたままでいるため、自らを安心させようとしてせっせと自己防衛に励むことになるのです。

その結果は必ず自己犠牲をため込むことになり、人生と戦うことになるのです。この二つの親の役割がバランスよく子供に与えられるなら、子供は悠々と生きていけるのです。

二十歳になったらもう、人生が苦悩に満ちていたとしても誰のせいにもできない、などというのはとんでもないまやかしです。

だからといって、親のせいにして自分は何もせずに何かを待っているだけでは、当然人生が好転することはありません。

子供の頃の自分の真実をできるだけ深く探ってあげて、そこに足りていなかったものを明確にしてあげて、それを大人の自分がイメージの中で与えてあげるのです。

そうやって子供の頃の自分が癒されていくことで、大人の自分も癒されていくことになるのですね。

癒しをライフワークに

今月に入ってから、ようやく自粛解禁となったスポーツクラブで、毎朝筋トレをする日々が戻って来たのですが、そこで分かったことがあります。

毎日コツコツ練習を積んでいるのに、それに比例して直線的に(つまり右肩上がりで)何かが上達するわけではないということ。

いくら努力したところで一ミリも変わらないことがずっと続いてしまい、ちょっと嫌気が刺して数日手を抜いたりサボったりすることもあるのです。

そんな時にフッとそれまでできなかったことが突然できるようになったりするのです。努力が直接的に成果に結びつくわけではないんだなと。

言ってみれば、何を頑張ってもずっと変化せずにいて、それでも構わずに続けていると、ある時突然成長するという、要するに階段式に進歩するのです。

もう一つ、これも私の実体験なのですが、私の場合癒しの進み具合もその階段式だった記憶があるのです。

熱心に癒しの作業をあれこれ続けていても、まるっきり何も変わらずということがずっと続くのです。

そろそろ諦めかけた頃に、突如として違うステージに行っている自分を発見してビックリするのです。そしてそういうことが繰り返されるのです。

癒しの進み具合というのは、きっと人によって千差万別だと思うのですが、シンプルに右肩上がりというのは稀なケースなのではないかと思います。

進み方の早い人の場合に多いのですが、三歩進んで二歩下がるような上下動を繰り返すような場合もありますね。

あなたの癒しの進み方がどのようなものであったとしても、諦めずに継続することです。月並みですが、癒しをライフワークにしてしまうのが一番かもしれないですね。