何にも影響を受けない中心点に気づく

人生を真っ直ぐ正面から見つめてみれば分かることですが、そのほとんどが苦しみや悩みや痛みでできています。

勿論嬉しいことや楽しいこともあるのですが、それはそうそう永くは続かないのです。残念ながらずっと幸せだと感じている人は殆どいないのです。

こうしたことには明確な原因があります。それはマインドに乗っ取られているからなのです。

マインドが何かを考えて、それに飲み込まれてしまうことがずっと続いているのです。マインドが作る物語の中にどっぷりと嵌まり込んでいるのです。

マインドはその元々の素性から、何か問題となることが必要なので、喜んでばかりいると苦悩や痛みを探してきてしまうのです。

ではどうしたらいいかということですが、次のことを実践してみて下さい。初めは難しく感じますが、そのうちに気付けるようになります。

あなたが何かを怖がっている時、何かの痛みの中にいる時、そういったことに全く影響を受けない部分があることを見出すようにするのです。

それは何が起きようと全く無傷だし、人生物語の主役だと信じている自分を違う次元からただ見ている自分が在るのです。

それは血しぶきが飛ぶような映画の壮絶な場面であっても、スクリーンは全く綺麗なままであることに似ています。

そして本当にありがたいことに、それこそが私たちの本当の姿だということです。心静かにしていられる時には、それを感じることは比較的簡単なのです。

ところが、痛みや苦しみなどに苛まれている時には、それを感じるのは相当に難しくなってしまいます。この体験を少しずつ何度も繰り返し実践することです。

私自身もまだまだその途上ですが、何か都合の悪い状況になった時でもなるべく、自分の奥の中心には全く影響を受けない部分があることを見る練習をしています。

あなたがこうしたことに興味を持って実践できるとしたら、きっと今回はものすごく恵まれた生を生きているのだと思っていいでしょうね。

罪悪感ほど不要なものはない

どこの親も子供のことをあれこれと心配するものです。これはもう親の仕事のようなものだと思っておいた方がいいかもしれません。

但し、どんな心配であろうともそれを表には出さずにおくべきです。自分の胸の中で密かに心配しておけばいいのです。

もしもそれを子供にぶつけでもしたら、子供は自己嫌悪、あるいは罪悪感を感じるようになってしまうのです。

自分の存在が親に心配をかけている、こんな自分はダメな奴だということで、自分を責めてしまうわけです。

そういうことが続くと、その子供は思い切り人生を生きることが難しくなるのです。何かをやっても罪悪感を感じ、やらなくても罪悪感を感じるというように。

逆に子供を言いなりにしたい親は、無自覚に子供に罪悪感を感じさせるように仕向けるものです。

コントローラーにとって、相手の罪悪感を利用するのは常套手段なのです。どんな暴力よりも、罪悪感の方が相手を奴隷状態にできるからです。

話を元に戻して、子供にとってありがたい親というのは、子供がなるべく罪悪感を感じずに成長できるようにしてあげられる親なのですね。

罪悪感というのは、どんな場合においても全く一ミリも必要のないものだということをしっかり理解しておくことです。

マインドを見渡す灯台もり

自分のことを一貫性のある人間だと思っているとしたら、あなたはマインドの全体を把握してはいないということです。

マインドに一貫性を求めるなどは、マインドがどんなものなのかを知らないからできることです。

マインドは激しく分裂しています。これは誰のマインドについても同じ。マインドは思考によって分裂することで成り立っているのです。

極端に聞こえるかもしれませんが、誰もがある種の多重人格者のようなものなのです。主人格が入れ替わるかどうかが、病的かそうでないかの境目ですね。

誰もがマインドの中にたくさんの人格(副人格)を持っていて、その瞬間に一番エネルギーの大きい人格がその人を乗っ取るのです。

催眠状態で子供の頃に退行すると、子供の話し方や泣き方になってしまう場合もあります。そうならなくても、子供の頃の感覚が戻ってきたりします。

マインドの一方は自立していても、もう片方では依存が残っているなんてことは多々あるのです。

そんな時大切なことは、自分は自立していると思い込んでしまうと、依存の部分が抑圧されていつか逆襲の憂き目に遭うことになるのです。

常にマインドの中をサーチライトで隅々まで照らしてあげるように、一人残らず見てあげることです。

それができて初めて、自我のエネルギーが小さくなっていくのです。逆にマインドの中の誰かのパワーだけで生きていれば、マインドは戦いの場となってしまいます。

あなたのマインドも例外ではありません。是非マインドを見守る灯台もりのような自分を作り出す実践をしてみてください。

苦手の奥に恐怖あり

人には苦手なものって必ずありますね。小学生の頃に運動が万能な男子がいたのですが、不思議なことに水泳だけが不得意でした。

苦手といえば多くの女性にやや共通していることかもしれませんが、虫系が苦手ですよね?あれははっきりとした理由は分からないようです。

私は幼い頃に近所に定期的にやってくるゴミ屋(今でいう廃品回収業)のお爺さんがすごく苦手でした。苦手というよりも顔を見ると怖くて泣いていました。

近くの子供たちは誰も怖がったりしないのに、私だけがその悲しげな表情やきっと苦渋を沢山経験してきたのだろう目つきが怖かったのです。

テレビで観たのですが、洋式トイレが苦手な男子がいて、家を建て直す際に洋式トイレにするというのを聞いて、和式がなくなるなら家を出るとまで言い出したのです。

家族は仕方なく、その子のためだけに洋式トイレの他に和式トイレを作ってあげたということでした。洋式トイレが苦手な理由は不明でしたが。

トイレと言えば、今では温水洗浄便座が普及していますが、私はあれがない生活など考えられないくらいに常用しています。

けれども、あれがどうも苦手な人もいるのですね。苦手な理由は定かではありませんが、きっと苦手意識というのは何らかの恐怖を持っているということでしょう。

苦手の本性は恐怖なのです。その恐怖がどうやってできたのかは過去を遡って詳細に見ていく必要がありますが、本人としてはそれも望んでいません。

いわゆる苦手が強くなれば恐怖症ということになります。どちらにしても、もしそれを克服したいなら、やってくる恐怖や不安から逃げずにできるだけ感じてみることですね。

完全には無くならないまでも、恐怖なら苦手に、苦手なら少し苦手くらいにはなるかもしれません。

自分(自我)に実体はない

自分と全く同じ肉体、同じDNA、同じ記憶、同じ経験を積んだ存在がいたとしたら、それはもう自分と区別をつけることができません。

けれども、私たちはその瓜二つの人を自分だとは思わないのです。当然、その人の方でも自分のことを瓜二つのもう一人とは分けて見るのです。

第三者から見たら、その二人を区別することは不可能なのですが、当人同士はそれぞれが自分ともう一人を明確に区別できるのです。

これは何を意味しているのか考えてみると、個人としての自分というのは身体や経験からくる記憶をベースにしているのではないということ。

ただし自分にまつわるあらゆる記憶を遮断してしまうと、自分がナニモノなのかは分からなくなってしまうはずです。

それでも、この自分がいなくなるということはありません。結果から言うと、自分というのは単なる思考に過ぎないということです。

思考が自他を生み出して、その両者を区別するわけです。だから自分という実体はないということです。ただの思考の働きに過ぎないのです。

その思考の活動が停止してしまえば、自分(自我)は消えてしまうのです。まるで、夢から醒めた途端に夢の中の自分が消えてしまうのと同じです。

それが私たち(自我)の姿なのです。ちょっと哀れですが、受け入れるしかありません。

でも安心して下さい。個人としての自分の背後に在る真の私たちの実在は、思考とは無縁の意識なのですから。それは永遠であり、生まれたり死んだりすることもないのです。

安心しようとして人を巻き込まない

誰にも平等に与えられているもの、その一つは「生まれて生きて死ぬ」ということです。これに異論がある人はいませんね。

このように誰にとっても死は確実にやって来るわけですが、生は生きることで占められているように錯覚していませんか?

生の中には当然死ぬことが含まれているのです。成長していくことと同じように死に行くことが起きるのです。

身体は成長することに対して必要な栄養を補給しようとするし、死にゆく時にはその準備として栄養をカットしようとするのです。

4年前に父親が老衰で亡くなったのですが、亡くなる1ヶ月前くらいから食事を摂らなくなったのです。

いたって元気ではあったのですが、このままじゃ歩けなくなると思って検査入院をさせたのですが、病院の食事もほとんど食べないままに入院後一週間で息を引き取りました。

家族としては心配なので点滴を打ってもらいたいと思うのですが、死ぬ準備に取り掛かっている身体はそれを望んでいません。

そんなことも分からないでいるのは、普段から死についてきちんと向き合って来なかったことが原因ではないかと思うのです。

私たちはもっと注意深くならなければならないと思うのですが、それは自分が安心しようとすることに他人を巻き込んでしまう可能性があるということです。

たとえば親は子供のことを心配するあまりに、あれやこれやと命令したり自分の正しさを押し付けようとしたりしてしまいます。

それは親自体が安心したいばっかりに、自分の不安から逃れたいがために、それを子供に投影して必要以上に手出しをしてしまうのです。

それが子供にとっては最悪の結果を生むということが分からないのですね。良かれと思ってやっているからです。

もっと注意深くなれば、良かれと思ってやっていることの裏側には自分がただ安心したいだけだということが隠されていることに気づくはずなのです。

不安から逃げたい気持ちは当然だとしても、それを自分以外の誰かを使って行おうとすることは、一刻も早く止めるべきですね。そのままでは誰も幸せにはならないからです。

人を羨む必要はない

「天は二物を与えず」ということわざがありますが、人によっては二物も三物も与えられているようなとても羨ましい人もいますね。

本当に神様ってずるい!不公平過ぎるだろうというわけです。けれどもここで冷静になって思い出して欲しいことがあるのです。

それは自我として生きている限り、決して満たされることはないという事実です。一時的な満足であればいくらでもあり得るのですが、それはすぐに何処かへ行ってしまいます。

何を得たとしても例外はありません。見るからに幸せそうと感じさせる人がたくさんいますが、そういう人の場合も同じです。

なぜ他人のことなのにそんなことが断言できるかというと、マインドの仕組みを深く理解しているからです。

マインドというのは、後天的に親(社会の代表者)によって組み込まれた人間クラブの会員になるためのルールのようなもの。

だから自我にとって社会の中で生きるためには、マインドはなくてはならない道具なのですが、残念ながら分裂という闇を抱えているのです。

このことを理解していれば、自分と比べてあまりにも恵まれていかにも幸福の絶頂の中にいるように見える人でも、さほど羨ましく感じることはなくなるのです。

もう他人の人生を見て、自分の人生を恨む必要はなくなります。私が唯一羨ましいと感じるのは、すでに自我を落としてしまった人。

ただしその人の中には、もう誰もいないので羨ましがる相手も不在になってしまっているのですけどね。

思考から離れて自分を見つめる

自分とは一体なんだと思いますか?多くの常識的な人は、自分のことを一人の人間だと信じています。

肉体は主に炭素からできているらしいですね。ではこれが自分だと感じている内面はどうなのでしょう?

内面についてはとにかく見えるものではないし、掴みどころがないため何だかよく分からないというのが本音だと思うのです。

そんなことよりもどうやって欲しいものを手に入れられるのか、どうしたら自分は幸せになれるのか、そっちの方を考える方が大事だと思うのかもしれません。

けれどもこの考えはとても表面的ですね。というのも、自分の存在を深く知ろうとすることで、人生に対する見方も一変してしまうからです。

どんな生き方をしてもそれが正しいとか間違っているということはないのですが、いずれにしてもいつかは自分自身を深く見つめる時がやってくるのです。

だったらなるべく早くそこに取りかかった方が有利ではないかと思うのです。この世界でどう生きるかよりも、自分とは何だろうに真剣に向き合うのです。

そうすることで、物事を深く見ることができるようになるし、真実とは何だろうという方向に向かうことになるのです。

まずは思考から離れる時間を作るようにしてみることです。それだけで何かが変わり出すはずです。

今突然強く雨が降ってきたおかげで、大きな雨音に四方を囲まれています。これがとても心地いい瞑想へと引き込んでくれます。

こうして静かな至福の中にいると、昼間の活動が遠い過去のように感じて、まるで夢の中へ消えていくような気がしますね。

「密着」を同行させる

意識的であるということを、もう少し別の表現を使って分かりやすくお伝えできないかと思って考えたのですが…。

「密着」というのはどうでしょう?テレビ番組なので、有名人の方の日常にずっとカメラが密着して、撮り続けるというのがありますね。

取材対象となる人があまりカメラの存在を意識せずに、仕事中であれ移動中であれ、あるいはプライベートの時間のリアルな姿を見せれるようにするわけです。

あの密着カメラの役を自分でやってもらいたいのです。普通に生活していれば、自分一人で生きているわけです。

ところが密着する側の自分を作れば、密着される側の自分と合わせていつも二人で人生を生きることになるのです。

もちろん密着する側は、その時その時の自分を至近距離で見つめるだけで、自分に対して判断したり評価したりは一切しません。

密着される側の自分もそのことを知っていることで、いつも見守ってもらえているような安心感を感じられるかもしれません。

さあ今日から密着を同行させて、毎日を生きてみませんか?あなたの素の部分がより明らかになってくると思いますよ。

人生は自作自演

日々の生活の中で、「これ時間の無駄だな〜」と思うことって結構有りませんか?深い見方をすれば、無駄などということは一つもないとも言えますが…。

そのレベルはさておき、自我のレベルで見れば、時間を無駄にしている、時間がもったいないと感じることがたくさんあるのです。

私が個人的に感じている「時間の無駄」ダントツ一位は何かというと、それは延々人のせいにし続けることです。

自分は悪くない、悪いのは周囲にいる人たち、自分はその人たちの被害者である。自分が不幸なのは、彼らのせいだというものです。

不都合なことや嫌なこと、困ったことなどの全てを他人のせいにしてしまうという、その時間が本当に無駄だと思うのです。

逆に幼い頃に、なんでも自分が悪いと思わされて育った人もいますが、そういう人は大人になって真実に気づけばいいので問題ありません。

本当に時間を浪費してしまっているのは、とにかく誰かのせいにするという姿勢、その生き方です。

そこから気づけるものが何もないのです。どんな考え方であれ、何かしらの気づきのチャンスがあるものですが、誰かのせいにしている限り何も得ることができないのです。

もちろん自分が悪い、自分のせいだということを言いたいのではなく、身の周りで起きることは自分の思考からやってくるのだということ。

10年以上前に書いた、「人生は自作自演」という題名のコラムがありますが、ああ懐かしい〜。今の自分じゃあれほど真面目に書けない。

もしも気になったらお時間のある時にでも読んでみてください。ルシッドのホームページのコラムというページにありますので。