瞑想をしない瞑想方法

もう大晦日になってしまいましたね。今年は、自分の中ではかなり瞑想の方法とか感触とかに、変化があった一年でした。

それまでは、ただ真面目にできる限り深く深くということを意識しながらの瞑想だったのです。身体の姿勢とかにも若干気を使ったりしながら。

ところが、一月に自分がいなくなる経験をしてからというもの、その真面目さが少し緩んでしまって、目を開けていることが多くなりました。

なぜなら、それまでの方法は結局自分のワールド全開でやっていたということが分かってしまったからです。それからは、なるべく瞑想すらしていないという瞑想へと変わっていったのです。

そして、つい先日体験したあの不思議な恐怖感。あれが本当にずっと続いていたとしたら、かなり深刻な精神状態になったのではと感じるのです。

自分のエゴがそれこそ根こそぎにされる感覚。あれから、ただ心静かにじっと座って何もしないでいるだけで、以前よりも静寂の中にいることが分かるようになったのです。

知覚が一気に広がっていき、時間のない瞬間のひだの中へと入っていくような感じがします。けれども、いたって普通の精神状態なのです。

これを書いているこの瞬間にも、それはやってきてくれています。瞑想への期待がとても小さくなったこともあるかもしれません。

そして来年に向けて、ちょっとばかり困ったことも出てきました。それは、以前からあったことなのですが、これまでずっと続けてきたごく普通の心理療法に、興味が薄れてきてしまったかなと。

クライアントさんが、手っ取り早くこの静寂の中に入っていく方法があるのではないかと。これまでも時々そう考えていたことがあったのですが、その度に無理だと思い知らされたのでした。

それがまた再燃し出したということです。思考が落ちる体験を一度でもしてしまえば、癒しへの態度が一変するだろうことが分かるからです。

来年は、ちょっと本気でそのことを考えてみようと思っています。勿論、それにはクライアントさんの協力、あるいは意識の状態が鍵となるのでしょうね。

今年一年ありがとうございました。来年もよろしくお願いします!

孤独から逃げずに内側を見る

人は例外なく本当は孤独なのです。孤独でない人はいないのです。なぜなら、個人として生きているつもりになっているからです。

生まれて2~3年すると、個としての自分がいると思うようになり、身体の外側は自分とは別の世界が広がっていると感じるのですから、孤独でないわけがありません。

ただし、優しい親に大切に育てられたり、仲良しの友達がいることで、何とかその孤独を感じずにいることもできる人もいます。

逆に、周りの愛情を感じることができなかったりすれば、それこそ額面通りの孤独感を常に持ったまま生きなければならなくなった人もいます。

ただどちらにしても、孤独は常に付きまとうものなのです。その結果、どれだけその孤独を感じずに生きることができるかということが、大問題となるのです。

そのために、人は恋愛をしたり、仕事に打ち込んだりするわけです。恋愛は人に打ち込むことだし、仕事や趣味に打ち込むのと少しも違いはありません。

宗教に打ち込む人もいるだろうし、仲間を増やして共に生きるを実践することで、孤独を紛らわそうとする人たちもいますね。

残念ながら、こうしたあらゆる対処は真に効果があるわけではないのです。つまりそうしたことをいくら頑張ったところで孤独が消えることはないということ。

孤独をなくす唯一の方法は、外側に目を向けることをそろそろやめて、内側をどこまでも見続けること。その深みを見ることができたなら、その時は孤独は自動的に消滅してしまうでしょう。

なぜなら、孤独とは個としての自分の存在を信じてしまったことから来る錯覚だからです。自己の最奥には何も無いことに気づく時、孤独はもう保てなくなるのです。

「自分のままでは価値がない」という信念

幼いうちに環境によってでっち上げられた自己イメージの中でも、「自分のままでは価値がない」という信念、決めつけが最もたちが悪いのです。

その信じ込みはまるで石のように固くて、ちょっとやそっとでは解すことはできません。このような間違った信念というのは、親の極端な条件付けが原因なのです。

残念なことに、幼い頃というのは親からの一方的な決めつけに対して、それを評価するどんな基準も持っていないために、ただただ信じることしかできなかったのです。

その結果として、「自分のままでは価値がない」という信念とペアのように持ってしまうものに、「親は絶対」という思い込みがあるのです。

多くの場合、この二つの信念は互いにお友達のようにして一緒に作られてしまうのです。この二つの力を利用して、親は子供をまるでモノのようにコントロールすることができるのです。

そうした親は、勿論本人自身がその親から似たようなコントロールを受けて育ってきているので、その方法を充分に熟知しているのです。

「親は絶対」という信念の方は、ある程度の年齢になれば自然と緩んできて、そんなはずはないという理性の方が上回るようになるのです。

けれども、「自分のままでは価値がない」の方は、癒しを進めていかない限りは、何歳になってもしぶとく居座り続けてしまうので、本人の人生をズタズタにしてしまいます。

ひどい自己犠牲の繰り返しと、その裏返しとして起きて来る鬱症状や問題行動がやってきて、どうにもならない状態へと持っていかれることになるのです。

もしもあなたが、「自分のままでは価値がない」という感覚を持っているという自覚があるのなら、それをそのまま放置しておいてはいけません。

その間違ったとんでもない勘違いを、間違いだと思えるようになるまで、継続して癒しを進めていく必要があるのです。独りでは難しい場合には、専門家の力を借りることも考えるべきですね。

ブラックホールに吸い込まれる?

ジ~ッとして、時間の流れのほんのすき間の中へと入っていく感じでいて、何もかもがまるでブラックホールへと吸い込まれて無に帰するようなのを一瞬感じて、驚いて戻って来てしまいました。

いつもの瞑想のあの心地よさとは、似ても似つかぬほんの瞬間的な体験なのですが、何かを怖いと感じている自分さえも消えてなくなる恐怖とでもいうのか…。

例えて言えば、血も涙もないという表現が近いのかもしれませんが、自分がよく知っている深みに入るあの瞑想とはまるで違っていました。

こんなのもあるんですねえ。私のエゴが足元をすくわれるような恐怖を本当に感じたのか、はたまたこれもエゴの作戦なのか、判断がつきません。

まあいいかぁ。今年もあとわずかとなりましたね。来年もエゴトリップに気をつけながら、瞑想を続けていくことになるのかな。

現実という名の夢

私たちは、夢と現実というのをいつも対比して見ていますね。夢は作り物であって、本物ではないと思っている一方で、現実というのは正真正銘の事実であって、動かし難いものだと。

けれども、夢が作られる成分と現実の成分は同じものなのです。その成分というのは、誰もが知っている思考です。どちらも思考によってでっち上げられたものです。

なぜ現実が思考の産物なのか?それは、私たちが知っているこの現実というのは、知覚によってのみ認識することができるからです。

そして、その知覚というのは外側からの情報と、それについての解釈によって成り立っているからです。その解釈の部分を司っているのが思考なのです。

解釈抜きに、現実を見ることはほとんど不可能なことです。目の前に、バラの花が一輪あるとします。これは現実としか思えませんが、そうではありません。

バラの花というのは、あなたの思考による解釈抜きには存在できないからです。このことをあなたが認識しているこの世界のすべてに当てはめてみればいいのです。

そうすると、あなたが実在すると信じているあなたの人生だって、思考によって創作されたものに過ぎないということを認めざるを得なくなります。

思考がないところには、どんな物語も存在することができないのですから。あなたが現実だと思っているこの世界の在りようは、すべてが夢と同じだということ。

この世界は夢だというのは、そういうことなのです。あなたは、その現実という名の夢の中でどんな生活をしている気になっているのでしょうか?

どうせ夢なら、気負わずに、戦わずに、自然体でただ楽しむことができるといいですね!

安心を求めれば不安がやってくる

きっと誰にでもある経験ですが、寝ようと意気込めばそれだけ寝付けなくなるというのがありますね。寝ようとする努力が却って睡眠への導入を阻害するわけです。

一番いいのは、寝なければという思いを忘れてしまうこと。そんなことはどうでもいいという心理状態になることができれば、自然と睡眠はやってきてくれます。

こうした皮肉は沢山あります。セッションをしていて、日々感じるのは安心・安全を求めれば求めるほど、不安でい続けることになるということ。

多くの人は、自分を幸せにしたいと表では願っているものの、その実体はと言えば、ただ安心していたいのです。安心こそが最大の関心事なのです。

だから、一瞬の安心を得ることはできたとしても、すぐにまた不安がやってきて、それは果てしなく繰り返されてしまうということです。

ではどうしたらいいのか?それは、不安をそのままにしておくということに尽きます。この世界というのは、元々何が起こるか分からない危険だらけの場所なのです。

だから殊更安全安心を求めることを潔くやめて、当然あるはずの不安の中に敢えてそのままにいるようにするのです。ずっと不安の中にいて対処せずにいる人は、逆説的ですが安心することになるのです。

信じなくていいですから、興味があったら実践して確かめてみることです。勇気がいるでしょうけれど、体験できたときにやってきた心の安定に驚くはずです。

人は誰でも探究者

人は誰でも探究者なのです。一体何の探究をしているかって?それは、自覚があろうがなかろうが、自分は誰か?自分とは何か?という探究です。

まさか、自分はそんな愚にもつかないことにはまったく興味もないし、そもそも自分は自分だろうが…、って思っている人がほとんどかもしれません。

けれども、究極的には誰もが自分の存在証明をしたくて、飽くなき探究を続けているのです。勿論、その形は千差万別ですけれど。

存在証明というのは、自他共に認めるこれぞ自分!というお墨付きをもらうこと。自己証明、つまり確固としたアイデンティティを得ることですね。

ある人は、この社会の中で人よりもよりお金を儲けることで、またある人はより優れた能力を身につけることで、あるいは人格を磨くことで。

そして、恋愛も実は根っこにそれがあるのです。愛されるということは、自己証明になると感じるからですね。誰かに愛されて、自分の存在を安定した確実なものにしたいのです。

そして、こうした存在証明の探究は生きている限り、ずっと繰り返されるのです。なぜなら、それで証明しようとしているものが、真の自分ではないからです。

偽物というのは、ずっとサポートし続けなければならないのです。放っておけば、すぐにでも化けの皮が剥がれてしまうからです。

逆にあなたの真実の姿とは、どんな努力も必要なくずっとそれで在り続けるだけです。そこに一体どんな証明の必要があるというのでしょうか?

外側の何かを使って自己証明することのバカバカしさに気づいた人は、その努力を内側へと向きを変えることになるはずです。

そして、直接的な自己探求へと進むことになるのです。どこまでもどこまでも、内側を奥深く進んでいけば、自分の真の正体と出会うことになるのです。

「無為自然」に生きる その2

昨日のつづきです。

昨日のブログで、人間だけが自然に生きるか、不自然に生きるかの選択権があるということを書きました。で、昨日とまったく違うことを書きます。

別の見方をすれば、その選択権があるかのように見えること自体が、自然の中で起きていることだと捉えることだってできるのです。

自然の中で動物の進化があるレベルまで到達して、人間が発生して、奇跡的にも意識を持つようになったと同時に、自我をでっち上げたのです。

自我は、自分には独自の自由意志があり、物事を選択する能力があると感じるようになったのです。その自由意志も含めて、自然の中で起きていることだと捉えればいいのです。

そうなってくると、自由意志はあるようでいて、実はないということに気づきます。このことは、脳神経科学の結論とも一致することになったのです。

やっぱりあなたは自然の一部だということです。なによりも、自我は架空のものなので、つまり自分はいるという思い込みに過ぎないので、不自然というものは存在しないと分かります。

じゃあ、老子が言いたかった真意とは何だろうか?それは、自我も自我が作ったこの世界も幻想だと気づくこと、それすら自然の一部で起きていることには違いないのですけどね。

「無為自然」に生きる

この宇宙、この世界というのは自然そのものです。植物も、あらゆる動物も自然に生きています。というよりも、自然にしか生きることができません。

そんな中で、我々人間だけが自然でいるか、不自然でいるかを選択することができるのです。これは、とんでもない奇跡かもしれません。

動物はトイレを我慢することは普通しないしできませんが、人間はトイレを我慢することは日常的にしていますね。お腹がいっぱいなのに、まだ意地汚く食べてみたり、食欲があるのに断食してみたり。

人間にとって、不自然に生きるということは物凄く魅力的なことなのですね。不自然というのは、人為的と言い換えてもいいですが、それはマインドの働きによるものです。

マインドは、不自然な生き方を選択すると、自分がいるという証明になると思っているのかもしれません。その不自然を落とすことこそが、老子が言った「無為自然」ということ。

独自の信念、独自の発想、独自の正しさ、こういったものを頼りにして、闘えば闘うほどにマインド(エゴ)は力をつけていくのです。

そうやって様々なものを手に入れた大人のマインドの中は、もうゴミだらけになってしまって、あるがままを見ることなど不可能な状態になっています。

そのゴミをゴミだと見抜くことができれば、不自然さが次第に緩んでくるはず。なぜなら、ゴミを取っておこうと思う人は誰もいないからです。

手放すなどと思う前に、ゴミ箱に捨ててしまうでしょう。その時、マインドの中は空っぽの状態へと戻って、無為自然に生きることになるのでしょうね。

夢を夢と見抜くには?

みなさんは、ルシッド・ドリームという言葉を知っていますか?日本語にすると、明晰夢というらしいのですが、要するに夢の中でこれは夢だと気づく夢のことなのです。

一般的には、夢の中ではこれが夢だとはまったく気づかずに、その夢の中で何かに必死になっていたり、いやな思いをしていたりと、深刻な状態が続くわけです。

苦しい夢であれば、これが夢だと途中で気づくことができたら本当にいいのですが、いくらそう願ったとしても目が醒めるまでは夢を現実と見てしまうのですね。

これはもしかしたら私だけかもしれませんが、時々自分にとって都合のいい夢を見ることもあるのですが、そういうときに限って、これって夢だよなあとどこかで思ったりするのです。

で、夢だろうが何だろうが構わないので、夢の続きをずっと見ていたいものだと思うのです。悦んでいるような夢の時ほど、それを現実だと思いつづけられた方がいいはずなのに…。

それでふと考えることがあるのですが、この人生が物凄く都合のいい状態で推移しているのなら、この現実は夢なのだと気づくことができるのではないかと。

大して満たされていないからこそ、もっといいことが起きないかと願うからこそ、この現実という夢の中にい続けてしまうのではないかと。

いずれにしても、あなたが自分の人生というドラマの主役として生きていると感じているものは、間違いなく思考がでっちあげた夢だということです。

夢から醒める方法は、夢であることを見破る方法はあるのでしょうか?それは、あなたがいるという幻想を見抜くことかもしれません。