今と現在の違い

マインドが活動を続けている私たちの日常では、時間の中で生きているように感じています。時間は思考の産物だと言われても、なかなか理解できないものです。

時間を過去、現在、未来と言う具合に三つに分けて考えるのですが、今という感覚も時間の一部だと思ってしまいがちですが、実は今は時間の中にはありません。

そのことを、言葉を使って説明すればすべてが方便になってしまうのですが、こんなのはどうでしょうか?

今とは、映画館で映画を鑑賞しているその空間のこと。

現在とは、その時上映されている、まさにその瞬間の映画の内容のこと。

映画のストーリーの過去現在未来という時間の流れからすれば、館内の空間及び観客は今という名の永遠となる。

私たちは、人生というストーリーを思考なく見守る観客にならなければならないのです。そのときに、初めて今という永遠の中に在ることになるのです。

無目的な瞬間を生きる その2

昨日のブログを書いてから、無目的な瞬間を自分なりに作ろうと思い、言葉では表現しづらいのですが、しばらくじっとしてから床についたのです。

しばらくして、突然目がパッチリと開いたと思った瞬間に、身体全体が何とも不思議な感覚になっていました。相当に怪しいビックリするような感覚ですね。

ただ最近では、そうしたことにも驚くことがなくなったし、以前はあった期待感も消えて、要はそういうのはどうでもいいと思えるようになったので、エゴの誘惑には乗らずに済むのです。

ただ冷静にその体験がなぜ起きたのかを考えると、やはり何の目的もない時間を過ごすと、エゴは相当に困るし、思考が行き場を失ってマインドが停止状態になるのかもしれません。

マインドが停止すると、気づかぬうちにあった身体への負担が一気に減少するのでしょう。それがこれまで経験したことのない感覚としてやってくるのだと思えたのです。

とても興味深い体験ですが、体験しているのは間違いなくエゴなので、そのレべルのものだということで、それ以上でもそれ以下でもありません。

ちなみに、仕事の合間に一人でいるときにも無目的の状態でいるようにしてみると、自分の本質が実存としてただ在るという感覚がゆっくりと浸透してくる感じ。

興味があるなら、是非工夫して実践してみるといいと思います。

無目的な瞬間を生きる

私たちの行動や行為、言動などは必ず何等かの目的を持っています。学校に行くのは、そう決められているからだし、大人になって仕事をするのは、お金を稼ぐため。

友人とお酒を飲むのは、憂さ晴らしかもしれませんし、テニスに興じるのは身体を動かして楽しむため。何であろうと、なぜそれをやってるか?と聞かれたら、○○のためと答えられるのです。

なんなんですかね、これって?たまには、聞かれてもまったく説明がつかないようなことをしてもいいのではないかと思いませんか?

説明できないこととは何でしょう?それは目的のないことです。どんな目的もないことを、誰かに説明することは不可能なことですから。

あなたの一日のうちの、ほんの数分でもいいから全く目的のない状態でいることができるなら、これは画期的なことになってしまいます。

最もシンプルな理由は、「そうしたいから…」だと思うのですが、それですら立派な目的があるわけです。無目的とはこれほど難しいのです。

私たちの周りに広がっている自然は、どんな目的も持ってはいません。バラの花は、目的を持って咲くわけではありません。植物だけでなく、あらゆる動物も目的を持たずに生きています。

人間だけが、目的を持たずに生きることができない。つまり自然に生きることができないのです。それは、不自然に生きているということ。

不自然は何と魅力的なことか。自然のままに生きようとすれば、つまり目的を失って生きるということになるのですが、それは自我(エゴ)にとっては致命的なことなのです。

だから、もしも自分のエゴと少し距離をとりたいのなら、無目的な時間を過ごすこと。不自然(人為的)な世界から抜けて、自然と調和する瞬間にこそ、永遠の至福が待っているのでしょうね。

今日の風に吹かれる

自分には、座右の銘などというものは全くないのですが、自分に合っていて気に入っている言葉が一つあるのですが、それは『明日は明日の風が吹く』なのです。

驚くことに、それが小学生の頃から少しも変わっていないのです。小学生の卒業アルバム?か何かの寄せ書きにもそれを書いた記憶があります。

ただし、その時は何を書いたらいいのか皆目分からずに、ふと思い浮かんだのがその言葉だったので、それをただ書いたという面もあります。

けれども、未だにその言葉が気に入っているということは、自分にとっての理想的な生き方をイメージすれば、それが一番近いという感覚があったのでしょう。

明日というのは、未来のことを意味していますね。まだ来ていない未来を心配したり、深刻に考えたりすることは何とも馬鹿ばかしい限りです。

それは重々分かってはいるものの、気が付くとこうなったら困る、ああなったらどうしようとあれこそ未来を予想して思考が止まらなくなったことは何度もあります。

未来のことは、そのときに生きている未来の自分に任せておいて、今を生きている自分は大切なこの瞬間を意識的に生きようと思うのです。

決してそれが正しいことだとか、高貴なことだとか、立派だということではありません。ただ、できるだけ身軽になって爽快な気分で今を過ごしたいだけです。

明日という未来のために生きるのをやめる。なぜなら、明日が今日になってみないと分からないことが沢山あるはずだからです。分からないことは潔く分からないことにしておくということ。

あなたが全身で感じられる気持ちのいいそよ風は、明日の風ではなくて今吹いている風だけだからですね。

真理は非論理的という理解 その2

昨日のつづきです。

昨日書いたヒーリングの授業ですが、実は生徒の8割以上が女性だったと記憶しています。女性は論理的な男性と違って、元々が非論理的な部分が多いのです。

だから、彼女らからすれば、先生の説明することに対して、私が抱いたような疑問も質問もなくても当然なのですね。そのことを理解していなかったのです。

女性の内面が男性に比べて非論理的ということは、男性よりも女性の方が真理により近いところで生きていると言っても過言ではありません。

私はずっと、何かを教わって質問がないということは、しっかり理解していないことの証しなのだろうと思っていたのですが、理解せずに進めて行かれる学びもあるということですね。

今となっては、はっきりと分かるのですが、真理に対するどんな質問も的を射てないということです。質問自体がどれほど頑張っても思考の内側に過ぎないからです。

それでも、思考(マインド)は理解したいのです。理解できないと、不安になってしまうからです。知らないということは、怖いのです。

真理を理解することは不可能なこと。深々と観念する以外ありません。こんなことは、女性にとっては当り前のことなのかもしれませんが、男性にとっては勇気がいることなのです。

女性の域に追いつくのに、男性は10年かかると思って間違いありません!

真理は非論理的という理解

15年ほど前に、ある人のヒーリングの授業を受けていたことがあったのですが、その時の先生にこんなことをみんなの前で言われたことがありました。

それは、「あなたはアナライザー(分析屋)です。分析ばかりしていると、ヒーリングの効果が落ちるばかりか、ヒーリングそのものができなくなってしまいますよ!」と…。

その先生が伝えてくれる内容が、どうにも訳が分からなくて、質問ばかりしていたからなのでしょう。仕舞いには、私が手をあげて質問しようとするだけで、会場がざわつくというはめに。

けれども、自分としては逆に何の質問もせずに先生の言いなりになるほうが、不思議な感じがしていたのです。今にしてみれば、そういう人がいるということも理解できるのですが、当時はさっぱり分かりませんでした。

私は分析屋と呼ばれても、何も怯むことはありませんでした。自分がものごとを論理的に考えることは、決して悪いことではないと確信していたからです。

その点に関しては、今でも少しも変わってはいないのですが、ただし、真理は非論理的なものだということにも気づいたのです。

そして、真に論理的な考え方ができるなら、真理が非論理的であるということも、論理的に導き出せるはずだという思いがあります。

論理的に突き詰めていくことで、真理は論理の世界では到底把握することのできないものだということに、論理的に行きつくことができるからです。

逆説的ではあるけれど、充分に論理的であれば、その帰結として真理は非論理的だということの理解がやってくるということです。

人生にゴールはない

私たちは、どんなことがあっても、どの瞬間においても、本質的には決して満たされてはいません。不満と欠乏感に悩まされているのです。

そして、それはまだ自分がそのような地点に到達していないことが原因だと考えているのです。つまり、生には目的地(ゴール)があって、まだそこに至っていないのだと…。

それが苦悩の慰めになっているのですが、本当はそんなゴールなどどこにもないということに気づこうとはしないのです。それは、あんまりだからです。

不満と欠乏感はどうやったって、変わらずに常にここに在り続けることになってしまうからです。これは絶望するしかありません。

だから、ゴールがあると信じ続けるしかないのです。ところで、ゴールがあると思ってしまえば、そこにはゴールへの道があるはずです。

道があるなら、その道を踏み外してしまう可能性が出てきますね。それが恐れなのです。その道を真っ直ぐに進んでいる人は、善人、聖人、徳を重ねた人。

逆に道を踏み外した人は、悪人であり、罪人というわけです。このようにして、空想のゴールへの道が、善と悪、正不正を作り出してしまうのです。

ゴールがあれば、それに近い人の方が価値があり、ゴールから程遠ければ、それだけ価値がないという判断も当然されてしまうのです。

人類の苦しみを作り出しているのは、生にゴールという到達点があるという思考なのです。本当は、生そのものがゴールだと気づくことです。

生は手段であると同時にゴールなのです。どこへも行く場所はないし、誰かになる必要も、何かをする必要もないということです。

到達するとか達成するという観念はゴミです。それが、今この瞬間よりも未来を大切に感じさせてしまうからです。ゴールがなければ、未来に意味はなくなってしまいます。

意識を今に戻すことができたなら、ゴールがあると思い込む要因となっていた不満や欠乏感が、未来とともに消えてしまうはずです。

理解を深める大切さ

かつてあるクライアントさんがセッションにいらして言うには、「実は素晴らしい本に出会ったんですよ。その本にね、こんないいことが書いてあって、ホント目から鱗でした~」と…。

その時私は、目から鱗ではなく目がテンになってしまったのを憶えています。というのも、そのことは何度も繰り返しセッションでお伝えしていることだったからです。

悪意がないのは分かっていたので、本当のことをお伝えすると、しばし??となってしまったのです。長くこの仕事をやっていると、こういうことはごく当り前になってしまっています。

元々、セッションでお伝えすることは限られた内容なので、セッションの度ごとに角度を変えて、言葉を変えて同じことをお伝えしているのです。

それは、分かったつもりでいても、そのような理解をもっと深めて欲しいと思っているからなのです。それは、決してクライアントさんの理解力の問題ではありません。

クライアントさんの中にあるエゴは、私の伝えるような内容を本人に理解されては困るために、あの手この手を使って本人が忘れるように仕向けるからなのです。

だから繰り返しによって、少しずつ理解を深めていくということが必要になることが多いのです。こうしたことは、勿論私自身についても同様に言えることで、それについてはっきりとした体験を何度もしています。

今朝ほども、思っていた以上に深まったある理解があるのですが、それは人生にはどんな目的地(ゴール)もないということ。このことは、自分の中でははっきりとした理解にすでに到達していると思い込んでいました。

けれども、今朝ある本を読んでいて、びっくりするほどに自分の奥深くへと入ったのです。その瞬間、何かが変わったのを実感しました。

どんなゴールもないということは、どんな期待もあり得ないし、未来も落ちてしまうということです。この言葉では、実体験を伝えることは不可能ですね。

分かったつもりで終わりにするのではなく、大切なことは繰り返し意識の上に持って来て、何度も理解を深めていくようにすることで、気づきがやってくるのですね。

ハムスターの回し車

手軽に飼える可愛らしい動物として、みなさんもよくご存じのハムスターがいますね。例のあの回し車の中をグルグル高速で走っている姿が印象的です。

彼らが何であの回し車を走り続けるかと言うと、あの小さな身体で何キロも餌を求めて走り回る習性があるらしく、狭い檻の中であれが唯一走り続けられる場所だと理解するかららしいです。

本人としては、餌を求めてどこまでも遠くに遠征してる気分になれているのかもしれません。それが何とも愛おしい感じがしてしまいます。

けれども、あの姿をじっと見ていると、何だか私たち人間の姿とダブって見えてきます。私たちも、何かを求めて遠くへ旅行に行ったりしますね。

何処まで行ったところで、所詮地球の円周上を動き回っているだけなのですが…。また、昨日よりも今日、今日よりも明日はもっと進化した自分になろうと頑張っています。

どれほど頑張って、どんな結果を残すことができたとしても、すぐに人生は終わりを迎えることになるのですが、そうするとまた生まれ変わってもっと自分を改良しようとする。

そうやって、あまたの人生が無限に続くことになるのですが、結果としてどこへも行くこともないし、本人も少しも変わらずにいつまでも人間をやっている夢を見続けているのです。

人間としての進化は、常に水平方向であって、本質的などんな変化もないということに気づかないでいるのです。人間から抜け出すことこそ、その夢を見破ることこそが、回し車からの脱出を意味するのです。

水平方向から垂直方向へのジャンプです。その時、あなたは人間であるという一時の悪夢から醒めて、永遠である本当の自己に出会うことになるのです。

期待すれば束縛される

欲望と聞くと、何となくネガティブなイメージがあるのですが、希望とか期待というとどういうわけかポジティブで明るいイメージを持つと思います。

けれども、よくよく考えてみると、何かに期待するということは、こうあって欲しいと願うことであり、そうなってちょうだいという欲望なのですね。

希望もその同類です。未来に希望を持って、生きていくことはとてもいいことのように思われていますが、本当でしょうか?希望だってぶっちゃけ欲望なのです。

だって、こうなったらいいな、こうなって欲しい、こうなってちょうだい!これみんな同じなんですから。つまり、「ちょうだい」のエネルギーということです。

それは愛のエネルギーでないことは明白です。外側の事象に対して、要求しているのですから。それがいいとか悪いということではなく、それは愛ではないというシンプルな話し。

もしもあなたが、未来に対してどんな期待も持たないという状態になったとしたら、あらゆる心の重荷から解放されてしまうでしょう。

大切なパートナーに対して、親に対して、かわいい子供たちに対して、全く期待しないでいられるなら、あなたは完全に自由な状態でいられることになるはずです。

たとえば、あなたが大切な誰かに対して、きっといつか○○してくれるという期待を抱いているとするなら、それを求める度合いに比例して、あなたは強く束縛されることになるのです。

一見すると、辛いことのように思えたとしても、潔くその期待をきっぱりと諦めるなら、その束縛から自由の身になるのは間違いありません。

それがどれほど心地いい楽なものか、体験してみないと分からないでしょう。もしもこのことに興味を抱いたのなら、これを信じることなく徹底的に実践してみることです。

期待のない爽快感を一度味わったなら、二度と忘れることはできなくなるはずです。