何事も信じてはいけない

セッションにいらっしゃるクライアントさんの中には、何か新しい知識を獲得して、癒しの足しにしようと考えていらっしゃる場合があります。

勿論、それは間違いではなくて、そういう面も確かにあるのです。それは、人のマインドとはこういうからくりで出来上がっているとか、自己イメージはこのようにでっち上げられるとか。

それはそれで大切な理解を得るわけですが、それでもそれは癒しのメインではありません。癒しの本質とは、これまで培ってきた知識や考え方などを徹底的に捨てることなのです。

あなたがこれは正しいと信じて生きてきた、あらゆる考え方、ものごとの捉え方などは、概ね癒しにとってのブレーキにしかならないということです。

前向きに生きるとか、人に迷惑をかけないようにするとか、冷静を保つなど、この社会の中では善さげに思えることでも、一旦すべてを白紙に戻すことが大事なのです。

この社会を作ったエゴにとっては、そうした正しさを武器として私たちをいつまでも翻弄しつづけようとするのですから。どんなことも信じることをやめること。

何も信じずに、興味があることを実践することでそれが自分にとって真実かどうかを自ら調べればいいのです。逆に信じた瞬間に、そうした検証を怠るようになるからです。

また自信を持つ必要もさらさらありません。不安でもいいのです。正しいか間違っているかも脇に置き、そうしたいかどうかに意識を向けるのです。

できるかどうかも大切なことではありません。エゴはできることにのみ、価値があると思い込んでいますが、それも信じる必要はありません。

あらゆるイデオロギーは、エゴのものに過ぎません。信念や信条を持てばもつほど、エゴは威力を増すということも憶えておくといいと思います。

ここに書いたことも信じることなく、自分なりに実証していくことですね。

真理の探究への道

誰かに、「具合が悪そうだね」と言われただけで、そんなことはないと思っていたとしても、何となく嫌な感じがしだしてしまった経験はないですか?

たとえば、朝起きて家族に「具合が悪いの?」と聞かれ、職場に行っても何度か同じようなことを言われ、夜友人にもまた言われたら、相当に具合が悪く感じるようになってしまうのです。

私たちは、そのくらい周りの人たちの言葉や反応に影響されやすいということです。きっと、それが自我が発生する最大の要因なのだろうと思うのです。

つまり、生まれてからずっと家族や周りの人たちからの、「○○ちゃんがここにいる」というエネルギー(思考)の波を浴びながら生きてきたのです。

その影響のせいで、知らず知らずのうちに、自ら自分の身体のあたりに「○○ちゃんがいる」という思考を作り出すことになるのです。

それによって、最初「○○ちゃん、お腹が空いた」から始まって、次第に「私、お腹が空いた」になって、めでたく自我の発生となっていくわけです。

赤ちゃんのうちに山に捨てられて、奇跡的にオオカミに育てられた少年少女がかつて発見された話しは、このブログでも何度か取り上げたことがありました。

彼らは、発見されたときには、自我を持っていませんでした。それは、私たちのように自我を持っている親のエネルギー(あなたがここにいるという思考)を浴びることがなかったからです。

結局、自分が居ない状態から始まって、自分がいるという思考を作り出して自我を作ってしまうことは、誰にとっても避けることのできないことだったのですね。

自我を作ることができなければ、この社会で生きていくことは不可能なことですから、それはそれでよかったのですが、その代償はあまりにも大きな苦悩だったわけです。

それを真正面から逃げずに見ることができる人は、おのずと真理の探究へと進んで行くことになるかもしれません。気づいた人は、もがき苦しみながらもそのような人生を送ることになる可能性があるということです。

時間感覚はエゴのもの

人によって感覚は違うかもしれませんが、私は子供の頃は一週間を物凄く長く感じていたのを憶えています。たとえば、大好きなテレビ番組を待つ時間がやたらと長い。

その番組を観終わった直後に、ここから丸々一週間も待たなければならないと思うと、気が遠くなるくらいに感じたものでした。

それなのに、当時父親が一週間があっという間に過ぎてしまう、と度々言っていたのを聞いて、大人はそんなもんなのかなあと思っていました。

それが今この歳になって、本当に一週間が矢のように過ぎていくのを実感しています。年齢によって、時間の感覚はこれほどまでに変化するものなのですね。

けれども、時間感覚はこれ以外にも大きく影響する要素があります。それは、快不快です。あるいは、苦悩と悦びと言ってもいいかもしれません。

苦悩が大きければそれだけ、時間は長く感じてしまい、延々と苦しまなければならないようになるし、逆に悦びの中にいるときには、時間はあっという間に過ぎていくように感じるものですね。

苦悩の中にいるとエゴが強くなるし、悦びの中では逆にエゴは希薄になることを考えると、時間感覚というのは、どうもエゴのもののようです。

それもそのはず、時間は思考の中にしか存在しないからです。思考が落ちて、純粋な意識だけになったとき、時間は消えて、永遠だけが残るのですから。

期待をなくすと身体が軽くなる

私はきっと変わり者なので、こいつは一体何をやってるんだろう?と思われても仕方のないようなことを、独りで時々実践しています。

先日も、未来に対して持っているあらゆる期待をなくすという、自分なりに考案したワークをやっていたときに、ふと初めての経験をしました。

それは、突然自分の身体が軽くなって、まるで浮いているような感覚になったのです。勿論、それは一過性のものであったし、それ自体はどうってことない経験でした。

けれども、それによって気づいたことがあるのですが、それは、私たちは知らず知らずのうちに、未来に対して期待をしていて、それが自分に対して大きな重荷を負わせているということ。

期待と重荷というものが、連動するようには一般的には想像できないのですが、経験上それが判明したのです。あの軽さは、完全なる自由の感覚からきたものだろうと思うのです。

如何に気づかぬうちに、不自由という重荷を背負って生きているかということですね。なぜ未来に期待すると自由が奪われてしまうのか?

期待があると、その期待が裏切られたときに、苦悩がやってくることを知っていて、もしかしたらそれが重荷になっているのかもしれません。

きっと覚醒するとあんな感じで身体の感覚自体も変化してしまうのかもしれないと思ったのです。あの軽さから戻ってきたときに、地球の重力は半端ないと感じましたね。

あなたは全体性そのもの!

いつもいつも、できる限りどんな時でも、全体性に意識を向けておくことが、とても大切なのです。その時、思考は止まり、エゴは活動できなくなるからです。

なぜそうなるかというと、思考には本来、無限というものを理解することができないからです。全体性とは、大きさが無限の「ひとつもの」のことだから、それは即思考停止を促すのです。

小学生の時に、分数と少数というものを習いますね。たとえば、1÷3を分数で表せば、1/3となり、少数で表せば、0.33333…と3が無限に続くわけです。

ここで、(1/3)×3=1という計算は成り立つのですが、0.33333…×3という計算は成り立ちません。なぜなら、0.33333…は無限に続くものだからです。

もしも、0.33333…×3=0.99999… のようにしてしまうと、1=0.999999…が成り立ってしまうことになり、計算結果に矛盾を生じます。

つまり、計算という思考の領域においては、無限というものを取り扱うことができないということです。今日言いたかったことが、ここでようやく言えるのですが。

無限である全体性を分割することはできないということ。割り算は全体性に対しては不適当だということです。決して全体性をいくつかの部分に分けるということはできません。

無限とはそのような性質を持っているのです。私たちの本質である全体性とは、そのようにしてただ、「ひとつあること」なのです。それは分離できないもの。

あなたは全体性の一部とも言えるけれど、全体性から分離した一部という意味ではないということ。なぜなら、全体性は分離不可能だからです。

あなたは、全体性そのものだということ!

<存在>は同じものを創らない

この宇宙には、厳密に言えば全く同じものというのは存在しないのです。ほとんど同じに見えたとしても、必ず違いというものがあるのです。

たとえば、地球上にあるバラの花の一つひとつをすべて比較しても、どれとどれを比べてみても、それぞれは完璧なまでにユニークなのです。

一つとして、色や形や大きさなどが同じものはありません。地球の歴史上どのバラを比べても同じことです。それほどに、<存在>は同じものを創造しないのです。

海岸にはそれこそ無数の砂粒がありますね。あの砂粒にしたって、地球上にあるあらゆる砂粒同士を比べてみても、やっぱり完全に同じものというのはありません。

それほどまでに、この世界はユニークなもので埋め尽くされているということです。それは勿論、あなたという存在についても言えることです。

宇宙の137億年の歴史の中でも、そして今後宇宙が存続する限りにおいても、あなたと全く同じ存在は決して現れることはありません。

あなたという存在は、奇跡的な現象として起きたのです。その完璧なまでにユニークなあなたを、もしも否定的に捉えるなら、それは見当違いというもの。

違いがあるということは、本当に素晴らしいことです。同じはつまらない。もしも同じものばかりだったなら、この世界はひどく陳腐なものになってしまうでしょう。

ユニークな自分を誇りに感じて生きることですね!

真理は非論理的

世の中で起きていることをよく見てみると、それには必ずはっきりとした説明ができるような理由があるものです。つまり、原因があってそれに対する結果が起きるということです。

たとえば、何かの植物の種が芽を出して、それが最終的にどんな樹になるのか、どんな花を咲かせるのかは、決して偶然決まるわけではないですよね。

その種の中には、精工な設計図が入っていて、その通りに花を咲かせるわけです。どんな単細胞な生物でも、人間のような複雑な生物でも、DNAという設計図通りに成長するのです。

科学者は、宇宙で起きていることはすべて原因を究明することで、その説明ができるとして頑張っているのですが、その一方で、決して理由を見い出せないこともあるのです。

私は、以前どんな理由もないのに感謝の気持ちがやってきて、どうしようもなくなった経験をしたことがありました。ただただ感謝がきて、圧倒された経験です。

それはごく普通に「○○してもらって感謝です。」というのとは全く違った経験でした。何かに対する深い信頼の気持ちも、理由を見つけることができないはずです。

理由のない感謝や信頼は、愛の別の呼び方です。本当の愛にも、それが湧き起る理由を探すことは不可能なことですね。それは突然やってくるのですから。

理由のないことは、マインド(思考)にとって非常に扱いづらいことなのですし、それこそが真理の一つの大きな特徴と言ってもいいのです。

理由があって、論理的に説明ができるものは、何であれ一過性のものであり、それは真理とはまったく異なるものなのです。

真理にはどんな理由もないし、非論理的なものです。だから、マインドは真理の中では息絶えてしまうのでしょう。真理ほど不条理で矛盾をはらんでいるものはありません。

それはただそう在るように在るのです。

幸福とは不幸との比較でしかない

世の中には、人も羨む幸せそうな人って沢山いるものですね。あの人は、才能にも恵まれているし、性格も外見もいいし、天は二物以上を与えてると。

自分もそこそこ幸せだけど、あの人には到底かなわない。そんな人がきっとあなたの周りにもいるはずです。けれども、その羨望や嫉妬は的を得てはいません。

たとえ、その本人が自分は今ものすごく幸せだと言ったとしてもです。それは、幸福感というものが、どこから来るのかということに目を向ければ明らかになります。

もしもあなたが、幸福感を持っているとするなら、それはあなたの中に不幸の種があるということを物語っているのです。つまり、幸福とは不幸との比較だということ。

比較なしには、何も感じないのです。あなたの身体が完全に健康であれば、あなたは健康を感じることはできなくなるのと同じことです。

頭が痛いときにしか、頭の存在を感じることができないのと同じこと。達成感は、まだ達成できてないときの感覚と達成した後の自分を比較するから起きるのです。

過去を見なければ、達成感はすぐに消失してしまうはずです。もしもあなたが、幸せを求めているというなら、それは間違いなく今の自分に不満を抱えているからです。

その不満は、実は求めている限り続いてしまうのです。結局、不満から解放される唯一の方法とは、何かを求めることをやめること、それ以外にはありません。

それでも求めてしまうのが私たちの実情ですね。それでも少しずつ求めるのを減らしていくことはできるようです。そして、あなたが過去や未来のあなたと今を比較しなくなったとき、幸福も不幸も消えてしまうでしょう。

それを至福と呼んだりしますが、それはあなたが至福を感じているという意味ではなく、あなたが消えて至福そのものが在るということ。

同化を解除する

私たちは、本当は自分がどこにいるのかを知りません。身体と同化しているので、大抵は身体の中にいるというように錯覚しているだけです。

で、私の場合は頭の中のちょうど目の後ろ辺りにいて、身体をコントロールしているというような感覚を持っているのですが、これは人によって様々なはずです。

ところが、あることをするとその感覚に変化が起きることを先日知りました。少し前に風邪をひいてしまい、その後遺症の咳が少し残っているのです。

その咳が出だしたときに、それを静める目的でハートのあたりに手を置くようにしていたときのこと。急に、目の後ろ辺りにいたはずの自分がハートの辺りにいるように感じ出したのです。

元々身体のどのあたりにいるかというのは想像でしかないのですから、変わったとしてもあり得ることではあるのですが、手を置く位置が影響するというのは面白い現象ですね。

試しに、先ほど存在の中心とされている下腹部の辺りに手を置いたところ、しばらくするとやはりその辺りに自分がいるような感じがやってきました。

興味があったら一度試してみて下さい。その感覚の変化は、すぐにはやってこないかもしれませんが、しつこく手を置きつづけていると、きっと体験できるはずです。

このことからも、身体との同化はなかなかしぶといものがあるということが分かりますね。マインドとの同化はもっと強力なはずです。

その二つの同化が解除されたとき、あなたは自分の本質に気づくことになるのでしょう。

事実とは思考の中にのみある

私たち人間の思考というものは、ずっと昔から変わらずにこの宇宙を説明しようとし続けてきたのです。思考の性分として、分かっていたい!というのがあるからですね。

そして不思議なことに、確かに思考による理解というのは可能なのです。ニュートンが発見した万有引力の法則だって、アインシュタインが見出した相対性理論にしても、なるほどという法則があるわけです。

そして今の所は非科学的なことであっても、ある程度の法則のようなものがあることは薄々分かっています。たとえば、思考が現実を作るとか、与えたものだけが与え返される法則とか…。

占いが当たるというのだって、考えてみれば不思議なことです。それでも、実は神の立場からすると、そんなことは知ったことではないのです。

思考がどれほど努力して、この宇宙を解明できたとしても、宇宙の統一理論を人類がいずれ発見できたとしても、依然として神にとっては無に等しいのです。

そしてそのことは、あなたが深い瞑想状態にあるときにも、まったく同じことが言えるのです。思考による理解は、ただそこに独自に物語を作り出しているに過ぎないからです。

私たちが事実だと信じて疑わないことも、本当は思考の中で物語として位置付けられているに過ぎません。地球が太陽の周りを回っているというのは、思考の中での事実です。

思考が落ちたとき、太陽も地球も存在しなくなるのです。ただ在ることへの気づきが在るのみ。きっとそれは神と同じ気づきなのだろうと。