本質には微分積分は役に立たない

微分積分という言葉を聞いたことがあると思います。実際に高校大学で勉強したという人もいるでしょうね。

言葉の響きがなんとなく専門的で、いかにも難しいことのように感じるかもしれませんが、その考え方はシンプルなものです。

専門家の方にしてみたら、当然と思われるようなことでしょうけれど、少しだけ素人レベルですが解説してみます。

微分というのは、実はこの世界の実情、その瞬間瞬間を記述するのに使うものだということです。

たとえば、ミサイルの弾道を計算するとき、あるいは星の動きを予想するなどは、微分を使わなければ分からないのです。

一方で、積分というのは微分によって記述されたこの世界の実情を読み解くために使う道具なのです。

たとえば複雑な形をした土地の面積を求めるためには、微分した面積の小片を寄せ集めることで正確な全体の面積を得るのですが、その寄せ集めが積分なのです。

人生も積分だと言った人がいるようですが、確かに過去の瞬間瞬間を全部寄せ集めた結果が今だとするなら、それは積分だと言えるかもしれませんね。

ただし、これは自我の考え方であって、実は私たちの本質は決して微分も積分もすることはできません。

なぜなら変化するものではないからです。変化がなく、永遠であれば微分積分は何ら用なしになってしまうのです。

自分は空っぽであることの証明

あなたが内側に入ってゆくと、ただちに頭が無数の思考を分泌する。とたんに膨大なエネルギーがどっと思考に流れこむ。あなたが内奥の<無>を見ることができないように雲を創りだす。あなたは見たくない。見入ることは自殺することだ–エゴとして、自己として自殺することだ。

by osho

もしもあなたが瞑想の類はすべて苦手だと感じているなら、この↑上の言葉にその理由がすべて書いてあります。

あなたの自我(エゴ)は、あなたの内側を見てもらっては困るのです。そこには、「見るな!危険」という張り紙が書いてあるのです。

万が一、そこを覗いてしまったならば、<無>という何もなさを見てしまうことになるからです。

例えば、あなたは自分のことを普通の血の通った人間だと信じています。ところが、重大な怪我をしてお腹の中を見てしまった時に、そこに内臓の代わりに電子回路のようなものがあったとしたら、驚くでしょう。

え、自分は人間だと信じて疑ったことなどないのに、もしかしたらサイボーグ?あるいはAI によるただのロボットだったのかもしれないと…。

内奥の<無>を発見してしまったら、もっとひどいことになるはずです。だって、空っぽだったと気づいてしまうわけですから。

自分がいないということをどうやっても受け容れられずに苦しむのか、あるいは苦しむ自分がいないので…、その先は分からないのです。

ということは、瞑想しようとして思考の大群にあからさまに邪魔されるなら、やっぱり自分は空っぽだったということを疑った方が良さそうですね。

「私」がなければ自然でいられる

私たちの自我というのは実体のあるものではありません。思考の束によって、構成されているだけなのです。

その思考がどこからやってくるかというと、それは幼い頃に周囲にいた親兄弟などの思考(自我)から来たのです。

このことをよくよく見つめてみる必要があるのです。私たちはどれほど IQ が高かろうと、自分で自我を生み出すことはできないのです。

そのすべてが周囲からやってきたものなのです。そんなもので「私」という自我が構成されているということを、自我自身がどうも認めたくないようですね。

自我は自分というのは独自の存在なのだと思いたいのです。仮に、外側の要素によって作られたとしても、一度できてしまった自我は自分独自の存在なのだと。

肉体はまるまる自然界のものだと分かっているくせに、「私」という自我だけは違うものだと思いたいのです。

自我に独自性などありません。自分が考えたと思っても、実はその思考も外側からやってくるものを脳がキャッチしたに過ぎないのです。

「私」がいるこの世界と、「私」がいないこの世界とで、どちらが自然な感じがするでしょうか?素直な気持ちでそれを感じてみるといいと思います。

無邪気さは喜怒哀楽と共にある

一般的に感情の上下が小さくて、安定している人は好まれる傾向にありますね。なぜなら、私たちは他人の感情には強く反応してしまうからです。

例えば大きい怒りを向けられたら、人は恐怖を感じてしまうし、大きな悲しみを表現されたらどうしていいか分からなくなってしまうのです。

だから感情的に安定している人が好まれるのです。けれども、人間には喜怒哀楽があって当たり前だし、それを感じられないなら生きているとは言い難いのです。

感情を感じないなら、それはロボットのようなもの。ネガティブな感情だけでなく、歓喜や感動のようなポジティブな感情も同時に感じられなくなるのです。

こうしたことはもちろん自己防衛からやってくるわけですが、そのことに本人も気づいていないこともあります。

気づかなければ、変わっていくことはほとんど不可能です。もしもそんなロボットのような親に育てられたなら、子供はどうなるでしょうか?

当然のこととして、やはり感情表現が苦手になってしまうのです。素直な感情表現をすれば、罪悪感を感じてしまうかもしれません。

あるがままの自分ではダメなのだという幼い頃の思い込みによって、こうした強い防衛が起こるのです。

できるだけマインドの仕組みを深く理解して、幼い頃に抑圧したままになっている無邪気な自分を取り戻すことですね。

信じれば投影する

自我は信じることを増やしていくことで、自分を確立していこうとするのです。強く信じればそれは信念となり、それが自我の後押しをしてくれるようになるのです。

そうなったら自我は最強です。誰がなんと言おうとその自我のワールドが絶対的なものに感じられるからです。

そして自我は信じているということをすっかり忘れてしまうのです。これほど好都合なことはないですよね。

忘れてしまえば、自我にとっての真実となってしまうからです。そこから抜け出すためには、まずは知っていると思っていることをよく見ることです。

本当は知らないということに気づいた人は、ただ信じていたに過ぎないということを理解するのです。

要するに何事も信じないことです。始めから信じないでいられるなら、知っていると誤解することもないのですから。

信じれば、必ずや投影することにもなるのです。そうなると、信じているものを外側に見出すようにもなって、より厄介なことになってしまうのです。

こうなったらやはり自分は正しかったという地点に行き着いてしまうでしょう。そうなったら、もう手立てがなくなってしまいます。

信じるものは救われる…ではなく、信じるものは投影すると覚えておくことですね。

苦しみは自我のもの

苦しみとか苦悩というのは、私たち人間だけにあるものではなく、動物にも同じようにあると考えるかもしれません。

私は小学生くらいのときに、飼っていたセキセイインコが悶え苦しんで死んでいく様を見ていたことがありました。

本当に苦しそうで、それでもどうしてやることもできずに、ただ動かなくなっていくのを見守るしかできませんでした。

けれども、実は動物というのは自我がないので、苦悩するということはないのです。肉体的な痛みはもちろんあるのですが、心理的な苦しみはないのです。

なぜなら、それは思考からやってくるものだからです。苦しみというのは、自我の期待が裏切られたりすることで作られるものなのです。

私たちは自分の自我が苦しむのを知っているため、それを相手に投影して見てしまうので、動物でも同じように苦しんでいると感じてしまうのです。

自我が作りモノであれば、それがこしらえた苦しみも作りモノです。惨めさも罪悪感もすべてが思考によってでっち上げられたものです。

自然界にあるのは、単なる快不快や痛みなどであり、それもいつかは消えていくものなのです。

もしもあなたの自我が消えていくなら、その時はどんな投影もすることがなくなるので、苦しみというものが実在しない世界を見ることになるはずです。

自我は生と噛み合っていない

私たちが大切に思っている自分の人生というのは、本当のところマインド(思考)が作り出したただの物語なのです。

自我にとっては、人生こそがリアルなものだと感じているのです。だから人生がどんなものになっているのかが重大事項なのですね。

誰かの人生よりも自分の人生が劣っていると感じると不幸になるし、その逆であれば幸福になるというわけです。

結局のところ幸不幸というのも、人生という物語の一部であるに過ぎないということになるのです。

けれどもマインドを静かにさせて、ゆったりくつろいだ状態でいると、人生という作り物よりも実在する生に意識が向くようになるのです。

その時、生と同調しているという実感がやってきてくれます。人生という虚構ではなく、リアルな生と噛み合っているという感覚。

これは自我には決して理解することができないのでしょう。なぜなら、自我そのものが物語の一部だからですね。

生には過去も未来もありません。今この瞬間がすべてであって、それと同調することで自分の本質を感じることができるのです。

自我にはどんな力もない

子供の頃から何となく分かっていたことがあるのですが、それは自然でないものなどないということです。

自然でないように見えるものはもちろんたくさんあります。例えば人間が作った人工的なもの。

大自然の中には、人間の手無くしてはマンションは建たないでしょう。それは当然のことですが、実はその人間も自然の一部なのでマンションも自然の一部。

子供の時にこんなことが言いたかったわけではないのですが、母親から言われたことに反論があったのです。

それは、「◯◯ちゃんはえらいねぇ、努力家で…。」と言われると、なんだか自分と比較されたみたいで嫌だったのです。

それで、努力できる子は努力できるように生まれてきただけだと突っぱねたのを覚えています。そればかりか、環境の違いも大きいと分かっていました。

つまり、〇〇の遺伝子を持って生まれて、〇〇の環境で育てば、結果として◯◯な子供ができるということ。

これは至って自然であり、当然のことだと思っていたのです。生まれ持った才能もあるし、後天的に身につけた才能もあるけれど、いずれにしても本人は自然の法則の元で生きているだけ。

そのことを親に知らせたくて言い返していたのですが、決して伝わることはなかったですね。単純に、屁理屈だと思われていただけなのでしょうね。

今ならもっと明確に表現できます。自我も自然の一部であり、自我が自然から乖離して独自の力を持っていると感じるのは、大きな間違いだということです。

私たちの自我にはどんな力もあるわけがないのです。あらゆる力は自然界のものだからです。であれば、あなたにはどんな手柄もどんな罪もないということ。

だからもっともっと気楽に生きればいいのですね。

自我は何も知らない

私たちの自我というのは、無数の思い込みが複雑に重なり合って保たれているのです。思い込みというのは、思考によって何かを信じるということ。

ところが自我本人は、そのことを知らないのです。自分は色々なことを知っている、知識があると思っているのです。

けれども、それは単なる思い込みでしかないのです。思い込みが更に強まれば、それはまさに信念になるのです。

自分の自我は、実はほとんど何も知らないということに、どうやったら気づけるのでしょうか?

知っているということが単に信じているだけだと見抜けばいいのです。本当に知っていることは、信じることができないのです。

知らないからこそ信じる、つまり思い込むことができるのです。自我は本当は何も知らないと気づいたときから、真実が身近なものに感じられるのです。

思考の世界からほんのわずかな間でも離れることができたら、自我は何も知らないということがもっと明確になるはずです。

何も知らないことに気づくと、自我は静かになるのです。ある種の降参がやってきて、落ち着くのです。

何も知らなければ、戦うことすら不可能になるからです。独り静かにいるときに、このことに意識を向けて見ることですね。

自由か安心か?

私たちは不自由を嫌っていますね。不自由は居心地が悪いし、疲労困憊してしまうし、清々しい気持ちにはなれないからです。

そのくせ、何かにとらわれてばかりいるのです。その結果、自由にはなれないと知っていながらも、どうしてもそこにい続けてしまうのです。

その理由は、自由よりも安心を優先してしまうからです。たしかに、自由でいようとすれば、危険が伴うのです。

自由気ままに生きようとすれば、誰かに否定されてしまうかもしれないし、嫌われてしまうかもしれないと考えるからです。

みんなと違う意見を言えば、総スカンを食ってしまうかもしれないし、そこそこ無難な道を歩みたいと思うのです。

自分に対しても、人に対しても嘘をつくとそれだけで不自由になってしまいます。自分のままでいられないのですから、当然のことです。

自由を犠牲にして、安心を手に入れようとしても、安心できたと思ったのもつかの間、またすぐに不安はやってくるのです。

その結果、安心も自由も両方を奪われてしまうことになるのです。不安を殊更恐れないこと。そうすれば、自動的に自由は転がり込んでくるのですから。

自分を縛ることになるすべての思考をただ見ること。そうすれば、その思考に飲み込まれて不自由な人生になることを避けることができるのです。