真実に「なぜ?」は通用しない

自我はどんなことにでも「なぜ?」という質問をすることができると思い込んでいるのです。

なぜ私たち人間には自我が備わっているのか?なぜ自我は防衛ばかりしてしまうのか?なぜ宇宙は膨張し続けているのか?

この「なぜ?」という問いに対して、答えが分かっていてもいなくても、確実にどこかに答えはあると言えるのです。

ところが、真実に対しては、この「なぜ?」という問いは意味を成しません。この問い自体が真実に対しては不適切なのです。

真実は、「なぜ?」という問いに対してどんな答えも持ってはいないのです。もっと言えば、「なぜ?」を包含してしまっているということ。

毎日の生活の中で、もしも「なぜ?」が全く通用しないようなことにあなたが出くわしたなら、それこそは真実の可能性があるということです。

理由があるようなことは、所詮は自我の範疇なのです。あなたが優しいから好きだというなら、それは自我の愛、偽物の愛ということです。

純粋な愛は真理そのものなので、そこにはどんな理由もありません。自我が消えると、なぜ穏やかさや至福がやってくるのか?

穏やかさや至福感は真理が持っている元々の特質であって、そこにはどんな理由もないのです。