親からの洗脳の深さ

かつてのオウム真理教のように、どんな常人であろうとも、一たび洗脳の餌食になってしまうと、通常の理性では想像もできないようなことをやってしまうことになるのです。

そうした恐ろしさを、私たちは知っていますね。洗脳というのは、理性ごと乗っ取られてしまうために、本人の中では間違っているということに気づかないままでいられるのです。

間違っていないと信じているのですから、それはもう何でもありになってしまうわけですね。そうしたカルト教団のような洗脳のプロに捕まってしまったら、自分は大丈夫だと思っていても本当のところは分かりません。

そして、本当に恐ろしい洗脳は、そんな新興宗教のような場所にあるのではありません。最も強烈な洗脳は、私たちのもっとも身近な家庭の中にこそ潜んでいるのです。

幼いころというのは、本当に無力なものです。自分の力では生きて行くことができないのですから。その時に恐怖を感じさせられながら、洗脳されたなら一たまりもありません。

その洗脳から抜け出すためには、それ相当の時間と経験が必要となるのです。ひどい場合には、結婚して実家を出て、子供の親となったとしても、抜け出られずにいる場合だってあるのです。

その場合には、本人は間違いなく実家のことを我が家だと感じ続けているはずです。結婚して新しい家族を作っていくその時に、心の大半は生まれ育った自分の親との家庭の中にい続けるのです。

洗脳する側の親というのは、全くその自覚がないのが特徴です。自分の子供のことを、ペットか何かのように扱うのです。可愛がるときには非常に可愛がり、歯向かって来ようものなら完全に否定するのです。

そうした母親は、自分の肉体から生まれた子供は、あくまでも自分の一部だという感覚を持っているのです。だから、子供を一人の存在として見ることができないのです。

その子供の立場になってみれば、毎日生きて行くのが精いっぱいなので、洗脳されることなど当り前なのです。どれほど、デリカシーのない言葉をかけられたとしても、そこで親と争うことはできないのです。

成長して、自分が受けてきた洗脳に気が付いたとしても、その洗脳の深さに本当に気づくには時間がかかるものです。もしもあなたが、洗脳されてきたという自覚があるのでしたら、焦らないことです。

焦ったところで、それほどの深い洗脳はおいそれと撤退してはくれません。時間をかけて、自分の中に沈殿しているあらゆる感情をしっかり感じきることです。

そうやって、次第に洗脳が溶けてくれば、そこでようやくあなたの人生が始まり出すのです。あなたが、あなたのままで生きて行くという、そんな当たり前のことが起きてくるのです。

三つの中心

考えないで感じなさい!と言われたことがあるでしょうか?私は、以前から論理的に物事を考えるのが好きでしたので、このような言葉をよく言われた記憶があります。

勿論今でも考えるということが生活の大半に使われているという事実を自覚しています。私たちは、何から何まで思考を膨らませて、思考の波の上をサーフィンしているようなものなのです。

私が今ブログを書いているという思いも、思考そのものなのですから。思考を使わなければ、ブログを書くこともできなくなってしまいます。

だから思考はとても大切で便利なツールですね。思考の中心に自我(エゴ)があるのです。つまり、私たちは思考の中心こそが自分自身だという認識をずっと持っているのです。

辛く苦しい感情を抑えるためには、考え事をするのが一番です。思考をフル回転させることで、感情を感じることなく過ごすことができることを、誰もが経験的に知っています。

考えないで感じなさい!ということの意味は、思考の中心にいる代わりに、ハートの中心に意識を持っていくことが大切だと言っているのですね。

大事な自分の感情を、あるがままに感じるにはハートの中心を開いてあげる必要があるからです。ハートを閉ざすことを自閉と呼びます。

自閉すれば、辛いことを感じなくなってその瞬間は都合がいいのですが、それは未来のあなたをあらゆる手段で困らせることになるのです。

出来る限り思考の中心から意識を逸らして、ハートの中心にいることです。例えば道端に咲いている花のあるがままの美しさを、ハートに感じさせてあげるのです。

そうすると、いずれはもう一つの中心へと意識が向かうことになります。それは、身体上の位置としてはお臍の少し下のあたりにあります。

そして、この中心こそが本質的に備わった私たちの真実の中心なのです。上の二つの中心は考えることと、感じることでした。この二つの中心は生後作られたのです。

一方で真の中心は、「ただ在る」という全体性へと繋がる中心であり、そこに意識が向かうことによってのみ、在ることへの気づきがやってくるのです。

自分の中心を思考を司る頭からハートへ、そしてハートからお臍の下(丹田)へと向かわせることです。瞑想中も丹田へと意識を持っていくと、静寂になりやすいようです。

知の道と愛の道

光明を得るための道として、互いに対極とも言える二つの道があると言われています。一つは、知の道であり、もう一つは愛の道です。

知の道とは、見ること、深く探求していくことによって、自ら自我の非存在さを見破ることによって、究極の境地へと到達する方法です。

それは、全身全霊をあげて徹底的にマインドの奥へと意識を向けていくことです。勿論、それは誰かと行動を共にしたとしても、本質的には孤独な作業となるのです。

そのために、様々な瞑想法がいにしえより考案されてきたのです。私たちが修行と言う言葉から連想するのは、この知の道のことですね。

そして、もう一つの道である愛の道とは、献身的に相手を愛することによって、究極へと到達する方法です。愛するものと愛されるものの二人がいながらにして、二人が一つになるということ。

知の道では、二人というものが消え失せて完全なる不二の世界しか残らないのに対して、愛の道ではどこまでも二人の存在があるのです。

相手を愛するあまりに、自我が自動的に稀薄になってゆき、結局はその非存在さを見破ることなしに、自我から解放されていく道なのです。

人は結局どちらかの道を進むことになるのですが、両方を同時に進むことは不可能なことです。なぜなら、両者の道はあまりにも真逆だからです。

自分は一体どちらの道を選ぶべきなのか、と迷うかもしれません。一般的には、男性性が優位であれば知の道が適しており、女性性が優位の人は愛の道を選ぶことになるのでしょう。

けれども、それはあくまでも一般論でしかありません。特に勘違いしやすいのは、あまりにも巷で瞑想がもてはやされているために、多くの人が知の道が自分にも適してると思ってしまうことです。

あなたの中の愛を再発見することで、愛の道が突然開けてくる可能性だって多いにあるということを忘れないほうがいいと思います。

癒しへの抵抗勢力

癒しを進めて行くと、いわゆる好転反応と言われる現象が起きてくることがあります。好転反応と言えば聞こえはいいですが、もっと簡単に言えば元の状態に戻そうとする強力な力であるとも言えるのです。

癒しによって、毒出しが始まると、この時とばかりに今まで溜め込んできたものが一気にどっと出だすということもあって、身体は悲鳴をあげてしまうこともあります。

そうなると、それまであまり体験したことのないくらいの肉体的な苦痛を味わうことになったりもするのです。それは、毒出しでもある一方で、その苦しみによって癒しを中断させるという目的もあるのです。

エゴが作り上げてきた生き方、自分を戦わせて苦しみの中に置き続けようとするやり方、辛く苦しい重荷を背負って険しい上り坂を登ろうとする生き方が緩んでくることを、妨害しようとするのです。

癒しは、エゴにとっては大敵だからです。エゴ自身の存続がかかっていると分かっているため、命がけで癒しを阻止しようと企んでくるのです。

私自身も何度もまんまとその餌食となったことがあります。私の場合は、いつも身体への苦痛としてやってくるのですが、人によっては身体に限らず精神的な面への影響もあるはずです。

人生を好転させるためとはいえ、ご本人の身になったらさぞ辛いだろうと思うのですが、それで癒しを中断するかどうかはご本人の意志に依ることですね。

癒しはいつでも再開できますので、焦らずに無理をせずにゆっくり身体を労わってあげることも必要なことです。潜在意識の中に組み込まれているエゴの機能は、相当に強力ですので、まともにぶつかったらひとたまりもありません。

そのことを、肝に銘じてよく覚えておくことです。だからといって、エゴを敵対視してはいけません。敵対視すること自体がエゴのやり方だからです。

エゴに対して一番いいのは、反応しないことです。エゴからの命令にそっぽを向き続けて、相手にしないことが最善の方策なのです。

例えば、エゴが投げかけてくる無数の思考に対しても、その存在をただ見ることによって、思考に巻き込まれないようにすることができます。

敢えて思考を止めようとすれば、それこそが新しい思考を生み出すことになってしまうのですから。エゴの存在をよく見て、それに気づいていて、それを相手にしないというやり方によって、エゴは確実に弱っていくものです。

苦しみを嫌悪しない

動物には、私たち人間のような精神的な苦しみというものがありません。彼らには、痛みはあるのですがそれを思い悩む意識がないからです。

それはある意味幸せなことですが、残念なことに自分には苦しみがなくて幸せだという自覚も同時にないのです。それが、無意識で生きているということです。

私たち人間は、動物に比べてほんの少し意識的な部分を持っているため、その分だけ悩み苦しむということが起きてしまったのです。これは、当然の結果なのです。

人間として生まれて生きて、苦悩がないならその人は動物に近い状態というしかありません。動物も人間の赤ちゃんも無邪気ではあるけれど、何の深みもないのです。

それが無意識というものです。意識的であるということは、この痛みを何とかしたいと思うために、必ず心理的な苦しみを伴うことになるのです。

だから、苦しむことを嫌悪してはいけません。楽しいだけの人生では、大切な気づきもやってこないのですから。苦しんでいる人は、それなりの美しさというものをまとっています。

発狂してしまえば、動物へと逆戻りするだけですが、苦しみから逃げずに自分に正直になっているクライアントさんの姿は本当に感動的ですらあります。

それほど愛おしい姿というものは、他にないかもしれません。そして、一つの苦しみが永遠に続くということも決してありません。この世界は絶えず流転しているのですから。

その流れの中で、自分の怒りや罪悪感と向き合い、決して逃げず、ひたすら正直でいることを通して、人は益々意識的な生を生きて行くことになるのです。

そして、いずれは常に意識的でいることができるようになるのでしょう。その時には、ようやく思い悩むということからも解放されるはずです。

それは、苦しみを知らない動物のようであると同時に、100%の意識そのものであるということが起きるのです。私たちの誰もがそうなるためにこの生を生きているのですから。

問題の本質を見る

自分の人生が満足のいくものではないから、もう死んでもいいんだけど、いや死にたいと思っているのだけれど、実際に死ねば身内の誰かに迷惑がかかるから死ぬこともできないと言う人もいます。

だから、仕方なく死ぬまでの間生きていなければならないと思っているのです。生きていかなければならないから、辛く苦しい仕事をして、生計を立てなければならないとも思っているのです。

けれども、それは間違いです。人は自分の寿命を決めることはできません。どれほど頑張っても、死ぬときには死ぬし、そうでなければどれだけ怠惰な生活をしても、死ぬことはできないのです。

だから、「生きて行かねばならない」という考え自体が間違っているということに気づくことですね。それはあなたが決めることではないからです。

生きて行かねばならないとして、生活を続けて行けば、必ずそれは不幸を招くことになるはずです。なぜなら、いやいや毎日の生を送っているのですから。

そのような否定的な気持ちが、否定的な人生を引き寄せることになるのです。あなたが、お金さえ手に入れば、面白おかしく生きていけると思うのでしたら、それも間違いです。

お金を稼ぐことが苦しみをもたらすと考えているなら、それが誤解なのです。お金が問題なのではなくて、本当の問題はそうした現実を招くことになる自分の生き方、信念、信条に問題があるのですから。

お金に困るのだとしたら、それはただの結果です。そこにばかり、意識を向け続けるならば、本当に見てあげなければならない、あなた自身の心の中を見過ごし続けてしまうでしょう。

人生に困っているのなら、それがどんなことであれ、その原因はあなたの生き方にこそあるということを、腹の底から認めてあげることです。

あなたが人生と格闘している限り、人生はあなたに冷たくし、あなたからそっぽを向け続けることになるのです。戦いをやめて、心底の本当の気持ちを受け止めることです。

あなたの深い部分は、きっとそれをずっとずっと待っているはずです。そうやって、自分と正直に向かい合うことができるようになったとき、エンドレスだと思っていた人生のトラブルが自然と消えていくはずなのです。

世代間のチェーン

いつの時代にも、そしてどこにでも怖い親というのはいるものですね。その怖さというのは、勿論その親が怒っている時のことですが、まるで人格が変わってしまったかのような怒り方をするのです。

幼い子供は、ただでさえビクついているはずなのに、いつもは頼りになっていたはずの親が激変してしまうのですから、その恐怖感というのは筆舌に尽くしがたいはずなのです。

そういう親に限って、過去に自分が子供にしてきた虐待のことを、ほとんど覚えていないのが通例なのです。あれほどひどいことをしていながら、覚えていないなんて、そんな都合のいいことがあっていいのだろうかと思うほどです。

けれども、本人は本当に覚えていないのです。なぜなら、実際に人格が入れ替わるようなことが起きているからです。怒りのモードに入ったときには、その親のインナーチャイルドの怒りに乗っ取られている状態だからです。

勿論、子供はそういうひどい怒られ方を繰り返すうちに、親のことを信頼することができなくなってしまいます。それは当然のことですね。

ごく普通の穏やかな親の状態であっても、いつ激変するか分からないのですから、どこかでいつも気を配っていなければならなくなってしまいます。

そうすると、親の顔色をいつも注意深く見ている子供が出来上がってしまうのです。子供は、親といて安心させてもらえるはずなのに、常に不安な状態になってしまいます。

その不安感は、大人になっても本人の心の奥底にこびりついて、何の理由もないはずなのに、生きていることそれ自体が不安だというように感じてしまうようになるのです。

激しい恐怖は、子供が怒りをきちっと感じることを妨害してしまいます。結果として、怖い親に育てられた子供は、知らず知らずのうちに、大量の怒りを溜めてしまうことになるのです。

その怒りは、大人になってから身近な人へと向かうことになります。もしもそれが自分の子供であったなら、自分がされてきたことと全く同じことを、今度は自分が子供にすることになるのです。

そうやって、世代間チェーンが続いていくのです。勿論どんな場合でも、そうした世代間チェーンが起きてしまうということではありませんが、その可能性が高くなるということです。

誰かが勇気を持って、自らの癒しをすることでそのチェーンをぶった切ることができたなら、自分より下の世代は救われることになりますね。

もっともっと意識的になる

もしもあなたが、自分の心の中に何等かの不都合を抱えているとしたら、それはチャンスなのです。大切な何かに気づくチャンスがそこにあるのです。

私たちは、誰もが辛く苦しいことよりも、より楽でゆったりとした心の状態でいたいと望んでいますね。けれども、何も支障のない人生がもしもあったとしても、それは薄っぺら人生になってしまうはずです。

心理的な苦しみというのは、他の動物や赤ちゃんには存在しません。その苦しみを多く味わった人には、それなりの深みのようなものが備わるのです。

楽しくて幸せなばかりでは、何千年かかってもあなたの本質に気づくことはできないでしょう。でも、それでいいじゃないと思っている人もいるかもしれません。

赤ちゃんは苦労がなくて、羨ましいなあと思っている人もいるかもしれませんが、そういうあなたは本当に今の自分を捨てて、すぐにでも赤ちゃんになりたいかと問うといいと思います。

きっと赤ちゃんには戻りたくないと言うはずです。なぜなら、赤ちゃんは確かに苦しみを持っていません。しかし、苦しみがなくて、幸せだとしても、そのことに気づくことすらできないのです。

今の自分がとても苦しいから、その苦しみから逃れたい一心で赤ちゃんに戻りたいと一時的に思うことはあるかもしれませんが、ずっと赤ちゃんのままでいたいということはないのです。

あなたがどれほど苦痛の中にいようと、あなたは意識的な自分でいたいのです。意識的であるからこそ、苦しみを知ることになったわけですが、それでも意識的であり続けたいと思っているのです。

私たちの深い部分には、そうした願望があるのです。意識を奪われたくはないのです。でも、現状はどうなっているかと言えば、私たちのマインドの一割程度しか意識的ではありません。あとは、すべて無意識の領域なのです。

誰もがいずれは、マインドの全部に光が当たり、完全なる意識の状態へと遷移することになるはずなのですが、残念ながら多くの人たちは、大変な道草をくっているばかりで、何世にも渡って無意識を貪っているのです。

勿論、私自身もその一人です。もっともっともっともっと意識的になることこそ、真の至福、永遠の至福こそが自己の本質だと気づいていく唯一の道なのですね。

重い荷物も険しい道も不要

セッションにおいて、クライアントさんは場合によっては、私から今までの生き方を全否定されたと感じることもあるかもしれませんね。

これは決して意地悪ではなくて、そのくらいオーバーに表現しないと、心底伝えたいことが伝わらないと感じているからです。当り前ですが、本当は何も否定などしていないのですが…。

クライアントさんは、これまでも自分のやり方で精一杯頑張ってきたんだし、それで充分にうまく行ったこともあったのだから、たまたま今うまく行かなくなったことが治ればいいのだと思っているのです。

けれども、クライアントさんがこうして今セッションにいらしているというのは、決して偶然やたまたまではないし、これまでの生き方からの当然の帰結だということを、理解してもらう必要があるのです。

問題を解決するということにばかりに意識が先走ってしまうと、その問題を作り上げている自分の生き方の方にこそ、最大の原因があるということを認めることができなくなってしまうのです。

問題をいくら眺めても、どれほどそれまでの自分の努力の仕方で頑張ったところで、何も変わることはないのです。何よりも守っていたい自分の正しさ、信念、信条、そういったものがすべての原因だと気づかねばならないのです。

このままではいけない、こんな自分のままではダメだ、もっと頑張ってこうならねばと、思えば思うほど都合の悪い方向へと益々進んでいってしまうのです。

あなたがやってきた方向とは、180度違う考え方を採用しなければならないこともあるのです。とても勇気がいることですが…。

本当に癒しというのは、皮肉なものですね。癒しにおいて、一番邪魔なのはこれまであなたが培ってきた常識や、考え方の正しさなのです。

そこに気づくことができた人は、あっという間に癒されていく可能性が高いのです。でもそれは、自我にとっては恐怖以外のなにものでもないのですから、そうそう易々とは受け入れることができなくて当然なのです。

それでも、いずれは誰もが自分が守ってきたもののくだらなさに気づく時がやってきます。そして、無駄に背負ってきた重い荷物や、自分が設定した険しい上り坂などを、お払い箱にすることになるのです。

その時は、なんとも言えない清々した気持ちになることでしょうね!

マインドとの同化

私たちは、誰もが何者でもない状態で生まれてきて、しばらくすると自分と身体を同化するようになっていくのです。つまり、自分はこの身体なのだと思い込むということです。

生まれてすぐに個人となるのではなく、この身体との同化を起点として、一人の人間として生きていくことが開始されるのです。

そうして、その次には気づかぬうちに自分のマインドとの同化が起きてきます。自分のマインドこそ、自分自身である、自分の中心なのだという同化です。

そして、意外かもしれませんが、どちらとの同化がより強力かと言えば、それは間違いなくマインドとの同化なのです。最近、それを身を持って経験しました。

いつものように瞑想していると、ふと鏡に中に映った自分の姿が自分の中心からかなり離れた場所に移動したように感じたのです。

その時、まだまだマインドは自分の中心に位置していたのですが、どういうわけか自分の身体をベースとした自己イメージ(自分の外見)が、自分の周辺の方へと遠ざかったのです。

これはちょっとした驚きでした。普段、あまり鏡に映った自分の姿を見ることがないので、自分の外見が意識に上ることも少なくなっているのですが、まさかこのような感覚になるとは思ってもみませんでした。

勿論、目を開けてしまえばすぐに元の状態へと戻るのですが、目をつぶってしばらくするとその感覚はやってきます。やはり、一番面倒なのはマインドなのですね。

マインドはクセモノです。それも相当な。マインドの中に「私」という存在がいるのかどうか、いくら探しても見つからないのに、それでも「私」はマインドの主のような位置にいるのです。

もしもマインドとの同化を見出して、身体と同様にそのマインドが自分の中心から周辺へと移動することが起きたなら、きっと本当の自己が、何とも同化することのない真実の自己が見つかるはずです。

そして、見つかる寸前に視点が変化して、それこそが自己の本質であると気づくのでしょうね。