正しさを使わずに生きる

昨日のブログで、マインドの機能の1つである「習慣」を如何に使わないように生きるかということについて書きました。

習慣は私たちを無意識の方へと導いていくし、より自然に自由に生きることを妨害するのです。

もしもあなたが、自分の中にある正しさ、イデオロギー、こだわり、主義主張を優先して生きるなら、確実に全体性の感覚から遠ざかることになるはずです。

正しさというのは、全体があなたを通して起こす事象に反対したり、制限したりすることになるのです。

なぜなら、全体性(自然)には正しさというものがないからです。正しさとは思考であり、自我はそれを自己防衛のために利用するのです。

正しさは誰のマインドの中にも必ずあるものなので、それを消し去ることはできないのですが、それを使わずに生きることは可能なのです。

それは、マインドが正しいか正しくないかを考え出す瞬間に気づいていてあげられるなら、そこに乗っ取られずに済むからです。

習慣から抜け出すには?

人工知能の発達とともに、クルマの自動運転の開発が急ピッチに進んでいるようですね。私のクルマも、高速道路上での一車線内では自動運転が可能です。

もちろんまだまだ完成度は低くて、自動運転とは名ばかりであって、あくまでも運転補助のレベルなので、ハンドルには手を添えてなければ警告を受けます。

ただ長距離を運転する場合には、補助であってもかなりの疲労軽減には繋がるものと感じています。

私たちのマインドにも、この自動運転に近い機能が備わっています。それは、放っておくと同じことを無自覚に繰り返すのです。

それが「習慣」ですね。習慣とはある面ではとても便利なものです。毎回毎回考える事なく、身体が自動的に動いてくれるわけですから。

けれども、一方ではそれが大問題を引き起こすことにもなるのです。それは、やめようと思っても、それが習慣化してしまった場合は、簡単にはやめられないからです。

良い習慣も悪い習慣もありません、習慣自体が問題なのです。それは、習慣によって無意識的な時間を過ごしてしまう可能性が高くなるからですね。

逆に言えば、習慣から抜けるための最も効率的な方法とは、できる限り意識的であるように心がけるということです。

意識が自分自身に向いているなら、習慣が発動しようとする瞬間にも気づいていられるため、それに飲み込まれずにいられるからですね。

「個人」という妄想

我々人間が体験するあらゆる天国や地獄、そのどれもこれもが例外なく自分は個人だという思い込みからやってくるのです。

ここをしっかり理解することができると、悲喜こもごもの人生ドラマを単なる思考が創った物語だと気付くことができるのです。

ここを深く理解しているかどうかで、その人の内面に大きな違いができてくるのです。単に生きて死ぬのか、それともすべてのからくりを知るのか。

大切なことは、あなたの人生に何が起きたのかではなく、あなたが何なのかということに意識を向けること。

あなたがどういう人物でどんな過去を持っているかではなく、今この瞬間にあなたの仕組みはどうなっているのかを見ること。

その仕組みは、あなたそのものではなく、社会の一員として生きるためにでっち上げられたものでしかないということ。

「個人」という妄想が生まれなければ、幸不幸もなかった代わりに、意識が目覚めるという奇跡もなかったのかもしれませんね。

思考を見守ること

セッションでクライアントさんに、瞑想したことがありますか?とお聞きすることがあるのですが、興味はあるけれどやり方が分からないという方が多いですね。

たしかに難しく感じるかもしれません。それは、無念無想のようなことを連想するからでしょう。

瞑想というのは、思考を止めるということではないのです。思考があなたの世界を創り、あなたの人生という物語も創るのです。

その物語の中には、沢山の苦しみが散りばめられています。そこから解放されるためにも、思考を止めることが最善だと思うのです。

けれども、実は思考が悪者ということでは決してありません。問題は思考に飲み込まれるということ。

思考を止めようとすれば、そのことすら思考は物語の一部にしてしまうのです。思考を止めるのではなく、思考を見守ること。

見守っていられるなら、思考に乗っ取られることはありません。見るということによって、その対象との間に隙間ができるからです。

瞑想は無念無想になるのではなく、やってくる思考を見守り続けることなのです。その意識を持って、瞑想の時間を少しだけでも作ってみるといいと思います。

真実を見分ける力

先日、珍しく少し大きめの荷物が届くのを待って、午前中から自宅で待機していた時のことです。

玄関のチャイムが鳴ったので出てみると、期待していたのとは違って、奥様風の女性二人が立っていました。

もしやと思っていたら、案の定例の「エホバの証人」の方々でした。どうやって帰ってもらおうかと思案している間にも、二人のうちの一人が話しかけてくるのです。

組織化された宗教には全く興味がない旨を伝えても、そう簡単には向こうも引き下がらないのです。

もう一人の方は、やや後ろに控えていて、どうも先輩について来た感じで入信間もないといった雰囲気なのです。

少々面倒だなとは思ったのですが、存在の本質について少しお話ししてみると、よく喋る先輩の方ではなくて、後ろにいる新米さんの方が一瞬反応するのです。

ああ、もしかしたらこの人は何かを感じてるのかもしれない、そう思ってもう少し突っ込んだ話しをしてみたのです。

真の宗教とは、完全に個人的なものであり、他の誰かと共有できるようなものではないということ。

すると、やはり先輩の方は全く聞く耳を持っていない感じなのですが、新米さんはちょっと目が輝く感じがしたのです。

彼女はまだ既存の宗教に毒されていないのでしょうね。いつか、どこかのタイミングで思い出していただけたら嬉しいなと思って、ドアを閉めさせてもらいました。

存在を意識する

人と人は存在と存在として見ることができれば、必ず対等であろうとするものです。存在を上下に見たり、ランクづけすることは不可能だからです。

けれども、幼い頃から対等ではない関係として親に育てられてしまうと、関係性は常に上下のあるものとなってしまうのです。

たとえば、親が子供を支配する関係であれば、親が支配者で子供は奴隷となってしまうわけです。

その子は、大人になっても下から目線でしか他人を見ることができなくなってしまうのです。

またその逆に、親が奴隷となり、子供が王様あるいは女王様となって育てられてしまうケースもあります。

その場合、子供は常にイライラしていて自分でも何を怒っているのか気付くことができません。

自分の願いはなんでも叶う筈だとの勘違いをするのですが、その反面奴隷となった親は言いなりになるだけで、決して受け止めてはくれないのです。

それが怒りの正体ですね。このような子は、社会に出てから、自分で何とか行動修正しようと頑張るのですが、相当な困難を経験するでしょう。

いずれにしても、対等な関係を作るのが難しいと感じるなら、存在を意識する訓練をすることが役に立つはずです。

自分の本質とは?

私たちの身体は数十兆個の細胞から出来ていると言われていますね。初めはたった一つの受精卵が、繰り返し細胞分裂をした結果なのです。

分裂をしながらも、それぞれの細胞は身体のそれぞれの器官となるべく、その姿を変えていくわけです。

あるものは脊髄に、またあるものは皮膚に…。そうやって、最後には今あるあなたの身体全体を作り上げたのです。

と同時に言えることは、その細胞の集大成である身体が自分そのものだとはとても思えないのも事実ですね。

細胞はあくまで細胞でしかないからです。身体は確かにいつだって身近なところにあるのですが、自分とはもっと別のものだという感じがします。

では思考はどうでしょうか?私たちは考えることができますが、考えている私が思考そのものではないというのも明らかです。

私たちは感じることもできますし、気持ちや気分を持つこともあるわけですが、どれもこれも自分自身だとは思えませんね。

結局これでもない、あれでもないとやってきて、残ったものは何でしょう?それこそが自分の本質ということになるはずです。

それが気づいているということ。意識が目覚めている状態。だから大きさも色も形も位置も、何もないのです。それが何もなさですね。

ああ、なんて清々しいのでしょう!

怒りをあるがままに感じる

動物と違って、私たち人間は怒りがやってくるときというのは、何らかの物語の中にいるのです。

動物は自我を持っていないので、どんな物語も持ってはいません。ただ、瞬間瞬間に起きることに反応しているに過ぎません。

ところが、人間だけは必ずまず物語があって、その中で理不尽なことが起きたり、自分が惨めだと感じると怒りが出現して、その惨めさを蓋しようとするのです。

だから怒りを感じるためには、物語を作っている思考が必要ということになるのですね。とはいうものの、やってきた怒りそのものは思考ではありません。

それは感情であり、ハートで感じるものなのです。だから、怒りを額面通り、そのままに感じることができるなら、思考は自然と停止してしまうのです。

ハートが全開になっていながら、思考が活動するということはできないことだからです。

ところが、怒りがやってくると、すぐに思考を使うことで、物語の中にはまり込んで、怒りは憎しみや恨みつらみなどへと変化させてしまうのです。

こうなると、怒りはなかなか消えることはありません。結局、溜め込んだ怒りのエネルギーに見合った現実がやってくるということになるのです。

怒りを感じる時には、どんな物語からも外れてただ怒りと一つになることです。それができれば、怒りは扱いやすいお友達にすることもできるのですね。

抑圧は報復を生む

先日、いわゆる「あおり運転」の非常に悪質な犯人が逮捕されましたね。わざわざ高速道路上にクルマを止めさせて、被害者の方を殴ったりしたようです。

おまけにディーラーから借りているクルマを約束の期日までに返すこともせずに、2000kmあまりも乗り回していたというからびっくりしますね。

ちょっと常識では、どのようにしても理解することができない犯人の言動なわけですが、子供の頃のことをニュースで見聞きして、なるほどと思いました。

小学生の頃は、子供がやるようなことではないと思われるような悪いことをしていたらしいですね。

それが一転して、中学生から先は急に真面目な子供に変貌して、一途に勉強を頑張ったそうです。

そこにこそ、今回の犯人の異常とも思える言動の原因を見ることができます。もしも彼が、中学生でも変わらずに悪い子のままであったら、ごく普通の悪い大人になっていただけでしょう。

ところが、中高生のときにいきなり抑圧が始まってしまったのです。それも極端な抑圧が。もうすでに小学生の頃から怒りを沢山溜めていたことがすぐに分かります。

その怒りを中学生の頃から全く解放することなく、長期間に渡って過ごしてしまったために、彼の中で怒れる小学生が残ってしまったのです。

それも非常に強いエネルギーとして。それが大人になって、時として爆発してしまうと、あのような悪質極まりない言動へと本人を誘うのです。

マインドの仕組みはシンプルです。そして誰のマインドもおなじような仕組みで動いているのです。抑圧すれば、いつかは報復されるということですね。

自己イメージを見る

人はある程度の年齢になると、自分自身を知ろうとするようになります。この働きは自我によって起こされるものです。

したがって、自我が出来上がる以前は自分自身を知ろうとすることはありません。そんな自覚がないからですね。

自我は独りで過去の自分の言動などを思い出したり、周囲からどのような目で見られていたのか等を頼りに、きっと自分とはこんな人物に違いないと思うのです。

その時に、自我が錯覚するのは生まれた時から何らかの自分がいたのだと思ってしまうのです。

誰もが知っているように、身体というのは生まれた時からすでにありました。あとは、食べ物によってそれが成長してきただけなのです。

けれども、マインド(特に自我)は生まれた時にはありませんでした。自我が出来上がるまでの間は、周囲からやってくる情報をそのままかき集めることで、マインドの基礎が出来上がるのです。

つまりあなたのマインドの基礎になるのは、周囲にどんな人たちがいたかということそのものだということ。

これこそがあなたのマインドの奥深くにガッチリと固定された自己イメージなのです。人間とはそれを後生大事に持ち続けて人生を生きているのです。

自分がどのような自己イメージを持っているのか、深く見つめることができれば、その影響力は小さくなっていくはずです。

逆に都合の悪い自己イメージをいつまでも隠し持っているようなら、裏からあなたの人生をコントロールし続けることになるはずです。