あなたはあなたが自分で思っている人とは違う

by Gangaji

私たちの文化は、知覚されることのみに基づいた、無理もないとはいえ悲劇的なある結論を持っています。

その結論とは、あなたと私は別々の存在のように見えるから、すなわちあなたと私は別々の存在に違いない、というものです。

こうして知覚は絶対的権威を与えられます。

すべてのものの源、意識、神と、区別された存在になる ― そんな可能性すら存在すると思うこと、それがすべての過ちの始まりです。

私たちは、自分が神とは別の存在である、というふうに自分の経験を認識するので、それがすなわち現実であると信じ込みます。

この誤った認識が、すべての苦しみの根源なのです。

あなたが自分だと思っている人、あるいは幸せになるために必要だと思っているもの、それらについて頭で考えをめぐらすのをすべて止めたとき、知覚に与えられた権威、理性の構図にひびが入ります。

その割れ目から中に入ってみてください。その穴から中に入るのです。そうすると、理性は最新の自己定義でいっぱいではなくなります。

その瞬間、そこにあるのはただ静寂です。そしてその静寂の中で、絶対的な充足を見つけることが可能です。それは真実のあなたなのです。

同じ匂いのする人

先ほどまで、あるバラエティ番組で自分と同じ苗字の有名な俳優さんが出演されているのを観ていました。40代のカッコいい俳優さんです。

以前からドラマなどに出演するのを観て、何となく感じていたことが確信に変わってしまいました。ファンの方は、誤解されるといけないのでこの先読まないほうがいいかもしれません。

それは、自分と同じ匂いがするということです。勿論、姿かたちや能力、その他人物としては私などと比較しては申し訳ないくらいの好人物なのです。

けれども、人として生きていることの奥深い苦悩について、感じてしまっている方なのではないかと思うのです。そこが私と似ていると思ったのです。

心理療法にいらっしゃるクライアントさんは、もっと具体的な問題を抱えていて、それを改善するためにセッションを受けてみようと思われるわけです。

ところが、順調にそうした明確な問題が緩和してくるにつれて、今度は影に隠されていた苦しみが暴かれて出てきてしまうということが起きてきます。

それが、個人として生きる苦しみ、分離という苦悩なのです。毎日の生活がどうであれ、人も羨む人生を生きていたとしても、そんなことは何の慰めにもなりません。

その俳優さんは、きっと幼いころからそれを肌で感じて生きてきたのではないかと思うのです。私がファンである有名人の方には、他にもそれを感じさせる方々がいらっしゃいます。

実は、癒しとはそのことに気づくようになるまでは、一般的な心理療法を行い、分離の苦悩に気づくようになったら、自己の本質へと意識を向けるようにすることなのです。

個人である自分が100%ではなくなってきたときに、ようやくそこに真の救いがやってきてくれるのだと思います。

ブログを書くことのメリット

毎日夜にこのブログを書こうと思って、古くなったパソコンの前に座るのですが、その時間というのは面倒くさい反面、とても心が落ち着く大事な時間になっています。

何について書くことになるのか、自分ではまったく分からないので、心の中に何かが浮かんでくるまでじっと待っているのです。

そうすると、心があっという間に静まり返ってきて、意識に全体性がはっきりと戻ってくるように感じることができます。

目を閉じると、目の前が真っ暗になって何も見えなくなってしまうと思い込んでいたのですが、それも違って感じるようになりました。

それは、肉体の目では確かに何も見なくなるのですが、それは逆に言えば「無」という真実をそのまま見ている状態なのだと。

ただ目をつぶっただけなのに、真実が目の前に広がっているという感覚です。そして、その真実こそが自己そのものであり、それは対象物ではないということ。

自分は何かでは決してないし、どこにいるということでもないということが明確に理解できます。それが全体性ということですね。

そこに戻してくれるのが、このブログを書くという毎日の行為なのですから、本当に感謝しなければならないなと思うのです。

今日一日生きた自分はここで死に、新たな自分が明日を生きるということになるのでしょうね。

自分を正直に見つめてみる

一般的に、男性は社会人になって仕事がうまく行っていると感じることができれば、それ以外のことがどうであれ人生はうまく行っていると感じるのです。

逆に、その仕事がどうもうまく行かない、思ったようにできないと感じていれば、それ以外のことがたとえうまくいっていても、駄目なのです。

一方、女性は恋愛がうまく行っていると感じることができれば、それ以外のことはどうであれ幸せに感じるものです。

けれども、恋愛で躓いてしまうと、それ以外のことが順調であったとしても人生全体では駄目だと感じてしまうのです。

勿論こうしたことは、一般的な傾向に過ぎませんので、人によってはそんな性差は最近なくなってきていると感じる人もいるでしょうね。

ところで、もっと本質的なことに話しを移すと、人は自分の存在価値に気づいていさえすれば、たとえそれ以外が駄目駄目でも何とか大丈夫なのです。

いやなことがあったり、いろいろなことに失敗したり、敗北感を味わったり、劣等感や罪悪感に悩まされたとしても、最後の砦が守られているのです。

なぜなら、自分という存在にOKが出せているからです。これは、男性であれ女性であれ同じで、性差はないといってもいいと思います。

そして、逆に、自分の存在価値に気づかないまま大人になってしまうと、たとえ人からみて人生がうまく行っているように見えていたとしても、本当には自分を騙すことはできません。

結局、何を達成できたとしても、所詮自分は駄目な存在だというのがついてまわるので、本当に満たされるということがありません。

自分の人生がうまく行っていないと感じるとしたら、あなたはどこにいるか、正直に自分を見てみる必要があると思います。

誰かを責め続けたい気持ち

夕方時間の空いたときに、スポーツクラブに行ってサウナに入ると、ほぼ決まって苦手な一人の男性がいるのです。

その人は、多分自分よりもかなり若い人なのだろうと思うのですが、とにかく動作が荒っぽいというのか、やることが雑というのか、ひどく耳障りなのです。

サウナで静かに目を閉じてじっとしているのが好きなのですが、その人が入ってきた途端に、すぐにそれと分かってしまうのです。

その歩くときの音とか、サウナの台に座るときの音、あぐらを組むときの耳をつんざく様なきつい音などが、怒涛のようにやってくるからです。

サウナから出て、水風呂でじっとしているときに、その人が入ってくると私はその大波におぼれてしまうんじゃないかと思うほどです。

ちょっとオーバーに表現しているように聞こえてしまうかもしれませんが、私にとっては本当に苦痛でしかありません。

それでも、人間よくできたもので、毎日のようにその騒音を聞かされていると、徐々にですが慣れてきてしまうのですね。

以前よりも、あまり気にならなくなったというのが実際のところなのです。けれども、私の本音はそんなことがあってはならないと思っているらしいのです。

その人のことをひどく否定し続けたいし、いやでありつづけたいと思っているのです。心の中で文句を言い続けたいと訴えています。

反応しなくなったら、これほど楽なことはないはずなのに、相手の行動を改めさせたいと願っている気持ちがいるのです。

人はそうやって、誰かを否定し続けたいものなのですね。その目的は自分を肯定したいからなのでしょう。そして、その裏には、認めたくない自己否定があるのです。

本当はそれを隠したくて、誰かを責め続けていたいのです。そのことにはっきりと気づくことができると、自分でも笑ってしまいますね。

過干渉とは相手の否定に他ならない その2

昨日の続きです。

昨日のブログでは、親が子供に対して行う過干渉というのは、見方を変えればそのままの子供を否定するということと同じだということを書きました。

したがって、過干渉とは相手を受け入れることができない状態であるとも言えるのです。過干渉されると、子供はあるがままの自分を認めることが難しくなってしまうのです。

認めるどころか、何をやっても親のようにはうまくできない自分を否定せざるを得ないように追い込まれてしまうのです。

同じようにできないだけではなくて、親と同じように考えたり感じたりできない自分に駄目出ししてしまうことも起きてきます。

子供は、本来持っている自分の能力や可能性を疑うようになり、始める前からきっとうまく行かないだろうと否定的に捉えるようになってしまいます。

そうなると、生き方や考え方がいつも受動的になって、たくさんの未来に待っている大切な可能性の芽を自ら摘んでしまうのです。

親の過干渉にもがき苦しみ、その末に親と対決することができた人は、大人になるにしたがってその影響を弱めることができます。

けれども、過干渉してくる親の心の中にある否定的なエネルギーを感じて、可愛そうに思ってしまうといつまでも過干渉に「ノー」を突きつけることができなくなってしまいます。

その結果、社会生活に入っても同じような人間関係を繰り返してしまう傾向が強くなるのです。相手の反応がどうであれ、きっぱりと「ノー」と表現できる勇気を持つことです。

そして、それを実践することが大切ですね。いつやるか、今でしょう!

過干渉とは相手の否定に他ならない

幼い子供は、親の庇護のもとでスクスクと育っていくわけです。子供は、自分ではまだ何もできないのですから、何から何まで親に依存するのです。

歯の磨き方、服の着替え方、挨拶の仕方など、呼吸することや夜寝ることなどの本能的にできること以外は、何でも親がサポートする必要があります。

サポートといっても、初めのうちは親が肩代わりして子供の代わりにやってあげることからスタートするのは当然のことですね。

そうして、少しずつでも子供が自分の力でやり方を覚えて自らできるようにと誘導してあげるのが理想的です。

けれども、その初期のサポートがずっと続いてしまうと、過干渉ということになってしまいます。したがって、親に過干渉されると、子供は親任せになってしまいがちです。

子供からしたらうまくできない面倒なことを、親がやってくれるのですから、こんな便利なことはありません。しかし、子供にも独自の個性というものがあります。

だから、子供は次第に自分のやり方でやってみたいという衝動を覚えるようになるのです。そうなると、過干渉は子供にとって辛いものとなってしまうのです。

過干渉というのは、そもそも子供を否定しているということに気づかなければなりません。あなたのやり方では駄目だから、親の私がやってあげるということです。

あなたの考え方や好き嫌い、あるいは正しさは間違っている。だから、私の考えや正しさで手を差し伸べてあげる、というのが過干渉なのです。

したがって、過干渉の親が、子供を受け入れるということがうまくできないのは当然のことですね。過干渉の親に育てられた子供が、認めてもらった感が希薄なのはそういう理由なのです。

つづく

感情の法則

何の感情も感じないようにして、ロボットのように生きていけたらいいのにと、本気で訴えてきたクライアントさんがいらっしゃいました。

ご自身の感情がとても辛いものだったからなのでしょうね。その気持ちはよく分かります。誰だって辛く苦しいのはいやですから。

けれども、実は苦しみというのはその感情を否定して、その感情に逆らってそれを感じないようにすることによって起きてくるのです。

実は感情そのものは、苦しみというよりも心の痛みと言った方が近いものです。痛みはしっかり味わってあげることで、安らいできます。そして、苦悩することはないのです。

私たちはいやな感情から逃れようとして、その結果として苦悩することになってしまうということに、もうそろそろ気づく必要があります。

たとえば、寂しさから逃れたくて、その寂しさを見ないように奥に押し込んでいると、その寂しさと似たようなエネルギーを引き寄せてしまいます。

その結果、より一層寂しさを蓄積してしまうということになるのです。それをまた更に抑圧するということで、寂しさが果てしなく溜まっていくという悪循環に陥ります。

そうなると、その寂しさは本人としては大き過ぎて、手に負えないようなものに感じてしまうかもしれません。

それはいずれ、限界を迎えることになり、漏れて外に出てくるか、爆発して外部に放出されることになるはずです。

本当は手に負えない感情というものはありません。本人にとってそう感じるだけのことですから、少しずつでもその感情と向き合って、無防備にそれと一体になることです。

いずれは、安らかな心を取り戻すことができるようになっていくはずです。

自閉という自己防衛の方法

以前にも何度か書いたことがあるのですが、小学生の頃にある時突然自分は今まで人の話しをまともに聞いたことがなかったと気づいたのです。

それは本当に驚きの体験でした。それはごく普通の毎日の授業中のことだったと思います。先生がいつものように何かを話していて、それが心の中にガ~ンと入ってきたのです。

自分としては、それまでも真面目に先生の話を聞いていたつもりだったのですが、そうではなかったと気づいてしまったのですね。

今から思うに、それまではある意味自閉していたのだと思うのです。勿論耳には声が届いているし、ごく正常な子供として生活してはいたのです。

けれども、きっと興味の湧かない先生の話に対して、本当に耳を傾けるということをしてこなかったということなのでしょう。

つまり、心を閉じて授業を受けていたということです。先生の言葉の本意がそのまま丸ごと心に飛び込んできたことで、それまで閉ざしていたと理解できたのです。

自閉は誰でも多少は無自覚にやってしまう自己防衛の一手段なのです。そして、自分の都合に合わせて適宜開いたり閉じたりさせているのです。

恐怖などの強さによって、幼いころに強烈に自閉してしまうとそう簡単には開けなくなってしまうということが起きてきます。

そうなると、大人になってもその傾向が色濃く残ってしまい、物事に対して否定的で深刻な印象を与える人物になる可能性が高くなります。

そうした人が仮に親だったとすると、子供はとても苦しむことになってしまいます。自分に対して心を開いてくれない親が、どれだけ子供を孤独にさせてしまうのか、想像に難くありません。

もしも、自分は親に受け止めてもらえた経験が少ないかもしれないと感じるなら、このような環境で育ったのだと思って間違いありません。

そのことは、大きな不満となって心の中に蓄積されてしまっているはずです。人生に対しての何らかの不満の根本原因はそこに見出されるのです。

そこをしっかり見据えて、そこにある悲しみや怒りなどの感情から逃げないようにすることで、傷ついた心は少しずつ癒されていくのです。

分離という単なる思考

人は誰でも正常に成長すれば、必ず2,3歳くらいのときに分離という幻想に取り憑かれることになります。

取り憑かれるというと、ちょっとオーバーに聞こえてしまうかもしれませんが、そういう思い、思考を固く信じるようになってしまうのです。

それは普通突然やってくるというよりは、気がついたら言葉をしゃべるようになっているのと同じくらい自然にやってくるのです。

だから多くの人が、自分は個人であり、この世界とは分離した存在だということ(考え)が、まるで事実であるかのように感じてしまうのです。

けれども、これは事実ではなく、紛れもない作り話なのです。自律した個人という存在が在るというのはでっち上げに違いありません。

それは思考による単なる説明に過ぎないということです。私たちが、モノに名前をつけるのと同じようなものと考えればいいのです。

名前をつけた本人が、その対象物には名前があると勝手に決め込んでいるだけで、その対象物自体が名前を持っているのではありません。

あるがままの事実というのは、それ自体には説明というものはないのですが、思考がそれを把握しようとしたときに、説明を付与してしまうのです。

そして、その後思考はそれを事実と見なすようになってしまうということです。したがって、私たちが暮らしているこの世界は、各人の思考の産物だということです。

この世界がないということではありません。それはただ在るのです。思考そのものもただ在るのであって、本当はこの現象界の中の一つとして思考が在るだけなのです。