無意識が苦しみを持続させる

人間である私たちが、他のあらゆる動物と決定的に違うのは自我として生きているという点ですね。

自我だけが一人称としての「私」を持っているのです。これは地球上における生物の進化の過程における画期的な出来事だと思います。

そして自我の発生とともにもう一つの奇跡的なことが起きたのですが、それが意識の目覚めです。

自我を持たない動物は意識が覚醒していない、つまり無意識状態でのみ生存しているのですが、人間だけが自分に意識を向けることが可能となったのです。

ところが残念なことに、ほとんどの人が多くの時間を無意識状態で過ごしているという現実があるのです。

もしかしたら朝目覚めてから夜寝るまでの間の時間に、意識が覚醒している時間なんてほんの数パーセントもないのかもしれません。

しかも私たちが苦しむ本当の原因は、無意識になるからだと気付いている人もまた少ないのです。

あなたが激怒する時、あるいは極端に落ち込んでしまう時、我を忘れて不安に苛まれる時、こうした平静ではいられない時というのは確実に無意識なのです。

逆にあなたがしっかりと意識を内側に向けて、自分自身を見守る状態でいられるなら、我を忘れるということはなくなってしまうのです。

だからいつも出来る限り意識的であるようにと言っているのですね。ただ言うは易しで、実践することは何と難しいことか。

それでも決して忘れないことです。あなたが苦しんでいるなら、それは無意識になっているからだということを。

意識はこの世界の中にはない

昨日のブログでは、全体性について書いてみたのですが、今日はまた少し違った角度からそれを表現してみようと思います。

あなたはこの世界の中で暮らしています。もっと正確に言えば、あなたという自我はこの世界、この現象界の中で生きています。

けれども、あなたの本質である意識はこの現象界には属していないのです。つまり本当のあなたはこの世界の中にはいないということ。

意識には大きさや形もありません。大きさも形もないものが現象界に属せるわけがないのは当然ですね。

意識はこの時空の中にはないので、移動するという概念もありません。だから本当のあなたは移動できないのです。

あなたが移動したと感じる時には、周囲の現象が動いているだけなのです。全体という概念も移動することはできないですね。

こういったことを頭で考えるのではなく、感覚で捕まえるようになるといいと思います。

もしもあなたが何らかのピンチの状態になったとしても、そこにいるのは自我のあなたであるということ。

あなたの本質である意識は傷つきようもなく、ただ観ているだけだという感覚を思い出せるなら、人生の風合いが変化しだすでしょうね。

個体性と全体性

このブログでは、全体性という言葉が何度となく出てきますが、その感覚がどうもイマイチ分からないと思っている方もいるかもしれません。

私自身、その言葉の意味をどう表現したら一番的を射ているのか確信がないし、実際それは感覚でしかないのです。

ただ言えることは、普段は自我として生活しているので、それは個体性としての自分を常に自覚しているわけです。

それとは正反対の感覚、それが全体性なんですね。個体としての感覚は、この身体の内側が自分で、外側に全世界が広がっているというものです。

一方の全体性としての感覚は、表現が難しいのですが、敢えて言えば全世界が自分の内側にあるという感覚。

その場合の自分とは身体とは無関係なのです。覚醒した意識としての自分ということですね。つまりは大きさという概念がない。

だからこそ全世界がそのまま自己の内側に収まるのです。ただしこの表現はあくまでも言葉で言えばということなので、鵜呑みにしないでください。

より正確には外側とか内側という感覚そのものが消えている状態なので。そしてこの全体性の感覚はいつ何時どこにいても思い出すことができます。

そうやってきっと自分の中で個体性と全体性のバランスを取ろうとしているのかなと。無理に瞑想しなくても、この感覚に戻ることさえできればマインドは静まってくれるはずです。

思考を止めようとしない

意識的であるとは、意識が覚醒している状態でいることを言います。つまりは、気付いている状態のことですね。

別の言葉で表現すると、「ただ観る」ということです。この状態をしっかり継続するなら、思考は自ずと静かになっていくのです。

思考が次から次と出てくるのでとても瞑想なんてできないと思っている人もいるかもしれませんが、瞑想は思考を止めることではないのです。

思考があってもいいので、その思考をただ観るのです。その練習を継続していけば、いずれは思考は穏やかになって、しまいには消えてしまいます。

思考が止まることを目指す必要はないということです。ただただ意識的であればいいのです。その結果、自動的に思考はもう入ってこなくなるのです。

思考のエネルギーというのは、あなたの内部から起きてくるものではなく、電波のように外側に無数に浮遊しているのです。

もしもあなたが十分に意識的であるなら、思考はあなたの中に入ってくることができなくなるということです。

だから思考をコントロールしようとする努力をやめることです。要するに、ただ意識的であることを心がければいいのですね。

全力で見守る

ごく稀かもしれませんが、毎日を全力で生き続けている人がいるのでしょうね。全力を出し切るというのはなかなか難しいものです。

中途半端に生きると、死を恐れるようになるのです。大抵の人が、生きている時間の全てを何かに注ぎ込んでいるとは言えないでしょう。

幼い子供は全力で走り、全力で泣き、全力で怒り、全力で笑うのです。その無邪気さが続けば、癒しなどという概念はなかったでしょう。

けれども私たちは社会や親から防衛を学び、無防備からはかけ離れた生き方をするようになるのです。

そうなると、全力で生きることはできなくなってしまうのですね。私自身、全力で生きた記憶がないし、今もってノラリクラリ生きています。

そこで考えてみたのですが、全力で生きるの真反対はなんだろうと。全力で生きない、は正反対ではありませんね。

私なりに出した結論は、全力で見守る、でした。つまり、立場を真反対にしようと思ったのです。

全力で生きるとは、人生物語の主人公として生きることであり、一方の全力で見守るは、その主人公をただ見る側にいるということです。

難しいですが、これならやってみようかなという気になりますが、皆さんはいかがですか?

マインドを理解しよう!

これは私の個人的な考えではあるのですが、癒しというのはマインドを深く深く理解していくことで進んでいくものです。

以下、マインドについて設問を出しますので、どれだけ明確に答えられるか、ご自身でチェックしてみて下さい。

− 心理的自己防衛には自己犠牲がついて回るのですが、それはなぜか?

− 誰もが信じ込んで、あるいは虜になっている自己イメージとはどのように形成されるのか?

− 自分の存在価値に気づくためには、どういった環境で育つ必要があるのか?あるいはどのように親からケアされる必要があるのか?

− 意識と思考の違いを明快に説明できるか?

こういった事柄について、自分の言葉でしっかりと説明ができるなら、頭だけの理解よりもより深い理解ができているとみていいと思います。

まだ自信がないというなら、深く理解するためのかっこうの題材を持っていることに気付いてください。つまりはあなたの生のマインドです。

それを研究材料として出来る限りあらゆる角度から見てあげるのです。自分(マインド)の理解が進めば、それだけ不安やソワソワ感が小さくなるのです。

そしてマインドのどこを見ても否定することができなくなり、自分への受容が増して生きやすくなるはずです。

自分であることを楽しむ

不可能なことに挑戦しようとしたら、必ず精神を病むことになります。不可能なこととは、文字通り万に一つも可能性がないことです。

限りなく可能性が低くても、可能性があるならばそれは不可能なこととは呼びません。そこを勘違いしないことです。

100メートルを1秒で走ろうとしても、それは不可能ですし、あなたが他の誰かになろうとするのも、絶対的に不可能なこと。

実在する誰かでなくても、あなたが望むような仮想的な誰かでも同じです。あなたがその誰かになろうと目指しても、それは間違いなく徒労に終わります。

あなたがなれるのは、あなたがなるべくしてなる人だけ。それは、朝顔の種を植えたら、朝顔の花しか咲かないのと同じです。

それはそのようにできているのです。そこにひまわりの花を咲かそうとどれほど頑張ったところで不可能なことです。

それなら、私たちは一体何を頑張っているのでしょうか?何が不可能で、何が可能性があることなのかを見極める必要があるということですね。

あなたは生まれた時からあなたであり、それは死ぬまで変わりません。だからもっとリラックスして、どうせ一度の人生ならゆったりとこの瞬間を楽しめばいいのです。

あなたがあなたであることを受容できなければ、人生に敗北することは100%確定してしまいます。

あなたがあなたであることを徹底的に楽しむことです。そうしたら、人生は喜びに変わるでしょうね。

肉親への特別視をやめる

私たちは知らず知らずのうちに、親兄弟や血縁関係にある人たちのことを、一種特別な人たちだと感じているのです。

子供の頃はもちろんそれが自然な感覚であるのは当然で、自分自身も彼らから特別視してもらっているのを感じているわけです。

血族というのはそうでない関係性よりも、より強固な結びつきを持っていて当たり前という感覚ですね。

私自身の記憶でも、学校の友達とは違う何かをイトコたちに感じていたのですが、こうした特別視というのは大人になっても残っているものです。

ところが、私は自分の癒しを進め出して気がついたのですが、血の繋がりには本当は一切興味がなかったと分かったのです。

親戚の叔父さんだから特別?兄弟だから特別?いやそれは先入観でしかないなと。もしくは刷り込みだったと分かったのです。

すべての人をフラットに見ることができるようになればなるほど、身近な肉親への特別感が薄れていきました。

そうなると、親であろうが兄弟であろうが、子供であろうが、一人の人間として見ることができるようになるのです。

そして一緒にいたい人と一緒にいる、一緒にいたくない人とは一緒にいないように自然となってきました。

これが一番自然なことなのですね。そしてとても気持ちが楽になったのを覚えています。

受容が欲望を減らす

私たちが自我として生きている限りは、欲望と切っても切れない関係にあるのです。実際、欲望を満たそうとするプロセスこそが自我の一生なのですから。

馬の鼻先にニンジンをぶら下げて、ずっとそれをおい続けている姿をイメージすればいいのです。

滑稽なのは、そのニンジンを自分自身でぶら下げて一生そこには到達しないように工夫していることです。

万が一到達してしまったら、瞬時に次なる欲望を設定してまた同じニンジンレースを開始するのです。

その反対に欲望が小さくなっていってしまう方法があるとしたらどうでしょう?自我にとっては不都合なことですが、知っていても損はないと思います。

それは受容することです。人は受容するたびに欲望のエネルギーが小さくなっていくのです。

なぜなら欲望というのは今この瞬間に不満があるということを意味するからです。受容するとは、不満がない状態のことを言うのです。

だから受容すればするほど、不満が小さくなっていき、それにつれて欲望も減っていくというわけですね。

誰もが受け入れてもらえると嬉しいと感じるのは、その瞬間相手の中に自我を感じなくなるからです。それが愛ですね。

愚かしさを見る

セッションでクライアントさんとお話ししている時に、私の口癖として、「別に悪くはないですけどね」というのが多分頻発するのです。

この世界で起きている様々な出来事について、きっとクライアントさんが善悪や正不正によって物事を判断しているのを感じるからです。

つまり、世の中には善も悪もないし、正しいとか正しくないということもないのだと気付いて欲しいということなのです。

政治家が汚職をしたり、人が誰かを裏切ったとか、もっと端的に言えば犯罪を犯したなどという時、それは愚かしいことをしたというだけなのです。

人の言動を評価する時に、善悪、正不正などではなく、愚かかどうかで判断する方がいいのです。

なぜなら、愚かしいことをことさらに責めようとする人はいないものだからです。愚かしいと思えば、怒りもあまり出なくなってしまいます。

そして愚かさというのは、本質的には罰するようなものではないと知っているのです。それは成長すればいいだけだから。

愚かしいことがどこからやってくるかというと、気づきのなさからなのです。心に余裕がなければ、人は気づけません。

愚かしさをなくしていく唯一の方法は、意識的であるように心がけることですね。無意識状態では、いくらでも人は愚かしいことをやってしまいますからね。