マインドの筋トレって?

私のような年齢になっても、筋トレすることによりそれなりの身体の成長というものを体験することができます。

当然若い人ほどではないのでしょうけれど、絶対に持ち上げることができないと思っていた重さでも、地道な努力によって持ち上がるようになったりするのです。

その時、大抵の人は筋肉が成長したのだろうと思っているのですが、実はそれだけではないのです。

実は、筋繊維が増えるということと同じくらい大事なことが、もう一つ起きているらしいのです。

それは、使えてなかった筋肉を使えるようになるという進歩です。火事場の馬鹿力という言葉があるのをご存知だと思います。

火事のような一大事の時に、普段だったら絶対に持ち上がらない家具を一人で移動することができたなんて話しが実際にあるのです。

それは、平時には筋肉を痛めないようにするために、本人は全力を出したと思っても使わずにいる筋肉があるのですね。

それがいざという時に、その瞬間は命がかかっているなどの場合は、身体をかばっている余裕はないので、普段は使えない筋肉も総動員するわけです。

筋トレでもそれと似たようなことが起こるのです。つまり、これまでは使えていなかった筋肉を使えるようになることで、よりパワーアップできるということです。

脳から筋肉繊維への命令を出す神経回路が新たに作られていくことを想像すれば良いと思いますね。

身体に対して起きるこうしたことが、人の内面にも起きうるのではないかと思っています。

つまりマインドを筋トレすることにより、マインドはある意味鍛えられていくわけです。

すると普段使われずにいたマインドの仕組みにスイッチが入り、ハイアーマインドとの連絡がスムーズにできるようになったりするかもしれません。

私自身そうしたところからやってくる情報に耳を傾けながら、このブログを書いたりしている自覚があるのです。

私がやってる内面の筋トレというのは、日常的にマインドを見つめ続けるということです。興味があるからできることですが、身体でもマインドでも筋トレは大切ということですね。

真に満たされるとは?

ブログを書こうと思ってキーボードの前に座って、静かにやってくる情報を待っていたら、あるイメージが浮かんできました。

それは自分のエネルギーが今この瞬間の一点に凝縮するイメージです。瞑想中に感じるあの全体性の真逆のイメージかもしれませんが。

普段は空間的な広がりと、時間的な広がりの言ってみれば4時限の世界を行ったり来たりしながら生きているのです。

これはもちろん思考によって可能になるのですが、その状態においては必ず不満や欠乏感がやってくるとわかりました。

エネルギーがその仮想的な広がりの中へと拡散して薄れていくのです。それと同時に思考による有限の広がりにおいては、分離が起きるのです。

だからそこでは必ず部分としての不満や欠乏感がついてくるのです。これが自我の生きる土俵になるわけです。

その反対に、今とここの一点に凝縮したエネルギーは、決して欠乏することも不満になることもないのですね。

それを完全に満たされている状態というのです。一点というのは無と同義なのですが、それはひっくり返せば全体性とも同義です。

何だか分かりづらい文章になってしまったのですが、要するに時空という有限の広がりの中で不満や欠乏感を満たそうとしても不可能だったということです。

この世界で何を手に入れたら満たされるのかではなく、思考による広がりから離れていることによってのみ、これ以上はないという満足感が得られるのですね。

観照のみが残る

私たちの人生物語は、あらゆる体験の連続によって成り立っています。嬉しい体験、悲しい体験、惨めな体験、誇らしい体験。

そうした体験というのは、体験そのものとそれを体験する体験者、つまりあなたの二つがいつもあるのです。

そして意識的であるということは、体験そのものよりも体験者(あなた)に注意を払い続けることを指すのです。

ところが残念ながら私たちは、どうも体験にばかり気を取られてしまう傾向が強くて、だから無意識的になって物語の中に嵌まり込んでしまうのです。

もしも体験者であるあなたに注意深い眼差しを向けてあげられるなら、実は体験者だと思っていたその奥に、ただの観照者がいたと気づくのです。

そしてしばらくは、体験と体験者と観照者の三つどもえ状態が続くのですが、そのうちに実在するのは体験と観照者しかないのだと感じるようになります。

そう、体験というのは体験者なしではありえないと信じていたことが、間違いであったと気づくようになるのです。

そして最終的には、体験そのものは起きては消えていくはかないイメージであって、真の実在とは観照する意識だけとなるのですね。

意識は現象界のものではない

一粒の種からやがて芽が出て、それが成長して仕舞いには綺麗な花を咲かせるように、私たちも赤ちゃんの時から成長して今がありますね。

ハイハイもできない赤ちゃんから始まって、やがてヨチヨチ歩きになり、かけっこができるようになって、中には一流のアスリートになる人もいます。

内面的な成長も見逃せません。字の読み書きから始まって、論文を書いたり、哲学者になったりする人もいます。

人はそれぞれに大きく成長するものですね。ところが、どれほど年月を重ねたところで、何も変化しない部分もあります。

それが意識です。無意識的であろうと意識的であろうと、意識そのものがないということは一瞬たりともないのです。

自分には物事を観照する意識があると気付いてから、随分と長い年月が経ったのですが、意識は進化も退化もせずにただそのままにあるのです。

なぜならそれこそが本当の自分の姿だからです。この現象界にあって、一切の変化がないのは意識だけなのです。

意識は現象界のものではないからかもしれません。つまり私たちの本質は、この現象界にはいないのです。

そう思いを馳せると、この世界がまるで映画のように思えてきませんか?筋書きのない3Dの映画を見せてもらっているようなものかもしれませんね。

自分のマインドのことを深く知ること

子犬が自分の尻尾を追って、くるくる回り続けているのを見ることがありますが、あれはとても可愛らしいものですね。

尻尾が自分の身体の一部だということに気付いていないのです。普段は後ろを見ることがないので、尻尾の存在に気付いていないのでしょう。

それが何かの拍子に後ろを向いた時に、なんだか知らないフサフサしたものがあって、思わずそれを追おうとしたら逃げていくので、それを追い回しているということです。

これと同じことが人間にもあるのです。人間の場合は、さすがに自分の身体のことは頭のてっぺんから爪先までちゃんと知っています。

けれども、自分のマインドのことについては知らずに過ごしているのです。都合の良い部分や、表面的な部分のことはさすがに知っていますが…。

食べ物は何が好きで何が嫌いかとか、人よりもよく泣くので泣き虫と言われてることとか、勉強が嫌いですぐにゲームに夢中になる等々。

大人になったら自分は思いがけずお金儲けの才覚があったとか、人情にはとても厚い方だとか、一度好きになったら一途だ等々。

ところがちょっとマインドを深掘りしたら、全く知らない自分がそこにいたりするのです。これはクライアントさんに限らず、誰にでもあることです。

そのせいで、自分のマインドには全くハマらない生き方を選んでいたりして、生きることがしんどい状態になるのも当然なのです。

自分の尻尾を追い続ける子犬のことをとても笑ってなどいられません。意識を内向きにして、できる限り自分のマインドの隅々まで知ることです。

そうして初めて、自分のマインドには不釣り合いな理想を追い求めていたことや、マインドからの SOS に気づくことができるようになるのですね。

敏感に生まれて良かった!

皆さんは「いずみたく」という作曲家の方を知っていますか?もうすでに他界されているのですが、数多くの素晴らしい曲を作ってきた天才作曲家です。

きっと皆さんも聴けばああこの曲は知っているとか、え?この曲もこの人が作ったんだあとびっくりされると思います。

当時私がまだ学生だった頃、彼がFMラジオ放送の中で、ライターでタバコに火をつける音だとか、コーヒーを煎れて飲む音などを交えたトーク番組をしていたのです。

そのトークも面白かったのですが、生活音が妙に耳に優しく入ってきて、毎週楽しみにヘッドホンをしてその番組を食い入るように聴いていました。

ごく普通の生活音のはずが、FM番組で聴いてみるととても気持ちの良い音質なので、虜になったのを覚えています。

最近、そうした様々な生活音を音源とした動画が静かなブームになっているらしく、なんでも ASMR と呼ばれているようですね。

私自身は上記のような経験があるので、その人気の理由がよくわかるのです。敏感な人、特に HSP と呼ばれる超敏感な人たちには好まれる傾向があるのかもしれません。

なぜなら彼らは普通の人たちよりも、嫌いな音、好きな音、どちらであれ極端なレベルで感じられてしまうからです。

つまり HSP の人たちが自分の好きなことを好きなだけ自分に体験させてあげるなら、普通の人たちよりもより強くいい気持ちになったりできるということ。

ところが彼らは敏感すぎるために他人のエネルギーを強く感じてしまうので、防衛が大きくなって、自分に我慢を強いてしまうことになりがちなのです。

それは本当にもったいない話ですね。だから何度でも言いたいのですが、敏感な人ほど自分の五感が喜ぶような音、味、景色、その他なんでも自分に十分に与えてあげることです。

そうすれば、敏感さの利点が最大限生かされて、HSP に生まれて良かったと思えるようになるはずですよ。

死ぬのは自我だけ

自分がいずれは死ぬということを知っているのは、人間だけですね。死がなければ、人生は全く違ったものになるはずです。

死がなければ本質的な恐れというものがなくなってしまうからです。そうなったら、心理的な自己防衛も必要なくなり、自我はもたないはずです。

お伝えしたかったことは、死に対する恐怖が消えてしまえば、自我は自ずと小さくなっていくということです。

それならどうすれば死の恐怖はなくなっていくのか?これは単なる私のイメージですが、死に行く時の描写をすると…。

これまでこれが自分だと思い込んでいたあれもこれも、身体や身体からやってくる無数の感覚、個人としてまとまった存在という感覚。

そして自我として生きてきたあらゆる記憶、体験、それらからやってくる複雑な思い、感情。

それら全てがゆっくりと自分から離れていく感覚。その時無意識になってしまうのか、意識的であり続けるのかは日頃の練習次第。

暫くして瞑想している時のあの全体性が人間としての自分を圧倒するようになって、さらには「ええ、こんなの知らなかった!もう表現不可能!!」

ここから先は確かにどうにも記述できない……。

ほら、死の恐怖は小さくなったでしょ?とにかくあなたの本質は死なないということだけは確かですね。

培ってきたものを捨てる

セラピストの仕事というのは、言ってしまえば意外とシンプルで、それはクライアントさんがこれまで培ってきた考え方や生き方をできるだけ捨てるように提案することなのです。

たとえば義理人情を大切にする生き方であれば、それを使わずに生きることを実践してみて下さいとなるのです。

あるいは、正しいこと、ちゃんとしていること、そうしたことを拠り所にしているなら、正しさを真ん中から端っこへと追いやることをお伝えします。

いい人でありたいとか、常識人として真っ当な人生を生きたいと願っているなら、もっと正直に生きるようにとお願いします。

人や社会の役に立つ人物になりたいと願っているなら、それよりも自分がどうしたいかを優先する生き方を選んで下さいと言うのです。

自分への期待値が高いのであれば、自分に対して期待することを忘れてくださいとなるのです。

けれどもこれまで培ってきたものが、その人の血となり肉となってきたので、言われたからといってそう簡単にはうまくはいきません。

多くのクライアントさんは何度も抵抗しながら、少しずつ気がついたら生き方が変化していたという道を辿るのです。

私自身もそういう姿を何度も見せられて勇気をもらったりします。そういう意味ではこの仕事はとてもお得ですね。

期待には無関心になれ

人に何も期待されない人生なんて、寂しいし価値があるようにも思えないと感じてる人は多いかもしれないですね。

社会全般的にはそういった風潮があるのは知っています。たとえばオリンピック選手であれば、メダル獲得を期待されたいし、応援もされたいと思うわけです。

誰からも期待されず、応援すらされなければ何だか寂しいし悲しい感じがするかもしれません。

けれどもその一方で、期待されればされるほどその期待に応えなければという負担を感じるのも事実です。

子供が親に期待されて、嫌々ながらその期待に応えようとして人生を潰してしまうなんてことはよくあることです。

はっきりさせておくべきことは、期待というのは決して愛ではなく欲望の部類なのです。つまりは与える側ではなくて、搾取する側だということ。

期待されないと自分の価値が分からないというのは、そもそも自己価値に気付いていないことが問題なのです。

期待するのは他人の仕事であり、それは向こう側で起きていることであって、自分の仕事はそれに応えることではないと気づくこと。

自分の仕事は自分の内側に見出されるものです。内側から湧き出てくるものに注意を向けていれば、他人からの期待に良い意味で無関心でいられるようになるでしょうね。

自我は不自然なもの

この世界はその隅々までが自然の法則で成り立っていると言えますね。鉱物も植物も動物も例外なく自然の一部なのです。

もちろん私たち人間もその一部には違いないのですが、自我だけは例外中の例外となってしまっています。

自然と調和して生きることができたら素晴らしいだろうことは誰でも理解できるのですが、残念ながら私たち人間にとって自然体で生きることほど難しいことはありません。

それはなぜなのでしょうか?人間は自分のことを自我だと思い込んでしまっているため、自我の世界しか知らないのです。

自我ほど不自然なものはありません。なぜならこの自然界には個人などという存在はあるはずもないのに、それを堂々と主張しているからです。

自分だけはこの自然界にあって特別な存在だと思っているのです。それが自我の正体なので、もしも自我が自然の中に溶け込んでいったなら、それこそ自我の死を意味するのです。

自我は死にたくないので、自然体にはなれないということです。面白いですね、自然は素晴らしいと知っているのに、自分は自然の一部とは思っていないなんて。

私たちは不自然な存在になってしまっているということを、今一度認識し直してみる必要がありますね。

もしもあなたが自分の本質は自我ではないと見抜くことができたら、個人という妄想から抜けてただ自然の一部としての生を生きるようになるのでしょうね。