生の三つの誕生

通常私たちが誕生日と称して、祝ったり嘆いたりする日は勿論肉体が母体から離れた日を意味しますね。

それが一つ目の誕生なのです。そして二つ目の誕生があるのですが、それが自我の誕生です。その生年月日の詳細は不明ですが…。

というのも自我の誕生はある日突然やってくるというものではなくて、少しずつほんの少しずつ形成されていくものです。

だから気がついたら自分がここにいるということになったわけです。そこから大抵は地獄の日々がやってくるというわけです。

そして可能性はかなり低いのですが、三つ目の誕生がやってくるかもしれません。それは本当の自己に出会うこと。

二つ目の誕生である自我は、社会が作り上げた仮想的な自己だったと気づく時、同時に自分の本質を見ることになるのです。

この三つの誕生を順番に体験することで、生の目的を達成したことになると言ってもいいかもしれません。

ただしほとんどの人の生は、自我として生きて死ぬのです。残念ながら本当の本当の自分の姿に気づくことなく。

でもだからといってそれが悪いわけではありません。所詮は誰もがいずれ三つ目の誕生を迎えることになるのですから。

対処の代わりに見守る

現実社会というのは、物事に問題が起きたらそれを対処するということで成り立っているのです。

問題を見つけてそれを解決するというルーチンですね。社会全般においてはそれでいいのですが、こと人間の内面に対しては違うのです。

「問題→解決」を自分の内面に対してやり続けてしまうと困ったことになるのです。それはなぜでしょうか?

実は、自分自身を問題視するというその態度がすでに間違っているということに気付かねばならないのです。

たとえば自分には強い不安感があるので、それをなんとかして小さくしたいと考えるわけですが、その対処を防衛と呼びます。

防衛することで一瞬は不安が小さくなるのですが、それはまたすぐに元に戻るのです。なぜならその対処事態が的を射てはいないからです。

自分の内面には問題があるという発想をひとまず脇へ置いて見ることです。そしてその問題と思われるものをしっかり正面から見つめるのです。

つまり対処する代わりに見守るということです。不安であればその不安から逃げずにそれを感じてあげること。

対処せずにそれをそのままに見守ること、この生き方をマスターすることができれば、癒しは自然と進むことになるのです。

人生物語は死んでも終わらない

いつの頃からだったか、自分のこの人生を一つの物語として見ることができるようになった気がしています。

それはきっと人生と少し距離を置いてそれを眺めることができるようになったからなのだろうと思っています。

物語の主人公としての自分がいなくはならないのですが、その自分とは別のもう一人の自分がいて、そこから見守っている感じです。

皆さんは人生物語は死によって終わりを迎えると思っているかもしれませんが、それは間違いです。

死んで終わるのは一つのエピソードであって、物語そのものは決して終わらずに次のエピソートへと移るだけ。

そしてそれが永遠と続いていくのです。実は物語が終わるのは私たちが知っている肉体の死によってではなく、自我の死によるのです。

物語の中でどんな欲望もなくなり、どんな惨めさも消えていった先に自我は生きながらえなくなるのです。

それは肉体の死とは何の関係もありません。もしそうなったら、物語は終わるのですが、周囲からはまだ続いているように見えるだけなのです。

何であれ大丈夫!

その昔、かれこれ50年近く前に親にステレオ(オーディオ装置)を買ってもらって嬉しくて、その当時一番好きだった「サンタナ」のレコードを聴いていました。

その中でも忘れられずに、たまに頭の中に流れてくる曲があるのですが、先日思い立ってネットでダウンロードして聴いてみたのですが…。

それを聴いていた当時の自分があの時のままに、そのまま自分の中にいるんだなということをはっきり自覚できました。

とはいうものの、同時に50年後の自分も一緒にいるわけで。今の自分から50年前の自分に言ってあげたいことがあるとしたら何だろうって考えてみたのです。

あの頃は高校に入ったあたりで、急に周りの人たちがみんな自分よりも優秀で、なんでも知っていてびっくりしていたんですね。

その不安感がそのまま未来への不安にも繋がっていて、これから先自分はどうなるのだろうと漠然と考えていたのを思い出しました。

だから彼に一言言ってあげるとしたら、「とにかく大丈夫だよ」ということかもしれません。

そして、過去のどの時代の自分に対しても、全く同じように「何が起きても大丈夫、不安がやってきても大丈夫」ということを伝えてあげたい!

そしてきっと未来の自分からも今の自分宛に全く同じメッセージが届いているのだろうなって感じるのです。だからみんなも絶対に大丈夫!だよ。

問題はマインドの中にこそある

私たちは外側に現れ出てくる一つひとつの問題ごとに、それをなんとかして解決しようとするものです。

たとえば電車に乗れなくなってしまったので、それを何とかして普通に乗れるようにしたい。

あるいは、朝起きるとどうしても学校や職場に行くエネルギーが湧いてこないので、休んでしまう等々。

それぞれを別々の問題として見ている限り、それが解決したところでまた別の問題が浮上してくるのです。

そのように表に出てくる問題というのは、本当の問題ではありません。マインドそのものが問題なのだということに気づく必要があるのです。

調査しなければいけないのは、自分のマインドだけなのです。ところがマインドはその問題を隠して見えないようにしてしまうのです。

問題がやってきたときだけでなく、常日頃からマインドを見つめる習慣を作っておくことがとても大切なのです。

マインドの中に隠された問題の根っこを発見してしまうと、不思議なことに表に出てきていた問題もひとりでに小さくなっていくのです。

それはきっと発見するまでの過程において、十分にマインドを見つめることが癒しの作業になるからでしょうね。

選択の時の注意点

人生の中で、選択を迫られることは誰にでもあるものですね。どちらを選べばいいのか、迷ってしまうことは多々あるのです。

そんな時にはどちらを選択するのかということの前に、ハートを選ぶのかマインドを選ぶのかが大切なのです。

物事の選択の前に、ハートを差し置いてマインドを選択してしまうことのないようにするべきですね。

もしもマインドを選択してしまったなら、そこには防衛の要素だったり社会の中でどのように有利になるかなどが混じってきます。

なぜならマインドとは、社会があなたに詰め込んだ装置だからです。マインドは社会が喜ぶように選んでしまうという傾向があるのです。

一方ハートとは、あなた自身の奥深いところからやってくる声だと思えばいいのです。あなたの存在からくる声。

だからこそハートを選択しておけば、ハートが選ぶことはあなたの存在が喜ぶことになるのです。

ただ残念なことに、日頃からマインドばかりを使ってきてしまっていると、ハートの声が聞こえづらくなってしまうので注意が必要ですね。

深い安堵の中に入る

私たちは自分自身のことを知っていると思い込んでいるのですが、それは全て記憶データに過ぎません。

一日にほんの数分だけでいいので、独り静かに目を閉じて座ってみてください。そして自分は誰なのか、どこにいるのかを見入るのです。

もしも今自宅に戻って寝る支度をして自室でくつろいでいるというなら、それは目を閉じる前の記憶を参照してしまっています。

記憶を全て脇に置いて、ただ今ある自分に見入るのです。何もかも忘れて深く進んでいくのです。

そこに日常的に知っているあの自分はいるでしょうか?そこには誰もいないということに気付いてしまうかもしれません。

そうであるなら、日常あなたが感じているあの不安感も一緒に消えてしまうのではないでしょうか?

もしかしたら全く違う不安に出会うかもしれません。それは自分は誰でもないということに気付いてしまったからかもしれません。

怖くなったら目を開ければ、いつもの自分に戻れるので安心してください。そして安心を得たらまた再び目を閉じて自分の奥深くに入っていくのです。

その誰でもなさ、何者でもないもの、どこにいるでもないことに慣れてきたら、きっとどうにもなりようのない深い安堵がやってくるかもしれません。

不安に対して無関心になる

セッションでクライアントさんと向き合う時、私自身よりも不安が大きいのかもしれないと感じることが多いような気がします。

不安の量なんていうものを比較することはできないのですが、お話しを伺っているとどうしても不安が大きいのだなと感じるのです。

私もセラピストを生業にしていますが、ごく普通の人間ですから当然のこと不安を抱えてはいるのです。

ただし、その不安をしっかり見る習慣はついているのかなと。日頃、自分のマインドを見てくださいとお伝えしている都合上、自分もそうする必要があるとわかっているからです。

不安から逃げずにいて、さらにその不安の正体を見てあげるように心がけていると、実は不安は小さくなっていってくれるのです。

マインドというのは、持っている不安を様々なところに投影するのです。健康状態に投影したり、未来に投影してみたり。

そうしたマインドの仕組みにも気付いていれば、不安を恐れる必要はないと理解できるようになるのです。

皆さんはご自分の不安とどう付き合っているでしょうか?人はどこまでいったところで不安がなくなることはないと思っています。

ただし、自分を見守ることができるようになると、それに比例して不安は小さくなっていきます。

不安を必要以上に恐れなくなるし、不安を悪者扱いしなくなるのです。最終的には不安に対して無関心になれたら、それを成熟というのでしょうね。

過去との不連続性に気づくこと

今日は前半ちょっと分かりづらい話をします。時間についての話です。以前にも何度かこのブログで書いたことがあるのですが、実は時間は実在するものでないのです。

思考が考案したものです。イメージですね。私たちはすっかりそのイメージの中に根付いてしまっているので、時間がないなどとは到底思えないのです。

無理やり時間がないということを想像しようとする人もいますが、それはやめたほうがいいです。

なぜなら時間があるということを前提にして時間がないとは?と思考してしまっているからです。

無理にイメージしようとすれば、時間が止まっているのを想像してしまうかもしれませんが、ないものは止まることもできません。

シンプルに思考が落ちて覚醒している意識だけになれば、自動的に時間はないということに気付くはずです。

たとえそれに気づけないでいるとしても、このように思ってみてください。ここからが後半で、今日言わんとすることの内容です。

時間が過去と未来という概念を生み出して、その流れの中で全てが連続しているように錯覚させているということ。

昨夜床についた自分が、そのまま今朝目を覚ましたと直感的に信じているのですが、本当のところそこは不連続だということです。

昨夜の自分は死んで、今朝新しい自分が目覚めたということです。決して継続的に生きているわけではないのです。

これが理解できれば、昨日までの自分と距離を持って今日を生きることができます。昨日までの自分は今日の自分ではないということ。

両者をしっかりと区別するのです。そうすることで、過去の自分を見つめることがたやすくなるはずです。

と同時に、過去の生き方からも距離を置くことができるようになるのです。習慣がそれを阻むかもしれませんが、徐々にそこから抜けていくでしょうね。

癒しとは過去から脱出することです。そのためには過去の自分と繋がっていないことを深く理解することですね。

自分の変容を受容する

Osho の言葉で次のようなものがあります。

『知識は情報の収集、蓄積だ。学ぶことは、変容されることに対して呼応する用意があることだ。』

自分を癒そうとして、問題を解決したくて、その謎を解きたくて、繰り返したくさんの本を読んでみたけれど、何も変化しなかったという人は結構います。

それは知識を得るというレベルのことだったからですね。情報を収集してそれを蓄積することで、何か分かったような気にはなるのです。

ところが自分の内側を見てあげると、どれほどの変化も見出せないのです。それは何も学んではいなかったからということ。

自分自身が変容されるということに対して、どれほどの心の準備ができているかに気付いていなかったということですね。

変容してしまうことへの準備が整った時、外部から入ってきたものが単なる情報ではなく、自分の中で生きてくるのです。

学ぶということはそういうことだと osho は言っているのですね。では、変容される準備とはどうやって整うのでしょうか?

セラピストを長年やっていても、本当のところよく分からないのです。それなりの時期がくると、自然と向こうからやってくるというのが一番近いかもしれません。

一つあるとするならば、自分のやり方で納得するまでやってみて、それでもうまくいかなければ諦めるのですが、その諦めが結構大事な気がします。

本当に諦めたら人は戦うことを放棄してしまうので、外からやってくるものを受け入れやすくなるのです。

その状態こそが、自分が変容されることに呼応する用意ができたということかもしれませんね。