瞑想プラクティス #3

1.まずは、何もせずに静かに坐ること数分

2.マインドにやってくる思考をただ見る

3.思考を見ている主体を見る

その主体こそが「私」というエゴなのです。

その「私」にじっと意識を向け続けていると、いずれはそれが空虚なモノだと気づく。

以上

比較することで思考は生きる

私たちの思考というのは、あるものとあるものを分けることによって、成り立っているのです。

そして、その分けることのベースにあるのが、比較するということ。つまり、思考とは世の中にあるあらゆるものを分割し、それぞれを比較することによって生き続けることができるというわけです。

だから、思考の中にあって比較をせずにいるということは、ほとんど不可能なことだということです。そのくせ、私たちは比較をすれば、必ずそこには苦悩があるということも経験上知っています。

なにごとも比較せずにいられるなら、一体どれほど気持ちを穏やかな状態のままにしていられることか。残念ながら、比較は思考の中にいる人にとっての宿命のようなものだということですね。

他人に比較されて気持ちいいということもないし、自分でも誰かと自分を比較して、暗い気持ちになっている人は沢山いるはずです。

残る道は、何とかして思考を停止させて、比較から逃れるしかありませんが、瞑想が苦手な人にとっては、それはそれで難しいことですね。

ではどうしたらいいのか?残る道はただ一つ、それはどうしても比較を止められないでいる自分を、そのあるがままを見守ってあげることです。

そんな自分を受け入れてあげることができたときに、逆説的ですが、自然と比較が落ちていくのです。

持つことから在ることへ

私たちは、知らず知らずのうちに、家族や社会からさまざまな方向付け、条件付けをされてきたのです。それは、たとえば人よりも多くを手にする事、人よりもより価値のあるものを手にする事。

そうすれば、必ず幸せになれるんだと、そう教えられてきました。そうやって、持つということに焦点を向け続けてきてしまったのです。

外側から手に入れられるものは、単にモノだけではなくて、家族だったり仕事だったりも含まれるのです。そして、人からの評価や能力なども、物質ではない手に入れるものの中に入っています。

思考というのは、持つことに興味があるのであって、ただ在るということを理解することができないのです。在ることは、マインドではなくハートの範疇だからですね。

もしもあなたが、在ることには関心がなく、もっぱら持つことにのみ価値を見い出すのであれば、本質的なことから遠ざかってしまっていることになるのです。

愛は逆に、持つことには全く関心がなく、在ることへと向かうのです。ただ在ること、それだけに焦点を変えて行くことができるなら、その副次効果として不安が安心へと変わっていくはずです。

思考の雑音が静まっていった先にあるのは…、ただ在ること。

自分への深い謝罪

20年以上もごく普通の会社員だった自分が、どうした拍子なのか気がついたらセラピストになっていたのですが、そのきっかけとなったのは、自分への深い謝罪の気持ちでした。

他人に謝るというのは、ごく当たり前のこととして誰もが経験しているはずですが、自分自身に対して心から申し訳ないと感じることは、あまりないのではないでしょうか?

ある日それはやってきたのです。それには、どんな努力も必要とするわけではなく、ただただ唐突に向うからやってきたとしか言いようがありませんでした。

けれども、結果としてその深い謝罪の気持ちは、自分の人生を大きく変えるだけの凄い力を持っていたということなのでしょうね。

それまで一度たりとも経験したことのない何かがやってくると、人はただ驚くだけで他に何もできずに、かえってそれが自分に真正直な状態を作り出すのですね。

もうどんなことがあっても、自分に不正直になることだけはよそう、もっと自分を労わってあげよう、そういう密かな決意がその時に訪れたと思います。

そうなると、人は何か見えない不思議な力によって、ドンドンと運び流されて行くのです。本当に気がついたら、事務所を借りているし、あれ、目の前にセッションにいらして下さった見ず知らずの方がいる…。

自分でも内心驚きながらセッションをしていた記憶がはっきりと残っています。この仕事を始めて、16年目に入った今でも、その不思議な感覚はたまにやってくることがあります。

自分が人生のかじ取り役だと思っていたのに、本当はそうではなかったということを、体験上知ることができたことは幸運だったと思います。

人生何が起きてもいいし、流されていく自分を見守ってあげることができるなら、人生はそんなに悪いものではないと分かるかもしれませんよ。

癒しはとてもシンプル

心を癒して行くために、様々な方法が考案されていますね。フロイトやユングの時代から始まった精神分析に代表される心理療法や、最近ではチャネリングやヒーリングなど、それこそ無数の手法があります。

私がセッションで行っている催眠療法も、その中の一つに過ぎませんが、数ある手法の中から最も自分に適したものを選ぶことができれば一番いいのですが、なかなか難しいかもしれません。

けれども、私のセラピストとしての経験からすると、クライアントさんがどんな手法を選ぼうと、本質的にはご本人が癒しについてどれだけ真剣かということが、一番大きいのです。

何か特定の問題が解決すればいいと考えているような場合には、癒しが進むことはまずないと思っていいのです。というのも、その問題が表面的に解決したとしても、内側深くに潜在する大元の原因が残るからです。

結局、問題を見るのではなく、自分という存在と深く関わろうとする意志、そのことへの興味、あるいは強い渇望があることがとても大切なのです。

癒しを一過性のものにするのではなく、生涯関わっていく非常に本質的な事柄なのだという自覚が必要だということです。自分と深く関われば関わるほど、そのことの意味に気づくようになるはずです。

そして、癒しの根本はどんな手法とも関係ありません。それは、何か新しいことを学ぶということでもなく、逆にこれまで培ってきた自分の常識、考え方、正しさ、そういったものをできるだけ捨てていくことなのです。

つまり、癒しとはとってもシンプルなのです。ただし、シンプルなことだから簡単とは限りません。なぜなら、一度自分の財産にしてしまったもの、自分を安心させてくれるものを投げ捨てるのは、相当の勇気がいるからです。

究極的には、あなたという存在は夢の中の住人に過ぎないということに気づくこと。そのことに気づくのは、今のあなたではなく、あなたという思考が落ちたときに復活するあなたの本質ですけどね。

超お手軽覚醒プラクティス #1

普段の生活の中で、この世界、この現実は夢なんだということを思い続けるようにする。

できるだけ、どんな時にも忘れないようにする。ただこれだけ。

それがマインドの深くにまで浸透してくると、睡眠中の夢の中でも、これは夢なのだという気づきがやってくるようになり、その結果夢から醒めるという体験をする。

その夢から醒める感覚を繰り返すことで、この現実という夢からの覚醒が起こる…、かもしれない!

このプラクティスは、瞑想と併用すると効果があるような…、気がする!

仮に、覚醒できないとしても、実はこの習慣をつけることで、起きていることに巻き込まれることなく、ただ見るという態度が養われるのです。

それだけでも、とても大切な意識革命です。

興味があったら、是非試してみて下さい。

まったく学習しない本当の理由

私たちは、何度も何度も繰り返し同じことをしても、それについて本当には学習することがありません。だからこそ、何度でも輪廻を続けてしまうのです。

この人と結ばれたら絶対に幸せになれる、そう信じてそれが実現しても、いずれはその人は自分の理想とは違う部分が沢山あったと気づき、別れることになるのです。

そうして、また次のターゲットを見つけては、今度の人は絶対大丈夫。前のようなことにはならないはず、そう信じて結ばれたはずなのに、しばらくするとまた同じことになってしまう。

そうやって、今度こそ、今度こそと同じことの繰り返しを続けて行ってしまうのです。学習しないとはそういうことです。そのターゲットが人であれモノであれ、同じこと。

あれさえ手に入れることができたら、絶対幸せになれると思うのです。いざ手に入っても、嬉しいのは一時だけで、すぐに不満な気持ちがやってきます。

そして別の何かをゴールにして頑張り始めるのですが、運よくそのゴールを達成することができたとしても、やっぱり一時の悦びも束の間、また慣れ親しんだ不満はやってくるのです。

なんでこんなに学習できないのだろうか?一回の人生においては、さすがに終わりに近づくにつれて、ある程度は学習することになるはずなのです。

ところが、死に行くときに、肉体の死という衝撃に耐えきれずに、意識をなくしてしまうのです。つまり、危篤状態になるということですね。

そのために、次の肉体へと移るときに記憶を失くしてしまうのです。だからこそ、またゼロから人生をスタートさせることになってしまうのです。

何万年繰り返しても、一向に学習しないのはそのようなからくりがあったということですね。無駄な人生を繰り返したくないなら、是非とも意識を持ったまま死に行く必要があるのですね。

アイデンティティなどいらない

この社会において、誰からも認められる存在となるためには、自分のアイデンティティをしっかりと確立することが大切なことだと思われています。

確かにそうですね。例えばアメリカに行って、何か質問されたときに、「I have no idea.」って答えたら、ちょっとダメな人というレッテルを貼られてしまいそうです。

かつてはどうだったか分かりませんが、今では日本においても、同じようにして個人としての確固とした意見や他人と差別化できるような何かを持っていた方がいいとされるのです。

私自身、会社員だった頃は自分のアイデンティティは「これこれだ!」というものを持っていたように思います。それが、会社を辞めて今の仕事をするようになってから、変わってしまいました。

はっきりとした記憶もあるのですが、ある時明確に自分はこれまで生きてきた大澤富士夫とは断絶してしまったと感じた瞬間があったのです。

何か特別なことがあったわけではないのでしょうし、記憶がなくなったわけでもないのに…。自分の歴史にどんな価値も見出さなくなってしまったということなのかもしれません。

自分のアイデンティティについて考えることも全くなくなってしまいました。そんなものはどうでもいいという感覚。アイデンティティは、自分そのものではありません。

それを持っていると、維持しようとして何等かの重荷を感じてしまうはずです。大切だと思っていた自分のアイデンティティをドブに捨ててしまえば、人生は気楽で軽快なものへと変わるのです。

自分は誰でもないと分かればそれだけ、より自分の個性が際立ってくるのですから面白いものですね。

アイコンタクトは気持ちいい!

毎日、自宅と事務所の往復のときに、自分のクルマを運転しているのですが、運転中に他のクルマの人や自転車、そして歩いている沢山の人とのちょっとした触れ合いがあるのです。

先日、駐車場に通じる狭い一方通行の道を走っているとき、前方に手押し車を杖替わりにしてゆっくりと歩いている高齢のおばあさんがいたのです。

狭い道なので、当然道の端に寄ってもらわないと通れないので、仕方なくクラクションをちょっとだけ鳴らしてみたところ、そのおばあさんは一生懸命道の端へと寄ってくれたのです。

ただ、数日前に降った雪が道の端の部分に融けずに残っていて、そのおばあさんは歩けなくなって立ち止まってしまったのです。

その脇をゆっくりと通り過ぎるときに、寄ってもらったお礼をしようとおばあさんの顔を見たときに、二人の目と目が合ってどちらともなく両者が笑顔になって、心が通じ合ったのです。

道を譲ってもらえたことも勿論嬉しいのですが、その何倍もアイコンタクトによって無言のコミュニケーションができたことの方が嬉しいものですね。

逆に自分が歩いているときに、クルマを運転してる人に道を譲ってもらう場合などにも、お礼の気持ちを込めてアイコンタクトするようにしています。

そうするだけで、何だかとても気持ちが清々しい感じになることができます。若いときはそうでもなかったのですが、これも年齢を重ねてきた結果なんですかね?

でも清々しい気分になるのは本当です。嘘だと思うなら、是非試してみて下さいね!

何もしなければエゴは腐敗する

人はいつも何かしないではいられない生き物です。忙し過ぎる生活を続ければ、のんびりと何もしないでいられたらいいのにと思うのも束の間、またすぐに何かをやり出したくなってしまいます。

あるクライアントさんが、あまりにも成果を出そうとして頑張り過ぎて、何をしても楽しめないということでしたので、じゃあとりあえずしばらく何もしないでいてみて下さい、そう伝えたのです。

すると、「なにもしないでいたら、私廃人になってしまいます。」と言うのです。気持ちは分かるのですが、それで廃人になることは決してないのです。

廃人というのは、実は欲望があるにもかかわらず、それをセメント詰めにして心の奥深くにしまい込んで、それを封印してしまったような人なのです。

本当に、心の底から徹底的に諦めて、どんな欲望も消えてしまったら、その時には廃人になる代わりに覚醒してしまうはずだからです。

何もしないでいたら、それこそ腐ってしまうと感じてる人もいるでしょうね。それならそれで、思い切り腐敗させてあげてみて下さい、できるものなら。

そうなったら、初めてあなたの奥深くに隠されていたあなたの本当の顔(本顔)が顕われることになるのです。だからこそ、何もせずにいることが、これほどまでに難しいのです。

子供の頃、近所の神社の境内に行って、銀杏を沢山取ってきたことがありました。それを土の中に埋めて一週間くらい待つと、外側の部分がいい具合に腐って、中からピカピカの銀杏が出て来るのです。

それをブロックで作った手製かまどで焼いて食べると、もう最高に美味しかったのを憶えています。それと同じように、何もせずにいることで、あなたの表層にあるエゴを腐敗させるのです。