どうせいずれは覚醒しちゃう!

人は大抵何等かの口癖のようなものを持っていますね。その中でも、「どうせ○○だよ」というような言い回しを時々耳にすることがあると思います。

そして、「どうせ」の後には、概ね否定的なニュアンスの言葉が続くのです。たとえば、宝くじ買ったって、どうせ当たるわけないよ、とかね。

どうせ受からない、どうせ嫌われる、どうせ失敗する、のように多くは否定のための枕詞のような感じになっています。けれども、「どうせ」というのは、単にどのようにせよ、とかいずれにしても、のような意味なのです。

だから決して否定のためにばかりある言葉ではないのです。どうやったって結果が見えているという意味ですから、腕相撲したら、どうせ自分が勝っちゃうよ、のようにも使えるわけです。

それなら、どうせ、「どうせ」を使うなら、せっかくですから全部肯定的な物言いにしてしまえばいいのです。どうせ受かるよ、どうせ好かれる、どうせ成功する、のように…。

私たちは、知らず知らずのうちに同じ言葉を繰り返すうちに、その自分がつぶやいた言葉に洗脳されていくのです。ですから、普段使う言葉は人生に重大な影響を与えることになるのです。

だから、「どうせ」を使うときには、常に肯定的に使うようにすることです。どうせ愛される、どうせお金持ちになる、どうせ認められる、どうせ欲しいものは手に入る、等々。

作ったクセは、作り直せるということ。これまでどれほど否定的な言葉を自分に対して言ってきたとしても、それもどうせ直すことができるということです。

死を恐れるのは無駄なこと、どうせ死なないのだから。これ真実です!

雪降って思うこと

東京の交通網というのは、5cmの積雪であのように麻痺状態になってしまうのですね。私の知っている限り、ずっと以前からそれは改善されてきてないようです。

で、そんなことは大抵誰もが知ってることなのですが、なぜそんな中、人々は果敢にも出かけて行くのでしょうか?テレビのニュースを見ていて、不思議に思ったのは私だけかな?

勿論、誰かと会う約束があったり、どうしても休むことのできない立場の人がいるのは分かりますし、どんなことをしても行かなければならない状態って、確かにあるでしょう。

けれども、出かけた人の全員が本当にそのような状況にあるとは、到底思えないのです。駅で2時間以上も足止めを食ってる人がテレビのインタビューに答えて、「とりあえず出社しないと…」と言ってました。

それ、行かなくもそこそこ大丈夫ってことなんじゃないの?そういう人が、外出を控えてくれたら、どうしても行かなければならない人は、もっとスムーズに電車に乗れるはず。

あれって、互いに迷惑をかけあっているとも言えるのかなと思うのです。日本人の真面目な気質が、とりあえず行くという選択をさせるのでしょうか?

私は会社員の頃、支障がない限りは、雪が降って通勤のクルマが危ないと思ったら、会社を休んでいました。会社を休むことに、取り立てて罪悪感がなかったからかもしれません。

日本人の生真面目さよりも、雪が降ったから休むというのでは、何となく体面が悪い、そうやって人の目を気にしているということが、裏にあるのではないかと感じてしまいます。

それって単なる自己防衛なんですよね。出かけなくて済む人は、勇気を持って休むということを実践できるようになるといいなと思うのです。

ファンタジーのような本当の話し

今日はちょっと不思議なファンタジーのような、でも本当のお話しです。

1988年の年末、しばらく姿を見せていなかった osho が、久しぶりに1万人の弟子の前に現れたと思ったら、とんでもないことを言い出したのです。

それは、誰もが知っているあの仏陀のエネルギーが、osho の身体の中へ入ってきたということでした。仏陀は死ぬ間際に、2500年後にこの世界に戻って来ることを周りにいる弟子たちに告げていたらしいのです。

ただし、光明を得た人は二度と女性の子宮の中から生まれて来ることはできないので、誰かの肉体の中に入ることになる、ということを意味していたのです。

その仏陀の約束が、osho の肉体を使って果たされたということなのです。osho 自身はずっと仏陀を心から愛していたので、そのことを非常に悦んでいたのです。

けれども、結果から言うと、何とたった4日しか osho の身体を分かち合うことはできなかったのです。それも、すごく分かりやすい単純な理由で…。

彼の説明によると、20世紀を生きている osho にとって、2500年前に生きた仏陀とは日常的な様々なことで違いがあり過ぎたということ。

たとえば、仏陀は枕のような当時のぜいたく品を使わずに、腕を枕に寝る習慣があって、しかも常に身体の右側を下にするクセがあったのだそうです。

一方、osho は枕がなければ寝れないし、また掛布団の中にもぐって寝る(可愛らしい)習慣があったりして。光明を得た二人がそんなことで??と思うのですが、肉体を共有するとはそのような不具合が出るということですね。

で、早々に osho は仏陀を追い出してしまったらしいのです。でも、私が思う本当の理由は、仏陀よりも osho の方があらゆる豊かさについて受け容れる人だったということ。

仏陀は、ボロボロの布をまとって7年にわたる苦行を行った人だけれど、osho は物質的にも内面的にも豊かさを大切にする人だったのですね。

それが二人の間での大きな違いだったのではないかと思うのです。私は、仏陀も勿論好きだけれど、やはり断然 osho が好きです。それが、ゾルバ・ザ・ブッダの生き方です。

マインドこそ二元性

誰だって大好きな異性とは、ぺったりとできるだけくっついていたい、離れたくない、自分一人のものにして他の誰にもとられたくない、などと思うものですね、特に若い頃は。

めでたく恋愛の関係になったり、結婚することができれば、100%ではないにせよ、ある程度はそのような希望を叶えることが可能になるわけです。

ただしそうなったとしても、勿論相手は自分ではないので、いつ心変わりするか分からないという不安も依然としてあるわけです。そして、時が経てば相手は自分の理想とは違っていたという部分も見えて来るのです。

けれども、理想の異性が自分の内側にいるとしたらどうでしょう?それはもう夢のような話しですよね?だって死ぬまで常に一緒だし、決して自分を裏切るようなこともないのですから。しかも距離ゼロで。

それこそ歓喜の絶頂がやってくるかもしれません。え、何のことを言っているの?と思ったはずですが、実はこれは紛れもない事実なのです。

もしもあなたが女性であれば、あなたの奥底に理想の男性が住んでいるし、あなたが男性であれば、あなたの内面に女性の部分が潜んでいるということ。

外側に追い求めていた理想の異性は、何とあなたの内側にいた!のです。これは、マインドの二元性に基づく事実です。

今すぐにでも、その存在を感じてみることです。ただし、私の経験では日頃から瞑想に馴染んでいるなどして、自分の内奥と繋がりやすくなっていないと、難しいかもしれません。

隠されていた異性とあなたが一つになることができたなら、その時には性別が消え、人物が消え、何者でもなくなって、ただの虚空(それを至福という)だけが在る状態になるのでしょうね。

寛いだ注意深さ

クライアントさんとのセッションの時に、瞑想のことについてお話しすることがあるのですが、その時に瞑想について間違ったイメージを持っている方が時々いらっしゃいます。

何となく心を静かにして、ただ何も考えないでいるような状態ということを想像して、ボーっとしていることのように思われている場合があるのです。

確かに、ボーっとしているときにも思考は緩んでいるのですが、それだとただ子供がよくやっているあれと同じになってしまいます。

勿論ボーっとするのは、決して悪いことではないですし、普段頭を使いすぎている現代人にとっては、必要なことかもしれません。

ただ、瞑想はそれとはまったく違うのです。実は、人間はリラックスするとボーっとしてしまうし、反対に一点に集中して緊張すれば、注意深くいることになるのです。

そして、瞑想とは実はこの両方のいいところを同時に実現することを指すのです。つまり、くつろいでリラックスしていながらも、非常に注意深くいるということ。

この寛いだ注意深さこそが、瞑想の神髄というわけです。深く瞑想していると、周りのほんの小さな物音に対して、とても敏感になっていることに気づくことがあります。

まずは、寛いでできるだけリラックスした状態を練習します。それとは別に、できる限り注意深く、意識的な状態を保つ練習もするのです。

そして、両方ができるようになってきたところで、その二つを同時に満たすようにするということ。難しいですけれど、練習する価値は充分にありますよ。

生は二元性

もしもあなたが、安心を強く望むなら、一時の安心を手に入れることはできても、その後すぐに不安が戻って来るということを知っていますか?

同じようにして、幸福を強く望めば、一時の幸福感を得ることはできるとしても、またしてもいずれは不幸な感覚がやってくることになるのです。

誰かの事を強く愛するなら、その強さの分だけ相手を憎むときがやってくるということです。で、何でそんなことになってしまったのかと驚くとともに、不本意な気持ちになるはずです。

なぜこのようなことが起きるのかというと、それは何かを強く望めば、それを強く選択するなら、その真逆も一緒に選んでいることになるからです。

生は二元性でできているとは、そういうことです。分かりやすく言えば、もしもあなたが一枚のコインを放り投げて、表が出るようにと願っても、二回に一回は裏が出るということです。表しかないコインは、神には作れなかったのです。

表が出て欲しいと強く願えばそれだけ、裏が出たときに落胆が大きくなるはずです。強く選択すると、それだけ苦しみも大きくなるというのは、そういうことです。

何かを信じるなら、信じないも一緒についてきていることに気づくことです。だから、誰かの事を信用していたのに、裏切られたなら、憤慨して、もう信じないという状態へと遷移するのです。

二元性という特徴を持った生を生きるとき、何かを強く選択すれば必ずその反対も同時に選択してしまうということです。それを選択する前から知っていれば、ひっくり返ったときに、驚かずに済みます。

そして一番いいのは、初めから選択しないという生き方をするということです。不安であるなら、不安の中にいることです。そうすれば、いずれは不安も安心もなくなってしまうはず。

嬉しいことがやってきたら、思い切り悦び、辛いことがきたらしっかり悲しむこと。どちらかを選ばずにいれば、生はあなたのお友達になってくれるのです。

無執着って難しい

誰でも美味しいものを食べたら、その味が忘れられずにまた食べたいなと思うものですね。そして長時間並んだり、遠方であっても何のそので、時間と労力をかけても食べに行ったりする人もいます。

私の場合は、若い頃に偶然飲んだワインの味が未だに忘れられずに、それに匹敵する味わいのワインに出会えないものかと、心のどこかでずっと思い続けていたりします。

もしもその味を求めて、高価なワインを手あたり次第に飲むようなら、完全に執着してしまっているということになるでしょうね。執着とは、何かに対するすがりつき、しがみついてしまっている状態をいうからです。

どんな努力をしても、それをまた手に入れたい、同じ体験をしてみたいと強く思うのですから、なかなかやっかいなことになるわけです。

対象が人であっても同様の事が起こります。一度会っただけなのに、あの人のことが忘れられずに、片時も頭の中から離れずにいるなど…、恋愛はそうやって始まることもあるでしょう。

けれども、それは残念ながら愛ではなく、立派な執着です。執着だろうが何だろうが、会いたいものは会いたいのだから仕方ない。

その人とずっと一緒にいられるようになったら、どんなに幸せになるだろうと思うのです。そして、それが実現するなら一時の幸福の絶頂がやってくるはずです。

ただし、それは永遠のものではありません。それは純粋な愛ではないからです。しばらくすると、その執着心はまた別のターゲットを求めて、彷徨い始めるのです。

何かを強く選択すると、それに対して執着が生まれるのです。その執着心は、人を苦しめる張本人なのですが、それは繰り返しターゲットを変えつつ存続します。

それが病的になれば、ストーカー的な行為を繰り返すことになってしまうかもしれません。もしも平安を望むなら、強い選択をやめて弱い選択、好みかどうかというレベルにすることです。

好みは個人的なもので、それにいいも悪いもありません。もしもそれが手に入ったら、それを喜べばいいし、手に入らなければ、それはそれでよしとするのです。

これが無選択という選択の意味です。無選択からは、決して執着が生まれることはありません。それこそが、仏陀が言った中道という生き方なのですね。

真理の探究は不毛!?

私たちの誰もが、心の奥深いところで真理を追い求めているのですが、表面的にはそんなことは何の助けにもならないとして、忘れてしまっているのです。

それよりも、どんな人と結婚できるかとか、どうやってこの社会の中で活躍していくかということの方が大事だと考えているのですね。

それは尤もなことだと思いますが、実はそうした現実的な日々の生活のことと、真理の探究とは本当は決して相容れないものではないのです。

ただ、やり方というか探究の方向が真逆なだけなのです。現実を見るとき、私たちは常に外側の世界へと目を向けるのですが、それは外側のものを使ってどうやったら自分が満たされるかという探究なわけです。

それに対して、外側に目を向ける代わりに、内側に目を向けてその奥底を探究することが真理の探究に近いということです。

私たちの不満は内側にあるので、そこを探究することの方が理にかなっているのです。つまり、探究者を探究することの方が、より真理に近いのです。

そうやって真理を追い求めることだって、本当はどうやったら満たされるのか、満ち足りた心になれるのかという探究に違いないのです。

けれども、ずっとそんな探究をやり続けているうちに、どうやらその探究こそが真理から遠ざける最大のブレーキになっているということに気づくことになります。

外側の世界で自分を満たそうとする探究も、内側の自己に気づいてそれを満足させようとする探究も、結局は不毛に終わるということです。

最後に残るのは、本当に何もせず、ただ静かに坐ること。私たちのマインドが満たされることは決してないので、満たそうとする探究を落とすこと。

結果を求めずに、ただそうしていると、真理はひとりでにやってくるのでしょうね。

超簡単瞑想プラクティス #2

先日に引き続いて、超簡単瞑想のプラクティス第二弾です。なんて言うといかにも凄そうですが、実は誰もがきっと普段どこかでやっていることだと思います。

ほんの少しの時間、何もせずに静かにしてから、自分が今いる場所から最も遠い場所に意識を向けようとするのです。そこは、宇宙の果て、何億光年も彼方へと思いを馳せるのです。

ただこれだけです。こうしていると、自然と思考が止まり、身体の動きすら止まってしまうはずです。それが、自動的に瞑想状態へと連れて行ってくれるのです。

そして、うまくすると、その気の遠くなるような遥か彼方と今自分がいる場所の間にある空間が、自分自身で満たされる感覚がやってくるかもしれません。

それが全体性を感じている瞬間です。よかったら、試してみて下さい!

「毒親」についてのインタビュー記事

昨年の秋ごろだったかと思いますが、あるライターさんから「毒親」についてのインタビューを受けたのですが、その時の記事が載っていましたので、ご紹介したいと思います。

私がインタビューを受けた部分は、全体のほんの少しだけなのですが、この記事を読まれて、私のところにセッションを受けに来て下さったクライアントさんが、分かってるだけで数名いらっしゃいました。

もしかしたら、他にもいらっしゃったのかもしれませんが。私自身は、毒親という言葉にはそれほど馴染んでいなかったのですが、ネット上で検索してみて、あらためて今多くの人の関心を惹きつけているようですね。

ご興味があれば、以下を参照ください。(2015年10月23日の記事でした)

http://diamond.jp/articles/-/80433