無執着って難しい

誰でも美味しいものを食べたら、その味が忘れられずにまた食べたいなと思うものですね。そして長時間並んだり、遠方であっても何のそので、時間と労力をかけても食べに行ったりする人もいます。

私の場合は、若い頃に偶然飲んだワインの味が未だに忘れられずに、それに匹敵する味わいのワインに出会えないものかと、心のどこかでずっと思い続けていたりします。

もしもその味を求めて、高価なワインを手あたり次第に飲むようなら、完全に執着してしまっているということになるでしょうね。執着とは、何かに対するすがりつき、しがみついてしまっている状態をいうからです。

どんな努力をしても、それをまた手に入れたい、同じ体験をしてみたいと強く思うのですから、なかなかやっかいなことになるわけです。

対象が人であっても同様の事が起こります。一度会っただけなのに、あの人のことが忘れられずに、片時も頭の中から離れずにいるなど…、恋愛はそうやって始まることもあるでしょう。

けれども、それは残念ながら愛ではなく、立派な執着です。執着だろうが何だろうが、会いたいものは会いたいのだから仕方ない。

その人とずっと一緒にいられるようになったら、どんなに幸せになるだろうと思うのです。そして、それが実現するなら一時の幸福の絶頂がやってくるはずです。

ただし、それは永遠のものではありません。それは純粋な愛ではないからです。しばらくすると、その執着心はまた別のターゲットを求めて、彷徨い始めるのです。

何かを強く選択すると、それに対して執着が生まれるのです。その執着心は、人を苦しめる張本人なのですが、それは繰り返しターゲットを変えつつ存続します。

それが病的になれば、ストーカー的な行為を繰り返すことになってしまうかもしれません。もしも平安を望むなら、強い選択をやめて弱い選択、好みかどうかというレベルにすることです。

好みは個人的なもので、それにいいも悪いもありません。もしもそれが手に入ったら、それを喜べばいいし、手に入らなければ、それはそれでよしとするのです。

これが無選択という選択の意味です。無選択からは、決して執着が生まれることはありません。それこそが、仏陀が言った中道という生き方なのですね。