過去に書いたコラムと今書いているブログの矛盾について

この仕事をするようになって、日々のクライアントさんとのセッションを通して得ることができた様々な気づきについて、沢山コラムとして書き留めておいたものです。

あの頃は、本当にまじめにコツコツとコラムを書いたものでした。その中で、今でもはっきりと覚えているのは、「人生は自作自演」という題名のものです。

会社員の頃にはそれほど、はっきりと意識していたわけではなかったのですが、気がついたら、自分の身に起こることは自分が起こしていると思えるようになったのです。

つまり、自分がどんなに傷つけられたと思っても、そこには加害者としての他人も被害者としての自分もいないということ。

すべては、自分自身の台本通りに人生が動いているだけなのだということ。この理解を得られることで、人は相当に心が穏やかになっていくのです。

それを投影という言葉で表現していたかどうかは忘れましたが、この世界のすべては自分のマインドが投影しているもので成り立っているということです。

けれども、このことは実は「私」という個人が現実として存在する、ということが前提でのお話しであって、そのレベルを超えてしまえば、意味のないこととなるのです。

なぜなら、このブログでも再三お伝えしているように、この宇宙のあらゆる出来事は自動的に起きるということ、行為は為されるが、そこに個々の行為者はいない。

このお釈迦様の残したとされる言葉の真意が分かれば、マインドの投影というもの自体が真の源泉の上で起こされていたことだと理解できるからです。

何かを人に言葉で伝えるときには、一体どこのレベルについてのことなのかということを、いつもしっかり把握しておかなければ、矛盾したことを伝えることになってしまいます。

以前コラムに書き溜めた文章のほとんどが、そのようにして「私」という存在の確かさというものが前提だったということです。そのレベルでは確かに役に立つ内容でした。

しかし、それが崩れてしまった今となっては、あのコラムととてつもなく矛盾したことばかりを、最近の自分は書いているという自覚があります。

これはもう仕方のないことだと思っています。いまだに、あのコラムを読んでセッションに来てくださる方々がいるのは本当にありがたいことです。

その方々が、このブログの内容を読まれたとしたら、もしかしたら混乱されてしまうんじゃないかと思ってしまいますが、それも自動的に起きていることだとも言えるわけですね。

目を閉じれば、距離はない

先日また新たに始まったヒーリングの講座で、少しびっくりする体験をしました。気づかぬうちに、自分の感覚が変化していたのです。

と言っても、そう大した話しでは元々ないのですが、ヒーリングの練習をする前に、グラウンディングの簡単な方法をみなさんにお伝えするのです。

ただ目を閉じて心を静かにするだけの、簡単な瞑想をしながら、第一チャクラから地球の中心へ向かって、グラウンディング・コードを下ろしていくというものです。

下ろすといっても、自分の力でやっていくのではなくて、すべてを「あちらの力」に委ねて、やってもらうということなのです。

今までは、地球の中心まで到達したグラウンディング・コードをそこでしっかり固定してもらい、下からぐぃっと引っ張ってもらうというイメージをしていました。

今回もそのように言葉で伝えていたところ、どういうわけか今までと違って、地球の中心と自分との距離がゼロになってしまうことに気づいたのです。

つまり、目を閉じたときの自分の中でのイメージが、まるっきり以前と変化してしまったということです。自分を小さな個体だと思えなくなっていたということです。

少なくとも5ヶ月前に行った前回の講座では、そのようなことはなかったと記憶していますので、この数ヶ月の間での変化と言えそうです。

思い返してみれば、瞑想といえるかどうかは別として、とにかく一日のうちで目をつぶっている時間がとても多かったのです。

そんなことをしている間に、自分の全体性という感覚が根付いていたのかもしれません。人間、練習すれば少しはなるようになるものですね。

目を閉じると、どんなものとの距離も一瞬にして喪失してしまうようになったのだと思います。本当は、距離というものはないのですから。

結局、以前のようなグラウンディングをする必要が、もうなくなったなあと感じています。だからどうということは、何もないのですが…。

自由意志がないことの検証

昨日のブログに引き続き、自由意志を持っているということが間違いであるということを、どう暴いていけるのかということについて、書いてみようと思います。

私たちは単純に、右手を上げようと思えば、すぐに右手を上げることができます。そして、右手を上げようと思わなければ、右手が上がることはまずありませんね。

だから、当然のごとく、右手を上げることに関しては、自分の自由意志が作用しているとしか、考えられないわけです。

このことは、右手を上げるという単純な動作ばかりではなくて、あらゆる行為に対しても同様であるに違いないと思っているのです。

つまり、ある行為を行っているそのときに、つまりリアルタイムでは、自分の自由意志に基づいてその行為を行っていると断固として思えるのです。

これをいきなり崩していくことは、なかなか難しいと思うので、過去においてすでに自分がした行為について、それが本当に自分の自由意志に基づくものであったのかを、検証してみればいいのです。

たとえば、私のところにセッションの目的でいらっしゃる架空のクライアントさんの例で考えてみたいと思います。

彼は、ある日、ふと個人セッションのことを思い出します。

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それに関連して、いくつかのことが思考として発生します。

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しばらく思考した後、予約の電話をしようと決意します。

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電話で私と日にちと時間について会話をします。

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予約の当日になるまで、時々予約のことについて思い出します。

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予約当日には、約束の時間に間に合うように、家を出ます。

と、こんな感じでセッションにいらっしゃると想定できますね。ここで、最初のふと思い出すという部分に、自由意志が入らないことは明白です。

また、セッションのことを思い出したことに付随して、いくつかの思考が起きることも、自動的に行われるのです。

結局、自由意志を使ったと思える部分は、電話をしようと決意したことだと分かります。しかし、よく考えてみると、その決意は勝手にやってきた思考によって為されるのです。

思考とは、過去のデータの蓄積と現在の様々な条件などによって、結果を作り出すものです。それは例えて言えば、コンピュータに何かが入力されて、コンピュータがプログラム通りに作動して所定の出力をするようなものです。

こうして見てみると、自由意志が介在しているように思い込んでいただけで、実はただの流れが起きていたということが分かります。

では、一番初めの、ふとセッションのことを思い出すというのは、一体どこからそのことを起こす指令が来ているのでしょうか?

それこそが、この宇宙のシナリオなのだと言えるのではないかと思います。

自由意志を持っているというウソ

私たちは、自分の意に反してあらゆる出来事が起こってしまうことを、いやというほど経験して知っていますね。

どう頑張っても避けられないことは、自分や大切な人の死だったり、災害などで人々が不幸な体験をせざるを得ないことです。

けれども、学校の成績だとか人からどんな評価をもらえるかといったことは、自分の心がけとそれに伴う行動によって結果が変わることを知っています。

だからこそ、何とか努力をしてできる限り、自分が望むように物事が推移する(起きる)ようにと頑張るわけです。

もしも、何かの楽器を上手に弾けるようになりたいと思ったら、ただその楽器を眺めたりさすったりしているだけでは、駄目なことは当たり前です。

毎日コツコツと練習する人の方が、滅多に練習しない人よりもより上手に弾けるようになるのは自明のことです。

だから、私たちは自分の意思で自分の人生を切り開いていけると信じています。それに反して、人生なんてどうあがいたところで、なるようにしかならないんだからとうそぶいている人もいます。

努力次第で結果が変わるということは概ね確かなことですね。しかし、その努力をするかどうかということについてはどうでしょうか?

また、正確に言えば努力をした方がしないときよりも、より望ましい結果が出るということも必ずしも言えないということも分かっています。

実は、努力をした方がいいのか、そうでもないのかという議論には意味がないということを言いたいのです。

なぜなら、努力をするということも、しないということも、同じようにただそういうことが起きたというだけのことだからです。

私たちが信じこんでいることの中で、最も大きなウソの一つとは、自分には自由意志があるということです。

もしも、このウソを暴くことができたら、罪悪感や余計な不安感、あるいは憎しみ、物事への執着といったものが軒並み消えうせることになるはずです。

自由意志がないなんて、何と不自由なことだろうと思うかもしれませんが、いやいや罪悪感、不安感、憎しみ、執着などから自由になることの方がはるかに清々しいはずです。

一度立ち止まって、じっくりと自分の人生を舵取りしてきたのは、本当にこの自分だったのかどうか、検討してみることは意味のあることだと思います。

「存在」の二つの意味

この世界が存在するという意味での「存在」とは、知覚のことを指します。つまり、目の前に机が「存在」するというのは、主体である自分が対象としての机を知覚しているということです。

その知覚が直接肉眼で見るという場合であろうと、何か別の方法で間接的に知るということであろうと、いずれにしても知覚には違いありません。

これは現代科学の根本とも言えるものです。科学では、観察者が対象を観察することがすべての前提だからです。

観察者が不在では、対象の状態を特定することができないというのが科学なのですが、このことはあまり知られていないかもしれませんね。

つまり、自分が知覚するということと切り離して、何かが客観的に存在するということは意味のないことだということになります。

この意味での「存在」というのは、間違いなく一過性のものであるということになります。なぜなら、知覚そのものが一過性のものであるからです。

けれども、「存在」にはもう一つの別の意味があります。それは、知覚と同値である存在とは全く異なるものとしてです。

それは、「気づいている」ということなのです。そこには、主体も対象もありません。ただ在るということに気づいているという意味での「存在」です。

そして、この意味での「存在」とは、時間や空間を越えたものであり、それこそが私たちの本質の姿であるとも言えるのです。

それは生まれることも死ぬこともできません。生死は時間の中でのみ起き得ることだからです。こうしたことを、理性で理解することは不可能です。

なぜなら、理解とは思考であり、思考も時間の中で起きて、そして消えていくものだからです。気づきのことを別の表現で言えば、純粋な意識であるとも言えます。

その純粋な意識だけになる瞬間というものは、もしかしたら誰でも経験しているのかもしれないですが、それは思考が停止した瞬間なので自覚できないのだと思います。

それにしても、なぜまた思考はどこからともなくやってくるのでしょうか?それはあたかも、自分が純粋な気づきとしての「存在」であることを、決して見破られないようにしているかのようですね。

自己イメージを護らない

誰でも、もっとマシな自分になりたいと思っているものです。そういう思いを向上心と言うのだとしたら、それはこの世界では最も認められているものの一つだと言えますね。

自分が今のままでいいと感じている人は少ないと思います。私たちは常に、より良くなろうと思って、目標を設定したりするわけです。

けれども、そうした目標というのはただ向上するというのではなくて、実は巧妙に自分の都合のいい向上の仕方だけを求めているのです。

今まで作り上げてきた自分像、自己イメージはそのままにしておいて、邪魔だなと思うような部分だけを削り落として行きたいと思っているのです。

そのことに気づくことはなかなかありません。なぜなら、その邪魔な部分というものが自己イメージそのものから作られた結果だということを認めようとしないからです。

都合のいい部分はそのままにして、都合の悪い部分だけを何とかしようとするのです。こんなことは全く不可能なことだと気づかねばなりません。

気づかないからこそ、いつまでも不都合な部分が居残り続けるのです。そうやって、自分に都合のいい向上だけを願っているということに気づくと、本当にバカバカしくなります。

あらゆる苦悩の原因が、自分にとって都合のいい自己イメージそのものにあったという、何とも残念な結果を受け入れる勇気が必要なのです。

一番悲惨なことは、そうした苦悩の原因を外側に探し当てようとし続けることです。もしも、それがやめられないなら、一生涯その苦悩を自らが作り続けてしまうのです。

今自分が苦しんでいる原因を、今の自己像の根っこに見出そうとすることから、目を背けないことです。決して、外側を見てはいけません。

これが自分なのだと思い込んでいる自分、自己イメージに思い切ってメスを入れるのです。そして、その嘘を暴く勇気を持つことです。

それ以外に本当の救いはないとはっきり理解することができたら、あとは時間がかかっても必ず自分の本質を見破るときがやってくるはずです。
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人間関係の悩み

とても多くの人が、人との付き合いがうまく行かないという悩みを抱えています。つまり、人間関係をもっと改善したいと思っているということですね。

人間関係には、何も問題がないと言い放つ人はあまりいないと思います。なぜなら、問題を感じない人は、人間関係などということに注意が向かないからです。

そこに注意を向けだすことこそが、実は人間関係に何らかの問題を抱えるようになる、そしてその問題がいつまでも改善しない、根本原因なのです。

いやあ、そんなはずはない、うまく行かないからこそ人間関係について考察するようになるのだと思っているはずです。

けれども、それは真逆だと言わざるを得ません。人との関係に居心地の悪さや不自由さを感じたとしても、それを何とかしようと思わなければ、自然と物事は収まっていくのです。

それを自分の思考を使って、ああでもない、こうでもないと分析したりするために、余計に問題が複雑化していってしまうのです。

そこに気づくのはとても難しいかもしれません。なぜなら、それは勇気がいることだからですね。何とかしようとしなければ、問題はそのまま残ることになると信じています。

しかし、どこかで気づかなければなりません。何とかして解決しようとすればするほど、問題は解決して行ってはくれません。

10年、20年もそうしたことを繰り返していたら、やっぱりそのやり方にこそ問題があるのかもしれないと、勇気を持って気づいていく必要があります。

人間関係に悩んでいる方にとっての究極の解決策はといえば、それは人間関係を改善することに興味をなくしていくことです。

そこに注意を払わなくなれば、それは問題として認識することすらできなくなっていくのです。それは、決して無視するということではありません。

興味のないことが、自分を悩ませることなどできないということです。このことも、そんなことはないと反撃されてしまうかもしれません。

でも本当なのです。そもそもが、問題を問題たらしめているのは、自分自身だということに気づけば、このことは納得できるようになるはずです。

人間関係のことなど忘れて、もっと興味のあることに意識を向けるようにすることの方が、圧倒的に改善しようと努力するよりもいいということです。

昔懐かしいツェッペリンの曲

確か高校生の頃だったと思います。もう恐ろしいことに40年も経ってしまいましたが、その頃大好きなロックバンドがありました。

とても昔なので、みなさんはご存知ないかもしれませんが、レッド・ツェッペリンというバンドなんですが、一度だけ武道館でやった「幻のコンサート」にも行ったほど、大ファンでした。

彼らは、そんな昔から自家用ジェットでやってきて、一回コンサートをやってあっという間にまた飛行機で戻って行くという、過酷な日々を送っていたようです。

初めて彼らを見たのは、小六のころでしたか、あるテレビ番組の中でそれまで見たことも聞いたこともなかったサウンドと映像に、衝撃を受けたのでした。

ヴォーカルを一つの楽器として位置づけているというのか、彼らの演奏はヴォーカルが入っていてもインストルメンタルな感じなのです。

映像もものすごくお洒落で、グループのメンバーをそれぞれ均等に舐めていく感じで、今ではそんなもの何も珍しくはないですね。

その彼らの曲の中で、とてもとても魅力的なのがあって、折に触れて思い出していました。へたすると、瞑想中に浮かんできたりもします。

その曲は、どうしてもリズムをうまくつかむことができなくて、本当に難解な感じなのですが、昨日その理由がはっきり分かりました。

ipad のアプリにこれまた昔懐かしいアナログシンセサイザーがあって、その中にあるシーケンサーで、その曲を作ってみたのですが、な、なんと16分の18拍子だったのです。

つまり、4小節のあとに、1/2分だけ小節がつく感じで、だからいつも足でリズムを取るのが難しかったというわけです。

40年来の謎が明確になった昨日でした。ああ、40年間何の進歩も変化もしてないなあというのが今日の感想です。

明日の日曜日から、また新たに講座がスタートします。参加されるみなさんのおかげで、私は自分を教育することができます。本当に感謝ですね!

何があっても落ち着いていられる意識の在り方

パソコンに向かって、さて今日は何を書こうかなと考えていたら、思考をフル回転させようと思っても、どだい無理なのでただ自分の素直な今の気持ちを書けばいいやと…。

でも近頃自分の気持ちが分からない、ああそうだ、一番よく思うのはまったくもってこの先の人生がどうなるのか分からないということです。

自分の周りでも、今年は目に見えて大きな環境の変化が起きようとしている人が何人もいるのですが、自分はどうなのだろうかと。

自分もきっと何かがある気がしています。それは、あまり気が進まないような、そういうものかもしれないです。

奇跡のコースを読み出して、しばらくしたころに「教師用マニュアル」を読んで、環境の変化を与えられる人がいると知って、これきっと自分のことだと思ったものです。

一口で言えば、自分が所有していると勘違いしているものを、身包み剥がされるという経験になるのかなと…。

その頃から、ある程度の覚悟というか、心の準備みたいなものがもうできていたのかもしれませんが、それがそろそろ始まりつつあるという予感です。

本質的には、変化は決して嫌いではないのですが、快適な生活の一部でも奪われるとなると、ちょっとへこたれてしまいそうです。

でもそれは自分の表面的な意識についての話しですね。全体性を感じている方の自分の意識では、元々が何もないという感覚なので、何でも来いという感じではあります。

そちらに意識をシフトしてしまえば、シーンと静まり返って、まったく活動のない究極の落ち着きがやってきてくれます。

これがあるおかげで、自分は何があっても、へこたれても、苦しくても、痛くても、絶望的になったとしても、別次元で大丈夫というのがあるので、助かります。

窓ガラスに映った己の姿

昨日は久しぶりに電車に乗ったのですが、多分、今年に入って初めてだと思います。ええ?そんなに外出しない人っているんだ、と思われた方もいらっしゃるでしょうね。

でも本当にそうなのです。以前に、年に1、2度しか電車に乗らないというときもありました。で、昨日は夕方から出かけて夜帰ってきたのですが、その時間帯まで考慮すると2年ぶりくらいかもしれません。

何が言いたいのかというと、外が暗くなった帰りの電車の中で、窓ガラスに映った自分の姿を見ていてギョッとしてしまったのです。

ああ、なんて老けたのだろうかと。ドア近くに立って窓ガラス越しに見た己は、こんな疲れたような親父のはずじゃないと思ってたのです。

でも、どうやっても自分の記憶の中にある己の姿とは違ってしまっていました。これはもう、どうしようもないことなんですね。

内面は全く以前と違ってなどないのに、こうも外見というものは残酷に、そして着実に老け込んで行くのですね。

ちょっとした浦島太郎状態だったのかもしれません。そして、今度は電車の中にいる人たちをよ~く観察させてもらったところ、これもまた驚きの現実が待っていました。

自分の記憶では、この人は自分よりも年下、あの人はきっと年上だろう、そういう判断がこれまたアップデートされていないのです。

自分よりも年配だろうと思っていた人をじっくり見直してみたら、もしかしたら自分の方が年上かもしれないということに気づいたのです。

そうしたら、少し前までぼんやりと見ていたときと比べて、自分よりも年下だと思える人が圧倒的に多いということに気づかされてしまいました。

こうやって、人は年をとっていくものなのかもしれません。今まで生きてきて、これほど自分の外見にショックを感じたことはなかったと思います。

窓ガラスに映った自分の姿に向かって、何度も心の中で言いました。あいつは絶対自分じゃないよと。全く内面の自分とそぐわないよと。

そしてそれは、本当のことなのですが、こんなこと誰に言っても、ただの強がっている親父に過ぎないと思われてしまうのでしょうね。