ヨーグルトに対する感謝の気持ち

昔のヨーグルトって、ガラスの容器に入っていましたよね。これが、分かる人はそれなりの年齢かもしれません。

明治製菓のヨーグルトで、それは大切そうに、ガラスの入れ物にフタがされて、そのフタには何かきれいな装飾があったと思います。

今は、そんな無駄なことをせずに、ブラスチックの容器に入って、何個かまとめて包装されてスーパーとかで売られているのが普通ですね。容器が変わっても味が変わるわけではありません。

自分が幼児のころというのは、極度の偏食でして、ヨーグルトというのは唯一食べることができて、しかも美味しい食べ物でした。

それ以外はほとんど食べることができなかったので、今思い返してもみると、ヨーグルトには本当に支えてもらえたなと思うのです。

自分は、幼い頃決して好きでもない食べ物を無理して食べようとすることはなかったので、ヨーグルトはとてもとても大切な食べ物でした。

しかし、大人になるとヨーグルトというのは、あまり食べなくなってしまうものかもしれません。女性はそうでもないのかもしれませんが、男性は食べる機会がなくなってしまいます。

したがって、身体のことを気にかける気持ちが芽生えたときには、意識してヨーグルトを食べるようにまたなるのかもしれません。

乳酸菌は便通にもいいと聞きますし、大人になっても牛乳よりもヨーグルトの方が身体にはいいというように聞いています。

そんなことを考えてみると、ヨーグルトには本当に感謝できるなあと思うのです。ヨーグルトさん、今まで支えてきてもらって本当にありがとう!

これからも、なるべくヨーグルトを食べようと思います!

キーワードは「惨めさ」

数年前に、自分の人生のパターンとなる大元の体験について捜しているときに、そのコツを発見することができました。

それは、「惨めさ」だったのです。誰にでもあるその体験のことを、私は原体験と呼ぶことにしているのですが、その特徴を一言で表わすなら、「惨め」な体験なのです。

勿論原体験ですから、それはとても幼い頃にまで遡らなければなりません。もしかしたら、思い出すことが難しい場合もあるかもしれません。

けれども、私の感覚では記憶のないような幼児のころというよりも、それよりもほんの少し大きくなった頃のはずなので、意外に普通に覚えている可能性が高いのです。

ただし、その体験を思い出したとしても、それが人生のパターンの根源になるようなものだとは、なかなか思えないようなものなのです。

つまり、その場面を思い出しても、大したものでもなく、特別意味もないような感じで見てしまうということです。

なぜなら、それは大人の自分にとっては何でもない場面であるからです。しかし、その当時の幼い自分にとっては、とても大きなインパクトがあるものなのです。

それが「惨め」な体験というわけです。「惨めさ」というのは、怒りとか悲しみというような単一の感情ではなく、それらがミックスされたものです。

例えて言えば、自分の存続が危ぶまれるような感覚であり、尚且つ物理的な危うさではなくて精神的なダメージを伴うものだということです。

突き詰めてしまえば、それは恐怖であるわけですが、けれども「惨めな体験」という切り口で捜すことで、より見付けやすくなるのです。

そして、なぜそれがパターン化されてしまうかといえば、その惨めさを感じることがとても辛いために、それを隠し続けて生きてきてしまうからです。

その結果、その惨めさを本人に知らしめるために、それ以降の人生のあらゆる場面に似たような惨めさを味わわざるを得ない経験をしてしまうということです。

惨めな体験をしたくないなら、その自分の中に隠し持っている過去の惨めさをただただ見てあげることです。

それを繰り返すことで、惨めさを恐れることがなくなってきます。惨めさと闘う必要がなくなったとき、それはもうパターンではなくなるのです。

婚活疲労外来?

あるクライアントさんからお聞きした話しなのですが、どこかのメンタルクリニックで「婚活疲労外来」というものができたそうです。

聴き慣れない言葉なので、勝手に週末に婚活をし過ぎて疲れた人のケアをしてくれるのかなと思っていたら、それだけではないらしいです。

その疲労とは、心の疲労のことだとか。確かにメンタルクリニックですから、忙しすぎるだけの人が行くわけがないですね。

そうではなくて、お見合いパーティのような場所で、相手から指名されなかったり、交際を断られたりといったことが重なって、精神的に参ってしまうということらしいです。

つまり、自分の存在価値を否定されたように感じてしまうのでしょうね。分からなくもないですが、かなり気持ち的に切羽詰った状態なのかもしれません。

元々が、結婚しなければという焦りから婚活をするようになるのでしょうから、そのような余裕のない心では、そうしたダメージを受け止めることができなくなるのだと思います。

まだまだ人間としては若い年齢なのに、そういうことで毎日をウツウツとした気持ちで過ごすのかと思うと、何だか勿体無い気がしてしまいます。

女性によっては、一日でも早く結婚しないと、自分の価値が下がってしまうと思っている人もいるかもしれません。

また、結婚はしたいけど、子供はいらないという人もいれば、結婚して子供を産まなければ一人前の女性にはなれないと思い込んでいる人もいます。

あるいは、結婚はしたくないけれど、子供だけは欲しいなどと思っている女性もいるようですね。いずれの場合も、自分の外側に希望を見出そうとすることだと言えます。

でもこの問題は、なかなかデリケートな問題ですし、男性には分からない部分も確かにあるように感じます。

婚活疲労でうつ状態にまでなってしまうような場合には、一度本当に結婚したいのかを自分の心に正直に聞いてみる必要がありそうですね。

とことん人の幸せのために生きている人

ある人がネット上で、視聴者の質問に答えるという番組をやっていて、それを一年前くらいから見出したのですが、今もそれは続いています。

その人物は、たまに地上波のテレビにも顔を出すような人なのですが、正直な物言いをするので発言した内容を使ってもらえないことが多いらしいのです。

そのため、すべてを包み隠さずに話すことができるネットを利用しているわけです。彼は、私よりも2歳ほど年上の男性なのですが、生き方がちょうど私と真反対な感じがして、とてもとても気になる存在なのです。

気になるというよりは、大好きな人物といったほうがいいかもしれませんが、とにかく行動的、活動的な人でいつも限りなく忙しくしているのです。

睡眠時間も2~3時間くらいしかないらしいし、朝から夜中を通り過ぎて明け方まで、実務をされてるということです。

昨年の3月11日以来、背広のときには必ず黒いネクタイを着用しており、ようやく今年の3月11日を過ぎてから、普通のネクタイに替えたようです。

被災された方々が辛く苦しい思いをしているのだからと、彼もまったく同じ気持ちであるということを表わすためなのかもしれません。

昨日の番組の中で、彼が次のように話しているのを聴いて、ショックを受けたのです。それは、「自分は一度も幸福だと感じたことがないし、そんなことは考えたこともない。」というのです。

人間とは社会的な生き物であり、独りでは決して生きていくことができないし、他人の幸せだけを考えて生きることこそが、結果として満たされるのだということです。

彼はそんなことを小学生のころから考えていたそうです。私は今でこそ、その意味が分かるようになったのですが、つい最近まで自分の幸せのことしか、興味がなかったのです。

だからこそ、ショックを受けたのですね。自分が幸せになろうとすると、人は満たされることがないということです。

自分は不幸でなければいいのであって、すべては人の幸せのために生きる、それこそが唯一の満たされる生き方だということです。

集中すると観照しづらくなる

今使っているパソコンはもう10年選手で、メモリもハードディスクも容量が貧弱で、動画もスムーズには見れないのですが、普段はメールを読み書きしたり、こうしてブログを書くだけなので壊れない限りは使うつもりです。

ケータイもほとんど使う場面がないために、すごく古い機種のままなのですが、今年の夏くらいまでに買い換えないと使えなくなるらしいので、スマホにしようかと考え中です。

そんな感じで、最近はこうしたものにあまり食指が動かなかったのですが、ふとしたことがきっかけで、自分としては、久しぶりに電子機器を買いました。

昨日の16日(金)に発売になった、アップルの新しい ipad です。コースの勉強会に持っていって、それでテキストを読もうと思っています。

自分で以前に作った日本語-英語が対で読めるドキュメントを PDF に変換して、電子図書のようにして読もうと目論んでいます。

それともう一つ、ごく少ないのですが気に入っている数冊の本も、何とかして PDF のフォーマットにすることで、ipad で快適に読むことができればと思っています。

それにしても、最近のこうした AV機器というのは、その進歩がすさまじくて付いていくことができなくなりつつありますね。

昨日一日、ああでもない、こうでもないといじくりまわしていたら、過去に意識が向くことはなかったのですが、それに意識が集中してしまい、それはそれで今にいられなくなっていたと感じています。

何かに集中するというのは、いいようでいて、あまり観照することができなくなるということがあるようです。

寝る前に少しだけでも意識をリセットするために、瞑想しようと思います。

姿かたちには屈服しない

人はどんなに気をつけていようと、どれほど頑張ろうと、時の流れとともにそれなりに老いていくものです。それを止めることは決してできませんね。

勿論、個人差はあって、いつまでも若々しいと感じさせる人もいれば、病気などを患った後に急に老け込んでしまう人もいます。

とは言うものの、いずれにしても結局は誰もが何をしようとも、たとえ不老長寿?の薬を飲んだとしても、例外なく老いて死んでいくのです。

そのことに逆らうことなど決してできません。けれども、身体の老いは仕方のないことだとしても、自己としての意識はどうでしょうか?

人は自分の年齢とともに、自分の意識においても年老いていくものだと思い込んでいます。しかし、本当は意識には年齢というものがありません。

あるとしたら、それは単なる思考の産物に過ぎないのです。身体の実年齢が○○才だから、内面的にもその年齢になるはずだという思い込みがあるだけなのです。

また、周囲の人たちからその年齢にふさわしい人物として扱われるようになるために、そうした認識に無意識のうちになびいて行ってしまうということもあるはずです。

私は、最近鏡などで自分の姿をまじまじと見ることがなくなったのですが、たまに必要があって鏡に映った自分の姿を見ると、日頃の自分の意識とはそぐわない感じがします。

もっとはっきり言えば、長い人生の時をかけて作り上げてきた人物としての衣の中にいる、裸の自分自身に意識を向けると、そこには子供のころと何も変わっていない自分を見つけることができます。

本当に何一つ変化などしていないのです。だからこの先も決してその自分は老いていくことはないだろうと思っています。

そして肉体が死ぬときまで、意識は意識のままであり続けると思うのです。どれほど肉体的に老いても、そのピカピカの自分はそのままでいるはずです。

そもそも、これはなんなの?

昨日の瞑想会で、みなさんと一緒に瞑想していたときに、子供のときの感覚というか時々感じていたものを思い出しました。

それは、「そもそも、これはなんなの?」というものです。これは、実はあまりいい気持ちのものではないのですが、そのときに感じていたものを結構明確に思い出したのです。

そもそも、何でこの世界はあるの?というような意味のことなのですが、その背後にある気持ちというのは、避けられないところに来ちゃったという感じです。

この世界が楽しくて仕方ないというのとは正反対に、毎日が何の理由もないのにいやで仕方ないというのが根底にあったのだと思います。

喜びに溢れて生活している人は、こんなことを考えることはまずないわけです。ただし、だからといって、毎日が○○な理由で辛いという具体的なものは何もなかったはずなのです。

だから余計に、自分のその沈鬱さが不思議だったのだろうと思います。一体全体、そもそもなぜこの宇宙があって、自分はここで何をしているのだろうか?

その思いは、断続的に繰り返してやってきました。そして、その度にこの世界はまやかしだという感覚になっていたのです。

けれども、そもそもこれはなんなの?と思っている自分とは、そもそも何者なの?ということは、あまり考えてはいなかったと記憶しています。

あれから、長い長い時間が経ち、ようやく今ではあの時に世界や宇宙に対してまやかしだと感じていた、その自分こそが一番のまやかしだったと気づくことができました。

何かを幻想だと言う前に、それを言う己こそが最大の幻想だと言うことにたどり着いたということです。

今なら、「そもそもこれはなんなの?」の「これ」とは、「今」のことだということが分かります。瞑想中であろうと、普段の生活の中でも今に意識を向け続けたことで、子供の頃の感覚が蘇ってきたのだろうと思います。

そうした細かなことを除くと、自分は小学生の頃から何も変わってないんだなということがはっきり分かって、思わず笑えて来ます。

内側のものを所有することはできない

私たちが望んでいることとは、自分が欲しいものを手に入れるということと、その手に入れたもの、つまり所有しているものを奪われないようにするということです。

ということは、望みが叶えば叶うほど、所有しているものが増え続けることになるわけです。俗世的に言えば、沢山所有している人ほど幸せだということになりますね。

10代20代の頃は、欲しいものが沢山ある割りには、経済的なこともあって、なかなか思うようには手に入れることができない時代と言ってもいいかもしれません。

しかし、人生も中盤に差し掛かってくると、若いときと比べれば確かに多くのものを所有するようになります。

結婚して家族が増えたり、金銭的にも余裕ができて、クルマを購入したり、マイホームを建てることができたりするのです。

それでもまだまだ足りないという感覚があるものです。けれども、人生の終盤になってくると、さらにより多くのものを所有することになるのです。

それなのに、完全に満たされたと感じて人生を生きることは難しいのです。その理由は、所有するということに根本的な原因があるからです。

どれほど多くのものを所有することができたとしても、それらはすべて自分の外側に存在するものなのです。

つまり、所有によって自分の外側にあるものを、いくら自分の周りに配置したとしても、自分そのものが変わるわけではありません。

逆に、所有できないものとは何でしょうか?それは、自分の内側にあるものです。自分の内側にあるものを所有することは不可能です。そして、さらにいえば、それを奪われることもありえません。

結局、私たちが心から満たされるためには、何かを所有しようとするのではなくて、あらゆるものが自分の内側にあるということに気づくしかないのです。

自分の本質である純粋な意識が、宇宙を包含しているということに気づくことができたときにこそ、本当に満たされるということになるのでしょうね。

あの頃の無邪気な自分に戻る

私たちは、誰もが幼い頃に、親や周りの大人たちから、自分とは名前がついている誰かであるということを教え込まれてしまいます。

最初のうちはぼんやりとした自覚しかなかったものが、その誰かということが次第に明確になっていくのです。

ゲームのようにして、それを楽しんでいられるうちはよかったのですが、徐々にその誰かとして自分を染めていかざるを得なくなってしまうのです。

気がついたときには、もう自分は小さくて無能なつまらない奴なんだという自覚を持つようになってしまいます。

そのときには、もう時すでに遅しで、元の誰でもない存在に戻ることができなくなってしまうのです。私自身の記憶では、独りで遊んでいるときに、突然誰でもない本当の自分に戻ることもありました。

でも、親などの姿を見つけた途端に、あっという間にその誰か(ある役柄を与えられた子供としての存在)に戻ってしまいました。

その二つの意識には、言葉では言い尽くせないほどの雲泥の差があったと思います。一方は、天国のような陽気な気分であり、もう一方は窮屈でつまらない感覚でした。

意識が入れ替わるときのショックはひどいものです。なんとも自由で開放された心から、一気に縛り付けられたような狭苦しい気持ちになるのですから。

私の記憶では、小学校に入るころまでには、そうした意識の入れ替えもほとんどなくなってしまったようです。

もうそのころには、今と同じ名前のついた一人の人物として、与えられた役柄を一生懸命演じる毎日になっていたのだと思います。

こうして考えてみると、何だか切なくなってきますね。でもこれが本当のことなのです。この年齢になって、ようやくこのことをはっきり自覚できるようになったのです。

残された人生では、是非ともあの清々しい何とも言えない開放的で自由な自分、誰でもない自分に戻ることができたらいいなと思うのです。

それも、ただ戻るのではなくて、自分の本質に気づいたうえでのあの無邪気さに戻るのですから、それがまさに覚醒なのですね。

不幸な動物はいない

セレブな人たちに飼われて、とても裕福な生活をしているペットたちがいます。愛情深い飼い主に大事に育てられて、家族同然として一緒に生活しているペットたちもいます。

彼らを野良犬や野良猫たちと比べたら、何と幸せな毎日を送っているのだろうと感じますね。彼らは生活の心配もする必要がないし、いつも可愛く甘えてればいいのですから。

一方、野良君たちは、毎日自分たちの食べ物は自分たちで探さねばなりません。具合が悪くなっても、病院に連れて行ってくれる人などいないですし、常に身の危険を感じながら生きているわけです。

もしも自分が動物として生まれ変わって来るのなら、それは裕福な境遇のペットのほうがいいと思うに決まっています。

けれども、幸福かどうかというのは自覚の問題だということも明らかです。動物たちには、その自覚はないはずです。なぜなら、彼らには「私」という自覚そのものが元々ないからです。

したがって、幸福感も持ってないばかりか、不幸だという自覚も同様にしてないということです。つまり、動物たちにとっては幸不幸はないということです。

それを自覚できるのは、人間だけなのです。我々人間は、「私」という自覚を持っているために、その「私」が今幸せなのか、それとも不幸なのかという自覚を持つことができるのです。

不幸という自覚は、心理的な苦悩を一定期間以上感じることによって起きるものです。それは、単なる一過性の負の感情というよりも、激しい自己否定感や絶望のようなものです。

そうしたものは動物にはありません。人間だけが自覚することのできる苦悩なのです。つまり、人間だけが不幸になる可能性があるとも言えるのです。

しかし人間として生まれても、動物のように不幸という自覚なしに生きていくことができるのです。それこそが覚醒なのです。

覚醒した賢人たちは、私たちが望んでいるような幸福を手に入れたと思うのは間違いです。幸福とは不幸の反対であるだけで、それも一過性のものにすぎないのです。

彼らの状態とは幸不幸を自覚することのない、まさに動物と同じようなものであると言ってもいいのかもしれません。

もしもそれを至福と呼ぶのでしたら、それは何ら理由のないものでしょうね。なぜなら、それは永続的なものだからです。

動物と賢人との違いは、真の自己の姿に気づいているということです。そして、真の自己に気づく可能性があるのは、動物ではなく人間である我々だということです。

そういう意味では、不幸を知らない動物よりも、不幸を知っている人間に生まれたことは、真に目覚めるためのチャンスがあるということであり、それは本当に感謝すべきことだと思うのです。